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第八十一話 霧の向こう

 そんなこんなで、ヒューゴ、ミコト、シディア。そして猫の姿でローブに隠れたネオンの計四名は、巨大な湖を進んだ先にあるというリベルカトゥスの国境へ向かうべく、船を求めて湖畔を歩いていた。

「うっかり声出したりするなよ。なるべく気配も消せ。スナイパーなんだから、そういうの得意だろ?」

 こそこそと小声で話しかけると、ローブの中の黒猫が頷く。

 まあアリスじゃあるまいし、ネオンなら大丈夫だろう。


 ところで人型であれば妖精だとわかるのに、猫の姿だと誰も妖精だと思わないのは不思議な話である。

 ポートシーガルの街中を黒猫ネオンが闊歩していても、彼女が猫であることを疑う者など誰もいなかった。もしかしたらネオンの母・レイのように気づかないふりをしていた住民もいたかもしれないが、全員が全員そんなはずはない。

 先入観が認識を阻害しているということだろうか。面白い発見だ。

 さすがにシリウス並みの大犬だったら、普通の犬だと思う人のほうが少ないだろうけれど。


 そんなことを考えつつ船を探していると、先頭を歩いていたヒューゴが振り返った。

「やった!一隻見つけたぞ。あれじゃ速度は期待できないけど、贅沢を言ってる場合じゃないしな。───おーい、三人乗れるか?」

 ヒューゴがぶんぶんと手を振りながら駆け寄り、シディアとミコトも後に続く。

 渡し守は猫妖精(ケット・シー)の老人であった。老描と言うべきだろうか。

 薄灰色の長毛に覆われた顔が、ゆっくりとこちらに向く。

「ほう、随分若いお客さんじゃの。この(じぃ)の船で良かったらどうぞ乗りなさい」

 船は渡し守と客三人がやっと乗り込めるほどの、小さく簡素な木船だった。

 そう呼ぶように、という本人の希望で若者たちに「猫爺(ねこじぃ)」と呼ばれることになった渡し守は、慣れた手つきで櫓を漕ぐ。

 湖上は想定以上に霧が深く、数メートル先も薄ぼんやりとしか見えない状態だ。そして、とても静かだった。

 猫爺とのたわいもない会話を除けば、耳に届くのも水音くらいのものである。

 そんな中だったものだから、早めに気づくことができたのかもしれない。

 木船が出すそれとは違う、聞き覚えのある水音に、シディアは思わず耳を澄ました。

 蹄が水面を蹴る音。ケルピー船だ。

 シディアたちが目指している国境のほう、つまり向かい側からこちらへと進んでくる。

 霧の向こうに淡い影が見えてきたそのケルピー船に、猫爺が憐れむような視線を向けた。

「ふむ……中に客の気配がないな。あの御者、運がなかったようじゃの」

「客が取れなかったってこと?さっきのヒューゴの話だと、むしろ引っ張りだこなんじゃないのか?」

猫妖精(ケット・シー)の中には、ケルピー船自体を嫌う連中がおるんじゃよ。妖精に連なる水魔であるケルピーを人間が使役している、妖精を見下している、と難癖をつける妖精至上主義者がな。ごく一部じゃぞ、一部。(じぃ)はそんなことは思っとらん」

 わかってるよ、とシディアたちが頷くのを確認し、猫爺は続ける。

「おおかたトラブルに巻き込まれて、乗る予定だった客が逃げたんじゃろう。まったく、過激派の連中には皆悩まされておるよ。ケルピー船の往来が無くなれば、物資の搬出入で困るのは我々猫妖精(ケット・シー)じゃというのに……」

 半ば愚痴のようになってきた猫爺の話を聞きながら、シディアは霧に目を凝らした。ほどなくして、その紫の瞳は大きく見開かれることになる。

 すれ違う刹那、ケルピー船の御者の姿がはっきりと見えたのだ。

 目深にかぶったヨレヨレの帽子。左手首に光る銅色の腕輪。───間違いない、彼だ。

「オジサン!」

 シディアの叫びが、湖上の静寂を壊す。

 ケルピー船の御者───マティアスと目が合った。幽霊でも見たかのような驚きようだ。ベーヌス島以外で会うことになるとは思ってもみなかったのだろう。

「ぼっちゃん!?なんで、こんなところに……あ、あっしは仕事中なんで失礼しやすね」

「待ってよ!───ごめん、猫爺!船止めて!」

 シディアたちの船が止まっても、マティアスのケルピー船は速度を緩めなかった。

 岸に向かってぐんぐん遠ざかってしまう。霧に埋もれていく後姿を、ただ見つめる。

 どうしよう、どうすればいい。

 懐に感じるネオンの鼓動と体温が、シディアの焦りを増幅させる。

 奇跡的に会えたのだ。何か言わなければ。一言でも多く伝えなければ───!

