交じりあう
冷気が顔を撫でている。
稜迦は身体に感じる痛みと、喉の渇きで目を覚ました。
一度大きく息を吸い込んで、目を開ける。ぼやける視界に入ったのは天幕の天井で、瞬きをゆっくり繰り返すと色は鮮明に見えてきた。薄暗い今は朝方なのか夜になろうとしているのか分からない。
稜迦は息を少しずつ吐きながら、顔を横にずらす。
そうしたら自分のすぐ傍に、カガイがうつ伏せで横たわっているのが目に入って、稜迦は驚きのあまりに身体が一切動かなくなった。
稜迦とは別の寝床が作られており、カガイはそこで眠っていて、身体の上には毛皮が掛けられている。
一瞬、稜迦は息をするのも忘れていて、我に返ると自分の大きく鳴っている心臓を宥めた。
カガイがここにいるという事は、もしやカガイはあの後、動けなくなってしまったのだろうか。
稜迦は重い身体を鼓舞し、自身の寝床から這いずり出てカガイに近付いていく。
カガイが規則正しく息をしているのを確認して胸を撫で下ろすことができた。
稜迦は痛まない方の腕をゆっくりと動かして、カガイのぼさぼさの前髪を掻き分ける。そして優しく額に手を置いた。
まだカガイの額は熱く、熱は下がっていないのだろう。それでも寝息は乱れておらず、顔は険しくなかったので、最初の時のような苦しさは過ぎてくれたのだろうかと、稜迦はカガイの額から手を離しながら思う。
稜迦は身体の痛みを堪えて起き上がり、カガイの身体からずれていた毛皮をきちんと掛け直す。
カガイの背中に巻かれている白い布から滲み出ている血が痛々しくて、稜迦の胸の内はズキズキと締め付けられた。
暗い顔をしてカガイを見ていると、その目がうっすらと開いたので、稜迦の心臓は跳ねる。
「あ……カ、ガ……」
咄嗟に声を出そうとすると、喉が張り付いているような感覚がして掠れた声が出る。稜迦はゴホゴホと咳き込んでしまった。
薄く目を開けたままのカガイは視線をゆっくりと稜迦に向ける。
涙目になっている稜迦もカガイを見た。
互いに言葉も無いまましばらく目を合わせた時間が続く。どれ程そうしていたのか分からないが、カガイが腕をのそりと動かしたので、稜迦はカガイの目から視線を外した。
ゆっくりと動くカガイの腕を目で追う。
するとカガイは稜迦が眠っていた寝床を指さした。
「……戻れ……」
一言、息を吐くように低い声で呟くと、カガイはそのまま目を閉じる。
「あ……」
閉じる瞼を追いかけるように、稜迦はカガイの顔を慌てて覗きこんだ。もう一度目を開ける気配はなく、ゆっくりとした寝息をたてている。
稜迦はしばらくカガイの顔を見続けて、近くにあった手拭いでカガイの額の汗を拭ってから、よろよろと自分の寝床へと戻る。
大きく長い息を静かに吐いて目を閉じると、すぐに意識は落ちた。
◇
どこかでくぐもった声が聞こえてくる。
稜迦はハッと目を覚ました。
慌てて視線を巡らすと周りはすっかり明るくなっており、天幕の外で人々が行き交う気配がする。すぐに横で眠っている筈のカガイに目をやるが、そこに姿はなかった。
稜迦の胸に不安が襲ってきて、よろよろと起き上がり、きょろきょろと頭を動かしてカガイの姿を探すが、やはりどこにもいない。
カガイが傍にいたのは、もしや夢だったのかと稜迦は混乱する。でも確かにこの手でカガイの額に触れて、声を聞いた筈だった。
どちらにしろ、カガイの姿が見えない事が稜迦の心を騒がせた。
カガイを探さなくてはいけない。あのような大きな怪我を負っていて、今どこにいるのか。
稜迦が身体に力を入れて立ち上がろうとした丁度その時、天幕の覆いが開く。
稜迦が気付いて顔を上げると、そこにカガイがいた。
身体に白い布を巻いている状態で、平然と立っているように見える。
「ーーっ、カ……」
稜迦はカガイの名を呼ぼうとするが、カガイがのしのしと近付いて来たので、思わず気圧されてしまい言葉を詰まらせる。
カガイは稜迦のすぐ傍まで来ると、胡座をかいて座り込み、じっと稜迦の顔を見つめてきた。不安が混じる表情を浮かべていた稜迦は、ヌッと伸びて来たカガイの手に身体が硬直する。
「……あ」
カガイの手が首筋に触れたので、稜迦は微かに声を漏らした。首筋にあった手はしばらくして稜迦の手首に移ると、巻いてあった布をぐるぐるとほどき始める。
慌てながらもカガイのされるがままになっていた稜迦は、見えた自分の手首の傷に顔をしかめた。
赤黒く変色している肌の上には生々しい擦り傷が幾つもあって、今もズキズキと痛んでいる。
