うらはら
トウシナが愉快そうに歌を口ずさんでいた。
いつの間にか雪雲は無くなって、日差しが射し込む山間の道を、馬に揺られながら進む。
予定通り、稜迦とトウシナは青丹のいる関所へと向かっていた。
トウシナの歌声を、意識のどこか遠いところで聞きいていて、カガイと戯張の事をずっと考えていたからだろうか、稜迦はトウシナが話し掛けていることに気が付かなかった。
「ーーなあって! 奥方さまよ!」
「……っあ! は、はい!」
すぐ後ろから大声が響いて、稜迦は勢いよく振り向いた。見上げたところに、何やら物言いたげなトウシナの顔がある。
カガイの時と同じように、トウシナの馬に二人で騎乗していたので、その顔が近い。
けれど不思議なことに、カガイと共に馬に乗った時に感じた、心の中を擽られるような、あの恥ずかしい感情は抱かなかった。
今は心情がそれどころではなかったからかもしれない。
「まぁだ心配してんのかい? 大丈夫だって! 兄ぃがついてんだ、奥方さまの義兄が死んじまうようなことは起きねえって!」
トウシナはどこか呆れたような口調で稜迦に言う。
結局、戯張とはろくに話ができないまま別れてしまっていた。最後に目に入った戯張の後ろ姿を思い出す。
もしも、あの姿が最期になってしまったら、と稜迦は不安に駆られる。
カガイを信じていない訳ではない。
あんなにも頼もしい存在が戯張の傍にいてくれる。けれど、そのせいでカガイの身に危険が降りかかったらと思うと胸が騒ぐのだ。
「いやあ、けどよ! 奥方さまの義兄が見つかってよかったよな! 俺ぁ全然知らなくてよ! 妙に気安いヤツがいるなぁって思ってたんだよ! まさか、義兄とはな! 早く言ってくれよ、ダッハッハッハッハッ」
浮かない表情のままの稜迦とは裏腹に、トウシナは林の中に木霊するほどの笑い声をあげる。
稜迦もそんなトウシナを見ていると、ぎこちなくだか僅かに笑えた。
「……けれど……わたし、義兄を止めることができなくて……カガイ様にも、こんなにもご迷惑を……」
けれどまたすぐに、ぐずぐずと落ち込んでしまう稜迦に、トウシナは下唇を出す。
「だからよ! 悪いふうに思い込み過ぎだぜ、奥方さまよ! 男は頑固だからよ、一度決めた事はやり通すもんなんだよ、って宝鈴が言ってだぜ、確か!」
それによ、と続くトウシナの声に、稜迦は俯いていた顔を上げて、再び後ろを振り向いた。
そこには、悪戯をしたかようなニヤニヤした表情を浮かべたトウシナがいた。
「奥方さま、俺がこれを言ったこと、兄ぃには言わないでくれよ。殴られちまうからさ」
そこには稜迦とトウシナの二人しかいない筈なのに、何故かトウシナは声の大きさを落として、ひそひそと話し始める。
「ほら、奥方さま覚えてるかい? ええと……あっ、あの夜だよ! 兄ぃと奥方さまがちょっと喧嘩しちまった日があったろ?」
あの夜と言われて、稜迦はどの日のことだろうかと、焦りながら思い返す。
真っ先に思い出した夜は、カガイと初めて出会った日だ。
カガイとの初夜、稜迦が泣いて無茶苦茶にしてしまった事をトウシナは知っていたのかと思い、サッと顔色を悪くした。
しかもあれは、ちょっとどころの喧嘩ではない。稜迦にとってはカガイに無礼を働いた、後悔しかない夜だった。
現にカガイはそれから暫く、邸に帰って来なかったのだから。
「ほら、あれだ、來郷の……なんて名前だったかな……? まあ、いいか! そいつに奥方さまが間違われて拐われそうになった日だよ! 覚えてるかい?」
稜迦はそう言われてハッとする。
トウシナが言っているのは、青丹がいる関所までの道中で、蜘蛛に勘違いをされ一悶着あった日の事だった。
カガイとは、あの夜の会話以降、どこかぎくしゃくした日が続いた。
「ほら、あの時によ、兄ぃ言ってたろ? 奥方さまを庇いながらでも怪我なんて負わねぇって」
