休日
手紙には、無事に働いている、と書いた。
氏家はその一行を眺め、ペンを止めた。
嘘ではない。ハリアーを護衛して戻り、「棕櫚」に負傷者はいなかった。機関もよく働いた。皆で食事を取り、港へ入れば翌日の仕事を確かめ、休める者を休ませた。
妻が知りたいのは、その先だろう。
よく眠れているのか。食事は取れているのか。いつ帰れるのか。
最後の問いには答えを書けなかった。
艦長室の戸の向こうで、上陸する者の足音がした。短く笑う声も混じる。今日は必要な当直を残して、多くの乗員に上陸を許していた。
先ほど佐野も、許可を受けて出ていった。出る前には、氏家に何か言いたそうな顔をしたが、結局、戻る時刻を確かめただけだった。
誘ってよいか迷ったのかもしれない。
氏家も、一緒に行くかと自分から言わなかった。航海長を休ませる日なのに、艦長について歩かせては仕事の続きになりかねない。
小さな艦でも、艦長は一人だった。
机の上には妻から来た手紙があった。読み返すと、初めて読んだ時には急いで通り過ぎた言葉が、今は目に留まった。子供のこと、家のこと。こちらに返事を求めているわけではない話も、何か返してやりたくなる。
子供には元気でいるよう伝えてくれ。
そう書いてから、あまりに遠いと思った。妻のそばにいる子供へ、妻を通して言葉を送る。出発前には同じ家にいて、その顔を見て話していたのに。
氏家は一行足した。
こちらの海は、明るい。
その下にいるものは書かなかった。海の色なら伝えられると思った。港の石も、日中は目を細めたくなるほど白く見える。
読み返すと、旅先からの便りのようだった。
それでよいか。
しばらく考え、ペンを置いた。
甲板へ出ると、いつもより人が少なかった。
当直の水兵が姿勢を正した。氏家は礼を返し、その向こうの港を見た。
艦を離れた者は、もう坂を上がっている頃だろう。士官は士官で、下士官兵は仲間同士で出ていった。港から見える街に、今日は自分の乗員がいる。
彼らがどこへ行くかを、一人ずつ確かめる必要はなかった。
氏家は艦長室へ戻り、手紙を畳んだ。
本を手に取ったが、一頁も進まなかった。読んでいる途中で廊下の音へ耳が向き、また同じ行へ戻る。
司令部へ顔を出すことも考えた。
出せば何か話はあるだろう。しかし、それも仕事だった。
「少し歩くか」
声に出すと、やっと出かける気になった。
当直将校へ上陸を伝え、制服を整えた。何かあればどこへ知らせるかを確かめてから舷門を出た。
背後で敬礼を受けた。
まだ港の坂を上り始めただけなのに、脚に来る感触が違った。床が揺れない。歩く先が自分の行きたい方へ続いていた。
*
街の道では、軍服だけが歩いているわけではなかった。
荷を抱えた女が角を曲がり、二人連れの子供がその後を追った。店先で男が客と言葉を交わしている。氏家には聞き取れない言葉だった。
英国領だから英語が通じるとはいえ、道を歩く人の暮らしまで英語だけでできているわけではない。店で道を尋ねると、男は氏家の言葉に合わせて答え、入口まで出て向こうを指した。
氏家は礼を言った。
英国の日本大使館にいた頃には、毎日、道を尋ね、相手の返事を聞き直した。兵学校で覚えた言葉が、街の中では別の速さで出てくる。聞こえたふりをして違う方へ行くより、分からなかったと一度言う方が早かった。
その頃を思い出すと、今の自分は、言葉を聞く前から命令を待っているような気がした。
今日は急ぐ必要がなかった。
古い石の建物を見ながら歩いた。角を曲がるたびに違う景色がある。港では艦名と所属を覚えようとするのに、建物はどの時代のものかも分からないまま、見上げて通り過ぎる。
遺跡でも見に行こうと思って出たのだった。
そのつもりが、海の見える所へ足が向いていた。
アッパー・バラッカ・ガーデンの縁に立つと、港が下に広がった。
さっきまでその一角にいたのである。石の岸壁も、停泊する船も、ここからは一緒に見渡せた。
「棕櫚」を探してしまった。
どの角度から見ると、自分の艦はどんな姿に見えるのか。つい、そんなことを確かめる。
