隙間
稜迦は深いため息を吐く。白い息は長く続いて、そして静かに消えていった。
名簿に義兄の名は無かった。
それだけではなく、捕虜から解放されて黎国へと還された兵の名簿もあったのだが、そこにも義兄の名は載っていなかった。
稜迦はまた深いため息を吐く。希望が全て潰えてしまったようだった。
楊翠は今も戯張の帰りを待っているのだろう。稜迦は堪えられず、目に涙を溜めてしまう。心の奥が痛くてしょうがなかった。
「奥方さまよ、日が暮れて寒いだろ? もう建物の中に戻らねぇと身体が冷えきっちまうよ」
近くにいたトウシナが声をかけてくる。
落胆が大き過ぎて、心が沈んでしまった稜迦は、外の空気に当たろうと兵舎の中庭のような場所に出て来ていた。
心配したトウシナもそれに付き合ってくれていたのだ。
稜迦はトウシナの大きな声に肩を揺らし、慌てて目に溜まった涙を拭った。
「はい……すみません……」
もう少しだけ此処に居たかったが、付き合ってくれているトウシナに申し訳無くて、稜迦は震える声で返事をする。
「奥方さまよ……そんな、泣かないでくれや……。明日、捕虜の顔を見に行くんだからよ! 名簿の名前が間違ってただけで、義兄はちゃーんといるかも知れねぇぜ? まだ終わった訳じゃ無いんだからよ! 元気出さねぇと!」
トウシナは稜迦に近寄って励ましの言葉をかけてくる。稜迦はトウシナの言葉をありがたいと思うが、今はそれが辛くて我慢しきれず、引っ込めた筈の涙がボロボロと流れ出てしまった。
稜迦は俯いて、腕の袖で自分の顔を隠す。
「お、奥方さまよ……」
トウシナはおろおろと稜迦を見ている事しかできなかった。
◇
「……郷怛たち、少数の部隊がここに来たのはつい先日だ。表立っての理由は開拓の補助だが、違う狙いがあるだろうな……。あの男がただで郷怛を動かす訳は無い」
その頃、カガイは部屋に留まり青丹の話に耳を傾けていた。カガイは僅かに眉をひそめる。
「思惑はまだ判らんが、お前たちは長く此処に留まらん方がいいだろう。稜迦殿には申し訳無い事だが……。カガイ、お前もよく堪えた。遠征で怙狼軍に何があったか、報告は受けている……無事で何よりだ」
「親父殿……やはり策略か……?」
青丹は渋い顔をして頭を横に振る。
「判らん……。原因を作った兵も郷怛によって既に粛清されている。……だが、もしそうならあの男が大きく動き出した事になる……。これから先、気を引き締めてかからんと、喰われてしまう事になろうよ」
カガイは低く唸り声をあげたが、青丹はニヤリと不敵に笑った。
「無論、喰わせてやるつもりなど無いがな。お前もそうだろう? ……さて、もう日も暮れた。お前たちに部屋を用意してある、稜迦殿も長旅で疲れているだろうから、早く休ませてやれ」
そう言いながら青丹は腰掛けていた椅子から立ち上がる。カガイはその青丹を押し留めるように声を出した。
「親父殿、ここの近くで來郷の斥候と会った……。黎国の残党が動いているようだ、何か関係があるかもしれん……」
青丹は思案するように眉をひそめた。
「來郷、か……。分かった、気に留めて置く」
カガイも椅子から立ち上がって真っ直ぐ青丹を見る。青丹は「ん?」と疑問の声を出した。
「……親父殿も、気を付けろ……。奥方が心配していた」
青丹は目を細めて、声を出して笑う。
「ああ、分かった。胡香歌も大きくなっているだろうな、子供の成長は早い……儒郭に帰ったら俺は元気だと、そう伝えてくれ」
青丹の言葉にカガイは小さく頷いた。
◇
トウシナに申し訳無い。
稜迦はどうしても泣き止めない自分を恥じながら、そう思う。