それをカガイに見られるのが嫌で、稜迦は反射的に手を引っ込めようとするが、カガイの手がそれを許さなかった。
手首を避け、稜迦の腕をカガイの大きな手が握り込む。カガイの僅かな力だけで稜迦の腕は動けなくなった。
カガイは何かを浸した布で稜迦の手首の傷を拭い出す。稜迦は染みたその痛さに息を詰まらせた。涙目になって、手首を拭うカガイの手を見つめながら耐える。
稜迦は最初気付かなかったが、カガイは新しい布と薬のようなものを手に持って天幕に入って来ていた。
もしや自分の治療をしてくれる為に、カガイはここから出て、これらを持って来てくれたのだろうか。
稜迦はカガイの身体に巻かれている白い布を目に入れて、痛ましい顔になる。
自分の傷よりも、カガイの怪我の状態の方が気になった。
「カガイ様……あの、カガイ様の怪我は……」
「構うな……」
カガイに短く答えられて、稜迦はグッと唇をかんだ。
突き放されたような返事をされると、やはり怖じ気づく。けれど、構わない事なんてできやしないのだ。
意識を失う程の大怪我を負って、大丈夫な訳が無いのに、それを気にしない事など、できやしない。
言葉を詰まらせている場合ではない。
稜迦は意を決して、もう一度口を開こうとした時、カガイが声を出してきた。
「……脱げ」
稜迦は思わずカガイを凝視する。耳を疑ったが確かに今、カガイは稜迦に向かって脱げと言った。
一瞬、頭が働かなくなる。脱ぐというのは服の事だろうか。
いや、服しかないのだ。
稜迦はまさかと思い、青褪めていた顔をさらに青くする。まさかカガイは今、致す気になったのだろうか。
そんな、と稜迦は愕然とする。
「……肩の傷を見せろ」
身体が固まったままの稜迦を気にする事なく、変わらない口調でカガイは喋る。
いつの間にか手首の治療は済んでいて、新しい布が巻かれていた。
我に返った稜迦は一気に顔を赤くする。何と言えばいいのか分からない。自分が恥ずかしくなって消え入りたい気持ちになった。
「…………後ろを向け」
稜迦は言われるがまま、よろよろと身体を後ろに向けた。帯を緩くして肩から服をずらす。
今まで自分でもきちんと目にしていなかったが、そこにも白い布が巻かれていた。薄くだが赤く滲んでいる箇所がある。
カガイの手が伸びて来て、布を外しだす。背を向けているとはいえ、気恥ずかしさで稜迦の顔は赤いままだった。
さらけ出された肩の傷を、カガイは手首と同じように布で拭う。
「ーーっ!」
手首のときとは比にならない痛みが走って、稜迦の身体は跳ねた。堪えていた声が漏れそうになって、歯を食い縛る。空気は冷たいのにじんわりと額に汗が浮いた。
カガイが新しい布を巻いてくれた後も、脈を打っているかのようにそこは痛んだ。
ふいにカガイから小さな声が漏れる。
呼ばれた気がして、帯を直しながら稜迦が振り返えると、カガイは静かに稜迦を見ていた。
いつもの無表情だったが、その目と視線を合わせると稜迦はどきりとして、胸が騒ぐ。
「カガイ様……あ、あの……カガイ様の……カガイ様の、怪我は……わたしの、せいで……わたしが……」
上手く纏まらない頭で言葉を出したものだから、稜迦の言葉は辿々しい。自分の不甲斐なさが腹立たしくなる。
いつもこうだった。こんな、つぎはぎのような言葉を伝えたい訳じゃなかった。
そんな稜迦を黙ったまま見ていたカガイが、ゆっくりと喋りだす。
「……お前の傷は……」
「……え」
「……俺の、失態だ……」
「……カ、……」
「……俺は……」
カガイの低い声に稜迦の胸は締め付けられた。胸の奥からせり上がって来るものがある。また視界が滲んだ。
違う。すべては自分のせいだ。自分の起こした行動が、カガイをも傷付けた。
稜迦は頭を横に振る。けれど、それだけでは伝わらない。声を出さなくてはいけなかった。
「……お前の気持ちを汲み取ってやる事が、ずっとできずにいる……」
「……ち……」
「……俺は……」
「……違います!」
稜迦は声を出した。やっと出せた。
一緒になって、目から涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「違います……! 違うんです……ごめんなさい、カガイ様……ごめんなさい……! すべてわたしのせいです! そのせいで……カガイ様まで、こんな……」
カガイから労りの言葉を貰う資格など、無かった。
ずっと信じきれずにいたのだ。この人を。
カガイとの距離を埋めたいと願っていた筈なのに、結局のところソレができずにいた。
思っているだけで、カガイと深く繋がっていこうとしなかったせいだ。