今日は船を眺める場所へ来たのではない。
そう思いながら、氏家はなお港を見ていた。
「氏家少佐」
背後から、女の声がした。
振り向くと、白いワンピースの女性が立っていた。大きな鍔のある帽子を片手で押さえている。光を受けた帽子の下に、笑みがあった。
顔には見覚えがある。
しかし氏家は、どこで会ったかをすぐ思い出せなかった。
「お分かりになりませんか。先日、救助のお礼を申し上げた」
制服の姿が、白い服に重なった。
「シンプソン中尉」
「はい。メアリー・シンプソンです」
名乗る時、彼女の背筋が伸びた。軍服を着ていないのに、姓名申告の姿勢だった。
氏家は帽子を取った。
「失礼しました。制服と違っていたので、すぐには」
「私も、少佐が制服でなければ分からなかったかもしれません」
メアリーはそう言ってから、少し首を傾けた。
「いえ、お顔は覚えていました」
言い直すところが、前に会った時と同じだった。
氏家は頭を下げた。
「お休みですか、ミス・シンプソン」
「今日は。メアリーで結構です、ルテナンコマンダー」
自分が階級で呼んだことに気づき、彼女は口元を緩めた。
「難しいですね」
「私も、階級なしで呼んでいただければ。林太郎と申します」
「りんたろう」
彼女はゆっくり繰り返した。
氏家は頷いた。
「りんたろう……日本の文学者にも、そのお名前の方が」
「森鴎外ですか」
「そうです」
「よくご存じですね」
氏家が驚くと、メアリーは少し照れた顔になった。
「大学で文学を学んでいました。学生の頃はドイツにいたものですから、ドイツで学んだ日本の作家ということで、先生が話してくださったのです」
「なるほど」
森林太郎という名を、軍医としての肩書きと一緒に覚えている者は軍の中にいる。港の庭園で、文学の話として聞くとは思わなかった。
「作品を読めたわけではありません。日本語はできませんから」
「それでも、名前を覚えていらっしゃる」
「先生のお話には、知らない人に会いに行くような楽しさがありました」
メアリーが言った。
氏家は彼女の顔を見た。船員を助けた礼を述べていた時には、相手へ正しく伝えようとする様子が先に見えた。今は、自分の好きなものを思い出している顔だった。
「この後、ご予定はありますか」
「特には。古い建物でも見ようと思って、出てきたところです」
「では、少し早いですけれど、昼食をご一緒しませんか」
氏家は港へ目を戻しかけ、やめた。
艦には当直将校がいる。戻る時刻も告げてきた。
「喜んで」
答えると、メアリーは帽子の鍔から手を離した。
「よかった。今日は私も、一人でしたので」
*
入った店では、窓から風が通っていた。
メアリーは席を選ぶ前に、氏家を見た。
「窓のそばでよろしいですか」
「ええ」
「制服では暑いでしょう」
氏家は椅子を引いた。彼女が腰を下ろし、自分も向かいへ座る。
給仕が来ると、氏家は卓上に置いた帽子を膝へ移した。そこへ食器が並び、パンが置かれた。
艦の外で食べることはあった。それでも、任務について話す必要のない相手と向かい合うと、何から話せばよいのか分からなくなった。
メアリーも、少し黙って献立を見ていた。
「何か、苦手なものはありますか」
彼女が尋ねた。
「おそらく、ありません。分からない名前はありますが」
「私もです」
メアリーは一つの料理を指した。
「これを初めて頼んだ時、想像していたものと違っていて」
「まずかったのですか」
「いいえ。おいしかったので、間違えたことは黙っていました」
氏家は笑った。
「それなら、私も同じものにします」
「今日は、想像通りのものが来てしまいますよ」
注文を終えると、彼女は献立を閉じた。
卓の向こうの声を聞き、給仕が別の席へ向かう。それを氏家が目で追ったのを見て、メアリーが言った。
「何か気になりますか」
「いえ。人が動くと、つい」
「呼ばれたと思われるのですね」
「呼ばれる前から見ていることが多いようです」
言ってから、氏家は自分でもおかしかった。艦橋では、誰かがこちらへ来れば報告か用事がある。この店の給仕は、すべての客のために歩いていた。