「ト、トウ……シ、うぅ……申し、わけ……ありま……ううぅ……わ、わたし、に、構わず……、中、へ……」
すぐすぐと泣きながら稜迦はトウシナに声をかける。トウシナは稜迦に付き合って長い間、外に居続けているのだ。きっとトウシナも寒い思いをしているだろう。
「馬鹿言っちゃあいけねぇ! こんな状態の奥方さまを放って行けねぇよ! 奥方さまこそ建物の中に入らねぇと!」
トウシナの声は大きいので、時折、近くを通り過ぎる兵が怪訝な表情で稜迦たちを見ていたが、泣き顔を袖で隠している稜迦はそれに気付かなかった。
「……何をしている……?」
低い声がして、ビクッと稜迦の肩は小さく跳ねる。
「あ、兄ぃ、それがよぉ……」
トウシナの困ったような声が耳に入った。今だ顔が上げれない稜迦はカガイの表情を見れず、ゴホッと苦し気な咳をする。
何度、カガイの前で泣く姿を晒してしまっているのだろうか。トウシナにも、こんなにも迷惑をかけてしまっている。それでも泣き止む事ができない。
申し訳無くて、情けなくて、恥ずかしくて、惨めになって、このまま一人ここに置いて行ってくれまいかと、稜迦は願ってしまう。
そう思っていると、稜迦に近付いて来る足音がして、そしてとても近くでカガイの声が聞こえた。
「トウシナ……馬を移動させて来い……、小屋に入れて、水をやれ」
「お? お、おう……! 分かった……」
トウシナはカガイに言われて、チラッと稜迦を心配そうに見ると、その場から離れて行った。
稜迦は身体が固まったまま、その場で静かに泣き続ける。カガイが何かを言って来るかと思ったが、ずっと無言だった。あまりにも静かだったので、カガイもこの場から離れて行ったのかと思い、稜迦はゆっくりと袖から顔を上げる。
すると、組んでいるカガイの大きな腕が見えた。
その組んでいる腕が解かれて、ゆっくりと稜迦の顔に伸びて来る。
前にもあったその光景を、稜迦は瞬きもせずに見ていた。カガイの大きな固い指が、稜迦の頬に流れる涙を拭っていく。
稜迦は胸の奥をつままれているかのような痛みを覚えて、けれどそれは苦い痛みでは無く、言い例えようの無い気持ちで、その感覚の中で目を閉じて、ゆっくりと涙を止める事ができた。
「……カガイ様」
「なんだ……?」
泣き止む事ができて、気持ちが落ち着いてきた頃、やっと稜迦はカガイに声を出せた。
「こんな……泣いてばかりで……すみません……」
カガイは小さく唸って返事をする。
「ここまで連れて来て頂いて、本当にありがとうございます……トウシナ様にも……心から、感謝しています」
「……あぁ……」
稜迦はそこで、スンと小さく鼻をすすった。少しの間、二人は無言になる。
「……お前は、文字が読めるのか……」
「え……?」
突然出たカガイの言葉に、稜迦は顔を上げる。
「は、はい……母に、教えて頂きました……」
「そうか……」
カガイはそれ以上何も言わなかった。稜迦は内心首を傾げる。黎国と朱国は国こそ違うが使っている文字は共通していた。だから、青丹に見せて貰った名簿も読めた。
何らおかしい事は無い筈だ。けれど、稜迦は不安になってしまい、カガイに尋ねた。
「あの……何か、まずい事があったのでしょうか……? もしや、よ、読めては、いけなかったのですか……?」
稜迦の言葉に、カガイにしては本当に珍しく僅かに驚いた顔を見せる。稜迦もカガイの表情を見て、心から驚いた。
今まで殆んどと言っていいほど、カガイの感情の変化を見た事が無かったのだ。
カガイは唸りながら答える。
「違う……。読めるとは、思っていなかっただけだ……」
稜迦の心臓が大きく跳ねる。それは、どうして、何故、カガイはそう思っていたのか……?
