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ユトランドの記憶

第七章 ユトランドの記憶

 右舷の鋼板には、まだ白い印が残っていた。

 入港してから、氏家は幾度かそこを見た。上から覗くだけでは、魚雷が当たった所のすべては分からない。艦内の点検では浸水を認めなかったが、それだけで次の航海に出すわけにはいかなかった。

 工廠の者が場所を確かめ、乗員が艦内から報告を合わせる。機関室でも、全速前進から急に後進をかけたあとの点検が続いていた。

 岸に繋がれた「棕櫚」は、静かだった。

 機関の響きが弱くなると、別の音が聞こえた。工具を置く音、作業を告げる声、陸から渡された物を甲板へ下ろす音だった。艦が走っていない間にも、乗員の仕事は途切れなかった。

「まだ、ここだけでは決まりません」

 点検から戻った機関長が言った。

 氏家は頷いた。

「必要な所を見てくれ。急がせるつもりはない」

「はい。分かり次第、報告します」

 相手は手に持っていた布で、指先を拭った。汚れはすぐには落ちなかった。

 海の上では、その手に後進を命じた。続けて前進を求め、また増速させた。どの命令にも機関は応じた。

 応じられたことをもって、無理がなかったとは言えなかった。

 機関長が艦内へ戻るのを見送り、氏家は岸へ目を向けた。

 休暇を許された兵が、二人連れで歩いていた。片方が何か言い、もう一人が笑った。その笑いが艦まで届いた。

 海の上で、水の入っていない鋼板を照らしていたのも、ああいう顔をする者だった。

 氏家は帰投後の報告を書き直した。

 敵潜の隻数、雷跡の方位、命中した時刻。確かめられたことと、推測したことを分ける。反撃をしたからといって、撃沈という字を置く所はなかった。

 右舷中央命中、不発。

 短い記載だった。

 それを書いた紙を、乗員の家へ送るわけではない。兵の妻や母親は、海の上でどんな音がしたかを知らないまま、無事だという便りを読むのだろう。

 氏家も家には、無事だと書くつもりだった。

 妻がほかに何を読み取るかまでは、分からなかった。

     *

「駆逐艦ジョナサン、帰投してきました」

 佐野の報告で、氏家は甲板へ出た。

 港の入口に、駆逐艦の艦影があった。岸の建物を背にしても、前甲板と艦橋の形は見分けられた。海では、白い船首波の上に見た艦だった。

 戻ってきた。

 氏家はその姿をしばらく見ていた。

 こちらを助けたあと、ノーマンは船団へ戻った。自分たちが岸に繋いでいる間も、彼らは輸送船の脇を走っていた。

「船団は」

「無事、任務を終えたとのことです」

「そうか」

 氏家の声は、それだけだった。

 着岸を待ち、先方の都合を確かめてから、氏家は礼を伝えに行った。

 ノーマンは甲板に出てきた。岸で見た時と同じ大きな身体だったが、制服の襟元に疲れがあった。氏家の後ろの「棕櫚」を見ると、帽子の庇を少し持ち上げた。

「帰れたな、少佐」

「おかげで。救援を感謝します」

 敬礼をしてから、氏家は手を差し出した。

 ノーマンの掌が包んだ。強い手だった。海の上では、それを見ることさえできなかった。

「船団も無事だったと聞きました」

「ああ。向こうへ届けるところまでが仕事だからな」

 ノーマンは手を離し、艦内へ向かう兵に短く声をかけた。兵が答え、また歩き出した。

「君の船腹は」

「調べています。浸水はありませんでした。機関も帰るところまでは動きました」

「帰るところまで、か」

「そのあとは、機関長の報告を待ちます」

 ノーマンが頷いた。

「うちも似たようなものだ。海で何も言わなかった機械が、岸で文句を言い始める」

 氏家は少し笑った。

 そばで索を整理していた米兵が顔を上げた。艦長たちの話を聞くためではなく、笑い声に目が向いたらしかった。すぐ手元へ戻った。

「今日は試合を申し込む気にはならんな」

「こちらもです」

「逃げる口実にするなよ」

「艦の検査です。私の検査ではありません」

「それならいい」

 ノーマンも笑った。

 氏家は礼だけを述べて帰るつもりだったが、帰り際に足を止めた。

「後方へ敵を追った時には、また同じ罠へ入るかもしれないと考えていました」

 ノーマンが顔を向けた。

「考えて、それでも追ったのか」

「はい」

 氏家は相手を見た。

「当てられた直後でした」

「そうだったな」

 ノーマンは、そこで慰める言葉を出さなかった。

 艦橋で信号を受けた彼には、こちらの表情までは見えなかったはずだった。氏家が冷静に敵の離脱を阻んでいるようにも見えたかもしれない。

「君が向かった方位は、こちらにも届いていた」

 ノーマンが言った。

「だから別の側から入れた。それは役に立った。ただ、私は君の船の中までは知らん」

「私も、そちらの中は知りません」

「そうだ。だから、艦長は自分の船を見てくれ」

 氏家は頷いた。

 ノーマンは甲板の方へ目を戻した。片づけを終えた兵が、次の者と交代していた。

「少し休もう。今日、無事だったことを喜ぶ時間くらいはあっていい」

「ええ」

 氏家はもう一度、港の向こうの「棕櫚」を見た。

 白い印のある船腹は、こちらからは見えなかった。

     *

 前年、英国の駆逐艦に乗っていた時も、氏家は艦の外側を見ていた。

 自分がこの艦を動かすことになるかもしれないと思えば、岸からの姿も覚えておきたかった。艦橋までの通路を歩き、伝声管の口を覗き、機関への要求がどのように送られるかを聞いた。

