狩られる猟犬(2)
氏家は次の音を待った。
来なかった。
爆発がない。
手すりを握った指に、力が入ったままだった。
海が上へ飛ぶことも、艦橋の床が足の下から消えることもなかった。機関の音が続いている。風が吹き、何かが艦橋の隅で転がった。
「右舷中央、命中!」
報告が来た。
「爆発、認めません!」
誰かが顔を上げた。
佐野が氏家を見た。
「不発です」
その声を聞いて、艦橋のあちこちで息が漏れた。
助かった。
氏家もそう思った。喉に詰まっていたものが、ゆっくり下がっていく感じがした。
だが、右舷の鋼板には魚雷が当たった。炸裂しなかったとしても、当たったことまで消えるわけではない。
「応急班、被害を確かめろ。浸水、機関、操舵の状態を報告」
氏家が命じると、佐野がすぐ取り次いだ。
手すりから片手を離した。掌が痛かった。
艦橋へ別の報告が来るまで、右舷中央という言葉だけが残った。
舷側に近い所で、兵が立ち上がった。
衝撃に備えていた姿勢から、動いてよいかを確かめるように顔を上げた。大きな爆発は聞こえなかった。それでも、艦内を響きが通った。
「そちら、見て回れ」
応急班の下士官が命じた。
灯りを持った兵が、床と舷側を確かめる。上から見えない場所に手を伸ばし、鋼板の継ぎ目を照らした。
水の流れる音はなかった。
誰かの息の方が大きく聞こえた。
「こっちは入っていません」
兵が答えた。
「隣も見ろ。今ないだけかもしれん」
下士官が言った。
一度見て終わることはできない。船体が揺れ、力のかかり方が変わったあとに、水が入ることも考えなければならなかった。
兵は灯りを動かした。
当たったのは、この外側だった。
そのことを考えると、鋼板がやけに近かった。今まで壁だと思っていたものの向こうに、魚雷が来た。
「顔を近づけすぎるな。見えたことを言え」
下士官の声で、兵は身体を引いた。
命じられた通りに見て、報告する。その仕事がある間は、立っていられた。
機関室では、機関長が被害の報告を集めていた。
大きな響きのあとも、機械は動いていた。後進への急な切り替えで、そちらにも無理がかかっている。
艦橋から前進の要求が来た。
機関長は復唱させ、状態を確かめながら応じた。壊れていないことと、いつも通りに使い続けられることは、一度の確認では決まらなかった。
「今のところ異状なし。引き続き見る」
艦橋へそう返させた。
「操舵、異状ありません!」
「浸水、今のところ認めず!」
声が揃い始めた。
氏家はそれを聞き、前方へ向き直った。
動ける。
あの雷跡を撃った相手も、まだこの海にいる。
今度はこちらが追う。
「取舵一杯。後方の敵へ向かう」
氏家が命じた。
後ろから撃ってきた相手が、ほかの艦を指揮しているのかもしれない。そう思ったが、確かめる手段はなかった。位置も、最後の雷跡から推し量るしかない。
佐野は復唱のあと、海図を指した。
「最後の雷跡は、こちらからです。ただし、そこに留まっているとは限りません」
「分かっている。聴音で確かめながら行く」
答えながら、氏家は自分の声が強くなっていることを感じた。
沈められかけた。
その相手を、逃がしたくなかった。
*
椛島は、幾つもの音の中にいた。
増速と減速、回頭、そして急な後進で、自艦の音が変わり続けていた。敵だと思って追ったものを失い、魚雷の報告が次々来た。
右舷に命中したという声も届いた。
それでも、艦は動いている。
椛島は自分の前の器具を見てから、耳へ戻した。
艦長が欲しいのは敵の位置だった。
答えなければならないと思うほど、幾つもの響きが一つに重なった。止まっていた音が戻り、別の方位にも刻みがある。
同じ相手が動いたのか、違う相手なのか。
最初から一隻ずつしか聞こえなかったからといって、ほかにいなかったとは言えない。
「複数のスクリュー音を認めます」
椛島は報告した。
隣の兵が、そのまま送った。
「数は」
問いが戻った。
椛島は方位を一つずつ確かめた。自艦の回頭で移る分を、頭の中で直す。
「三隻と思われます。別々の方位です」
言ったあとも聞き続けた。
確実に区別できた音は三つだった。ほかが聞こえないため、それ以上いないとは言えなかった。
「三隻か」
氏家は思わず言った。
「棕櫚」一隻を、それだけで取り囲んだのか。
自分たちも敵に覚えられたのだろうかと、一瞬、妙に愉快な気持ちになった。ハリアーの時には逃げる相手を追った。今度は向こうが待っていた。