メアリーはパンを取り、氏家にも皿を寄せた。
「では、ここでは食事が来るのを待ちましょう」
「そうします」
氏家は窓へ目を向けた。
通りを歩く人の帽子が、一つずつ窓の下を過ぎた。
「大学では、どんな本を読んでいたのですか」
氏家が尋ねると、メアリーは少し考えた。
「授業のために読む本と、授業を忘れて読む本がありました」
「後の方を、伺いたいですね」
「それでしたら、小説を。途中で閉じたあとも、登場する人のことを考えてしまうものが好きでした」
「続きが気になってですか」
「続きも。けれど、あの人はどうしてあんなことを言ったのだろう、とか。読んでいる時には分かったつもりでも、あとで分からなくなることがあって」
氏家は頷いた。
自分は逆に、分からなければ先へ進めないことが多い。命令ならば、誰が何をするかが伝わらなければ困る。本の中の人は、こちらが分からなくても先へ歩いていく。
「読み返すのですね」
「はい。覚えていた台詞が、少し違っていることもありました」
「私にもあります。よい言葉だと思って人に話して、あとで確かめると、自分で直していた」
「それは、その時必要だった言葉だったのかもしれません」
メアリーは笑った。
氏家はパンを小さくちぎった。
「本を読む仕事は、楽しそうです」
「読むだけなら。何を書いてあるか答えなければならなくなると、急に楽しさが減るのです」
「試験ですか」
「ええ。好きな本ほど、うまく書けないことがありました。あの一行が好きなのに、なぜ好きなのかを説明しているうちに、別の話になってしまって」
彼女は、自分の言葉に首を振った。
「今も同じですね」
「分かります」
氏家は言った。
兵学校へ入る前、自分はほかの道へ進むつもりで学校に通っていた。今さらそれをやり直したいとは思わない。ただ、本について困ったという話を聞いていると、そこで過ごせたかもしれない時間が、少しだけ近くへ来た。
メアリーは答えを急がせなかった。
料理が運ばれてきた。氏家が帽子を持ち直すと、彼女も卓の上を空けた。
「これが、想像と違っていた料理です」
「では、想像しないでいただきます」
氏家が言うと、彼女が声を立てて笑った。
*
食べ始めると、話は途切れたり戻ったりした。
艦の食事の話になった。メアリーが、海の上では皿が滑るのかと尋ねたので、氏家は波の高い日に茶碗を持つ話をした。
「では、こうして手を離しても大丈夫な食事は、貴重なのですね」
メアリーは自分の皿のそばで、両手を少し上げてみせた。
氏家は皿を見た。
「手を離していても、別の用事で呼ばれることはあります」
「今日は、最後まで食べられますように」
彼女が言い、二人はまた食事へ戻った。
今日はそんなことを願ってもよいのだった。
どの艦が出るか、次の船団は何を積んでいるかという話は出なかった。氏家も、尋ねられないのに任務の話を始めなかった。
「日本には、ご家族がいらっしゃるのですか」
しばらくしてメアリーが尋ねた。
「妻と子供がいます。今朝、手紙を書いていました」
「お便りは、届きますか」
「届きます。ただ、向こうで書いた時にはもう変わっていたことが、こちらでは今知ったことになります」
メアリーは頷いた。
「返事を書くにも、何から書けばよいか迷いますね」
「ええ。無事でいると書いたあと、何も進まなくなって」
「それは、一番知りたいことだと思います」
彼女はそう言ってから、ナイフを置いた。
「でも、奥様はほかのことも読みたいでしょうね」
「同じことを考えていました」
「今日の食事はいかがですか」
氏家は顔を上げた。
「手紙にですか」
「この土地で何を食べているか。おいしかったか。軍のお仕事でなくても、お書きになれるでしょう」
氏家は皿を見た。
その料理の名前を覚えているかと考えた。メアリーが頼んでくれたため、今度は自分が給仕に尋ねなければ分からなかった。
「まず、名前を確かめます」
「それから、今日は食事の途中で呼び出されなかったと」
「最後まで済んでから書くことにします」
