海の底の艦長(1)
日本の駆逐艦と初めて戦ったあと、U30は、しばらく海の底に留まった。
遠ざかるスクリュー音が聞こえなくなっても、ギュンター・マルシェル大尉は機関を動かさなかった。
敵が速力を落とし、こちらの動き出す音を待っているかもしれない。聴音員が何も聞かないことだけでは、頭上の海から敵がいなくなったとは決められなかった。
「深度」
尋ねると、数値が返った。
ほとんど変わっていなかった。それを保つために、兵の手が動いていた。
止めた艦は、海中に置いたままの石ではない。わずかな傾きが続けば、深さも変わる。前後の釣合いを確かめ、艦を水平に保っていた。
誰かが背中を動かすと、別の者の肘に触れた。
「すまん」
小さな声だった。
言われた兵は、顔を向けずに肩だけ引いた。空いた場所へ、腕が戻った。
ギュンターは二人を見てから、計器へ目を戻した。
床の上に、落ちたものはなかった。爆雷が近くで炸裂したあとには、まず足元を確かめさせる。通路を塞ぐものがあれば、次の作業でつまずく。
全員が、その次の作業を知っていた。
機関を始動する。深度を変える。漏水を見つければ止める。いま静かに待っているのは、仕事がなくなったためではなかった。
塗料と油と汗の臭いがあった。
艦に慣れない者は、この空気に顔をしかめる。ギュンターには、どの臭いがどこから来るか、だいたい分かった。いつもの場所にいると感じられた。
ただ、そのいつもの空気を、いつまでも吸えるわけではない。
航海長のワルター中尉が、蓄電池の残りと経過した時刻を伝えた。
ギュンターは頷いた。
潜っていれば、敵の砲はここまで来ない。だが、潜ったままでは充電できない。ディーゼル機関を動かすためには、海面へ出て空気を得なければならなかった。
この艦を安全な場所に置く命令はなかった。
どちらの危険を、いつ選ぶかだった。
「潜望鏡深度へ」
ギュンターが命じた。
深度を変える間、聴音員は耳を離さなかった。
潜望鏡が上がった。
ギュンターは身を寄せ、海面を確かめた。波の間から光が入り、次には視野が暗くなった。艦影はなかった。
一周してから、もう一度、駆逐艦のいた方位を見た。
「浮上」
命じると、必要な報告が続いた。
ハッチが開き、外の空気が入った。
ギュンターは上へ出た。首の後ろに風が当たった。艦内の兵も、許された者から交代で上がってきた。
一人が海へ顔を向け、鼻から息を吸った。
それを見て、そばの古参兵が言った。
「全部吸うなよ」
「まだあります」
兵が答えた。
笑いは短かった。すぐ見張りへ戻った。
ディーゼル機関が始動すると、艦の響きが変わった。充電が進む間も、海面にいる艦は見張りを続けた。
ギュンターは、自分たちへ走ってきた駆逐艦を思い出した。
英国のH型だった。軍艦旗は日本のものだった。
放った魚雷をかわし、こちらが機関を止めた辺りへ爆雷を投下した。艦尾から撃ち返した魚雷も、当たらなかった。
向こうの艦長の名は、まだ知らなかった。
知らなくても、その手順は覚えた。
次に会えば、自分が先に仕掛ける。
その時は、そう思っただけだった。
*
基地へ戻ると、艦の臭いが服から離れなかった。
艦外へ出た兵が、互いの上着を嗅いで笑った。陸では潜水艦乗りとすぐ分かる、と言う者もいた。言った本人が、同じ臭いをさせていた。
ギュンターは帰投の報告を済ませる前に、艦内の状況を確かめた。
点検が必要な箇所、補給する燃料、使った魚雷。戦果の報告より先に整理しておかなければ、次に海へ出る時の不足になる。
機関の兵が、汚れた紙を差し出した。
書き出した項目の端に、指の跡がついていた。
「航海中に気づいたものを、分けてあるな」
「はい。今、使えないものはありません。ただ、こちらは見ておきたいと思います」
兵が一つを指した。
ギュンターは説明を聞き、ワルターへ引き継がせた。
「よく見ていた」
兵は少し顔を上げた。
「機関が止まれば困りますから」
「私も困る」
答えると、兵の口元が動いた。
艦長の命令は機関を動かさない。最後には、その者たちが油のついた手で動かす。海で細かく尋ねれば煩わせることもあったが、陸では聞く時間を取れた。
ギュンターは、一通り確かめてから司令部へ向かった。
まだ足元が揺れる感じがした。
陸の道は、艦の通路より広かった。向こうから来る者と身体を横にしなくてもすれ違えた。そのために、かえって相手が遠く見えた。
建物の前に、ベッカーがいた。
こちらを見つけても、いつものように手を上げなかった。
「ギュンター」
呼ばれたので足を止めた。