そう考えた先に、右舷へ消えた白い筋があった。
愉快だと思えるのは、炸裂しなかったからだった。
「三つの方位を記録しろ。遠ざかっているのか」
「音は動いています。離れつつあると思われます」
報告を受けたところへ、通信員が来た。
「米海軍駆逐艦、救援に向かっています。ジョナサンです」
氏家は顔を向けた。
「ノーマン中佐の艦か」
「はい。本艦へ急行するとのことです」
佐野が海図の別の場所を示した。
氏家は頷いた。
一隻増えれば、一隻が曲がった先をもう一隻が守れる。相手が音を消しても、両側から確かめられる。四方から撃たれる海に、自分だけで留まらずに済む。
ありがたかった。
「本艦の位置と状況を送れ。魚雷命中、爆発なし。行動可能。敵潜、複数」
通信員が取り次いだ。
岸では、相手の艦へ案内してくれと頼んだ。その艦が、今はこちらへ来る。
試合をするという約束しか、まだ交わしていなかった。
見張り員が、別の船影を発見した。
「棕櫚」と違う方向から、白い船首波を立てて近づいていた。
ジョナサンだった。
氏家は双眼鏡でその姿を確かめた。こちらへ急行した艦は、そばへ来て止まるのでなく、敵潜のいると思われる海面の外側へ進んだ。
信号が送られてきた。
佐野が読み取り、相手の動きを海図で示した。
「あちらが、こちら側を押さえます」
「了解と返せ。本艦はこの音を追う」
氏家は答えた。
相手の艦橋で誰がどんな顔をしているかは見えない。海図の上では、進む方向が噛み合い始めていた。
椛島から、新しい方位が来た。
「音、遠ざかっています」
佐野が指を動かした。
敵はまだ逃げ切っていない。
*
氏家は一つの音へ艦を寄せた。
相手は出力を上げたと思うと、また落とす。別の音も遠ざかっていた。すべてを「棕櫚」だけで追うことはできない。
水雷長は艦尾で投下の準備を確かめ直した。急な後進の間も、爆雷は艦上にあった。そこで何かが動いていれば、次の攻撃で遅れる。
兵が留め具と設定を読み上げた。
水雷長が報告を出した。
氏家は声を受け、見張り員の方へ目を向けた。
敵はまだ魚雷を残しているだろう。潜って逃げるだけの相手になったと決めることはできなかった。
「二時方向、魚雷!」
また来た。
白い筋がこちらへ伸びていた。
「取舵!」
氏家が命じた。
船首が左へ動く。先ほど後進で避けた時とは、速力も周囲の配置も違っている。ジョナサンの位置を確かめ、雷跡が通る先を見た。
一本だった。
ほかの方位からの報告は、今のところなかった。
氏家はその筋をやり過ごすと、敵がいると思われる方へ艦を向け直した。
まだ戦うつもりか。
逃げる最後まで、こちらへ武器を向ける。そのことに感心する気持ちもあった。自分が潜水艦の艦長なら、追ってくる駆逐艦を一度でも避けさせるために、同じことをするかもしれない。
こちらも、それを待っているわけにはいかなかった。
「敵潜上を通過後、爆雷攻撃に移る」
氏家は命じた。
「先ほどのお礼をしてやれ」
強い声で続けると、水雷長の復唱が返った。
機関へ要求が送られた。佐野が方位を確かめ、操舵員が針路を保つ。
機関長はそれに応じながら、急な後進を受けた機械を見続けていた。
追える速力は出ている。
それを出し続けられるかは、まだ確かめているところだった。
艦尾から爆雷が落ちた。
「棕櫚」はそこを離れ、背後の海面が盛り上がった。
氏家は双眼鏡を向けた。
油も、破片も見えなかった。
聴音の返答まで待った。
「爆発のため、確認できません」
椛島の声が伝わった。
それを、艦橋の誰も急がせなかった。
氏家は時計を見た。砲術長へ警戒を続けさせ、応急班へ被害点検の状況を求めた。
右舷の内側では、まだ水は見つかっていないという。
機関も、操舵も動いていた。
見張り員がジョナサンの位置を告げた。相手の艦も敵潜を追い、こちらと間隔を保っていた。
しばらくして、椛島の報告が来た。
「弱い音があります。最後の方位より先です」
沈めたという声ではなかった。
氏家はその方向へ目を向けた。
ここでまた追えば、相手はさらに止まり、ほかの相手が別の方位から動くかもしれない。
先ほども、それを考えた。
考えた上で追って、魚雷は船腹へ来た。
「追跡を切る」
氏家が言った。
佐野は海図から顔を上げた。
「ジョナサンへ知らせろ。本艦は損傷点検を優先する」
「はい」
復唱を受け、氏家はもう一度、敵が消えた海を見た。
逃がしたという悔しさはあった。
