疑心と涙
どこからか、冷たい風が吹いて来る。
自分のいる場所がひどく寒くて、稜迦はうっすらと目を覚ました。
頭の中が霧がかっているように感じ、力無く何度か瞬きをする。すると、身体に鈍痛が走り、稜迦の意識は一気に覚醒した。
「あ……! うぅ……!」
身体に感じた痛みに耐える為、稜迦は歯を食い縛り、きつく目を閉じる。痛みが若干引くと、硬直していた身体の力を抜いて、浅い息を吐いた。
短い息遣いをしていると、胸の奥が気持ち悪くなり、稜迦は吐きそうになる。
額にじんわりと汗を浮かべながら、横たえた身体を丸めて、その気持ち悪い感覚が過ぎ去るのをただじっと待った。
身体がカタカタと震える。稜迦は幾分かマシになった身体を僅かに動かして周りを見渡す。
おおよそ長い年月、人の手が入っていない建物なのだろう。稜迦が一人置かれていた狭い部屋はカビ臭く、床の木目から所々枯れた草が飛び出ていた。
稜迦以外にその部屋には何も無い。視線を動かすと、唯一、軋んでいるような扉が見える。冷たい風は扉の隙間から吹き込んで来ていた。
「う……あぁ……」
稜迦は力が入らない身体を鼓舞して、どうにか上半身を起き上がらそうとしたが、後ろ手に縛られている手首がひどく痛んで、瞬く間に元の倒れていた状態に戻ってしまう。きつく縛られている。僅かに手を動かしただけでも、染みるような痛みを感じた。
両足首も同じ様に縛られて、思うように動けない。
稜迦が倒れた先には、カガイが被せてくれた大きな毛皮があった。稜迦は寒さと恐怖で震える身体を、その毛皮にすり寄せる。そして静かに大きく息を出せた。
自分の身に一体何が起こったのか。稜迦は混乱する頭で、意識を失う前の記憶を必死に思い返す。
おそらく、賊か何者かの襲撃があったのだろう。稜迦たちを襲った男たちを思い出す。あの男たちの言葉に稜迦は違和感があった。刃を突き付けられた際、稜迦と果扇に向かって黎国の女はどちらだと訊いたのだ。
何故、そのような事を訊いたのか理由は分からないが、あの場にいた二人を男たちは朱国の女だとは思わず、黎国出身の女だと理解して言葉を発していた。ただ稜迦と果扇、二人共が黎国出身の女だとは理解していなかったように思う。あの場にいる黎国出身の女は一人だけだと認識しているかのような口振りだった。
それは、何故なのか?
何故、男たちは黎国出身の女があの場にいる事を知っていたのか?
考えたが、はやり稜迦には分からなかった。もともと今の自分の状態から、冷静に物事を考えられなかった。
稜迦は力無く、息を吐き出す。
トウシナは無事なのだろうか? 稜迦の意識が途絶える寸前、男たちに斬り掛かられていたように見えた。どうか、どうか、無事でいて欲しい。
果扇はどうしたのだろうか。この場にいないだけで、あの人も捕らわれているのか? それとも無事に賊の手から逃れられたのだろうか。後者だといい。
そして最後にカガイの後ろ姿が脳裏に甦る。稜迦は思わず目に涙を浮かべた。
あの騒ぎの中、カガイは危ない目にあってはいないだろうか。怪我も満足に治っていなかった。
それとも稜迦のこんな心配もカガイにとっては杞憂だろうか。ともかく無事でいて欲しい。
大きな毛皮に顔を埋めて、稜迦はそのまま暫く動かなかった。
◇
ーー荒々しい足音が聞こえて来る。稜迦は身体を固くして、顔を扉の方へ向けた。
複数の足音は段々と大きくなり、くぐもった誰かの喋り声も耳に入ってくる。そしてとうとう、凝視していた扉がギィと怪しい音を鳴らして開く。
扉を開いて部屋に入って来たのは、薄汚れた格好をした二人の男たちだった。
稜迦は恐怖を隠せないまま、顔を強張らせて男たちを怯えた目で見る。心臓の鼓動が速くうるさいと言うのに、冷えて凍り付いているようにも思えた。
