海の底の艦長(2)
約束した海面で、敵が前の音を失った。
ギュンターには、敵艦の艦橋で何を話しているかは分からなかった。見えるのは、潜望鏡に入る艦の向きと、船首波の変化だけだった。
味方の潜水艦が、先に誘いをかけていた。
船団と護衛艦の動きも、すべて計画どおりではなかった。駆逐艦を追わせるために輸送船へ攻撃を仕掛けても、その魚雷が何に当たったか、潜っているこちらからは確かめられない。
ギュンターは、決めていた位置へU30を進めた。
自分たちの機関音が、相手へ届く。
届けばよかった。
敵艦が回頭を始めた。
潜望鏡の中で、艦首がこちらへ向いた。白い水が大きくなり、艦影が近づく。
来たか、ウジイエ。
ギュンターは潜望鏡から離れた。
「機関停止」
声が返り、艦の響きが変わった。
自分たちも止まれば、その間に好きな場所へ逃げることはできない。敵を引き込むために、艦をそこへ置いていた。
相手がこちらの上へ来れば、爆雷を受ける。
兵も、そのことは分かっていた。
ワルターが、位置と経過した時間を報告した。
ギュンターは頷いた。
ベッカーの艦も、予定の動きへ移っているはずだった。聞こえる音がその艦と一致するか、聴音員が確かめていた。
海中に、互いを繋ぐ線はない。
それでも、陸で一緒に海図を見た者が、向こうにいる。
その艦を信じて、自分の役割を果たすしかなかった。
潜望鏡を短く上げた。
敵艦が速力を落としていた。
ギュンターは、発射の用意を命じた。
猟犬のように敵へ寄せる艦だった。音が止まれば、どこで止まったかを確かめるため、自分も減速する。
反応が早い。
しかし、その早さを使う。
ギュンターは、相手の艦首が変わるのを待った。
味方の攻撃をかわすため、駆逐艦が回頭した。そこで、こちらの魚雷が届く進路へ入る。
発射の命令を出した。
魚雷を送り出す音が、艦内へ響いた。
ギュンターは潜望鏡を覗いた。
敵艦が、また動いた。
増速して逃れようとしている。別の方位から来る魚雷を見たのか、艦首が振れた。
彼には、そこにいる日本人の目までは見えなかった。
海面を見て、機関へ命じているはずだった。自分と同じように、いま使える艦の力をすべて出させている。
ギュンターは次を撃たせた。
発射を終えた兵が報告した。
あとは、海へ出したものが走る時間だった。
敵艦の船首波が、変わった。
止まろうとしているのか。
ギュンターは、わずかに身体を寄せた。
その動きで、一本をかわせても、別の一本が届く。
いける。
敵艦の船腹が、視野にあった。
「ウジイエに、神のご加護を」
小さく言った。
祈りの言葉を使いながら、命中を待っていた。
そのことは、自分でも分かっていた。
クラインの顔が、また浮かんだ。
そばの聴音員が、音に備えて耳を守る。ギュンターは、潜望鏡の把手を握った。
鈍い響きが来た。
鐘をついたような音だった。
次の音が来なかった。
敵艦は、まだ浮いていた。
「敵艦、なお行動中」
聴音員の報告があった。
「不発か」
ギュンターは言った。
声が低くなった。
届いたのに、炸裂しなかった。
もう一本、と考えた時、敵艦がこちらへ向かい始めた。
沈まない艦には、まだ機関があり、爆雷があった。
*
「新たな駆逐艦です」
報告が来た。
ギュンターは潜望鏡を回した。
別の艦が、海面へ入ってきた。
日本の艦を追い詰めるために組んだ位置が、今は自分たちの退く道を狭くしていた。こちらからの雷撃だけを見ていれば、新しい艦に頭上へ来られる。
「潜望鏡下げ。急速潜航」
ギュンターは命じた。
ワルターが復唱し、必要な操作が続いた。
潜望鏡にあった光が消えた。計器と人の顔だけが残った。
艦を深くする間、ギュンターは次の攻撃を考えた。
相手を一度、避けさせれば距離を取れる。自分だけでなく、ほかの艦にも離脱する時間ができる。
魚雷を使う判断をし、針路を変えた。
命じるたびに、ワルターの報告が返った。