彼女は頷いた。
「その方がよいですね」
氏家は、妻にどう書くかを考えた。街を歩き、以前、救助の礼を言いに来た女性士官と会い、昼食を取った。名前を覚えている日本の作家が同じだった。
書けることが、幾つもあった。
食事のあと、お茶を頼んだ。
メアリーも、ほかに予定はないと言った。休みを合わせられる友人がいなかったのだという。
「皆、それぞれ忙しくて。休める日が同じとは限りませんから」
「私の艦では、今日は皆、連れ立って出ていきました」
「ご一緒には」
「誘われませんでした」
あまりにそのまま答えたため、メアリーが氏家を見た。
「……一人でいたいと思われたのでしょうか」
「そう見えたのかもしれません。私も、休みまで艦長につき合わせてはと思って」
「お互いに気を遣って、別々になったのですね」
「そのようです」
氏家は笑った。
自室で一人になった時には寂しかったが、言葉にすると、相手が悪いわけでも自分が悪いわけでもなかった。
メアリーはカップを受け取った。
「私も、仕事でご一緒する方と、お休みに何を話せばよいか分からなくなることがあります」
「今は、困っていらっしゃいますか」
「いいえ。今日は本の話ができました」
彼女が答えた。
その声を聞き、氏家も安心した。相手が親切だからといって、こちらがいつまでも座らせているのではなかった。
お茶が冷めるまで、二人は話した。
氏家が日本語の音を幾つか教えると、メアリーはそれを確かめて言い直した。「しゅろ」は前から覚えていると言い、「りんたろう」は最初より滑らかに言えた。
呼ばれて、氏家は返事をした。
艦では少佐か艦長と呼ばれる。林太郎という名が、まだ自分のものだったことを思い出したようだった。
窓の外の人影が変わり、店の客も入れ替わっていた。
氏家は時計を見た。
「そろそろ戻ります」
メアリーはすぐ頷いた。
「長くお引き留めしました」
「いえ。私も、今日は一人でした」
彼女は、庭園で言った自分の言葉を思い出したように笑った。
*
店を出たあと、道の分かれる所まで一緒に歩いた。
メアリーは帽子をかぶり直した。日中より風が出ていて、鍔に手を添えた。
「楽しかったです」
「私もです」
氏家は答えた。
言い足すものが見つからなかった。次の休みがいつか分からないから、次の約束もできない。
「またお会いできましたら、本のお話を」
「ええ」
それだけは答えられた。
氏家は帽子を取り、礼をした。メアリーも軽く頭を下げた。
歩き出してから一度振り向くと、白い服が道を曲がるところだった。彼女はそのまま向こうへ消えた。
何かが起きたわけではない。
昼食を取り、お茶を飲み、話して別れた。
氏家は坂を下りながら、最後まで食事ができた、と妻へ書こうと思った。
艦へ戻ると、当直の報告を受けた。
何もなかったという報告にも、見るべき場所を見て、異状のないことを確かめた者の時間があった。氏家は聞き終え、礼を言った。
艦長室へ戻り、手紙をもう一度出した。
食事のことと、本の話をしたことを書き足した。海の色だけより、今日の自分がそこにいた。
書き終えると、少し横になった。
艦の中で聞く足音に、今度はすぐ起き上がらなかった。
夏の地中海では、日が長かった。八時近くになって、ようやく軍艦旗降下のラッパが鳴った。舷灯がともっても、外にはまだ明るさが残っている。
そこへ、別の声が混じった。
英語で、幾人もが何か叫んでいる。
氏家は身体を起こした。
戸が鳴る前に、寝台から脚を下ろした。
「どうした。何の騒ぎだ」
入ってきた当直将校は、顔を硬くしていた。
「米海軍の連中です。本艦の乗員ともめた者たちが、舷門へ来ています」
「人数は」
「増えています」
氏家は立ち、上衣を取った。
昼の静かな卓は、もう遠かった。
*
騒ぎの発端は、航海科の水兵三人だった。
昼間、連れ立って遊びに出た先で、米兵に道を塞がれたという。酒も入っており、最初から穏やかな言葉ではなかった。
野本一等水兵は、舷門から少し離れた所にいた。
氏家が出てくると、姿勢を正した。口元に汚れがあり、制服の一部も乱れていた。
