狼狩り(1)
第九章 狼狩り
海図の上には、輸送船団の航路が引かれていた。
氏家は、その線を見ていた。マルタを出て、敵潜水艦が現れると考えられる海域へ進む。帰る針路は、その先で折り返していた。
「今回の船団に、荷を届ける港はない」
ウィリアム大佐が言った。
氏家は顔を上げた。
連合軍の司令官たちが、卓を囲んでいた。日本側の佐藤少将もいた。自分が前に持参した囮の案は、この部屋で許可されなかった。
今度は、その案を司令部から示されていた。
「君が護衛するのは古い輸送船だ。船員は志願者で、航海に必要な人数を残す。積荷を運ぶ船団として出すが、狙いは、待ち伏せしている潜水艦を引き出すことにある」
ウィリアムは航路の外側へ指を置いた。
「こちらからも、数隻の駆逐艦を出す。君の艦に接触をさせ、敵が動いたところへ入る」
氏家は、その位置と時刻を確かめた。
前には「棕櫚」を敵の前に置くことを考えた。あとから誰が来るか、どこで敵を押さえるかまでは、自分で用意できなかった。
あの時と、同じではなかった。
佐藤少将が言った。
「敵を追うことが目的になっては困る。囮の船員を含め、帰すところまでが任務だ」
「承知しております」
氏家は答えた。
右舷に魚雷の当たった艦は、検査と必要な作業を終えていた。機関も試験を済ませ、出港できるとの報告が上がっている。
自分がここに立っているのは、不発だったためだった。
腕を見込まれて呼ばれたことと、前に助かった理由を、混ぜてはならなかった。
「お受けします。先日は、私も危ういところでしたから」
氏家は直立したまま言った。
ウィリアムが頷いた。
「それを忘れずにやってくれ」
卓の隅には、襲撃された船団の報告が重なっていた。
複数の潜水艦が、輸送船の来る場所で待っている。時刻や航路を、こちらより先に知っていると思われる例が続いていた。
海を探せば、やがて船は見つかる。
しかし、見つける前から、攻撃しやすい場所に何隻も揃っている。それを偶然で済ませることはできなかった。
「運航計画が漏れている疑いがある」
日本側の参謀が言った。
「今回も、敵は情報を得て動くと考えている。各艦への指示は、必要な範囲に留める」
氏家は頷いた。
誰を疑っているかは、伝えられなかった。
その場で問うこともしなかった。
自分が知るべきことは、船がどう動き、味方がどこから来るかだった。
「船団の散開後、各船はどちらへ逃れますか」
氏家が尋ねた。
参謀が海図に指を置いた。
古い船は、それぞれ出せる速力が違う。一斉に同じ針路へ曲げようとすれば、遅い船へほかの船を合わせることになる。
攻撃を受けたあとには、目的地へ届く隊形を保つ必要はなかった。
それぞれが避け、あらかじめ示した海面へ逃れる。護衛艦が、そちらも受け持つ。
氏家は、一隻ずつの進路を見た。
線が外へ広がるたびに、守らなければならない海が大きくなった。
*
輸送船の甲板は、駆逐艦とは違う高さにあった。
氏家は、出港前に船団の指示を確かめに行った。乗り移ると、舷側の塗装が剝がれている所があった。上塗りした色の下に、古い色が見えた。
船長は、帽子を取って迎えた。
白いものの混じった髪が風で動いた。氏家が名乗ると、相手も自分の役目を言った。長くこの船で働いている声だった。
「操舵と機関には、慣れた者を残してあります」
船長が言った。
「艇の用意も済ませました」
氏家は甲板を見た。
船員が二人、索を確かめていた。そばに救命具がまとめられていた。船団を作るためだけに乗った者ではなかった。
「今回の目的は、皆さんに伝わっていますか」
「はい」
船長は答えた。
「出港すると聞いてから志願した者と、話を聞いてから残ると決めた者です」
氏家は相手を見た。
「危険がなくなるわけではありません」
「いつもの荷を積んでも、魚雷は来ます」
船長は言った。
「今回は、どこで来るかを少し知っている。避け方を先に相談できる。それだけでも違います」
氏家は、海図で確かめた散開の針路を伝えた。
船長は艦の位置を訊いた。魚雷が来た時、どの信号を待ち、どの段階で自分の判断で避けるかを確認した。
話している途中で、船員が近づいた。
氏家を見ると足を止めたが、船長が手を上げた。
「何だ」
船員は機関の準備ができたことを伝えた。船長は短く答え、それから氏家へ向き直った。
「この船の動きは、こちらで引き受けます。少佐は、潜水艦を頼みます」
「承知しました」
氏家は言った。
礼をする前に、もう一度甲板を見た。
索を扱っていた船員が、片方の手を拭いていた。制服の兵ではなかった。今夜も海を走り、機関と舵を使う者だった。
この船を囮と呼ぶのは、司令部の海図の上だけでよかった。
海へ出れば、守るべき船になる。
*
「棕櫚」へ戻ると、佐野が準備の報告を揃えていた。
氏家は機関長と水雷長の報告を聞き、見張りの配置を確かめた。英国艦と日本艦の信号についても、通信員に再確認させた。
木下兵曹長が、甲板で兵を動かしていた。
艇の用意を確かめる者と、爆雷の周りへ行く者が、通路を譲り合った。
氏家は木下を呼んだ。
「状況によっては、救助をしながら戦うことになる」
「承知しています」