稜迦はその時のことを思い出す。
確かにカガイは、そのような言葉を稜迦に言っていた。
「なのによ、奥方さまを庇って自分も怪我しちまうし、それだけならまだマシだったんだけどよ、奥方さまにもその時に怪我負わしちまっただろ? 兄ぃのヤツすげえ落ち込んでてよ、って知ってたかい?」
カガイの感情の起伏は乏しく、その変化に気付くことはなかなかに難しい。
トウシナの言葉を受けて、稜迦は自分でも分かるほどの狼狽えた声を出した。
「そ、そんなに……わたしのことで……?」
「あん? そりゃそうだろ? あんなこと言っといて、こんな事になってたんじゃ、男にしてみたら情けなくてしょうがねえよ」
稜迦はあの日、自分の怪我をカガイに見せた時の事を深く覚えている。
稜迦の怪我に対して、自分の失態だ、とカガイは口にしていた。
そんな訳はない。
むしろ、カガイはその身を呈して稜迦を守ってくれた。
落ち込むほどにカガイは気にしていた、ということに稜迦は気付けないでいた。
「兄ぃは奥方さまにいいとこ見せてえんだよ、奥方さまの大事な人間を守ってやりたいんだと思うぜ。男には、こ、沽券? だったか? まあ、誇りがあんだよ。だからよ、兄ぃは絶対に奥方さまの義兄を守り通すぜ! 奥方さまは兄ぃを信じて、待ってりゃいいんだって! 夫を信じて待つのも妻の役目って、えーと……誰が言ってたんだっけか? まあ、いいか!」
最後に「なっ!」と言って、トウシナは笑う。
稜迦はそんなトウシナの顔を見ながら、うっすらと目に涙が溜まる熱さを感じていた。
「……はい、ありがとうございます……」
「おう! ……ん? どうした、奥方さま?」
稜迦の様子を心配してか、トウシナは声をかけてくるが、稜迦は泣いている事がバレないように姿勢を戻し、前を向く。
「……カガイ様は……本当に……本当に優しい方です……」
「おう! 兄ぃはいいヤツで、誰よりも強え男だ! ダハハハ!」
トウシナの言葉で頷いた拍子に、稜迦の目から涙が一粒こぼれた。
そうしていると、突然トウシナが黙りこむ。
それに気付いた稜迦は、どうしたのだろうかと目を拭いながら振り向こうとしたとき、林の中から一本の矢が飛んで来た。
「うおりゃっ!」
稜迦が声をあげる前に、トウシナは鉄で出来た手甲を使い、勢いよく飛んで来た矢を弾き飛ばした。
ガキィンと音が鳴り、折れた矢が遠くに落ちる。
馬が嘶き、体勢を崩しそうになって、稜迦は慌てて鞍を掴んだ。
次に顔を上げた瞬間、稜迦は息を飲む。
林の茂みから颯爽と走り出て来た男が、剣を抜き斬りかかって来る光景が見えた。
「トウシナ様っ!」
「どうりゃっ!」
稜迦が声をあげたと同時に、トウシナが備えてあった矛でその男を凪ぎ払う。
男は嘘のように飛んで行き、地面に叩きつけられ呻き声を上げた。
「奥方さま! 掴まってろよ!」
トウシナが馬を走らせようと手綱を掴んだ時、その前に躍り出てくる影が見えた。
稜迦はその影を見て、目を見開く。影の男に覚えがあった。
トウシナがその男を矛で打ち払おうと構えたので、稜迦は咄嗟に声を出す。
出してしまった。
「ーー駄目……!」、と。
それが、分かれ目になった。
稜迦の声に反応したトウシナが、動きを一瞬だけ止める。
その一瞬を目の前の男は見逃さなかった。
男は手に持っていた剣で、稜迦とトウシナが乗っていた馬の横腹を貫いた。
瞬間、馬は前肢を上げ、苦しそうに悲鳴を上げる。その衝撃でトウシナと稜迦は馬の上から投げ出されてしまった。
「畜生! 奥方さまっ!」
地面に転がったトウシナは、直ぐさま体勢を整え稜迦の姿を探す。
稜迦はトウシナと同じように地面に落ちて、痛みをこらえ倒れたまま、顔だけを上げていた。
稜迦の視界に映った男は、手を伸ばして稜迦の腕を掴む。
顔の中央に古傷を持ったその男は、苦し気に笑った。