 海軍から命じられたのは、英国の駆逐艦を扱う技術を身につけることだった。

 見学だけでは足りなかった。同じ命令を聞き、同じ甲板に立ち、その艦の動きを自分の身体で覚えなければならなかった。

 兵は、初めのうち氏家を見てから英国士官を見た。誰の命令に従えばよいか、確かめる目だった。

 氏家も、彼らの顔を見分けるところから始めた。

 聞き取れない言葉があれば、もう一度言わせた。分かったふりで頷くと、次の仕事に齟齬が出る。それは、自分の体面より先に片づけなければならないことだった。

 艦長のターナー中佐は、その様子を見ていた。

「少佐、岸へ戻る機会はある」

 出撃を前に、ターナーが言った。

「君の国へ持ち帰るものは、もう幾らか得ただろう」

 氏家は、甲板の方を見た。

 兵が発射管の周りで仕事をしていた。別の者が、索の端を収めていた。出港前の艦は、岸に繋がれていても、もう陸の時間では動いていなかった。

「実戦の操艦を、知りたいと思っています」

「本に載せるためか」

「自分が使うためです」

 ターナーは氏家を見た。

「残るなら、この船の者として働いてもらう」

「承知しています」

 その時は、言葉を違えず答えられた。

 氏家は二高に在学している間に、実家の没落を知った。兵学校へ入ってからは、何を望んでそこへ来たかと問われるたびに、答えを選ぶ癖がついた。

 海へ出たいと思ったことに、嘘はなかった。家の事情から離れたかった気持ちも、自分だけは知っていた。

 ここでは、どちらの答えを話しても艦は動かなかった。

 自分に任されたことを、できるようになるほかなかった。

 出港すると、岸にいた者の顔が遠くなった。

 英国の港を出る時、氏家を見送る妻も子もいなかった。代わりに、前に立つ英国兵の背を見ていた。

 この者たちと帰る。

 そう考えた時には、まだ、帰れない場合の姿を知らなかった。

     *

 ユトランドの海で、氏家が最初に覚えたのは、敵の艦形より水柱だった。

 舷側の向こうに海が盛り上がった。

 音を聞く前に、視界を塞ぐような水の壁があった。艦が傾き、氏家の足が甲板を滑った。手近なものを掴み、肘に力を入れた。

 水が落ちてきた。

 帽子の庇から流れ、襟の内側へ入った。口に塩気があった。

 直撃ではない。

 そのことを考えられたのは、艦がまだ走っていたためだった。

 これを食えば、駆逐艦など真っ二つになる。

 氏家は、水の落ちた海面を見た。どの戦艦が撃ったものか分からなかった。主力艦の大砲が届く場所に、自分たちの小さな艦がいた。

 日本海海戦の記録を読んだことはある。戦う艦の位置を、紙の上で追ったこともあった。

 しかし、その紙には、濡れた足元も、身を支えるために握った指もなかった。

「位置を確かめろ」

 ターナーの声がした。

 氏家は顔を向けた。

 見張りの報告と信号が、艦橋へ来ていた。煤煙の向こうから僚艦が現れ、また隠れた。何隻がどこで砲火を交わしているのか、そのすべてを知ることはできなかった。

 司令官からの命令を受け、見える艦の動きを確かめ、自艦の針路を保つ。ここで使えるのは、それだけだった。

 艦橋の兵が、手に持っていたものを落とした。

 すぐ拾い、持ち場へ戻った。ターナーはその者を見たが、叱らなかった。

 氏家は、兵の指が震えていたのを見た。

 自分の指も、手すりから離せば同じようになる気がした。

 ターナーは次の報告を聞いた。返事をしてから、操舵員へ命令を出した。その声が、さっきと同じ高さだった。

 恐ろしくないのか。

 氏家は一瞬、そう思った。

 ターナーの手は、海図の縁を押さえていた。紙が風で動かないようにしているだけだった。恐怖のある手かどうかは、見ても分からなかった。

 また水柱が上がった。

 今度は少し遠かった。

 艦橋にいた者が、同じ方へ顔を動かした。そこを見ていても、次の砲弾が来る場所は分からない。

 氏家はターナーへ向き直った。

 艦長は、既に別の海面を見ていた。

「少佐、あれを見たまえ」

 氏家は示された方へ双眼鏡を向けた。

 敵の軽巡洋艦が、煙の切れ目にいた。艦首の向きが、こちらから離れるように変わっていた。

「君なら、どうするね」

 ターナーが尋ねた。

 海面の上に、敵艦の形が残った。先ほど自分たちを砕くはずだった巨砲の艦ではない。それでも、こちらの船腹を撃ち抜く砲を持っていた。

 この艦の速力、敵との距離、魚雷を放ったあとの逃げ道。

 氏家は、それまで教わったことを、見えている海へ重ねた。

「肉薄雷撃あるのみです」

 言うと、ターナーの口元が少し動いた。

「操艦は君に任せる。やってみたまえ」