「クラインがやられた」
ベッカーは、低い声で言った。
ギュンターは顔を見た。
「クラインが」
聞き返したあと、次の言葉が出なかった。
兵学校の同期だった。ベッカーと三人でいれば、一人が何か言い、もう一人が否定し、最後の一人が笑うことが多かった。誰がどの役になるかは、その時によった。
クラインは既に、多くの船を沈めていた。
その数を聞くたびに、ベッカーは、自分の分も残せと文句を言った。クラインは、海へ出るのが遅いからだと答えた。
艦の名も、人の名も、その間には出なかった。
沈めたという数だけで話せる時は、まだ三人とも帰ってきていた。
「確かなのか」
ギュンターは尋ねた。
ベッカーが頷いた。
「日本海軍らしい」
「日本海軍だと」
海面にいたH型の艦影が、頭の中へ戻った。
ベッカーが伝えた報告の中に、英国から借りた駆逐艦という言葉があった。ほかの情報と合わせれば、先日戦った相手と思われた。
「マルタからの情報では、艦長はウジイエというそうだ」
「ウジイエ」
ギュンターは声にしてみた。
初めて聞く名だった。
呼び方が正しいかどうかも知らなかった。それでも、これから忘れることはないと思った。
「俺が、あの時沈めていれば」
口から出た。
ベッカーは答えなかった。
自分が駆逐艦を沈めていれば、クラインは帰ったかもしれない。
そう考えれば、二度かわされた魚雷の記憶が変わった。腕の立つ相手を楽しむように思ったことまで、腹立たしくなった。
「俺が仇を取る」
ギュンターは言った。
ベッカーが顔を向けた。
「一人で決めるな」
「分かっている」
「分かっている顔ではないぞ」
ギュンターは相手を見た。
ベッカーの目も、赤かった。
自分だけが、クラインを失ったわけではなかった。
*
司令部を出ると、陸にいる間に済ませる仕事がまだ残っていた。
ギュンターはU30へ戻った。
甲板から降りる時、上がってくる兵と場所を譲り合った。海ではないのに、いつもの癖で足場を確かめた。
艦内で食事の用意をしていた。
場所が狭いため、一人が器を持つと、別の者が腕を引く。熱いものを通す時には声をかけた。誰も、聞き流さなかった。
ワルターが報告を持ってきた。
ギュンターは受け取ったが、初めの行を二度読んだ。
「何か、ありましたか」
ワルターが尋ねた。
ギュンターは紙から顔を上げた。
「クラインの艦が戻らない」
ワルターは黙った。
食事の器を持っていた兵も、手を止めた。
氏名だけでは知らない者もいた。隣の艦の乗員なら顔を知っている兵がいたかもしれない。ギュンターには、彼らが誰を思い出したかは分からなかった。
「日本の駆逐艦にやられたそうだ」
それだけ伝えた。
兵の一人が、食事の器をそっと置いた。底が卓に触れる音がした。
ワルターが言った。
「先日、戦った艦でしょうか」
「その可能性が高い」
ギュンターは答えた。
「確かめる。向こうの行動について、情報を求めてきた」
ワルターは頷いた。
ギュンターは、報告の紙をもう一度読んだ。書かれた機関の項目は、今度は頭に入った。
兵が食事を差し出した。
ギュンターは受け取った。
腹は空いていた。空いていることが気に入らなかった。
クラインの艦は海の底にある。自分は岸に繋いだ艦で、温かいものを食べようとしている。
しかし、器を戻しても、あの艦は戻らない。
ギュンターは口に入れた。
そばの兵も食べ始めた。隣へ器が渡され、狭い場所にまた腕が動いた。
「艦長、こちらも召し上がりますか」
訊かれて、ギュンターは顔を上げた。
「あとでいい。先に配れ」
兵が頷いた。
ギュンターは、自分が黙っていると、その者たちまで声を落とすことに気づいた。
これから仇を取りに行く、と言えば、ここにいる者は用意をするだろう。
魚雷を整え、機関を回し、自分が定めた深度へ潜る。
彼らの中に、クラインと一度も話したことのない者もいる。
自分の怒りだけでは、この艦を動かす理由にならなかった。
そう分かっていることと、怒りが消えることは別だった。
*
ウジイエの名を聞いてから、半月ほどが過ぎた。
その間にも、U30には任務があった。狙う輸送船の航路があり、帰投して補う燃料があった。ギュンターの都合で、戦争の仕事は止まらなかった。
日本の艦の情報が届けば、報告を別に置いた。
船団のそばだけを守る艦ではなかった。離れた海面から敵を探し、見つければ素早く向かってくる。
ギュンターは海図へ線を引いた。
初めて戦った時の動きも、重ねてみた。
探知した相手へ速く寄せる。相手が音を消せば、自艦も速力を落とす。位置を確かめ、爆雷を落とす。