それをなくしてから決めることはできなかった。
*
敵の音は再び失われた。
今回も撃沈を確かめるものはなかった。最後に聞こえた位置と時刻を記し、船団指揮官と司令部へ報告した。
ジョナサンから信号が来た。
船団の護衛へ戻るという。
氏家は双眼鏡を下ろした。
彼らには、まだ守っている船がある。「棕櫚」の救援で費やした時間を、今度は船団へ戻るために使わなければならない。
「救援を感謝する、と返せ」
氏家が言うと、信号員が動いた。
ノーマンに、岸で言ったような言葉を直接返すことはできなかった。帽子を取ることも、手を握ることもない。
旗が上がった。
相手から応答があり、ジョナサンの船首が船団の方へ向いた。
氏家は、その船影をしばらく見送った。
木下兵曹長が、右舷の甲板で点検を続けていた。
外側の損傷を確かめるには、港で船体を見なければならない。今できるのは、艦内から見たことと、上から確かめられる範囲を合わせることだった。
「道を空けろ。点検の者を通す」
木下が言うと、兵が身体を引いた。
野本も、そのそばで作業していた。何かが動けば拾い、伝えるよう命じられたことを、必要な部署へ伝えている。
氏家が甲板へ出た時、彼は返事をしようとして一度声を詰まらせた。
それから、言い直した。
氏家はその顔を見たが、何も尋ねなかった。
米兵に返した言葉も、試合の話も出なかった。
野本の目は、魚雷が当たった側へ戻っていた。
あの音を、彼も聞いたのである。
機関長と水雷長、応急班の報告を聞いた。
現在、浸水は認めない。機関に明らかな故障は出ていない。舵も使える。ただし、魚雷が当たった箇所の外側と、急な後進をかけた機関は、帰投後に詳しく調べる必要があった。
駆逐艦の船腹は、魚雷の衝突に何度も耐えるための厚い壁ではない。
「帰投する」
氏家は決めた。
「速力は機関長と合わせる。航海長、針路を」
佐野が頷いた。
海図へ引かれた線は、敵へ向かうものではなくなった。
マルタへ戻る。
ここにいる者を乗せたまま、戻る。
戦闘配置を一部解いたあとも、乗員の声はすぐには戻らなかった。
当直を交代し、水を飲み、持ち場を確かめる。カップを受け取った兵が、両手でそれを支えていた。指が揺れ、縁に少し当たった。
隣の者は見ないふりをして、自分も水を飲んだ。
木下が通りかかり、次に交代する者を呼んだ。
「座れるうちに座っておけ。点検は、こちらで続ける」
兵が頷いた。
大丈夫だったと言い合うには、まだ早い者がいた。
氏家は艦橋へ戻った。
自分には次の命令があった。魚雷が当たったあとも、被害を求め、敵へ艦を向け、応援を受け、攻撃を命じた。その間、手を止めることはなかった。
命じられた姿勢で音を待つしかなかった者もいる。
その違いを、自分が平静だったというだけで測ることはできないと思った。
佐野が今日の航跡をまとめていた。
氏家はその隣に立ち、敵の音を最初に失った時刻を見た。次に後方で聞こえた音、回頭した場所、四つの方位から来た魚雷の報告が続く。
同じ艦ではないと考えたところまで、自分は疑っていた。
疑いながら、追った。
敵を見つければ、寄せて沈める。その仕事に慣れてきたことを、艦が強くなったと感じていた。
相手も、その動きを見ていたのかもしれない。
「艦長、最初の音の方位はこちらです」
佐野が指した。
氏家は頷いた。
「聴音の記録も合わせよう。分からない所は、分からないと残しておけ」
「はい」
何隻が、どこから、何本撃ったか。今の記録だけで全部は決められない。
自分たちが聞いたものを、あとから都合よく並べ替えれば、次も同じ所へ走ってしまう。
氏家は右舷に命中したという記載を見た。
その下に、不発、とあった。
この二文字がなければ、海図を二人で見る時間もなかっただろう。
部下は命令に従い、機関は要求に応え、舵も動いた。見張り員は魚雷を見つけた。
それでも、当たった。
助かったことまで、自分たちの腕にしてはならなかった。
帰る針路に入ると、海はまた広く見えた。
氏家は手すりへ手を置いた。握りしめていた所が、まだ痛んだ。
次の休みまで、互いに死ぬな。
岸で聞いたノーマンの声を思い出した。
その男に、今日、助けられた。
彼の艦は船団へ戻っていった。あちらにも、次の魚雷が来るかもしれない。
氏家は船団のある方角へ目を向けた。
黒煙はもう見えなかった。
「棕櫚」は航走していた。
氏家は、まず、この艦を帰さなければならなかった。




