遠い日の
「ーーっ張、おい戯張!」
呼ばれた声にハッとして顔を上げる。
顔を上げ視界に入るのは、焚き火を囲っている数人の男たちだった。
皆、土埃のせいか衣服や冑は薄汚れていて、生傷を身体中に負っている者も少なくなかったが、そこに陰陰とした空気は見えない。
「なんだ、呆けやがって。女のことでも考えていたのか?」
熊のように図体のでかい男がそう言って笑うと、周りの男たちも同じように笑う。
慣れ親しんだその隔てない雰囲気に、戯張も顔に笑みを浮かべた。
「……ああ、娘のことを思い出していて……もうそろそろ、一人で歩きだしたんじゃないかと」
「はははぁ! 女には違えねぇ!」
「おいおい、戯張! お前結婚してたのかよ! なんでぇ、甲斐性が無えから、てっきり独り身かと思ってたのによ!」
「ダハハハ! 戯張に僻むなよ、独り身!」
男たちはじゃれあいながら、酒を酌み交わしていく。戦場の真っ只中というのに、その光景にどこか心地好さを戯張は感じていた。
「ーーなんだ、お前にも娘がいたのか」
突然、真横から声が聞こえて、戯張は慌てて顔を向ける。
「ーー樂幹さんっ!」
戯張は叫んで腰を浮かそうとしたが、樂幹と呼ばれた男は軽く息をつきながら、戯張の隣に胡座をかいて座り込んだ。
「樂幹さん、顔の傷は……」
大丈夫なのか、と言おうとしたところで樂幹がニッと笑って戯張を見る。
その笑った顔の中央には血の滲んだ包帯が巻かれていた。
「馬っ鹿野郎だなぁ! 戯張、お前あれだけの敵に囲まれて棒立ちは無いぞ!」
樂幹はどこか呆れた口調でそう言って、戯張の頭をぺしんと軽く叩く。
「お陰で俺はすっかり色男になったじゃねえか、ええ? 故郷に帰ったら、また女共に言い寄られちまう」
「おおい! 樂幹! てめえ、人の妹を嫁に貰っておいて他の女の尻を追いかけてみろ、俺がお前のケツを蹴りあげてやるからな!」
二人の会話を聞いていた図体のでかい熊のような男が、酔っているのか顔を赤らめて、樂幹に向かって叫ぶ。
少々呂律の回っていない声に、樂幹は薄く笑って答えた。
「恩徳、呑み過ぎて明日戦場で斬られるなよ。てめぇの女房に泣かれるのは勘弁なんだからよ」
熊のような男は、へっと軽く笑うと手に持っていた瓶を傾けて、喉を鳴らしながらゴクゴクと酒を呑んだ。
「樂幹さん……すみません、俺のせいで……」
戯張は居住まいを正して、樂幹に頭を下げる。
樂幹はその下げた頭を、またぺしんと叩いた。
「だから、これはお前を庇ったからついた傷じゃねえ! 俺が油断したからついたんだよ」
樂幹はそう言って自分の顔に巻かれた包帯を指差した後、一旦顔を前に向けるが、すぐ顔を戻して戯張を見る。
「それよりもお前だよ。いくら徴兵で連れて来られた農夫だとしても、そんなんじゃあ生きて故郷に帰れねえぞ! ちったあ気合いを入れろ!」
樂幹は強めに戯張の背中を叩くと、近くにいた男から酒瓶を引ったくり、恩徳と同じように喉を鳴らしてそれを呑んだ。
戦場は恐ろしかった。
殺し合いの中で足がすくみ、動けなくなって、あわやというところで戯張は樂幹に救われる。けれど、そのせいで樂幹に傷を負わせてしまった。
もうこんな失態を犯してはならないのに、戯張の足は戦場に立つと震えてしまうのだ。
気落ちしてしまって俯いた戯張に、樂幹は再び声をかけてくる。
「戯張、お前、子どもは娘だけか?」
「ーーえ? ああっ! いいえ、妻のお腹の中にも、もう一人います」
そうか、と呟いて樂幹は余っていた木の椀を戯張に差し出した。
「俺には娘が二人いてな。生意気だが愛嬌がある。あれは将来俺に似て、男共から引く手数多だな」
戯張が両手で受け取った木の椀に、なみなみと酒を注ぎ入れながら樂幹は話す。
戦が始まり、今の隊と行動を共にして長いが、このように自分たちの家族について、語り合うことは少なかった。
特に理由は無かったのかもしれない。日々の戦果の語り合いが大半だったのだ。
「死にそうになるとき、咄嗟に思い浮かべるのはやっぱりあいつらの顔だ……」
樂幹の声に、戯張はその顔へ視線を向ける。
樂幹の目はどこか遠い場所を見ているようだった。
「もしも俺たちが負けたら、敵はあいつらのところに行っちまう。それだけは駄目だ、絶対……」
戯張は樂幹の言葉を聞きながら、家族の顔を思い出していた。戦へ出立する日に見た楊翠の、あの泣くことを堪えている顔が脳裏に浮かぶ。
「ーー戯張」
樂幹の呼ぶ声に、ハッと戯張は意識を戻す。
見えた樂幹の顔には、ニッと浮かべた笑みがあった。
「お前は家族の盾だ。お前が守っているんだ。しゃんとしろ。勇気を出せ。震えていては何もできねぇ」
戯張は暫くの沈黙の後、息を大きく吸い込んで吐くと、椀に入った酒を一気に呑んだ。
樂幹の言う通りだと思う。自分の家族を守る為に戦場に来たのだ。
戦場は恐ろしい。死ぬのは怖かった。
けれど、家族を失うことはもっと恐ろしい。