 氏家は相手を見た。

 ターナーは、その視線を受けたまま頷いた。

 この艦の艦長が、自分に任せると言った。

 英国兵たちの顔がこちらへ向いた。自分に何ができるかを見物する目ではなかった。次の命令を聞くための目だった。

 氏家はターナーに敬礼した。

「以後、本職指揮を執る」

 言葉を出すと、次に言うべきことが決まった。

「針路、南南東。機関全速。右舷魚雷発射管、用意」

 英語で命じた。

 復唱が返った。操舵員の手が動き、艦の向きが変わった。

 氏家は敵艦を見た。

 さっきまで、自分へ飛んでくるものばかり見ていた。その艦へ向かって走るとなると、相手の針路を見なければならなかった。

 怖くなくなったのかどうか、考える余地がなかった。

     *

 駆逐艦は、波の上で艦首を持ち上げた。

 甲板へ戻るたびに、足元から突き上げられた。艦尾へ海水が流れ、兵が脚を開いて踏みとどまった。

 魚雷発射管のそばで、準備が進んでいた。

 氏家が選んだ針路を、彼らは知らなかった。敵へ接近していることは分かる。発射の命令までに、自分たちの仕事を済ませておかなければならない。

「距離三千五百」

 報告が来た。

 敵の軽巡洋艦が撃ち始めた。

 艦の左右に水柱が上がる。先ほどの巨砲弾より小さかった。それを見て、まだ行けると思った。

 小さくても、当たれば兵は死ぬ。

 そのことを知らなかったわけではない。それでも、海面に見える大きさで恐怖を比べていた。

 氏家は針路を変えさせた。

 艦が回る間、敵の船首を追う。かわすために動けば、魚雷を放つ位置も変わる。離れすぎれば追いつけない。近づくだけなら、敵砲に狙いを据えさせる。

 艦橋の報告が続いた。

 氏家は返事をし、命令を出した。口にした言葉が正しく届くかを、復唱で確かめた。

 自分が口を閉じれば、その間も艦は走る。

 ターナーがそばにいた。

 氏家の肩越しに海を見ていた。何も言わなかった。その沈黙が、任せているということだった。

「距離二千」

 敵艦が大きくなった。

 発射の準備が整ったという報告を受けた。狙いが定まり、艦がその位置へ来る。

 氏家は、近くに立つ士官へ顔を向けた。

「てーっ!」

 日本語が口から出た。

 士官が英語で発射を命じた。声に重なるように、魚雷が海へ入った。

 三本だった。

 やや開きながら、敵艦へ向かった。

 氏家はすぐ針路を変えさせた。

 魚雷を撃っても、敵の砲が止まるわけではなかった。ここに留まって成果を待てば、その間に撃ち抜かれる。

 回頭する艦の上から、敵艦を追った。

 白い筋の先が、煙で見えにくくなった。

 まだか。

 自分たちはその時間にも距離を走る。発射した場所が後ろへ移り、敵の見える角度も変わる。

 軽巡洋艦の左舷に、火と水が上がった。

「命中!」

 見張り員の声がした。

 氏家は敵艦を見た。

 当たった。

 それでも、敵艦は進んでいた。

「取舵一杯」

 操舵員が答えた。

 氏家はもう一度攻撃するため、残る魚雷の準備と発射位置の算定を命じた。

 相手はまだ浮いている。浮いて砲を使える限り、戦闘は終わらなかった。

「僚艦、肉薄しています」

 別の駆逐艦が見えた。

 こちらより違う角度から敵へ寄せ、魚雷を放った。艦首が振れ、攻撃を終えた艦が離れていく。

 氏家は双眼鏡を上げた。

 敵艦に、もう一度水が立った。

 そのあと、艦の形が変わった。

 それまで水平に見えていた甲板が、傾いていた。なお進もうとする艦首が水を押し、そこへ横から波が覆いかぶさった。

「敵艦、沈みつつあります」

 報告が来た。

 氏家は、自分の放った魚雷だけでは沈まなかったことを思った。

 獲物を取られたような気がした。

 僚艦の艦長も、こちらの攻撃に負けまいとしたのかもしれない。そう考えれば、一瞬、競争に負けたようだった。

 双眼鏡の中で、人が動いた。

 傾いた甲板から、小さな影が海へ落ちた。

 氏家は、そちらを見た。

 敵艦の砲が見えなくなった。発射のために追っていた船腹も、水の下へ隠れていった。

 残った影は、泳いでいた。

「ターナー中佐」

 氏家は向き直った。

「敵兵の救助に向かいたいのですが」

 ターナーは、周囲の海を確かめた。

「よかろう、少佐。許可する。見事な攻撃だった」

 氏家は敬礼し、救助の用意を命じた。

     *

 艇を下ろすまでにも、時間がかかった。

 自分たちが近づけば、すぐ海の者を引き上げられると思っていた。しかし、海面には波があり、艦には行足が残っていた。助けに行く側も、落ちずに作業をしなければならなかった。