命令が出てから艦が動くまでに、迷いが少なかった。
艦長だけの腕ではないはずだった。聴音員が報告し、航海長が位置を出し、機関と操舵が応じる。その間が短い。
ギュンターは、相手の顔を知らないまま、その艦内を考えた。
自分たちと同じように、仕事を急ぐ者がいる。
誰もが艦長の次の言葉を待つ。
その言葉を、こちらが出させればいい。
「奴が動く。明日、英国船団の護衛だ」
司令部からの知らせを受けた時、ギュンターはベッカーを呼んだ。
ベッカーが海図の向こうへ座った。
「手伝え」
「そのつもりで来た」
ベッカーは海図を見た。
「どう使う」
ギュンターは、先に敵へ知らせる音の位置を示した。
外周を走る駆逐艦を、輸送船団からさらに離す。追われる艦が機関を止め、相手が待つところで、別の艦が音を出す。
敵は、最初の一隻だけではないと考えるはずだった。
それでも、動いている敵を見逃せば、その敵が船団へ寄るかもしれない。ウジイエは、追わずに済ませにくい。
「止める時刻は」
ベッカーが尋ねた。
ギュンターは、あらかじめ定める位置と間隔を示した。
海中では、陸にいるように声をかけ合えない。潜航したまま相手の細かな動きまで知ることはできなかった。
敵だけでなく、自分たちの音を互いに聞くことになる。
どの艦が、どちらへ進むか。どこで機関を止めるか。予定どおりに相手が来なければ、どの段階で諦めるか。
ベッカーは、一つずつ確かめた。
「こちらが先に捕まったら」
「無理に引きつけるな。抜けろ」
「待つ時間を延ばして、お前に撃たせることもできるぞ」
「必要なだけでいい。それ以上、待つな」
ギュンターは言った。
ベッカーが顔を上げた。
「クラインの分か」
ギュンターは、海図の線から指を離した。
「あの駆逐艦を放置すれば、こちらの攻撃が妨げられる。輸送船へ届く前に追われる」
「それは分かっている」
ベッカーは言った。
「俺が聞いたのは、お前の方だ」
ギュンターは答えなかった。
クラインの顔は覚えている。
しかし、その顔を海図の上に置いても、魚雷の進む距離は変わらない。ベッカーの艦が沈む危険も、小さくならなかった。
「取れる位置を取る。取れなければ、戻る」
ギュンターは言った。
「お前の艦を、クラインの所へ送るつもりはない」
ベッカーは、少し目を伏せた。
「そうしてくれ」
それから、もう一度海図へ身を寄せた。
参加するほかの艦にも、手順を伝えなければならなかった。
ギュンターは、必要な事項を書き出した。
紙の上では、敵がちょうどそこへ来た。
海の上で同じように来るとは限らなかった。
*
出撃前、ワルターは計画を確認していた。
ギュンターは乗員へ、今回の狙いを伝えた。
「相手は、先日戦った日本の駆逐艦だ。複数の艦で、追跡する動きを利用する」
誰かが顔を上げた。
クラインという名は出さなかった。それでも、先にその知らせを聞いている者には、意味が通じたはずだった。
「相手が予定の海面へ入らなければ、待ち直す。勝手に追って、こちらから位置を明かさない」
ギュンターは、発射を担当する者を見た。
「用意が整わなければ、整わないと報告しろ。急ぐために、確認を飛ばすな」
復唱が返った。
機関の兵には、出力を変える時の報告を確かめた。聴音員には、味方の動きと敵の音を混同しないよう伝えた。
それは難しい仕事だった。
判別できない時には、そのまま言わせる。計画に合う音だけが聞こえることにしてしまえば、初めから敵の動きを決めつけることになる。
説明が終わると、兵は持ち場の用意へ戻った。
通路で、二人が肩を譲り合った。片方が魚雷の方へ進み、もう片方が機関の方へ降りた。
ワルターがギュンターのそばに残った。
「日本の艦長を、よく見ておられますね」
「二度、かわされたからな」
ギュンターは答えた。
「あちらも、こちらの止まった場所をよく覚えているだろう」
ワルターが頷いた。
「艦長は、もうお休みになれますか」
ギュンターは相手を見た。
まだ確かめたいことはあった。だが、ワルターの声には、それ以上の報告を求めている響きがなかった。
「少し、横になる」
「はい」
狭い寝場所へ入ると、肩が壁に近かった。
目を閉じても、海図の線が残った。
クラインがいたら、この計画を何と言うだろう。
よく考えたと笑うか、そんなに並べなくても一発でよいと言うか。
どちらも、彼の口から聞きたかった。
ギュンターは
その音を聞いているうちに、いつか眠った。目を開けた。
壁の向こうで、兵が仕事をしていた。