艦の残る力が減っていく。魚雷も、蓄電池も、次にまた使えるものを無限には残せなかった。
敵の音が変わった。
爆雷が来る。
ギュンターは、艦の姿勢と深度を確かめさせた。
兵がそばのものを押さえた。
衝撃が来た。
足元が浮くように感じ、次に身体を突き上げられた。誰かが短く声を出した。工具の触れ合う音がした。
ギュンターは手をついたまま、報告を求めた。
浸水は、今のところなかった。
それでも、次の爆発が同じ距離に来るとは限らない。
兵の顔を見ると、誰も目を閉じていなかった。
見えているのは、艦内のものだけだった。頭上を走る駆逐艦の姿も、そこから落ちる爆雷も見えなかった。
ギュンターだけが、先ほどまで潜望鏡で海を見た。
今は、彼も見ていなかった。
「深度を保て」
命じた。
落ち着いた声で言えたかどうかは、分からなかった。
深度計を見ていた兵が、数値を返した。
その声で、ギュンターも自分のいる場所を確かめられた。
外した魚雷が、敵を沈めてくれなかったことは分かった。
追い詰めるはずの相手に、いま自分たちが押さえられていた。
不発だったことを恨んでも、目の前の針は変わらない。
機関の使い方を選び、音を抑えながら距離を取る。動けば聞かれる。止まれば、蓄電池と空気を残すことはできても、敵のいた場所から遠くは離れられない。
ギュンターは、報告を聞くたびに決めた。
ベッカーは、どうしている。
そう思ったが、尋ねる方法はなかった。
別の音があれば、その艦かもしれなかった。敵かもしれなかった。
味方の艦を助けるために浮けば、自分の位置を教えることにもなる。
U30の中には、ギュンターの命令を待つ者がいた。
彼は、まずその者たちを見た。
*
敵のスクリュー音が、遠ざかり始めた。
聴音員が、最後に聞いた方位を報告した。
ギュンターは、まだ動き出さなかった。
音が消えたからといって、海が空いたとは限らない。最初の対決でも、そこを待った。
今回も、待たなければならなかった。
兵が袖で額を拭いた。拭いた布を見てから、手を戻した。汗がまた、こめかみを流れた。
後方から、点検の報告が届いた。
直ちに艦を失うような損傷は、認められなかった。
ギュンターは頷いた。
その報告を出すために、兵が狭い場所へ身体を入れていた。艦長が敵の動きに耳を向けている間も、艦の内側を見る者がいた。
「艦長」
ワルターが近づいた。
残る電力と、潜航していた時間を伝えた。
ギュンターは聞いた。
まだ、潜っていられる。
しかし、敵がいない可能性の高い間に浮かなければ、その機会を失うかもしれない。
「潜望鏡深度へ」
命じた。
潜望鏡に光が戻るまで、長く感じられた。
ギュンターは全周を確かめた。
艦影はなかった。
ベッカーの艦も、見えなかった。
「浮上。充電用意」
声が返った。
ハッチが開くと、誰かが大きく息を吐いた。ほかの者も、それぞれ持ち場から顔を上げた。
ギュンターは最後に上へ出た。
海の風があった。
波が艦に当たり、飛沫が頬へ触れた。先ほどの衝撃とは違った。普通に海の上へ出た艦の揺れだった。
ディーゼル機関が動き始めた。
ワルターが上がってきて、見張りの配置を確かめた。
ギュンターは沖を見た。
ウジイエは生きている。
こちらが艦を沈めるつもりで言った祈りの言葉が、やけに耳に残っていた。
向こうの艦長も、今ごろ被害を調べているかもしれない。炸裂しなかったとしても、魚雷は船腹へ届いた。
そこで、ようやく別のことを思った。
届いた所の内側にも、人がいた。
その者たちが死ねば、ウジイエだけが沈むのではなかった。
それを承知で撃った。
今後も、撃たなければならない。
ギュンターは見張りの兵を見た。
兵は、水平線を探していた。
その者まで、クラインの仇と一緒に海へ連れてきた。
「異常を見つけたら、すぐ報告しろ」
ギュンターは言った。
「敵艦かどうか分からなくてもいい」
兵が答えた。
ギュンターは艦首の方へ目を戻した。
