第13話 家族って言葉を、俺が壊した
放課後のアパート。
キッチンから、咲が玉ねぎを切るトントントンという規則正しい音が響いている。
俺はソファで、みくと並んで座っていた。
「ねえパパ、しゃしん!」
みくが俺のジャージの袖を引っ張る。
「またかよ。昨日から何回見てんだ」
「だって、みたいんだもん!」
俺はため息をつきながらスマホを出した。
動物園のゲート前で撮った、あの一枚。みくが真ん中で笑っていて、俺と咲が両脇で照れくさそうに笑っている。
何度見ても、家族写真だった。
何度見ても、だ。
「ここ、すき」
みくが画面をつつく。
「これ、ほんとのかぞくみたい!」
俺の胸の中で、何かが変な音を立てた。
みくは画面をスワイプしながら、続ける。
「ずっと三人でいたいな。またみんなで動物園いこうね。こんどはもっといっぱいしゃしんとろうね。ね?」
待て。
待て待て待て。
みく、ちゃんと分かってるか。俺と咲はクラスメイトで、お前には帰る場所があって、これはずっと続くわけじゃ——
でも何て言えばいい。何て言えば傷つけずに——
頭の中が焦って、ぐちゃぐちゃになって、気づいたら口が動いていた。
「……みく」
「うん?」
「そういうこと、軽々しく言うな」
言ってから、自分でも思った。
やばい。言い方やばかった。
みくの笑顔が、ピタリと止まった。
俺は止まれなかった。
「俺たちは、そういうのじゃないだろ」
言ってから、もっとやばかった。
じゃあ俺たちって何なんだ。
俺、今何言った?
みくが、大きな目を瞬かせた。意味が分からなくて、でも自分が何か悪いことをしたと察して、固まっていた。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
泣かなかった。泣くことすら我慢しているような顔をしていた。
「……なんで、そんな言い方するの」
静かな声だった。
振り返ると、咲がキッチンの入り口に立っていた。包丁を持ったまま、俺を見ている。
あ。
聞こえてた。
「……別に。みくが勘違いするから」
「みくちゃん、何も悪くないじゃん」
咲がリビングへ歩み寄ってくる。
「勘違いって何?」
「……」
「一緒にご飯食べて、一緒に寝て。動物園だって行って。今さら、それ言うの?」
あっ。やばい、本気で怒っている。しかもこれ、ただ怒ってるんじゃなくて、傷つけたかも…。
違うって言いたかった。みくを傷つけたかったわけじゃない、もっとこじれる前に止めたかっただけで、でも——
でも「ごめん」って言えない。たった3文字なのに……。
だから黙るしかなかった。
「……みくちゃん、おいで」
咲がみくの手を引いてキッチンへ戻っていった。
残された俺と、テレビのバラエティ番組の笑い声。
うるさかった。
夕飯。
食卓に三つの皿が並んだ。
みくは下を向いたまま黙々と食べている。「おいしい」も「おかわり」もない。
咲は必要最低限の動作しかしない。麦茶を注ぐとき、俺を見なかった。
カチャ、カチャ。
箸が皿に当たる音だけが響く。
いつもならこの隙間をみくの声が埋める。咲の小言が埋める。
今日は何もなかった。
俺は、ハンバーグを一口食べた。
うまかった。咲が作ったから、うまかった。
それがまた、嫌だった。
洗い物が終わる前に、みくは「ねる」と言って布団に入った。
咲がキッチンを片付けて、帰り支度を始める。
カバンを持つ。玄関へ向かう。
俺も、後を追った。
「……咲」
ドアノブに手をかけた咲の背中に声をかけた。
「……なに」
振り返らなかった。
「違うんだ」
出てきたのはそれだけだった。
違う、って何が。
自分でも分からなかった。みくを泣かせたかったわけじゃない。この生活を否定したかったわけじゃない。ただ——
ただ何だ。
言葉が、出てこなかった。
「……何が違うの?」
咲の声が、少し低かった。
「私、渡くんの言ってること、全然わからない」
咲の背中が、少し震えているように見えた。
怒ってるのか、泣いてるのか。分からなかった。分からないまま、俺は次の言葉を探せなかった。
ドアが開く。冷たい夜風が入ってくる。
「……おやすみ」
それだけ言って、咲は出ていった。
ドアが閉まった。
止めなかった。止め方が、分からなかった。
一人になったリビング。
さっきまでの生活の温度が、全部抜けたみたいだった。
冷蔵庫の唸り音が、やけに響く。
俺はソファに座って、スマホを出した。
写真フォルダ。あの一枚。
昨日まではこれを見るたびに、気恥ずかしくて、でもそれより大きな何かがあった。
今は見られなかった。
スマホを裏返して、置いた。
みくの寝室の方を見た。
静かだった。泣き声はしなかった。
それが、もっと痛かった。
俺、今日一体何がしたかったんだ。
謝りたかっただけだろ。
怖くて、うまく言えなくて、勢いで言って、言い直せなかっただけだろ。
分かってる。分かってるけど。
素直になれない自分にイライラする。言葉にすると違う気がして……。
だから言えなかった。
言えないまま、咲が帰った。
みくが「ごめんなさい」と言った。
俺は何もできなかった。
部屋が静かすぎた。
明日、どんな顔をして教室へ行けばいいのか。
答えは出ない。
スマホの画面が、暗いままだ。
読んでいただきありがとうございます。
出汁の匂いがしていたはずのキッチンが、今日は少しだけ遠く感じました。
楽しい時間が続くほど、ぶつかった時の痛みも大きくなるのかもしれません。
それでも、この三人ならきっと……。
そう思いながら書いていました。