「何があった」
氏家が尋ねると、野本は言葉を選ぼうとした。
だが、外から聞こえる声に顔が強張った。
「サルが何をしに来た、と」
野本は言った。
そばの水兵が床を見た。
「ロシアにまぐれで勝ったから、でかい面をするなとも言われました」
「それで」
「Uボートの一隻も沈めてから言え、と返しました」
氏家は野本を見た。
先日の戦いを、彼もこの艦の持ち場で受け持っていた。砲の音も、爆雷の衝撃も知っている。戻ってきた休日に、それを嘲るような声を聞いた。
ただ、撃沈した敵の数で口喧嘩を始めれば、相手も黙ってはいないだろう。
「誰が先に手を出した」
野本は相手だと答えた。もう一人も同じことを言った。
それを、この場だけで全部確かめることはできなかった。
「三人とも、ここにいろ。勝手に岸へ出るな」
「はい」
返事に、処分を待つ者の固さがあった。
佐野が戻っていた。
氏家のそばへ寄ると、低い声で告げた。
「三人とも柔道をやっています。向こうを、かなり投げたようです」
声音に、よくやったと言いたそうなものが混じった。
氏家にも分からない気持ちではなかった。海で同じ敵と戦っている者から、動物の名で呼ばれる。黙って通れと命じたところで、その命令は傷の上へ置かれるだけだった。
「怪我の具合は」
「向こうはまだ分かりません。こちらは、大きな怪我はありません」
「確かめろ。相手の分もだ」
「はい」
佐野が離れると、当直将校が言った。
「憲兵も来ていますが、引き離せていません。舷門で防いでおります。このまま押して来られれば……」
彼は最後まで言わなかった。
舷門の当直兵は、艦を守るために立っている。相手が同盟軍の兵だからといって、押し入らせるわけにはいかない。
しかし、銃を使えば取り返しがつかなくなる。
「当直兵には、今の位置を守らせろ。こちらから押し返しに出るな」
氏家は命じ、いったん艦長室へ戻った。
引き出しから、購入したばかりのブローニングM一九一〇を出した。
手に取ると、重さがあった。
艇を出す号令とも、砲を撃たせる号令とも違うものが、ここでは要るのだろうか。
氏家は銃を持って、舷門へ戻った。
*
岸には米兵がいた。その後ろにも人が集まっていた。
舷門のこちら側で「棕櫚」の水兵が立ち、外へ出ようとする者を木下が止めている。
誰かが英語で怒鳴った。
こちらからも声が返った。
一人が進めば、ほかの者も動く。そのたび、当直兵の肩が硬くなった。狭い入口に、双方の腹立ちが集まっていた。
氏家が声をかけても、岸の後ろまでは届かなかった。
彼は空へ銃を向け、引き金を引いた。
乾いた銃声が、艦と岸壁の間で響いた。
全員の顔が上がった。
「気を付け。艦長に敬礼!」
当直将校の号令で、こちらの兵が姿勢を正した。
氏家は敬礼を受け、岸へ向いた。
「本艦艦長の氏家である」
当直将校が英語で繰り返した。氏家自身にも英語は話せる。だが、声を受けてもう一度届かせる者がいることは、この騒ぎの中で役に立った。
「この一件、本職に預けてくれぬか」
岸からヤジが飛んだ。
声が重なり、また前の者が動きかけた。
氏家はもう一発、空へ撃った。
今度は銃声のあとに、自分の声を続けた。
「貴艦の艦長と、私が一対一で勝負をつける。それでどうだ」
どよめきが起きた。
後ろの者が前へ尋ね、聞いた者がこちらを見た。先ほどまでの罵声とは、違う声だった。
氏家は銃を下ろした。
自分の部下にも、何が起きたのか分からない顔があった。
今、全員で喧嘩をすれば、勝った負けたでは済まない。自分が引き受けたという形で、相手も引ける所を作れればよかった。
相手の艦長が、それを受けるかは分からない。
氏家はラッタルを降り始めた。
「誰か、君たちの艦へ案内してくれるか」
岸へ脚を下ろすと、男たちの顔が近くなった。
腫れた頬の者もいる。血が乾いている者もいる。怒鳴っていた口が閉じ、自分を見ていた。
その後ろから、大きな男が出てきた。
「氏家少佐、来艦には及ばぬ」
周囲の米兵が、一斉に姿勢を正した。
