狩られる猟犬(1)
「船団との距離は」
「約三万です」
佐野の返事を聞いて、氏家は水平線へ双眼鏡を向けた。
黒煙が何本か上がっていた。船体ははっきり見えない。それでも、どの方向を進んでいるかは、通信で届く位置と煙の動きを合わせれば確かめられた。
「棕櫚」は船団の外側を航行していた。
船団の近くにいる護衛艦と、離れた所にいる「棕櫚」で、近づいてくる潜水艦を挟む。敵を発見すれば、その位置を知らせて攻撃に移る。直掩の艦をすべて追跡に出さず、船団のそばにも守る者を残せる。
このところ、そのやり方で成果を得ていた。
ハリアーの時には撃沈を確かめた。ほかの出撃でも、敵がいると分かれば各部署はすぐ動き、命令を待つ間に用意できるものを用意した。
氏家が報告を求める前に、佐野が必要な位置を確かめている。水雷長は爆雷を投下できるよう整え、機関長は速力を落とす時にも次の増速に備えていた。
艦が自分の考えに追いつくようになった。
そう感じる時があった。
今も、次の報告が来れば動ける。
氏家は双眼鏡を下ろした。
見張り員が海面の照り返しを避けるように顔を動かした。佐野は時刻と位置を記し、通信員は船団から届いた報告を持ってきた。
岸で騒いだ米兵たちの艦も、同じ海に出ている。
ジョナサンという駆逐艦だった。ノーマン中佐が艦長で、今回は船団の護衛に就いていると知らされていた。
試合の日は、まだ決まらなかった。
次の休みと言っても、その休みが二人に同じ日に来るとは限らない。港で約束したあと、互いに出港し、また別の任務に就く。
氏家は煙の方を見た。
相手も、今日を終えてから次の休みを考えるのだろう。
「艦長、聴音より報告」
声が来た。
氏家は顔を向けた。
「前方、スクリュー音。敵潜と思われます」
*
椛島は、遠い音を追っていた。
船団のある方の響きとは違う。こちらが針路を少し変えても、別の方位に細い刻みが残っている。
初めは弱く、自艦の音に埋もれた。もう一度同じ方向で聞こえたため、報告を出した。
隣の兵が艦橋へ送る間、椛島は手元を動かさなかった。
自分が敵らしいと言った音に、全員が耳を向けることになる。見張り員もその方位を探す。海図に線が引かれ、この艦が進む先が変わる。
聞き違いなら、早く取り消さなければならなかった。
刻みは続いた。
「同じ音です。機関、動いています」
報告を重ねた。
「船団指揮官へ打電。敵潜探知、本艦攻撃に移る」
氏家が命じた。
「対潜戦闘用意」
各部署から復唱が来た。声と声の間に、以前のような余分な間がない。
佐野が前方を確かめ、接近する針路を示した。
水雷長から用意の報告が届いた。氏家は機関へ増速を命じ、見張りの方向を確かめさせた。
船首の白い水が大きくなった。
出力を上げれば自艦の音も増える。椛島は途切れるたびに待ち、前方の音がまた聞こえるのを確かめていた。
しばらくして、報告の声が変わった。
「敵潜、機関を停止したと思われます。音を失いました」
氏家は双眼鏡を上げた。
潜望鏡は見えなかった。
「最後の方位を押さえろ。速力を落とす」
佐野が記録を示した。
潜水艦が機関を止めれば、こちらは追う音を失う。だが、その間、相手も速くは動けない。海面へ出ずに待っていれば、艦内の空気を使い、時間を費やしていく。
ここで焦って走り回れば、自分たちが相手を聞けなくなる。
氏家は待つ方を選んだ。
「聴音は全周を確かめろ。船団から別の報告があれば、すぐ知らせろ」
伝声管に声が送られた。
水雷長は、用意した爆雷の前で次の命令を待った。
爆雷はまだ艦上にあった。敵がいるはずの場所へ落とせば、何か変わるかもしれない。しかし、それを何度も繰り返せるだけ積んでいるわけではなかった。
甲板を洗った水が、足元から流れていく。
そばの兵が手を開き、握り直した。既に留め具を外す仕事も確認も終え、今は次に何をするかを知って待っている。
水雷長は艦橋を見た。
命令は来なかった。
三十分が過ぎた。
氏家は時計を見て、また海へ目を戻した。
どのくらい待てば、待ったことになるのか。
静かな海の下で、相手は息をしている。その艦長も自分の時計を見て、こちらが諦めるのを待っているかもしれない。
船団の黒煙は、さっきより横へ移っていた。
船団は航海を続けている。「棕櫚」だけが、見えなくなった敵の周りで時間を使っていた。
その時、椛島の報告が来た。
「後方にスクリュー音。距離、およそ五千」
「後方?」
氏家は振り向いた。
最初の敵がいたのは前方だった。
「別の艦か」
「不明です。今、聞こえているのは一隻です」
返事を受け、佐野が海図を見た。
「最初の位置から、この時間でここへ回ったとは考えにくいです」
氏家も同じことを考えていた。
前の一隻は音を止めたまま、別の一隻が後ろへ来たのか。
それなら、一隻だけを追うつもりで進んではならない。
見張り員に、前方も引き続き探すよう命じた。船団指揮官へ新しい方位を知らせ、氏家は後方の海面へ双眼鏡を向けた。
今聞こえている相手を、見逃すわけにもいかなかった。
「面舵一杯。全速前進」
命じると、操舵員が復唱した。
艦が右へ回り始めた。
潜水艦がこちらを見て機関を動かしたのなら、離れようとしているのだろう。潜った相手より「棕櫚」の方が速い。音を出して動き続ける限り、間隔を詰めることはできた。
氏家は報告を待った。