 兵が索を送り、別の兵が艇の動きを見た。

 氏家は海面の影を数えようとした。

 波の谷へ入ると見えなくなり、次に浮いた時には別の場所にいた。同じ者を二度見たのかもしれなかった。

 甲板から声が飛んだ。

 氏家に分からない言葉だった。

 ドイツ語を知る兵が、海へ向かって呼びかけていた。艇へ寄れという意味らしかった。声をかけられた者が腕を上げ、また水の中へ顔を伏せた。

 その兵は、さっきまで発射管のそばにいた。

 魚雷を敵艦へ向けた手で、今は救助索を持っていた。

 氏家は見ていた。

 自分が命じれば、その者は撃つ。そのあと助けよと命じれば、助けるために身体を乗り出す。二つとも、この艦の仕事だった。

 最初の敵兵が引き上げられた時、甲板の兵が足元を空けた。

 濡れた男が咳をした。制服の布が身体に貼りついていた。顔を上げたが、どの者を見るべきか分からないようだった。

 英国兵が布を渡した。

 男は両手で受け取った。その手が震え、すぐには身体へ巻けなかった。

 氏家はそばにいた兵へ、身振りで助けるよう伝えた。

 兵は頷き、男の肩へ布をかけた。

 別の者が艇から上がってきた。腕を支えられ、甲板へ座った。海を見たまま、何か言っていた。

 氏家には、その言葉が分からなかった。

 聞き取れる兵が短く返事をした。

 座った男は、また海を見た。

 誰かを探しているのかもしれなかった。

 氏家も海へ目を戻した。

 沈んだ艦のあった場所に、波が来た。自分たちが放った三本の魚雷のうち、どれが命中したかを知るための海面とは、もう違って見えた。

 ターナーが氏家の隣へ来た。

「少佐、次の命令が来る」

 氏家は顔を向けた。

 救助を続けたいと思った。だが、遠くにはまだ煙があり、別の艦が砲火を交わしていた。

 こちらだけ、海戦の外へ出たわけではなかった。

 氏家は甲板を確かめ、救助の状況を報告した。

 ターナーは頷いた。収容した者の扱いを指示し、氏家へ持ち場を示した。

 艦長の声は、さっきと同じだった。

 魚雷を放つ時も、海の者を拾う時も、そのあとの航海へ戻す時も、ターナーはこの艦の艦長だった。

 氏家は、その横顔を覚えていた。

 自分の操艦が公式の記録に残ることはなかった。戦ったのは、英国の艦長が率いる英国の駆逐艦だった。

 氏家が持ち帰ったものは、撃沈の名誉ではなかった。

 命令を出すと、自分の目の届かない場所で、人が動く。

 そのことを、初めて砲火の中で知った。

     *

「艦長」

 佐野の声で、氏家は顔を上げた。

 マルタの港だった。

 甲板には、乾いた日差しがあった。波は舷側へ小さく当たり、点検を終えた工具が箱へ戻されていた。

「機関長から、報告があります」

「聞こう」

 氏家は艦内へ戻った。

 機関長の説明を聞き、必要な検査と作業の見通しを確かめた。出港できるかどうかは、すべてを終えたところで判断する。氏家は、その順序を崩さなかった。

