戯張の決意
「稜迦、身体は辛くないか?」
戯張は稜迦の前に腰を降ろしながら心配そうに声をかける。
稜迦は小さく頷き笑みを見せるが、すぐに不安を浮かべた顔をして戯張を見た。
「うん、大丈夫……ありがとう……義兄さんにも沢山迷惑をかけてしまって……義兄さんこそ体調は……? 顔色が良くない……」
稜迦がそっと両手を静かに戯張へ伸ばすと、戯張も両手を上げてその手を取った。
やつれてしまったと思う。
稜迦の記憶の中にある、故郷で見ていた頃の姿と比べて、痩せてしまった戯張の身体を見ると胸が締め付けられた。さぞや苦労があったのだろう。
けれど愛嬌のある顔はそのまま変わることなく、今も故郷にいた記憶のまま稜迦を見つめてくれる事がとても嬉しくて、泣きたくなり、義兄のかさついた温かい手を少し力を込めて握る。
戯張は握りあっている手に視線を落とすと、息を吐くように喋り出した。
「ごめんな、稜迦……こうやって会えたのに、なかなか話す時間がなくて……お前はきっと何故と思っているんだろうな……」
稜迦は口を開くが咄嗟に言葉が出なかった。息を一度飲み込んで、恐る恐る声を出す。その声は微かに震えていた。
「……義兄さんに何があったの? ……何故姉さんたちのもとへ帰れないの?」
稜迦があまりにもすがるような声を出したせいなのか、戯張の顔は辛そうに歪んだ。
そんな顔を目にすると、先程よりも戯張の手を握る力が知らない内に強くなる。
争いが終結して、こうして命があるのだから何よりも優先して故郷に、誰だって家族のもとに帰るはずなのだ。それができないと戯張は言う。
そもそも義兄が來郷と共にいることが謎だった。何か難しい理由があって戯張はここから離れられないのか。
ただ、その理由を訊かなければならないと思うのと同時に、稜迦は心の奥底で訊くことがどこか恐ろしいとも感じていた。
鼓動が少しばかり速くなる。
「……稜迦、お前を拐い、今追われている黎国兵たちは……あの人たちは、もともと俺が配属されていた隊の……仲間なんだ」
戯張がぽつりと話し出す。
稜迦は一瞬息が詰まり、真っ直ぐに戯張を見ながら目を微かに見開いた。
「あの戦の中で俺が生き残れたのは、あの人たちがいてくれたから……俺が恐怖で敵に背を向けずにいられたのも、あの人たちのおかげなんだ……」
戯張は静かに話し続ける。その目がどこか遠い場所を見つめているように感じるのは、記憶を思い返しているからなのか。
「戦が終わって、隊の中で生き残れて……本当は楊翠たちのもとに帰ろうとしたんだ、けれど……」
稜迦は黙ったまま聞き続ける。戯張の顔はどこか暗く、俯いて喋っていた。
「稜迦、俺は一度死にかけたんだ」
「え!?」
無事な姿の戯張を目の前にしても、死にかけたなどと口にされては心臓が止まりそうになる。どこか大きな怪我を負っていたのかと思い、稜迦は戯張の身体をキョロキョロと見回した。
「いや、違うんだ稜迦、死ぬような怪我を負ったわけじゃない……ただ殺されそうになったところを、樂幹さんに助けられて……隊を指揮していた人に救われたんだ、あの人のお陰で命がある」
樂幹。
稜迦はその名前をどこかで聞いた覚えがあった。ただ、どこで聞いて覚えていたのか、ぼんやりとしていて思い出せない。
「あの人の故郷は……戦で焼かれて、家族も失って……他の仲間たちも同じだった……俺はずっとそんな光景を目にしてきて……あの人たちを見捨てる事ができなかった……だから」
「義兄さん……!」
稜迦は思わず声を出した。まさかと思った。
戯張はそこで俯いていた顔を上げて稜迦を見る。どこか辛そうな顔をしていたが、その目には頑なな意志があるように思えた。その目に稜迦の身体は凍る。
「俺はあの人たちを止めたい。あんな……死にに行くような真似を、どうにかしてあの人たちの復讐を止めたいんだ……死なせたくない……!」
