掠める心
稜迦は窓際に腰掛けて、どんよりと曇っている空を見上げる。
あの騒ぎの後、カガイに連れられて兵舎のような建物へと稜迦はやって来ていた。
建物の中は簡素だが存外広く造られており、その中の一室で稜迦はカガイと共に青丹を待つ。
カガイとの会話が無かった為、稜迦は居た堪れずにそわそわとしてしまい、ちらりとカガイの様子を見てみるが、カガイは稜迦の近くに腰掛けて、腕を組みながら目を閉じていた。
また勝手に一人で行動して、カガイとトウシナにも迷惑をかけてしまった。稜迦は一言カガイに詫びの言葉を出そうと試みるが、気後れしてしまい、なかなか口が開けない。
そのまま項垂れて、再びカガイの横顔を見る。
その顔にあった瘡蓋は殆ど無くなってきているが、所々に巻き付いている包帯はまだ取れない。
郷怛と言ったあの男とトウシナの会話が気になっていた。詳しい事はまったく分からないが、どうやらカガイたちが大きな怪我を負った原因が在るようなのだ。
訊かない方が良いのだろうか……。自分が知っても良い事柄ではないのだろうか……。けれど、やはり、気になってしまう。
カガイとは夫婦なのだ。自分は至らない女だが、カガイの妻なのだから、夫となった人の事は知っておきたい。今更なのだろうが、カガイの身に何が起こったのか教えて欲しいのだ。カガイと会話をする機会になるかもしれない。そして、あの日の伝えきれなかった想いをもう一度、勇気を持って言うべきなのだ。上手く気持ちを伝えれるようにならなければ、すれ違ってしまう。それを無くさなければならない。
稜迦はしばらく迷った末、意を決してカガイへと声をかけた。
「カガイ、様……」
意気込んだ筈なのに蚊の鳴くような声しか出て来ず、稜迦は顔を赤らめてしまう。
けれど、そんな稜迦の声にカガイは気付いて、目を開けて稜迦へと顔を向けた。
カガイと視線が合ったが、稜迦は上手く言葉が出て来ずに、まごついてしまう。焦りが強くなり、下がっている眉をさらに下げてしまう頃、カガイが声を出した。
「……どうした……?」
いつものように低い唸るような声音だったが、その中に稜迦を気遣うような響きを感じて、稜迦は段々と落ち着いてくる。ここ数日で感じていたギクシャクしている空気も今は無いように思えた。
稜迦はふうっと一つ小さく深呼吸をして、カガイへ口を開く。
「あ、あの……」
しかし丁度その時、大きな足音と共にトウシナが部屋へと入ってくる。入って来た途端、大仰な息を吐いて稜迦へと頭を下げた。
「奥方さま、すまねぇ! 情けねぇ姿を見せちまった!」
突然部屋に入って来たトウシナに文字通り飛び上がって驚いた稜迦は、トウシナが頭を下げた事に再び目を丸くして驚いた。
情けない姿とは一体何の事なのか分からない。
助けを求めるように稜迦はカガイを見るが、カガイは腕を組んだまま無言でトウシナを見ていた。
「奥方さまがいたのによぉ、頭に血が昇ったんだ……」
トウシナは大きな身体を縮こませて、しゅんと頭を下げる。
「兄ぃもすまねぇ……、まさかあの野郎がいるなんてよぉ……。また奥方さまから目を離しちまった……本当にすまねぇ……」
カガイは小さく息を吐き出す。
「奴には構うな……」
トウシナは「ああ……」と返事をして、さらに肩を落としてしまった。
稜迦は焦る。トウシナは先程の騒ぎを謝っているのだろうが、もとはと言えばあの場から離れた稜迦が原因なのだ。自分が謝らなければならない。
稜迦は急いで立ち上がった。
「ト、トウシナ様……! 違います、わたしが勝手にあの場所から離れてしまったから、あんな事に……わたしが悪いのです……ご迷惑をおかけしてしまいました……カガイ様にも……申し訳ございません……」
カガイは立ち上がった稜迦を見上げて、小さく唸りをあげる。稜迦がそれに肩を震わすと、カガイは口を開こうとした。
けれど、それよりも先にトウシナが口を開く方が早い。
「奥方さまが謝る必要はねぇよ。あの女を介抱してたんだろ? 弱ってる奴がいたら助けてやる事が悪いなんて思わねぇよ。俺があの場から離れたのが悪かったんだ。いや……それだけじゃねぇ、あの時あの野郎に突っかかったのが間違いなんだよ……はぁ、俺は頭が悪いからよぉ……奴の挑発にまんまと乗せられちまって……」
トウシナはまた身体を縮こませて項垂れた。
稜迦は上手く言葉が出ず、ただ小さく頭を横に振る。いつも笑っており、元気なトウシナが意気消沈する様は辛いものがあった。
稜迦も肩を落としていると、カガイが声をかけてくる。
「おい……」
「! は、はい……!」
稜迦は急いでカガイへと振り返る。カガイは腰掛けたまま稜迦を見ていた。まったくの無表情で此方を見るカガイが何を思っているのか分からず、稜迦は不安な顔をしてカガイを見返す。
カガイは怒っているのだろうか? トウシナはああ言ったが、やはり勝手に行動した事を良く思ってはいないのだろう。
カガイから叱りの言葉が来ると思い、稜迦は身を固くして待ったが、カガイから出た言葉はまったくの別物だった。
「……何か言いかけただろう……何だ……?」
「え……? あ……」
予想していなかったカガイの言葉に、稜迦は気の抜けた声を出してしまう。そして、嬉しくなった。
稜迦が伝えようとする言葉を、カガイは気にかけてくれているのだ。こんなはっきりと物が言えず、たどたどしくしか言葉を出せない稜迦を、カガイは待ってくれる。
稜迦は心底ありがたく思い、口を開こうとするが、言葉を出す前に固まってしまう。
今このような雰囲気の中、訊いて良い事柄なのだろうか?