淀んだ目をした男たちは、稜迦を一瞥すると遠慮も無く近付いて来る。一人の男が腰に下げていた短剣を鞘から抜いた。
稜迦の身体から血の気が引いて、歯が噛み合わずカチカチと音が鳴る。うまく息ができないまま、声を出せずにいると、男が短剣を使って稜迦を縛っていた足首の縄を切った。
稜迦が、え? と思うのも束の間、ぐいっと縛られている手首の縄を持たれて、無理矢理その場へと立たされる。
「い! ……あぁ!」
手首に感じた余りの痛みに、稜迦は悲鳴にも似た呻き声を出した。
「おい……!」
「構うことはねぇ……おら、歩きな!」
稜迦の声に一人の男が慌てたが、手首を縛っている縄を持った男はそれに構う事無く、稜迦を部屋の外へと引っ張り、歩かせる。
足に力が入らない稜迦は躓きそうになるが、男がそれを許さない。より強く手首の縄を握られた。
手首に走る激痛に耐えながら、稜迦は男に連れられて進む道を歩いた。
そこは古く、取り残された拠点のようだった。最初に閉じ込められていた部屋から出ると、ボロボロに崩れている塀や、その塀に囲われるように廃墟と化した背の低い建物が点々と見える。塀の外は森なのか、鬱蒼と生えている木々のせいで日の光が満足に届いて来ない。
稜迦の身体は更に冷えて、弱々しく息を吐いた。視界の隅がチカチカと霞む。
縄を持った男は稜迦を引き摺るようにして歩く。見張りなのか、所々に男たちが立っていて、稜迦を興味深く、遠目に見つめていた。それがまるで晒されているように感じて、稜迦は目を伏せてその物騒な男たちを視界の中に入れないようにする。
恐ろしくて、気を失いそうだった。
すると、また身体の気持ち悪さがぶり返して来て、稜迦の顔色は真っ青になる。その時、目的の場所に着いたのか、男が歩みを止めて、ある扉の前で声を出した。
「連れて来ました」
男がそう言うと、中から扉が開かれる。稜迦はその部屋へと連れ込まれた。
稜迦が最初にいた部屋よりも若干広いだろうと思われるその部屋の中には、武装した男たちが四人おり、鋭い視線で稜迦を見据えていた。
「……その女か?」
少しばかり年嵩の男が疑問の声を出す。その言葉の中には僅かばかり不安の色が混じっていた。
稜迦は訳も分からないまま、ガタガタと身体を震わす。稜迦の後ろにいる男が手首の縄を持っていなかったら、直ぐ様その場に倒れてしまいそうだった。
「お嬢さん……」
部屋の一番奥で腰掛けていた男が声をかけてくる。稜迦はびくりと肩を震わせて、その男を恐る恐る見た。
鋭利な刃物の様な男だった。頬は痩けており、顔の中央に斬られた痕であろう古傷があった。
まるで狩人に追い込められた狼のような雰囲気を纏っている男は、重い声を出す。
「あんたは……鴛鴦之契とか言うやつで、黎国から嫁いで来た女かい?」
稜迦は男に問われたが、怯えのあまり声が出なかった。恐怖で頭が動かない。
「黎国の女かって訊いてんだよっ!」
口を開かない稜迦に痺れを切らしたのか、髭を生やした熊のような男が怒声をあげた。稜迦は息を飲む。震える声でどうにか返事をした。
「は……は、い……そう、です……」
稜迦の言葉に男たちの緊張が一瞬だけ和らいだように見えた。
「ったく……奴らがヘマしやがったと思ったぜ……」
熊のような男はそう呟いて、舌打ちをする。
「お嬢さん、そう怯えなくてもいい。今すぐあんたを殺そうって訳じゃ無いんだ」
最初に話しかけてきた傷のある男はそう言って来たが、それで稜迦の恐怖が無くなるわけはない。
何故、男たちは稜迦を拐ったのか。鴛鴦之契の事を知っていた。それが関係しているのか? 黎国の女だからといって何があるのか?