戯張は強い口調で喋る。対して稜迦は瞬きもせずに、細々とした声を出した。
「……だから、ここに……?」
「ここにいるのは偶然なんだ。……俺一人ではあの人たちを止めれなかった……どうしようもできなかったところを鳶さんに拾われて、……運が良かったのかもしれない……事情を話して力を貸して貰おうと……けれど、こんな事態になってしまって……」
つまり戯張は隊の仲間だった者たちを止める為に未だ故郷に帰らず、來郷の人々と共にその人たちを追っているのだと言っている。
稜迦は言葉を失った。
自分を拐ったあの男たちを思い出す。あの恐ろしい人たちと戯張が仲間だったなど信じられない。
うまく息を吐けないまま、稜迦は細かく震える口を開いた。
「義兄さん……でも、でも、そんなの……義兄さんの身に何かあったら……」
「稜迦……」
「姉さんはもうお腹も大きくて……元気に振る舞っていたけれど、義兄さんがいなくて……どんなに……」
戯張の表情がどんどんと悲しそうに歪んでいく。稜迦はその顔に心の痛みを感じたが、言葉は止まらなかった。
止めれなかった。
「佳毘だって義兄さんの帰りをずっと……あんなに小さいのに、ずっと耐えてて……義兄さんがいなくて泣くことだってあるの……!」
いつの間にか戯張の目は赤く滲んでいた。
稜迦も視界が歪んでいく。咽の奥が詰まって痛んだ。
稜迦の知らない戯張の決意があるのだろう。戦の中で自分の命を救ったという人たちを、どうにかして死なせたくない気持ちも理解できる。けれど、納得などできるはずもなかった。
霞む意識の中で見た、あの淀んだ目をした男たちが脳裏に浮かぶ。顔に傷を残していた男の重い声が頭の中で木霊していた。恐ろしく、悲しい言葉だった。
「黄桓様が……姉さんたちの命を保証してくれた、けど……義兄さんが無事に帰らなかったら、姉さんたちはどんな思いをすると……! お願い、義兄さん……お願い……!」
稜迦は静かに声を荒らげた。怒りもあったのかもしれない。戯張が無事であるようにと、どれほど祈ったか。けれど、命が無事であったというのに、戯張はまだ戦いに身を置くと言う。その戯張の目にある、どうしようもない決意の色を消したかった。
「……すまない、稜迦……すまない……」
戯張は耐えていたであろう涙を、とうとう流した。
稜迦は弱々しく頭を振る。戯張の中では姉たちの存在より、かつての仲間たちが大事なのか。己の命より。
そんな暗く絶望を纏った思いが、稜迦の中を埋めていく。
話の間、決して離さなかった戯張の手を握っていた自分の手が冷たく震える。
「義兄さん……お願い……姉さんたちのともへ、帰って……」
けれど稜迦の言葉は戯張に届くことはなかった。静かに泣き続ける戯張の口から出る声は、すまないと言う謝罪の言葉のみだった。
戯張の決意を変えることができない。稜迦は愕然とする。なぜ、どうして、と叫びたかった。
感情のまま、戯張に向けて泣き叫んでしまおうか。姉たちがどんな思いで戯張の帰りを待っているかを。
そう思って口を開こうとするのに、息が詰まり声が出て来ない。目を伏せた戯張の顔がとても遠いところにあるように思えた。
「……可能性は無いぞ……」
低い声が響く。稜迦が力なく声のした方に顔を向けると、隅に座り込み、今まで静かに話を聞いていたカガイが見えた。
「……奴らの罪は重い。命を助けたいと思っているのなら、諦めろ……」
「……それでも……っ……最後まで……」
カガイの言葉に、戯張は振り向かなかった。涙を流しながら俯き、絞り出すような声を出す。
稜迦の手を握っている戯張の手は、稜迦以上に震えていた。
稜迦は呆然として、動けない。
最後に故郷で見た姉の姿が、頭から離れなかった。