 報告が済むと、佐野と二人になった。

「私は、命中した時も、それほど怖くなかったと思っていた」

 氏家は言った。

 佐野が顔を向けた。

「ユトランドでは、巨砲弾が近くに落ちた。あれを知っているからだと思った」

「はい」

「英国の兵が、落としたものを拾っていた。手が震えていたのを覚えている」

 氏家は自分の手を見た。

 昨日、手すりを握り込んだ所に、まだ痛みがあった。

「昨日、命中音のあと、私には次に命じることがあった。機関を確かめ、敵へ向かわせた。あの英国艦でも、任されたあとは次にすることを考えていた」

 佐野は黙って聞いていた。

「待つだけの者が、同じように感じたとは限らないな」

「命令は、聞こえていました」

 佐野が答えた。

「艦がまだ動くと分かりました。それは助かりました」

「うむ」

「ただ、機関室や艦内では、何が来るかは見えません」

 氏家は頷いた。

 自分は、白い雷跡を最後まで見た。それを避けられないと知り、衝撃に備えよと命じた。

 海を見ない者には、その命令だけが届いた。

 そのあと、鐘のような音がした。

「私は、自分が平静だったことを、皆が落ち着いていたことにしていたのかもしれん」

 佐野は返事を急がなかった。

 氏家も、同意を求めて言ったのではなかった。

 何を怖がったかを、一人ずつ訊いて回るつもりはない。答えたくない者もいるだろう。艦長が聞けば、怖くなかったと答える者もいる。

 昨日、水を飲んでいた兵の手を覚えていればよかった。

 木下が、その兵を座らせたことも。

「次に出る前に、昨日のことは皆に話す」

 氏家は言った。

「不発を、こちらの腕に数えないようにする。敵の数についても、分からなかった所を伝えておきたい」

「承知しました」

「今は、休める者を休ませてくれ。点検の当直は崩すな」

「はい」

 佐野が出ていった。

 氏家は、机の上の報告を見た。

 乗員として初めて実戦に出たのは、ユトランドだった。艦長として、自分の艦を率いて戦うのは、この地中海が初めてだった。

 操艦を任されたことはある。

 その時、艦を帰す責任は、ターナーが持っていた。

 今は、自分の所へすべての報告が来る。

 陸の家々へ無事だという便りを書く者を、この艦に乗せている。

 氏家は、書きかけの妻への手紙を出した。

 無事だと記してから、少し迷った。

 子供たちはどうしているか、と書いた。その先に、こちらの乗員も元気に働いている、と加えかけて、筆を止めた。

 元気な者も、まだ昨夜よく眠れなかった者もいるだろう。

 乗員とともに帰港した。

 そう書いた。

 机の向こうから、当直交代を告げる声が聞こえた。

 氏家はその声を聞いてから、手紙の続きを書いた。


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