トウシナだって、郷怛と言う男のせいでこんなにも気を落としているのだ。カガイはトウシナに、奴に構うなと言っていた。ここでまた稜迦がそれを振り返す事を訊いてしまうのは、あまり良くないことに思える。他にもカガイに伝えたい事はあるのだが、それも今言う雰囲気じゃないように思えた。
稜迦はさぞかし困った顔をしていたのだろう。なかなか言葉を出さない稜迦を見ていたカガイは、のそりと立ち上がって稜迦へ一歩近付く。
稜迦は焦ってびくりと肩を震わす。それを見て、またカガイは小さく唸ると、低い声で訊いて来た。
「……何があった……? 言え……」
カガイの大きな身体が急に詰め寄って来ると、いけないと思いつつも、まだ稜迦の身体は固くなるのだ。怯えているつもりでは無いのに、まるでその様に見えてしまう。カガイに誤解されてしまうのではと不安でもあった。
けれどカガイが鋭い眼で見てくるので、身体の強張りは解けず、稜迦が焦りに焦り、震える声でどうにか言葉を出そうとした時、青丹が部屋に入ってきた。
「すまん、待たせたな……ん? どうした? 何かあったのか?」
部屋に入ってきた青丹はカガイと稜迦を見て怪訝な顔をする。一拍置いて大きな息を出したカガイは、稜迦から一歩離れて青丹へと礼をとった。
それを見ていた稜迦は慌てて青丹へと頭を下げる。青丹に失礼をしてしまいカガイの恥にならないように、どうにか心を落ち着かせる。
青丹はその様子を見て、「ははっ」と短く笑った。
「しばらく会わなかったが、カガイよ、嫁御とは仲良くやっているようだな? 愛想を尽かされぬよう励めよ」
稜迦は青丹の言葉に焦り、慌てて顔を上げてカガイを見る。愛想を尽かすなど、とんでもなかった。稜迦がカガイに愛想を尽かされないように必死なのだから。
カガイは青丹への礼を解くと、視線に気付いて稜迦を見返してくる。その顔はやはり無表情だったので、稜迦はカガイが気を悪くしていないか知る事ができなかった。
「稜迦殿とも久しいですな。輿入れされた日以来だろうか?」
にこやかに笑いながら青丹は稜迦に話しかけてくる。稜迦は心持ち緊張しながらも、落ち着いた声で返事をした。
「はい、その節はお世話になりました。……この度もご助成頂き、本当にありがとうございます」
「なんの。……このような事情があったとは、さぞや心労も深かったであろう。できる限り力になるので、何なりと言って欲しい。遠慮することはない」
稜迦の心の中にストンと安堵が降ってきて、再び青丹に深く頭を下げる。
青丹たちのその心根がなんともありがたかった。稜迦の事情を汲み取って、力になってくれるのだ。ここまで連れて来てくれたカガイにもう一度お礼を言わなければと稜迦は思う。
「道すがらカガイとトウシナは……ん? おい、トウシナ、そろそろ立ち直らんか。いつまでしょぼくれておるんだ、お前は」
今だ肩を落とし続けているトウシナを目に入れると、青丹は苦笑混じりに声をかけた。
「トウシナよ、カガイを見ろ。こいつなど毎度毎度、郷怛の手の者に絡まれて、そのたび相手をしているではないか。挑発に乗ってしまうのはお前だけではないぞ」
「……親父殿」
カガイは唸り声を出しながら非難めいた低い声を出す。青丹はまた短く笑った。
「あぁ……それもそうだったなぁ……! 兄ぃと俺はよく似てるからしょうがねぇな!」
そう言って、先程まで肩を落としていたトウシナは、その大きな身体を揺らして、ワハハと元気に笑い出す。
カガイはそんなトウシナをちらりと横目で見ると、鼻から息を吐き出した。
稜迦はいきなり立ち直ったトウシナを驚きながら見ていたが、けれどやはり、トウシナが笑うとほっとできた。
「さて、稜迦殿」
「は、はい……!」
青丹に声をかけられて稜迦は慌てて返事をする。青丹は一つ巻物を手にして稜迦を振り返った。
「ここがどのような場所か……貴女の故国でもある黎国と朱国とを繋げる新しい関所で、開拓の途中なのだか、夫役でここにいる者、世話をする者、朱国の兵も滞在している。そして、黎国の捕虜兵もこの地にて労役を課せられている。それはご存知か?」
丁寧に教えてくれる青丹に稜迦は返事をして頷く。此処までの道のりでトウシナが教えてくれていた。
「うむ。して、まずは此れに目を通して欲しい。今現在この地にいる黎国の捕虜兵の名簿だ」
稜迦の心臓が跳ねる。震える足で青丹の方に歩み寄った。ごくりと唾を飲み込んで、青丹が開いてくれた巻物を見る。
義兄の名前を探した。
心は期待と不安で震えていた。