「うちの乗員が迷惑をかけた。ノーマン中佐だ」
氏家は敬礼をした。
ノーマンが答礼し、二人の間に立っていた兵を横へ下がらせた。氏家より一回り大きな身体だった。近くで見ると、ただ大きいだけでなく、こちらへ来る前から騒ぎを見ていた顔をしていた。
「今の話、お受けしよう」
ノーマンが言った。
「ただし、今夜ここで殴り合う話ではないな」
「はい。遺恨なしの勝負を」
「私は兵学校で、ボクシングの選手だった。貴官は」
「空手というものをやっております」
「空手か」
ノーマンは一度その言葉を繰り返した。
「よかろう。細かい決まりは、双方で決めればよい」
氏家は頷いた。
「次の休みではいかがでしょう」
「そうしよう。出撃で変わるなら、その時に相談する」
ノーマンは兵たちへ振り向いた。
「文句はないな」
返ってきた声に、まだ不満の残る者もいた。しかし、後ろの方から笑い声が起き、見物人も口を開いた。
喧嘩の続きが、試合になろうとしていた。
氏家はノーマンへ言った。
「いっそのこと、カッターのレースもいかがですか」
中佐が眉を上げた。
「乗員にもやらせるか」
「私たちを見ているだけでは、腹が収まらぬ者もいるでしょう」
ノーマンは少し笑った。
「確かに。そちらには、漕ぐ者もいるわけだ」
「おります」
岸から「棕櫚」を見ると、木下も水兵たちもこちらを見ていた。
勝てるかどうかを、氏家は知らなかった。
それでも、漕ぐ者はいた。
*
ノーマンは兵を帰らせる前に、怪我をした者を確かめた。
呼ばれた男が少し顔を背けると、中佐は顎を上げさせ、頬を見た。
「手当てを受けろ。帰ってからでいいと思うな」
男が返事をした。
氏家の側でも、佐野が三人を連れてきた。双方が相手を見て、また視線を外す。
「この続きは、試合場でやる。今夜は終わりだ」
ノーマンが言った。
氏家も自分の兵へ告げた。
「聞いた通りだ。持ち場へ戻れ。上陸から戻った者は、手当てを受けて休め」
野本が氏家を見た。
何か言いたそうだったが、周りの者が動き始めたため、彼も敬礼をして艦へ戻った。
処分の話が終わったわけではないと、氏家は思った。今日あったことは確かめなければならない。ただ、相手の罵声を浴びた者だけを、今ここで皆の前に立たせるつもりはなかった。
岸にいた兵が減ると、声の届く距離が近くなった。
ノーマンは氏家の手元を一瞥した。
「ずいぶん思い切った方法だったな」
「ほかの手段が思いつきませんでした」
「こちらから動くべきだったかな」
中佐は艦へ帰っていく兵を見た。
氏家も、もう言葉を重ねなかった。
「次の休みだ」
ノーマンがもう一度言った。
「それまで、死ぬなよ」
軽く言ったが、氏家には笑って返すだけの言葉ではなかった。
次の休みを迎えられることを、二人とも自分だけでは決められない。
「はい。貴官も」
氏家が答えると、ノーマンは手を差し出した。
大きな手だった。
握り返してから、氏家は敬礼して艦へ戻った。
舷門の周りを、木下が片づけさせていた。
当直兵は元の位置に立ち直った。さっきまで岸を睨んでいた者が、今は夜の港を見ていた。
佐野が氏家に近づいた。
「艦長、試合は本当になさるのですか」
「そう言ったからな」
「あの身体ですが」
「岸へ降りる前に見えていれば、少し考えたかもしれん」
佐野が笑いかけ、途中で口を閉じた。
「笑っていい」
氏家が言うと、彼はやっと笑った。
艦内で、誰かがカッターの話をしていた。出せる者は誰か、何人で漕ぐか。木下の声がそれを止め、まず当直の交代を済ませろと命じた。
氏家は艦長室へ向かった。
引き出しへ銃を戻し、机の手紙を見た。
昼のことは書いた。
夜のことをどこまで書くかは、まだ決められなかった。
白いワンピースと、窓のそばの卓を思い出した。料理を間違えて頼んだ時の話。名前を呼ばれた声。短い時間だったのに、今日はその時だけ、報告を待たずに人の話を聞いていた。
戸の向こうを、水兵が歩いていった。
次の休みに、試合がある。
そこまで生きていることを、今、約束した。
氏家は手紙を引き出しに収めた。