疑問だらけだった。稜迦は身体の震えを止められないまま、男の次の言葉を待つ。
「まぁ、そうだろうな……。お嬢さん、俺たちはあんたと同じ、黎の人間だ」
僅かに苦く笑みを浮かべた男は、唐突に言葉を出した。稜迦は驚きで目を見開く。故郷の人間が何故こんな場所にいるのか。
けれど、ふと稜迦は思い出す。
そうだ、あの時の蜘蛛と名乗った男が言っていた。黎国の残党が動いていると。
もしや、襲撃をかけ、自分を拐ったこの男たちは黎国の兵士たちだった者なのか?
そうだとしたら何故? 何故、こんな事をしている? そもそも……何故、稜迦が黎国出身だという以外に、鴛鴦之契で嫁いで来た女だと知っているのか?
「何故……って顔をしているな……。簡単に言うとな、俺たちは朱国に復讐したいんだよ。俺たちの家族と国を奪った奴らを滅茶苦茶にするために、俺たちはここにいるんだ……」
男が放った言葉に、稜迦は唖然とした。
もう、戦は終わっているのだ。もう殺し合って、奪い合う必要は無い。確かに黎国は負けたが、更に戦いを続ける必要がどこにあるのか? 戦で無くしたものは稜迦にだってある。けれど、もうそれは返って来ない。その憤りと悲しみを、まだ男たちは増やしていくのか。
稜迦の固まった表情を見て、男はまた薄く笑う。
「分からないだろうな、分からないでいいさ……。あんたがどう思おうが、変わりはしない。俺たちの復讐にあんたを使わせてもらう」
男の威圧的な物言いに、稜迦の身体は怯む。
男はそんな稜迦を見て、小さく息を洩らした。
「……あんたを不憫だと、同情はしているつもりだ。政略の為に敵国の男に嫁いで、散々、苦労して来たんじゃないか? もともとは貴族だったんだろうに、そんな格好させられてよ」
男の言葉に、稜迦は弱々しく頭を振る。確かに嫁いで来た経緯は最悪のものだったが、稜迦はもともと貴族でもない。苦労したかと言えば、したかも知れないが、男が想像しているであろう苦労はしていない。筈だ。
何度でも思うが、朱国で稜迦が出会った人々は皆、優しい人たちだ。敗国の人間だからと言って貶めたり、蔑んだりしない。遠い地から来た稜迦を気遣ってくれた。そんな人たちが周りにいて、やはり苦労したなんて思えない。
「……い、いいえ……」
稜迦は殆んど無意識に声を出していた。その声は小さく震えていて、聞き取り難かったが、男はぴくりと反応した。
「わ、わた……わたしは、苦労など……」
「こんな状況でも、旦那になった男に遠慮してるのか? ……はぁ……あんまりにも可哀想だな……じゃあ……教えてやるよ」
男はそう言って腕を組む。その隣では熊のような男がペッと唾を吐いた。
「その旦那がな、俺たちにあんたを売ったんだよ」
稜迦は周りの音が一瞬無くなったように感じた。
「まぁ、売ったと言うか、こっちとあっち、互いの利害が一致したんで、あんたを利用する事になった。鴛鴦之契で嫁いで来た女をな」
「おい、あんまりべらべら喋るなよ」
年嵩の男が口を挟む。喋っていた顔に傷のある男は、分かっているというように手を上げる。
「信じられないかい? でもよ、俺たちが襲撃をかけた時、あの場にあんたがいるって教えてくれたのは、あんたの旦那だよ。最初からあの場所にあんたが連れて来られたのは、そう言う計画だったんだ。俺たちがあんたを拐う事もな……可哀想にな、自分の国を売るような男と結婚させられてよ、そして裏切られて……あんたは運が無かったんだ」
稜迦は震える。
カガイの後ろ姿を思い出して、頭から離れない。
売った? 利用? 計画? なんの事を言っているのか?
目の前の男はきっと嘘をついている。信じてはいけない。カガイはそんな事をしない。
けれど……。
けれど……。
稜迦はそう信じきれるほど、カガイを知っているのか。理解しているのか。あんなにもすれ違っているのに。
稜迦をあの場所に連れて行ってくれたのも、義兄を探す為では無くて、この男が言う計画の為?
違う。お願い。こんな事、思わないで。
違う。違う。
辿々しく稜迦の涙を拭ってくれたカガイの手を思い出す。
次から次へと溢れ出る涙を、稜迦は止めれなかった。