「……あ……何故、そう、と……」
稜迦が辿々しく訊こうとするが、カガイの返答は早かった。
「お前は、庶子の生まれだろう……? ……違うのか……?」
カガイの言葉に稜迦は青ざめる。
カガイは知っていたのだ。稜迦が庶子だと。だからなのか、文字が読めないと思っていたのだろう。下下の身分の者は、文字が読めない事の方が多いのだから。
稜迦はカガイと出会ってから今日まで、自分の出自を言えないでいた。
ずっと騙しているようなものだった、稜迦が身分ある家柄の娘だと。
「し……知って……?」
稜迦は震えながら声を出す。罪悪感と恐怖が胸に押し寄せる。自分と家族の保身の為に言い出せなかったのだ。カガイが本当の事を知ったら、どのような反応が返ってくるのか分からずに恐ろしかった。なんと言う卑怯者だろう。カガイは、ずっと隠していた稜迦の事をどの様に見ていたのだろうか。
「……最初に言った筈だ……どんな女でも構わんと……」
カガイの声に、稜迦は下げていた視線を恐る恐る上げてカガイを見る。カガイはいつも通りの無表情だった。
「……お前が、気にする必要は無い……」
稜迦は返事ができなかった。ただ胸の奥底が酷く痛む。
「こんな……こんな至らない女で……本当に、申し訳ありません……」
卑屈な物言いしか口から出ない。稜迦は俯むいてしまう。
カガイの唸り声を含んだため息が、聞こえた。
冷たい白い結晶が空から降ってくる。やがてそれは稜迦の頭の上に一つ落ちた。
カガイはそれに気付いて、僅かに空を見上げる。
ぱらぱらと降ってきていた雪は、やがてその数を増やしていく。
雪が降ってきたことに稜迦も気付いて、下げていた顔を力無く上げる。すると頭の上に、ばさりと毛皮が置かれた。
「……着ていろ」
驚いてカガイを見ると、稜迦に背を向けて建物へと歩いて行くところだった。その背を追いかけていいのか分からずに稜迦がその場で立ち竦んでいると、カガイが立ち止まって振り返る。
「来い……冷えるぞ……」
稜迦は躊躇いながら、カガイの着ていた大きな毛皮をぎゅうっと握ると、カガイへと歩み出した。
そこでカガイの視線が稜迦の後ろに向く。何だろうと思い、稜迦も後ろを振り返った。
すると中庭の向こうに、あの女が立っていて、稜迦を見つめている姿が目に入った。
稜迦はどきりとする。女は何かを言いたそうに此方を気にしていたが、カガイがいるからだろうか、決して近付いては来ない。やがて女は諦めたように視線を外すと、中庭を通って建物の外へと出て行ってしまった。
稜迦はその場で立ち竦む。そうしていると後ろからカガイの声が聞こえてきた。
「……おい、早く入れ」
稜迦はハッとしてカガイを振り返る。カガイは建物の入り口にいて、稜迦を待っている様子だった。
稜迦はもう一度、消えていった女の方を振り返り、そしてカガイへと一歩、歩き出した。
しかし、その足は止まる。
「……カ、カガイ様……あの方と話をして来ても宜しいでしょうか……?」
稜迦の足が震える。心臓の音が煩かった。
「関わるな……行くぞ……」
けれど、カガイは稜迦の言葉を切った。稜迦は頭に被っている毛皮を強く握り締める。
「あ……あの方は……な、泣いておりました……き、きっと辛い事があったのでしょう……せめて、話を聞いてあげられたらと……」
稜迦は女のやつれた姿を思い出していた。周りに自分を労ってくれる存在はいないのだろうか。夫である筈の郷怛にあれほど怯えていた事も気になった。
稜迦はたった一人で朱国にいたが、周りの人々に恵まれたのだと思っている。
誰一人、稜迦に冷たい人はいなかった。稜迦を気にかけてくれる人ばかりたった。だから、稜迦は不安と悲しさに押し潰される事なく今までやって来れたのだ。
でも、あの人はどうだろう……。
せめて、話を聞く事ぐらいならば稜迦にもできるのではないか。余計なお世話かも知れないが、稜迦にすがる様に向けられたあの人の目が、忘れられないのだ。
「き、きっと……わたしと同じ……鴛鴦之契で朱国まで嫁がれた方なのです……わたしに何かを言いたそうにしていました……ですから……せめて……」
「…………判らんな」
ずっと無言で稜迦の言葉を聞いていたカガイが、低い声を出した。稜迦の肩は震える。
「……お前が話を聞いたところで、あの女の何が変わる……?」
稜迦は唇をかんだ。泣きそうになったのだ。
確かに、稜迦のような力の無い人間が何かを変えることなどできはしない。だけど、それでも、たった一人でも自分の話を聞いてくれる人がいたら、それは自分の中の糧になるのではないかと、稜迦は思う。
「……故郷の人間が、恋しいのか……?」
「え……?」
稜迦はカガイを見る。低くて聞き取り辛い声だったが、確かに稜迦の耳に入った。
カガイはしばらく稜迦を見つめた後、背を向けて言った。
「……好きにしろ……」
そう言って、カガイは建物の中に入って行く。
稜迦はカガイの後ろ姿を見つめて、僅かに建物の入り口へと歩く。けれど、やはりその足は止まり、少しの間の後、稜迦は女が消えていった方向へと足を向ける。
一度、カガイを振り返ったが、その姿はもう見えなかった。




