苦しみと恐れ
息がうまくできない。
それは、恐怖のせいなのか、ひきつるような痛みを感じているせいなのかは分からなかったが、それでも稜迦の口からは懸命にカガイの名を呼ぶ声が漏れていた。
ふと、ガクンと稜迦の視界が大きく揺れる。
雪が積もり見えにくくなっていたのか、稜迦を肩に担ぎ上げていた樂幹の足が盛り上がっていた木の根のせいで滑り、よろめいたせいだった。
その男から荒々しい息遣いが聞こえだす。
けれど、それでも足は止まらず、体勢を整えながら山中深く走り続ける。
あの時、彼方に見えていたカガイと義兄の姿は、今はもう見えない。
乱戦の音も聞こえなくなっていた。
樂幹がどこに向かって走っているのか分からないが、このままではと、稜迦は唇を噛みしめた。
男が息を乱し始めた今ならば。
稜迦は浅く息を飲み込んで、震える手を固く握りしめる。
「ーーくっ!」
男の肩に担がれていた身体に力を込め、稜迦は思いきり暴れだす。
頑なに外れなかった樂幹の腕が緩んだ瞬間、稜迦の身体は男と共に地面へと崩れ落ちた。
「ああ! く、うぅ……!」
痛みが肩を中心に全身に走ったが、それに構う隙もなく、稜迦は這うようにして樂幹から離れ、懸命に走り出す。
まるで獣のような息遣いが、すぐ自分の後ろから迫って来る。稜迦の足は恐怖ゆえか、縺れそうになって、呼吸もひどく乱れた。
「あ……!」
衝撃が稜迦の背中を襲う。そのまま転がるように地面に倒れた。
必死に起き上がろうとして振り返ると、のし掛かってくる男の姿が見える。押さえつけようとする樂幹の手を拒みながら、稜迦は声の限り叫んだ。
「いや……! カガイ様! カガイ様!」
「黙れ!」
無骨な手が稜迦の口を覆うとするが、首を振ってその手から逃れようとする。
「カガイ様! カガっ……!」
樂幹の手が稜迦の顔を力強く掴む。その痛さに、覆われていない目から次々と涙が溢れた。
恐怖に震える両手で、抵抗しようと男の腕を掴むが、稜迦の力ではどうにもできず、息もままならない。
「ぐ、う……畜生……畜生! 畜生! 畜生!」
樂幹の、まるで引き裂かれるような声が聞こえたと思ったら、稜迦の顔にポタポタと何かが落ちてくる。
稜迦は滲む視界の中で、その正体を見た。
ーー泣いている男の顔を。
稜迦と同じように次々と涙を流していて、それがとめどなく落ちてくる。
あまりにも痛々しい表情をして樂幹は泣いていたから、こんな状況なのに、稜迦はその男の顔をそのまま見つめた。
このような表情をして泣いてる人を、稜迦は沢山見てきたから。
それは、まだ故郷にいた頃に目にした、戦で家や人を失った人々の顔であったし、政策の為に家族と離れ離れになってしまった直後の、あの頃の自分の泣き顔でもあった。
「う……っく……」
稜迦はどうにかして声を出そうと、樂幹の手から逃れようと、もがく。
この男に言葉を伝えたいと思う。
男たちを止めようとした、戯張のことを。
こんな顔をして泣く男を、救いたいと思っている人がいることを、話したかった。
けれど、男の手は離れない。
稜迦の意識は朦朧としてきて、樂幹の腕を掴んでいた手から力が抜けてくる。
霞みかかった頭の中で、思い詰めた顔をして辛そうに涙を流していた戯張の姿と、雪に覆われた故郷の地に佇む楊翠とその腕に抱えられた佳毘の姿が、浮かんでは消えていく。
ーーそして、連れ去られる前に見えた、カガイの姿が浮かんだ。
稜迦はただ純粋に、カガイの懐へ飛び込んで行きたいと思えた。あそこはきっと、安心できる場所のはずだと。
そんなことを思って、稜迦の目からまた涙が溢れたとき、樂幹の手が細やかに震えだして、徐々に稜迦の顔を掴む力が緩くなっていく。
「……あ……ああ……ああぁ」
微かに、千切れるような嗚咽のように聞こえる樂幹の声がして、稜迦の身体から、のし掛かっていた重さが遠ざかった。
顔を覆っていた手がなくなり、空気が流れ込んできて、稜迦は激しく咳き込む。
必死に呼吸をしようともがき、稜迦はその場に伏した形になって、ただひたすらに息を吸って吐いてを繰り返した。
苦し気な息遣いが続いて、一つ大きく息を吸い込もうと、稜迦が僅かに顔を上げたとき、樂幹の身体が目に入る。
樂幹は僅かに離れた場所で踞っていて、顔は見えなかった。