 シディアは身を乗り出した。船が揺れバランスを崩し掛けた猫爺を、ミコトがさっと支える。

「オジサンの娘は生きてるよ!オジサンは娘を殺してなんかない!そんな腕輪、つける必要ないんだよ!」

 マティアスが帽子を更に深くかぶり、顔を伏せるのが見えた。

「奥さん───レイさんも待ってる!家族のもとに帰ってあげてよ、オジサン!」

 ローブの中で、黒猫がぎゅっとシディアの服を掴む。

 力の限り叫んだ言葉が、彼に届いたかどうかはわからない。

 そのままケルピー船は濃霧の向こうに消えてゆくのだった。


 巨大な湖の半ば、リベルカトゥスの国境に辿り着いたシディアは、呆然とそれを見上げた。

 湖の中に突然現れた、そりたつ巨大な壁。まるで要塞だ。

 しかもどうやら、石造りではなく金属製の壁と思われる。素材も造りも、湖の中にこれが建てられていることも、何もかもが驚くべきことだった。

 魔法で作り出した可能性も考えたが、それにしては壁から魔力を感じ取れない。

 猫妖精(ケット・シー)の国と聞いて、長閑でファンシーな国柄を勝手に想像していたが、少なくともベーヌスより高度な建築技術を持っているのは間違いないようである。

 その壁にいくつか設置されている水門に近づくと、ひとりでに門が開いた。

 驚きを隠せないシディアの反応に、猫爺は大層満足そうだ。

「当たり前じゃが、誰でも通れるわけではないぞ。ここからは見えんが、監視員が複数人配置されておってな。怪しい船は即座に止められて、厳しいチェックを受けるんじゃ」

「猫爺も止められたことあるのか?」

 ヒューゴの言葉に、猫爺は得意そうに胸を張った。

「爺は常に顔パスじゃ。ベテランじゃからのう」

 水門を越えると、湖の様相は一変した。

 霧は晴れ、燦燦と降り注ぐ陽光を湖面が穏やかに反射する。そして。

「これが……猫妖精(ケット・シー)の国───リベルカトゥス……!」

 湖の中央に浮かぶ島。その上には、巨大な町がそびえ立っていた。

 町がそびえ立つ、という表現は一般的にはおかしいのだろう。しかし他に思い当たらないほどに、塔のごとく、また、螺旋階段のごとく。縦に上にと町が展開しているのだ。頂上に至っては、雲に隠れて見えないほどの高度である。

「てっぺんに王城があるんだよ。今回は、あんな上まで行く機会はないだろうけどな」

 夢中で町を見上げていたシディアだったが、ヒューゴの声に現実に引き戻された。

 そうだ、観光で来たわけないのだ。危うく、この国の成り立ちや建築についての知識を求めて本屋に駆け込むところだった。気を引き締めなければ。

「おぬしら、物資の調達で来たんじゃろう?そうなると、タビー市場に近い船着き場が爺的にはオススメじゃ。ここからすこぉしだけ西に回れば着くが、どうするかね?」

 なるほど、船着き場近くに市場があるならいろいろと楽に調達できそうだ。

 ヒューゴとミコト、シディアの三人はすぐに頷き合った。

「じゃあ、オススメのそこに着けてくれ。親切にありがとう、助かるよ」

「うむうむ。若々しさには種族関係なくパワーをもらえるものじゃ。これで爺ももうちっと長生きできるかのう」

「長生きして、またオイラたちを乗せてくれよ、猫爺」

「ほほ、嬉しいこと言うてくれるのぉ」


 木船を降り、教えた市場の方向へ歩いていく若者たちの背中を見つめ、猫爺は目を細めた。

 静寂に包まれた湖の上、ましてやあの近距離では、紫髪の少年のローブの下に何かが隠れていることに、気づかないほうが無理というものだったが。

 まあ、タビー市場ほど賑やかな場所ならそう簡単にはバレないだろう。あとは彼らの幸運を祈るしかない。

「いつぞやの赤ん坊が、今や竜騎兵団の団長代理とはな。立派に育ったもんじゃのう。お前さんを初めて船に乗せた日を思い出した」

 ひとり呟き、天を仰いだ。青く澄み渡った空に、かつて交流のあった青年との思い出を映す。

 豪快で眩しい男だった。まるで───燃えさかる太陽のような。

「顔や体格はちっとも似とらんな。きっと母親似なんじゃろう。それでも、あれは紛れもなくお前さんの息子じゃよ。見ておるか?……のう、マルクスよ」



   第八十一話 霧の向こう <終>


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