軋んだ叫び
胸の奥がざわついて、稜迦は目を閉じても、眠りに付く事ができなかった。
ただ、身体は酷く疲れているので、意識を落とす寸前までいくのだが、手首の傷の痛みと、カガイの事を思い出して、ハッと意識を起こしてしまう。それをもう何度も繰り返していた。
とても寒い筈なのに、嫌な汗が流れる。
稜迦はよろよろと身体を起こして、戯張が置いていってくれた水差しから、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。
そして、霞む意識のまま天幕の入り口に視線をやる。周りはすっかり暗くなっていた。
戯張は稜迦の身体を支えながら横にさせ、稜迦が落ち着くまで傍にいると、そのまま静かに天幕から外に出て行った。
あれからどれ程の時間が過ぎているのか分からないが、戯張は天幕に戻って来てはいない。それがとても不安になって、稜迦はふらふらと立ち上がった。
多少ではあるが、足に力は入る。最初に目覚めた時のように倒れ込むような事は無かったが、それでも、ゆっくりとしか足は進まなかった。
ようやく入り口まで来て、覆いから隙間を開き、外を見る。
隙間から冷たい空気が流れ込んできて、稜迦は身を震わす。外は暗闇で、辺りが良く見えない。ただ静かにしんしんと雪が降っていた。
そのまま外に出るのは憚れたので、稜迦はまたゆっくりと歩いて寝床に戻った。ひとつ息を吐いて、座り込む。
ここの場所が、カガイがいるであろう関所までどれ程の距離かは分からないが、もう知らせは届いているのだろうか。届いたのであれば、カガイは此方までやって来るのだろうか。それはどれくらいの時間がかかるのだろう。
稜迦は緩慢な動きで、カガイの毛皮を自分の身体に掛けた。
誰でもいい。カガイは決して稜迦を捨てるような真似などしないと、言って欲しい。そのような男ではないと。稜迦だって信じたいのだ。そんな筈はないと心から強く思いたい。でも、そう強く思えるほどカガイとの結びつきが確かなものではなかった。一度心に入り込んでしまった疑惑はどんどんと稜迦を蝕んでしまっていた。
どうしたらいいのだろう……。どうしたら……。
また稜迦が暗い思考の中に堕ちようとした時、遠くの方から人のざわめきが聞こえてきた。
そのざわめきは段々と大きくなっていく。稜迦は鳶が言っていた本隊とやらが帰って来たのかと思った。
けれどそのざわめきに怒声や刃同士がぶつかり合う音が混じりあい、稜迦は血の気がサァと引いた。
なにか良からぬ事が起きている。
震える身体を起こして、よろよろと天幕の入り口まで歩く。戯張の身がただただ心配になったのだ。
ここから動かない方が良いのだろうが、不安が勝り、稜迦は天幕の覆いから外に出た。
稜迦が居た天幕より、少し先の場所で火の手が上がっているのが目に入る。違う天幕が燃えているようだった。
より一層、戯張の身が心配になり、どうするべきかと稜迦が不安に駆られた時、遠くから此方に走って来る人影が見えた。
戯張だった。額に汗を浮かべた戯張が焦った様子で走って来る。稜迦は戯張の無事な姿を見て安堵するが、それも束の間だった。
「稜迦!」
戯張は大きい声で叫ぶと、稜迦の身体を抱えて持ち上げる。稜迦は戯張のただならぬ様子に度肝を抜いて、震える声で問いかけた。
「に、義兄さん……! な、なにが……?」
「分からない! 何者かの襲撃だと思う!」
襲撃と聞いて稜迦の心臓は跳ねた。最悪の想像が頭を過る。カガイの後ろ姿が頭の中で見えた。
戯張は稜迦を抱き抱えながら走り出す。
次の瞬間、どこからか戯張の足元に矢が飛んで来た。戯張は小さく「うっ」と声を出して、体勢を崩す。稜迦は心臓が跳ね、悲鳴をあげた。
「義兄さん!」
「大丈夫! かすっただけだ!」
戯張はよろめきながらも、稜迦の身体を決して離さない。稜迦はそれが耐えれなかった。自分のせいで戯張が危険な目に合ってしまうと思った。
「義兄さん! 降ろして! お願い、義兄さんが危なくなる!」
火の手から遠ざかる為、走る戯張の耳元で稜迦は叫ぶが、戯張はそれを聞かなかった。離すどころか弱々しく身体を動かす稜迦を、さらに強く抱き抱える。
「駄目だ、稜迦に何かあったら楊翠が泣いちまうよ」
戯張の言葉に稜迦はボロボロと泣き出してしまう。戯張の身に何かあったら、それこそ楊翠は泣くのだ。