けれど静かに、だが激しく、泣いているのだと分かる。
「……すまない……芭離……すまない、すまな、い……すまない……蓉葉……蓉佳……」
嗚咽と混じって聞こえて来る声があった。
誰かに許しを請う声と、誰かの名と。
戯張が言っていた。目の前の男も言っていた。
男たちは、故郷と家族を失ったのだと。
聞こえて来る誰かの名は、失ってしまった大事な者の名だろうか。
失ってしまったことに、許しを請うているのだろうか。
樂幹から聞こえて来る声は、どうしようもないほど痛ましく、男の姿を脆く見せた。
「どうか……お願いです……」
泣きながら、稜迦は声を絞り出した。
樂幹に届いているかは分からない。男は変わらず踞ったまま嗚咽と微かな声を繰り返していた。
「……どうか、義兄の……戯張の、想いを……」
稜迦は恐ろしいと思った。
大事なものを失ってしまった者たちの生きる糧が、復讐だったから。
失ってしまう悲しみと恐れを稜迦は知っていたから。
稜迦の声は懇願にも似た響きだった。
「お願い、です……あなた方を、失いたくない戯張の……想いを、どうか……もう、おやめください……」
言ってから稜迦は咽び泣いた。
もうこんな恐ろしく悲しいことなど、早く終わってほしい。
戯張と姉が故郷の地で再会できる光景が見たい。
戯張が救いたいと願う、この男たちを救ってほしい。
「……もう、やめて……」
稜迦はそれだけを願った。
「……戯張……?」
ポツリと、樂幹の微かな声が聞こえた。
その声で稜迦の心臓がドクンと大きく鳴る。声が樂幹に届いていたのだと。
男が戯張の名に反応してくれた、僅かな望みで。
踞ったまま動かない樂幹に向けて、もう一度口を開こうと稜迦が小さく身じろぎしたとき、雪を踏む人の足音が聞こえた。
その音に稜迦が視線を動かすと、頭巾を深く被り武装している者たちが見えた。その数は三人。
段々と近付いて来る來郷とも朱国の兵卒とも出で立ちが異なる格好をしている者たちに、見覚えは無い。
正体が分からず、稜迦の身体は恐怖と混乱で強張る。
するとその中の一人が足早に稜迦たちの元へと辿り着くと、流れるような動作で剣を抜き、踞る樂幹へ目掛けてその刃を振りかぶった。
「ーーっ!」
いきなり起きた光景に稜迦は息を飲んだ。
樂幹が斬られると思った瞬間、踞っていた体勢から俊敏に動き、転がるようにして樂幹は振り落とされた刃を避けていた。
「……貴様らはっ!」
身を低くして構えた樂幹が唸る。その唸りに被せるように、その者は再び樂幹へと刃を振るった。
狩人に追い込まれた瀕死の狼を連想させるが如く、次々と打ち込まれる刃をギリギリのところで樂幹は避けていく。
だが、樂幹の息はすぐに乱れだす。稜迦を抱えて山中を走り続けた身体は疲労が滲んでいた。
「や、やめ……やめて……!」
稜迦は震える身体を起き上がらせながら叫んだ。
誰であろうと死は見たくない。まして、樂幹は戯張が死なせたくないと願った人だ。
止まらない攻防に向かって、稜迦の叫びがまた木霊しようとしたとき、視界に影がかかる。
稜迦がその影を仰ぎ見ると、すぐ近くに、武装した謎の者が立っていた。頭巾を深く被っているせいでその表情は窺い知れない。
ただその者が稜迦に向けて刃を振り上げていることは分かった。
稜迦が抵抗らしい抵抗もできないまま、振り上げられていた刃が真っ直ぐに落ちて来る。
稜迦は無意識に何かを叫ぼうとしてーー。
しかし、その叫びは稜迦の口から出ることはなく、振り落とされた刃も稜迦に届くことはなかった。
稜迦へ刃が届く前に、刃を振り落としていた者は、勢いよく飛んできた何かとぶつかり、その何かと共にその場から大きく吹っ飛んでいた。
稜迦は身体を硬直させたまま、唖然としてその光景を見る。
勢いよく飛んできた何かは、稜迦を斬ろうとしていた者と同じ格好をした、人であった。
「ーー稜迦!!」
戯張の声が聞こえた。もうそれだけで稜迦は泣きそうになって、急いで声の聞こえた方を振り返る。
すると戯張とは違う、大きな身体が見えた。その姿を目にして、堪らず涙が流れる。
稜迦は無自覚に、こちらへと駆けて来るカガイに向かって手を伸ばす。
その稜迦の後ろで、今度は違う者が刃を振り上げていることに、稜迦は気付けないでいた。