後悔しかない。
息さえままならずに、俯いてしまって泣き続ける。
「……俺は……」
カガイの低い声が聞こえて、稜迦はしゃくりあげながら俯いていた顔を上げる。
カガイは変わらず、稜迦を見つめていた。
「……人の、機微を考える事が……できん……お前の心のうちを、解ってやれん……」
カガイはゆっくりと手を伸ばして、稜迦の涙を一粒拭った。
「……言いたいことは、言え……俺は、それを……聞く事ぐらいなら、できる……」
カガイはそこで大きく息を吸い込んで、そして長く吐き出した。
やはり身体が辛いのだ。カガイの手はとても熱かった。
稜迦は震える両手で、涙を拭ってくれたカガイの大きな手を包み込む。
出てくる言葉は、考えずに口から出てきた。
「カガイ様……わ、わたしは、カガイ様が怪我を負うと……すごく……つ、辛くて……」
包み込んだ手にポタポタと涙が落ちる。
「か、構うな……なんて、どうか……言わないで……あ、あの時だって……カガイ様、が……怪我をすると思って……こ、怖かったんです……い、いらない、心配なんて、言わない、で……カ、カガイ様を情けないと思って、言ったんじゃ、ありません……」
関所に辿り着く前、蜘蛛に会った時の伝わらなかった思いだった。
「……解った……」
泣きながら伝える稜迦の言葉に、カガイは低い声で答える。
「……わ、わたし……ずっと、カガイ様に言え……言えずに、いて……庶子の出で……わ、わたし……わたし、カガイ様を……信じられずに……」
稜迦はそこで言葉に詰まる。けれど、カガイは黙って稜迦に耳を傾けていた。先を促す事もしなければ、聞く事を止めようとはしない。
稜迦はそれがとても安心できた。だから、声を出し続ける事ができる。
「……わ、わたし……は、父に会った事なんて……無くて……ずっと市井で暮らしていて……だから……上の方々のような振る舞いも、作法も、なにも……分からなくって……それが……」
「……俺は……もともと、ならず者だ……そんなものを気にした覚えは無い……」
ずっと黙って聞いていたカガイが口を開いた。
「……親父殿の申し出を、俺が受けた……それだけだ……お前が煩う必要は、無い……」
稜迦はカガイの手を包んでいた両手に、ほんの少しだけ力を入れる。
最初からカガイは稜迦に伝えていた。
気にするなと言ってくれていたのだ。
「……お前の、飯は旨い……」
カガイがぼそりと呟いた声に、稜迦は目を大きく見開く。
「……俺は、それでいい……」
カガイの不器用さが見えた気がした。きっと稜迦を褒めてくれているのだろう。
流れていた涙が、更に増えた。
「……他には……」
「……え」
「……他には、無いのか……? 言え……」
カガイは空いている方の手で稜迦の涙を拭っていく。稜迦は瞬きもせず、カガイを見つめた。
「……カガイ様、に、義兄さんが、義兄さんが見つかりました……」
「……ああ」
「……ね、姉さんも……佳毘も、どれだけ……喜ぶか……」
カガイは稜迦の顔をじっと見る。
稜迦は言葉を切って口を閉じた。しばらく互いに無言になる。
けれど、カガイは姿勢を崩さない。稜迦の顔を見続けて、稜迦が喋りだすのを待っている。
その目は、見透かしていると思えた。稜迦の胸の奥底に押し込めていた悲鳴を。
「……カガイ様……」
「……なんだ……?」
見つめあったまま、稜迦は小さくカガイの名を呼んだ。カガイは答えてくれる。
「……ね、姉さんに……姉さんに、伝えたい……」
「……ああ……」
「……姉さんに……姉さんに……わたし……」
カガイが、また稜迦の涙を拭う。
稜迦はカガイに向かって、堰が切れたように泣き叫んでいた。
「……ね、姉さんに……姉さんに伝えたい……! うぅ……会って伝えたいのに! あ、ああぁ……佳毘にだって……! あんなに小さいのに! 会いたい……! 会いたい! う、うああぁ、あ……母さん! 母さんに……会いたい……! あ、あんな別れ方、あんな別れ方っ……! ど、どうして……! どうして……!」
稜迦はカガイの手を握り締めたまま、泣き伏した。
絶対に口に出せなかった言葉だった。
絶対にカガイに言ってはならない言葉だった。
けれど、もう止めようがなかった。溜まっていた膿を吐き続ける。朱国に嫁いで、誰にも言えなかった叫びを。
本当に自分は弱い。卑怯者だ。
稜迦に心を砕いてくれようとしているカガイに対しての裏切りだと思った。
泣き止むまでの長い時間、稜迦はずっとカガイに謝り続ける。
カガイはその場から動かず、決して稜迦から目を離さなかった。