楊翠たちを失うわけにはいかなかった。
「ーーはいっ」
そして戯張の大きな返事に樂幹は大きく笑い、死ぬなよ、と自分も酒を旨そうに呑みながら言った。
「ーーい、おい、戯張」
聞こえた声に戯張は急いで顔を向ける。
そうすると、怪訝そうな鳶の顔が見えた。
「どうした、考え事か?」
「……っあ、ああ、いえ、すみません」
我に返った戯張は、慌てて声を出す。懐かしむように、あの頃のことを思い返していた。
前を向くと街道を先行する來郷たちと、兵の列が見える。
「……目的の場所までは、まだでしょうか?」
「先に出た斥候隊はそろそろ着いた頃だろう」
鳶の返答で、戯張の身体にサッと緊張が走った。
共に戦った仲間たちと離れてから、とても長い時間が過ぎたように思う。
彼らが何を思い、そして何があって、今の現状になってしまったのか、戯張には判らない。
何故、あれだけ憎んでいた朱国の人間と手を組むようになったのだろう。
いや、それよりも、罪も無い者を殺し、賊と成り果ててしまった仲間たちが信じられない。
そして偶然とはいえ、義妹である稜迦を拐い、傷を負わせた。自分たちの復讐と関係の無い、それも女という存在にそんな事ができる仲間たちは、もう自分が知る彼らとはあまりにもかけ離れている。
こんな事になる前に、止めることのできなかった自分が不甲斐なかった。
そうして、このような事態になって、彼らがこのまま助かるなどと戯張も思ってはいない。
しかし、どうしても諦めることはできそうになかった。
戯張は自分の斜め前を行く大きな男に目を向ける。
威圧感がある背中だった。一目で剛の者だと分かる。
政策によって嫁いだ義妹の、夫となった男だった。
故郷にいる筈の義妹が突然目の前に現れた事に心底驚いたが、事情を知って更に驚かされた。
稜迦から話を聞いたとき最初に感じた感情は怒りだ。
拒否ができない状況下で、無理やり稜迦たち家族を引き離した父親だと言う者を憎く思う。卑劣なやり方だと。
けれど、そんな状態だった稜迦や楊翠たちの傍にいなかった自分も、また責められる存在だとも思った。
「……なんだ?」
「ーーあ、いや……」
戯張の視線に気付いたのか、カガイが軽く横顔を見せ、声をかけてくる。
底冷えするほどの低く重い声だと思う。
正直なところ、義妹は大丈夫なのかと懸念した。
心の優しい、おおらかな娘だが、多少気が小さく臆病なところがある。
きっとこのような男を前にすると、義妹は怯えてしまうのではないかと思った。ましてや相手は馴染みのない武人なのだ。
けれど、稜迦とカガイの二人の関係は、戯張が考えているようなものではないように見えた。
「稜迦の……傍にいなくても?」
戯張は気になっていたことをポツリと訊く。何故、怪我を負っているカガイが今回の任務にいるのか不思議であった。
別れる際に見た、憂いに沈んだ稜迦の表情を思い出す。戯張のことに加え、更にカガイもとなると稜迦の心労はさぞや深くなるだろう。
戯張の問いに、カガイは再び横顔を見せる。
「……別の者が傍にいる……そいつが守る」
カガイの返事はそっけないものだった。もともと、あまり喋るような男ではないらしい。
戯張もそのような相手に喋り続けられる性格でもなかった。
口をつぐみ、沈黙が降りる。
「……覚悟はあるのか……?」
そうしていると、僅かな間の後、カガイの声が聞こえてきた。
戯張はカガイの方を見るが、カガイは背を向けたままで喋り続ける。
「……お前の望まない結果になるぞ……」
カガイの言葉に戯張は何も言えなかった。
口を閉じたままの戯張に、ふと影が重なる。気付くと戯張のすぐ傍にカガイがいた。
「……お前が救おうとしている仲間に、お前の義妹は喰われそうになった……」
前を向いたまま、こちらを視界に入れることなく呟いたカガイの言葉に、戯張は瞠目する。
「……お前が命を懸けて、救おうとする価値はあるのか……?」
カガイの言葉に、強く頭を殴られたような錯覚をうける。揺らぐ視界の中、無意識に震える手で戯張はカガイの肩を掴んでいた。
「……あ、ありえない……!」
そこでカガイは戯張に視線を向ける。前髪の隙間から覗くその目は、獲物を射るような、鋭い眼光を持った目だった。
けれど戯張はそれに怯まず、真っ直ぐにカガイを見据える。
「ーー樂幹さんたちがそんな真似をするなんて、ありえないんだ……!」
戯張は絞り出すような声をあげた。
あの日見た、目を覆いたくなる光景が戯張の脳裏に浮かぶ。
あの人たちが、そんな卑劣な真似ができるなど思えなかった。
ただ事ではない様子の戯張を見て、カガイが僅かに眉をしかめたとき、鳶が声をあげる。
「合図だ……」
その声に気付いた戯張とカガイは、鳶が見ている方向の空に目を向ける。
遠い空に赤みを含んだ一本の細い狼煙が見えた。
◇
「巌鉄様、蜘蛛たち斥候隊からの合図です!」
伝令からの声に巌鉄は空を見る。
そして頷くと、声を発すべく口を開いた。