「敵潜、出力を上げています」
来た。
氏家の手が双眼鏡を握り直した。
*
艦首が、さっきまで後ろにあった海へ向いた。
今はそちらが前方だった。佐野は回頭後の針路を確かめ、見張り員に新しい配置を知らせた。
報告の方位が変わる。艦が向きを変えれば、左にいたものも右にいたものも、同じ呼び方では示せなくなる。
氏家は海図の線と、舷側から見える海を見比べた。
敵の機関音は続いていた。
全速で走る「棕櫚」の機関室では、圧力を保ち、回転を確かめていた。艦の向きが変わったことは傾きで分かる。どの海面へ向いたかまでは分からない。
機関長に必要なのは、次に速力を落とすのか、保つのかという要求だった。
「このまま行く。計器から離れるな」
兵が頷いた。
床の振動は強かったが、修理した箇所に異状は出ていない。今日も上の命令通りに回せている。
「爆雷投下用意」
氏家が命じた。
水雷長から返答が来た。
椛島が追う方位の変化と、「棕櫚」が走った距離を合わせると、敵までの間隔は二千ほどへ詰まったと考えられた。
海面を確かめる。
潜望鏡は見えない。
「速力を落とす。最後の方位を」
命じると同時に、聴音の報告が来た。
「機関停止。音を失いました」
また止まった。
氏家は海図へ目を落とした。
前の相手と同じように、こちらが近づけば止まる。そのために追跡を振り出しへ戻される。
「艦長!」
見張り員の声が違った。
「左舷十時、魚雷! 本艦へ向かっています!」
氏家は顔を上げた。
白い筋があった。
敵を探していた前方ではない。左へ伸びる海から、こちらの進む先へ斜めに入ってくる。
「取舵一杯、急速回避!」
操舵員が舵輪を回した。
艦首が左へ振れ始める。白い筋を、氏家は追った。
曲がる前の「棕櫚」がそのまま進めば、筋と船腹が重なる。艦首を魚雷の来る方へ向け、通り過ぎる幅を小さくする。
「増速!」
機関へ送られた声の下で、船体が傾いた。
左舷の海が近づいた。
雷跡が艦首の脇へ移り、白い線は船の形をかすめずに走った。
「左舷、通過!」
氏家は息を吐くより先に命じた。
「離脱する。最大戦速。針路、一一〇」
追っていた相手へ戻るより、この海面から抜けなければならなかった。
佐野が針路を確かめ、操舵員へ伝える。
それを待つ間に、別の声が来た。
「七時方向、魚雷!」
「馬鹿な」
氏家の口から出た。
後ろだった。
先ほどの魚雷をかわして向きを変えたこちらへ、今度は後方から一本が向かってくる。
前にいる相手を追っていたはずだった。
その前からも、横からも、後ろからも撃たれる。
氏家は海面を見渡した。
潜水艦の姿は一つもなかった。分かるのは、近づいてくる白い筋だけだった。
「司令部へ打電。本艦、敵潜の波状攻撃を受く。離脱を図る」
命じた声は、自分が思ったより落ち着いていた。
脇の下には汗が流れた。
狩るつもりで走ってきた艦が、ここでは狙われている。
彼らは、こちらの動きを待っていたのか。
*
「五時、魚雷!」
見張り員が叫んだ。
右の後方にも筋があった。
氏家は海面と船首の向きを見比べた。左へ逃れれば、左から来た筋の通る所へ入り直す。右へ切れば、今、右の後ろから来ているものへ船腹を見せる。
「十一時、魚雷!」
今度は左の前だった。
操舵員は、次の命令を待っていた。
勝手に舵を返せば、艦長が考えている航跡とは違う所へ艦が行く。それを知っているため、彼は舵輪を押さえて待っていた。
氏家はその手を一瞬見た。
止められれば。
舵で避けるのではなく、この先へ船体を進ませなければ。
「後進一杯!」
氏家が命じた。
佐野が振り向いた。すぐ機関への復唱が続いた。
操舵員へ、舵を戻すよう命じる。
艦はまだ前へ進んでいた。命じた瞬間に船首波が消えるわけではない。船の重さと、それまでの速力がそのまま海を押していた。
少しでも落とせ。
氏家は、魚雷の先が通る海面を見た。
機関室に、後進一杯の命令が届いた。
機関長が顔を上げた。
今、前進で回している。その回転を落とし、後進へ切り替えなければならない。海の上で何が迫っているかは知らされていない。ゆっくり落とす余裕がないことだけは、声の強さで分かった。
「後進一杯!」
機関長が復唱し、操作を命じた。
計器の針が動いた。床を伝わる振動が変わり、足元から別の響きが上がった。
機械が命令について来るまでの間があった。
兵はその間も手を動かし、機関長は回転の落ち方を見ていた。急いでいるからこそ、飛ばせない操作がある。機械を壊せば、船は次の要求に応えられなくなる。
「回転、落ちています!」
声が返った。
機関長は次を追わせた。
艦尾に乱れた水が湧いた。
氏家の身体が、僅かに前へ寄せられた。
「左舷魚雷、通過!」
一本が抜けた。
その前を行くはずだった船体が、予定されていた速さで進まなかったためなのか。氏家はそれを確かめる間もなく、右舷を見た。
白い筋が船腹へ向かっていた。
近い。
かわすために動かせる余地が、もうない。
「右舷、避けられません!」
報告を出した見張り員の声が、最後で裏返った。
「総員、耐衝撃姿勢!」
氏家は命じ、手すりを握った。
佐野が身体を低くした。そばの兵が脚を広げ、別の者は肩をすくめた。
氏家の目には、まだ海が見えていた。
白い筋の先が、右舷中央へ消えた。
ゴーン。
鐘をつくような音が、艦を通った。