「駄目……! お願い、降ろして……!」
顔をくしゃくしゃにして、また稜迦が泣き叫んだ時、二人の目の前に大きな影が走り出て来た。
「うわっ……!」
戯張はその大きな影に先を阻まれ、足を止める。稜迦がその影を目に入れようとして振り向くと、大きく視界が揺れた。
短い呻き声を出した戯張がその場から蹴り飛ばされる姿が目に入る。稜迦は戯張の手から離れ、その大きな影に支えられていた。
戯張が蹴り飛ばされたのを見て、稜迦は鋭い悲鳴をあげた。戯張に駆け寄ろうとするが、力の入らない身体に巻き付いている腕がある。その腕の主を見上げた瞬間、稜迦は息をするのも忘れた。
カガイだった。
カガイは戯張の方を見て、そして稜迦を見下ろす。そのカガイと目が合って、稜迦は時が止まったように身体が固まった。
何者かの襲撃があった今、カガイがこの場にいるのは、やはりそういう事だったのか。
稜迦は微かな抵抗のように、絶望の色を顔に浮かべて、小さく首を横に振った。
「……い……、カ……」
張り付いた喉から出るのは、言葉になっていない声だった。思考ができずにいると、咳き込む戯張の声が聞こえてくる。それで稜迦の意識は引き戻された。
「稜迦……う……ぐぅ……誰だ……? 返せぇ……!」
戯張がふらふらと立ち上がり、手に持っていた槍をカガイに構える。稜迦は血の気が引いた。
カガイは稜迦から腕を離し、その場に座り込ませると、手斧を持って戯張へと歩き出す。
稜迦は小さく悲鳴をあげて、渾身の力を振り絞り、無我夢中でカガイの身体を止めようとした。
「やめて! やめてください! お願いします! その人を殺さないで! お願い!」
悲鳴に近い叫びをあげながら、稜迦はカガイの身体に抱き付いた。けれどそこまでが限界で、そのままカガイにしがみつきながら、ずるずると稜迦の身体はその場にへたり込む。
「やめて……! お願い……! 義兄さんを、殺さないでぇ……! お願いします……!」
咽び泣きながら稜迦はカガイに懇願する。
カガイは目を僅かに見開いて、稜迦を見下ろしていたが、混乱しきっている稜迦にはカガイの表情の変化を感じる事ができない。
カガイが戯張を殺してしまう、ただそれだけしか頭になかった。
「稜迦!」
戯張の叫び声が耳に届く。その耳に風を切る何かが通り過ぎた音が聞こえた。
すぐ近くの地面に矢が突き刺さる。それと同時に稜迦の肩から血が溢れ、服を朱に染めていった。
稜迦は痛さを感じる前に、戯張が叫んでいる姿が目に入る。どこからか矢を射る音が聞こえた気がした。
ただそれよりも速く、カガイが稜迦の後ろに身体を回り込ませ、その背を盾にして稜迦に覆い被さる。
稜迦は鈍い振動をカガイの身体から二度感じた。そして、カガイの口から苦しそうな呻き声が出る。
カガイのそんな声を聞いた事がなかった稜迦は目を見開いて、すぐ近くにあるカガイの顔を見た。
顔を苦悶に歪めているカガイと目が合う。稜迦は声を出せずに、視線を動かしてカガイの背の方を見る。
僅かにしか目に入らないが、その背に矢が二本突き刺さっていた。
稜迦は悲痛な叫び声をあげる。
叫びは無意識に口から出ていて、止めようと思ってもその声は止まらなかった。
「ーーっいやああぁぁ! カガイ様! カガイ様!」
ぐらりと身体をよろめかせたカガイは、稜迦を腕に抱えたまま片手を地面に付く。カガイの苦しそうな乱れた息遣いが聞こえた。
また矢をつがえる音が耳に入る。矢を射る者の姿こそ、カガイの身体が遮って見えないが、その矢はカガイに向けて放たれる矢だと分かる。稜迦は咄嗟に叫んでいた。
「いや! やめて!」
「将軍!」
「戯張!」
稜迦の叫びと共に、様々な方角から声が響いた。
カガイの背の向こうで、幾人かの刃を鳴らす音と叫び声が聞こえてくる。その中から一人の女が飛び出して来て、カガイへと駆け寄った。
「いかん! カガイ将軍! ご無事か!?」
「稜迦! 大丈夫か!?」
羊雀のカガイに対しての声と、その場に現れた鳶に身体を支えられて、稜迦に駆け寄り叫ぶ戯張の声とが重なった。
そのどちらも稜迦の耳に入っていたが、どちらにも反応できない。カガイから目を離せなかった。
「あ……ああぁ……い、いや……カ、カガイ様……!」
カガイの身体から血の匂いがした。稜迦の頭の中で後悔と焦りと恐怖が渦巻く。
火の手は夜の闇を切り裂いて、降り続ける雪をも赤く染めた。




