襲撃
すっかり日は暮れていたが、かがり火が焚かれていたので周りを見通せる位の明るさはあった。
稜迦はきょろきょろと頭を動かす。確かにあの人は此方の方角に歩いて行った筈だった。
姿が見当たらない、と思って焦りが湧いたその時に、小さな背が視界に入る。
力無く歩いているその背を追いかけて、稜迦は駆け出した。
稜迦が女にようやく追い付いて、声をかけた場所は、兵舎の隅にある薄暗い馬小屋だった。
「……あ、あの、すみません……」
稜迦はおずおずと声を出す。女は突然声をかけられた事に驚いたのか、弾かれたように振り向いた。
そして稜迦の姿を目に入れた途端、その大きな瞳を見開く。
「と、突然……すみません、あの……先程こちらを見てらしたようだったので……あ、倒れた時の怪我は大事ないでしょうか……?」
稜迦は焦りながら言葉を紡ぐ。少しばかり緊張していた。女の擦りむいていた手をちらりと見ると、そのまま包帯も巻かず、空気に晒されたままの状態が目に入る。
稜迦の言葉に女も小さく息を吐いて、安心したように口を開く。
「……まぁ……! わざわざ、私を追いかけてくださったのですか? ……ありがたいことですわ」
女は、弱々しい声だったが薄い微笑を浮かべて稜迦に答える。女が笑った事に若干安堵できて、稜迦も口許を上げて笑おうとした。
けれど、次に出た女の言葉で表情が凍り付く。
「あぁ……それとも貴方は、逃げて来られたのですか? それとも……何か命令をされて……?」
「…………え?」
稜迦は腹の奥底が一気に冷えた感覚に襲われる。あの時の違和感がまた胸に落ちた。
何と返したらいいのか分からずに、言葉に詰まる。それに気付かない様子で女は静かに続けた。
「先程……一緒にいらっしゃったのは貴方の旦那様でしょうか……?」
「え? あ、はい……そう、です……」
稜迦のぎこちない返事に女は小さく「まぁ」と声を出して驚いている様子を見せる。そして痛ましい表情で稜迦を見た。
「あぁ……あのような野蛮な風貌の方と婚姻を……お可哀想に……そんな身なりをさせられて……」
稜迦は絶句してしまう。目の前のこの人は何を言っているのか一瞬分からなかった。
女は一歩一歩、稜迦に近付いて来る。その顔には安堵が浮かんでおり、ひどく女の容貌が幼く見えた。
「あぁ……けれど、こんな無体を強いられているのが、私だけでは無かったのですね、良かった……!」
女の声は心底安心した様子に聞こえた。
距離を詰めてくる女を気恐ろしく感じてしまい、稜迦は僅かに後ろに下がる。
「私は果扇と申します、貴方は……?」
「あ……稜迦と……申します……」
「私以外の、鴛鴦之契によって嫁がれた方にようやっとお会いできましたわ……他の方々はどのようなお相手に嫁がれて、どのような暮らしをしているのかと、ずっと気になっておりました……見てくださいませ、私もこのようなボロしか与えられないのです……!」
女は悲痛な顔をして口早く喋りだし、腕を広げて自分の格好を稜迦に見せる。
女はボロと言ったが、その格好は平民であったならば、誰もが着ている服装だった。
稜迦もそうだ。黎国で暮らしていた頃から、今のような服を着ていた。いや、今の方が若干良いようにも思える。唯一、豪華な絹の服に身を包んだのは、カガイのもとに嫁いで来て、数日過ごした時のみだった。
「鴛鴦之契とは一体何の為に行われたのでしょう? 私にこのような……! 共に黎国から連れて来た侍女は必要無いと言われて、国に帰されてしまったのです……! そして……そして、私にボロしか着させず、婢のような真似事を……! 今だってあの男は……自分の妻である、私に……馬の世話など……!」
果扇と名乗った女はぶるぶると震えて、耐えきれないように自分の顔を手で覆い隠した。
「お父様とお母様に助けて頂こうと書簡を出しましたのに、まったく返事が来ないのです……! あぁ……全てあの男の差し金ですわ……! こんな凍えるような思いをした事なんて無かったのに……!」
果扇は両手を顔から離して、憎々しげに自分の両手を見る。擦りむいた傷の他にも、あかぎれで痛々しい自分の手を。
「夫となった男が邸の掃除や洗濯などを私にさせるのです……! 使用人がいるにも関わらず……、私がどれほど惨めな思いをしているか……! そしてあの男はそんな私の姿を見て嘲笑うのです! こんな屈辱……もう耐えられません……貴方もでしょう?」
堰が切れたように喋る果扇に、稜迦はすっかり狼狽してしまい、「あ……」としか声を出せなかった。
稜迦の今の生活や服装は稜迦自身が望んでそのようにしているのであって、そしてカガイにしても、特に何かを稜迦に言うことも無く、何ら問題も無いまま過ごしていた。
けれど、鴛鴦之契で嫁いで来た娘たちは、国に仕える高官たちの子女なのだ。そのような娘がボロと言う格好をして、婢のような事をさせられるのは苦痛なのだろう。
果扇の夫である郷怛は、何を思ってそのような事をさせているのだろうか?
そもそも鴛鴦之契とは黎国と朱国の繋がりを深くする為だと聞いている。もし、これで離縁となるのならば、それは果たして大丈夫なものなのだろうか? 否、できるものなのだろうか?