充電が済むまでは、ここで、この艦を見張らなければならなかった。
*
基地でベッカーに会った時、ギュンターは先に顔を確かめた。
制服が汚れていた。頬にも疲れがあった。
それでも、立っていた。
「戻ったか」
ギュンターが言うと、ベッカーは頷いた。
「お前もな」
それから二人は、海図を挟んだ。
相手の報告を聞いて初めて、自分に聞こえなかった音や、見えなかった動きが埋まっていった。味方の艦は、それぞれ違う場所で駆逐艦を見ていた。
ギュンターは、自分の魚雷が命中したと思われることと、敵艦がなお行動したことを伝えた。
「不発だったのか」
ベッカーが言った。
「そう考えるほかない」
ギュンターは答えた。
「あとは、海へ出した魚雷だ。ここで調べられん」
ベッカーは黙った。
発射前の点検を、やり直して考える。省いた手順はなかったか。異状を見逃した者はいなかったか。
ギュンターは担当した者の報告を確認していた。しかし、確認したことと、海の中で何が起きたかを知ることは同じではなかった。
怒鳴れば、誰かが謝るかもしれない。
それで原因が分かるわけではなかった。
「次に使うものを、改めて見させる」
ギュンターは言った。
「分からないものは、そのまま報告する。命中した艦を、撃沈に数えるつもりはない」
「ああ」
ベッカーが頷いた。
「あの駆逐艦は、追うのをやめた」
「新しい艦が来たからだろう」
「それもある。だが、二隻いれば、もう少し追うこともできた」
ギュンターは海図を見た。
ウジイエが何を理由に追跡を切ったかは、分からなかった。損傷か、魚雷を警戒したか、輸送船団へ戻る必要があったか。
こちらへ走ってくる速さだけを覚えていれば、次に間違える。
止まったことも、覚えておかなければならなかった。
「次は、同じようには来ないだろうな」
ベッカーが言った。
「こちらも、同じようには待てん」
ギュンターは答えた。
ベッカーが椅子へ背を預けた。
そこに、もう一人分の場所があった。
クラインなら、二人の話のどこかへ口を挟んだだろう。失敗の理由を聞くより先に、食事へ行こうと言ったかもしれない。
ギュンターは、その空いた場所を見た。
仇を取れなかった。
それは、消えない思いだった。
しかし、自分たちまで戻らなければ、この場所が二つ増えただけだった。
「何か、食おう」
ギュンターが言った。
ベッカーは、少し間を置いて頷いた。
「そうしよう」
*
U30には、補給の物が運び込まれていた。
魚雷を収める作業に合わせ、人が場所を空ける。大きなものを艦内へ入れる時には、海で見慣れた通路も別の使い方になった。
ギュンターは、急がせずに見ていた。
ワルターが、点検と補給の進み具合を伝えた。
「乗員は」
「当直以外は、交代で休ませています」
「そうしてくれ」
ギュンターは頷いた。
兵の一人が、作業の間に服の内側から小さく畳んだ紙を出した。家から来た便りらしかった。読む間もなく、また呼ばれてしまった。
紙を戻し、作業へ向かう。
ギュンターは、その者の名前を知っていた。
便りの差出人までは知らなかった。
妻か、親か、別の誰かか。返事を書ける日を待っている者が、陸にいる。
クラインの艦の兵にも、それぞれいたはずだった。
司令部からの書類に記される艦名は一つでも、戻らなくなる便りは一つではなかった。
ギュンターは自分の報告を開いた。
敵駆逐艦、命中後も行動。
味方艦、帰投。
そこまで書いて、筆を止めた。
ウジイエを沈めるために、どこまで近づけるか。それは次にも考えなければならない。
近づけたあと、この艦をどう戻すかも、同時に考える。
机のそばで、足音が止まった。
「艦長、次の確認をお願いします」
ワルターの声だった。
ギュンターは顔を上げた。
「今、行く」
報告の紙を置き、狭い通路へ身体を入れた。
先を歩くワルターが、肩をずらした。
ギュンターも同じように身体を傾け、部下のいる方へ進んだ。