稜迦にしても、その変則的な立場のせいで、最初の頃は国に返されまいかと不安になったり、期待していたりしたが、よくよく考えると、それは政策の意図を蔑ろにする事になるのではと思う。
けれど、ただ稜迦がそう思っているだけであって、婚姻を結んだ後は、全てをその夫婦に委ねられているのかもしれない。
結局は分からない。
ただ、違和感の正体は分かった。果扇は稜迦の身なりを見て、稜迦も自分と同じ様に夫に虐げられているのだと思っているのだ。そして、自分と同じ境遇の者が居たことに安堵し、喜んでいる。
果扇の、ひやりとした両手が稜迦の手を掴む。稜迦の身体が僅かに跳ねた。
「貴方も辛い思いをしてきたのでしょう? 貴方の夫となられたあの方は、武人でしょうか? 恐ろしそうな風貌でしたもの……私の夫も武人なのです……あぁ、本当に野蛮で恐ろしい……あの方が何を考えているのか分からない……。ねぇ、私に良い考えがあるのです」
果扇は嬉々とした顔をして、稜迦を見る。
「公主様を頼りましょう……! 黎国の姫様です。あの方も鴛鴦之契で朱国に嫁がれて来たのですから、きっと私たちの境遇を痛ましく思って助けてくださいますわ……!」
稜迦は口を開けない。何と言えばいいのだろう。話を聞くだけでは、おそらく果扇は救えない。心の糧にも、きっとなりはしないだろう。
果扇は心の底から今の状況を変えたいと願っているのだ。
稜迦と果扇では生まれも育ちも違う。価値観や物の考え方が違うのだ。果扇が辛いと言った事柄を毎日のようにこなして暮らしている女たちは大勢いる。果扇が言う辛さを、甘さや弱さと言う人もいるだろう。けれど果扇が言葉に出さないだけで、もっと辛い事を郷怛に強いられているのかもしれない。果扇の言葉だけで、全てを判断する事は難しい。そうでなくとも、辛いと言っている人に対して、決してそうではないのでは、という言葉は届きにくい。その人にとって自分の感情こそが真実なのだから。
稜迦は狼狽しきった顔で果扇を見る。果扇も何も返して来ない稜迦を不審に思ったのか、眉をひそめた。
丁度その時、警鐘の音が鳴り響いた。
驚いた果扇は稜迦の手を離す。稜迦も驚いて警鐘が鳴っている方角を振り返る。遠い場所から人が騒ぐ声が聞こえて来た。
「な、何が……?」
果扇は不安な顔をして小さく呟く。その声にハッと稜迦は視線を戻すが、果扇の後ろに見えた人影に目を見開く。
「か、果扇さん……!」
稜迦は殆んど無意識に果扇の腕を引っ張り、馬小屋の外に逃げようとする。けれど、その前方にも黒い影が見えた。
賊だ。稜迦はそう思った。
果扇の後ろに二人、稜迦の前に一人、武器を手に持って顔の下半分を隠した男たちが二人を囲む。
稜迦の背筋は凍りついて、足がすくむ。それは果扇も同じ様で、稜迦が掴んでいる腕からガタガタと震えが伝わって来た。
「何だ? 話が違う」
「二人いるぞ……」
稜迦たちの後ろにいる二人の男たちから、小声で話す会話が聞こえて来る。何の事を言っているのか分からないが、男たちは混乱している様子だった。
「おい、お前たち……」
すると、前にいた男が手に持っている剣の切っ先を稜迦に向ける。稜迦は息を飲んだ。後ろから果扇の小さな悲鳴が聞こえる。
「どちらが黎国の女だ? ……いや、いい……今は時間が惜しい、おい! 二人共連れ出すぞ」
男はそう言って剣を下げ、稜迦の腕を掴み身体を抱えようとした。稜迦は咄嗟に悲鳴をあげて、抵抗しようとする。
その時、稜迦の悲鳴より何倍も大きい声がその場に響いた。
「ずおおぉぉぉぉりゃああああぁぁぁぁ!」
トウシナが固く握った拳を、空気を裂きながら振り上げて、男の顎に命中させる。稜迦を抱えようとした男は大きくふっ飛び、馬小屋の天井にぶつかって、そのままの反動で勢いよく身体を地面に叩き付けた。
体勢を崩した稜迦はその場に倒れ込んで、仰天しながらその光景を見上げる。
「ああ! 奥方さま! 無事か!?」
「トウシナ様……!」
稜迦はトウシナの姿を視界に入れて、心から安堵した。
小屋の中に馬の嘶きが木霊する。稜迦たちの後ろにいた男たちが武器を構える音がした。
「奥方さまよ! 俺の後ろにいろよ!」
稜迦を立ち上がらせ、そして稜迦と果扇を自分の背に隠したトウシナが叫んだ。トウシナの拳からボキボキと骨を鳴らす音が聞こえる。
稜迦がごくりと唾を飲み込むと、トウシナと男たちが対峙していた丁度真ん中の位置に、煙が出ている玉が投げ込まれた。
トウシナはそれを目に入れると、ハッとして稜迦に叫ぶ。
「奥方さま! 煙を吸い込んじゃならねぇ!」
稜迦はトウシナの剣幕に驚き、急いで口を手の袖で覆うが、僅かに遅かった。少しばかり吸い込んでしまった煙のせいなのか、段々と手足が痺れてくる。目も染みてきて、開けていられなくなった。
そして、稜迦の首筋に衝撃が走る。稜迦の視界は暗転した。暗くなる視界の中で見えた光景は、振り返りながら稜迦に何かを叫んでいるトウシナの姿と、そのトウシナに斬りかかろうとする男たちの姿だった。
その夜、幾人かの黎国の捕虜が襲撃者たちと逃げ出す騒ぎが起こる。
その逃げ出した集団の中に、気を失い、襲撃者に抱えられて連れ去られる、稜迦の姿があった。