「救助の者を出す時、ほかの持ち場まで崩すな。敵潜は一隻とは限らん」
木下は頷いた。
「残す者を決めておきます。野本、こちらへ」
呼ばれた兵が走ってきた。
魚雷の命中音を聞いたあと、甲板で返事を言い直した兵だった。今日は、氏家の前でまっすぐ立った。
「甲板長の指示をよく聞け。いま自分がどちらの仕事に就くかを確かめてから動くんだ」
「はい」
野本は答えた。
木下が連れていった。その後ろ姿を見ながら、氏家は佐野へ言った。
「前の戦闘の説明も、出る前に済ませよう」
「総員を集めますか」
「当直を残して、聞けるようにしてくれ」
集まった者と、持ち場から聞く者がいた。
氏家は、前の海面で何が分かっていたかを話した。
初めに前方の一隻を聞いた。音を失い、次に後ろの一隻を追った。別の艦と考えながら、そちらへ向かった。その間に、横から魚雷が来た。
「聴音で区別できたのは三隻だった。四つの方位から魚雷を見たことと、敵が四隻だったことは同じではない」
兵が顔を上げた。
「艦が回れば、相手の見える方位も変わる。報告は、その時の針路と合わせなければならん。航海長がまとめた記録を、各部署でも確認してくれ」
佐野が頷いた。
「また、右舷に命中した魚雷は不発だった。機関も操舵も、命令に応じた。しかし、魚雷は当たった」
艦内が静かになった。
氏家は一人ずつの顔を探すことはしなかった。
「あの不発を、こちらの腕の良さに数えてはならん。敵の位置が分からなくなった時、分からないと報告することを、今度も怠るな」
椛島が、そばの兵へわずかに顔を向けた。
氏家は、それを見た。
艦長の欲しい報告を考える前に、聞いたものを言えばよい。そう伝わればよかった。
「次は、こちらが敵の追い方を利用する。だが、先の通りに敵が動く保証はない。用意した通りに来なければ、そこで考え直す」
説明を終えると、持ち場へ戻る足音がした。
木下が、兵の一人を止めて何か確かめた。その者は自分の受け持つ仕事を答え、甲板へ出ていった。
寄せ集めの乗員に、一つの動きをさせようとしていた頃とは違った。
今は、自分が見ていない所でも、誰かが次の者を確かめていた。
*
想定した海域へ近づく前、氏家は再び総員へ声を送った。
「各員、配置のまま聞け」
伝声管へ声が渡り、艦内の者も耳を向けた。
「本艦が護衛する輸送船団は、敵潜を誘い出すために航行している。船員は危険を承知で志願した者だ。古い船ではあるが、人が乗っている」
氏家は舷側の向こうを見た。
輸送船の黒煙が、間隔を保って上がっていた。
「本艦も沈めるわけにはいかない。敵へ向かう時にも、船団の状態を忘れるな。各人、自己の職責にかけて奮闘されんことを願う」
一度、息を取った。
「全員で生きて帰るぞ」
佐野が顔を上げた。
兵たちの声が返った。機関室へも、その声が伝わった。
言ったことで、全員が帰れるようになるわけではない。
帰るために、次の一つを選ばなければならなかった。
氏家は双眼鏡を上げた。
連合軍の支援艦は、まだ姿を見せていなかった。航路と時刻から位置を合わせ、通信で連絡を保っている。
見えないからといって、そこにいるものと決めつけない。報告が届くたび、佐野が海図へ記していた。
見張り員が、海面の反射を避けて顔を動かした。
氏家も同じ方を見た。
「右舷、魚雷。輸送船団へ向かっています」
声が来た。
海に、白い筋があった。
「船団へ警報。戦闘用意」
氏家は命じた。
輸送船の汽笛が鳴った。信号が上がり、それぞれの船首が動き始めた。
船長たちは、今も艦橋にいた。
あの甲板で確認したことを、自分たちの船に命じている。
氏家は、魚雷の進む線と各船の向きを見比べた。
「船団、予定どおり散開しています」
報告が来た。
一隻の艦首が、ほかより遅れて回った。
それも、あらかじめ聞いていた船の動きだった。古い機関と大きな船体は、駆逐艦のようには応じなかった。
白い筋が、その船の進んでいた所へ伸びた。
船腹が線の先から外れた。
氏家は、次の報告を待った。
「命中、認めず」
「ほかの雷跡も探せ。各船の位置を送れ」
命じてから、通信員へ向いた。
「司令部に打電。我、狼狩りを開始」
*
「敵潜探知。左舷十一時方向」
椛島の報告が届いた。
氏家は、その方位を確かめた。
「爆雷戦用意。針路、二二五」
操舵員が答えた。
艦が先に聞こえた相手へ向かう。
前にも、その動きをした。機関が回り、船首波が大きくなる。敵に見せる艦の姿は、できる限り変えなかった。
ただし、見張りの目まで前へ集めるつもりはなかった。
「右舷も見張りを続けろ。潜望鏡を探せ」
氏家が言った。
佐野は、先の聴音方位を記した。最初の敵の音と、別の場所で見つけるものを分けなければ、また追う先を取り違える。
艦内へ増速の要求が届いた。
機関長は回転を確かめ、出力を上げさせた。次に減速するか、そのまま寄せるか、いまは知らされていなかった。
どちらにも応じられるよう、兵が計器を見ていた。
「五時方向、潜望鏡」
見張り員が叫んだ。
氏家は振り向いた。
波の間に、短いものが立っていた。
見えたのは一瞬だった。だが、そこからこちらを見ている者がいる。
「方位を押さえろ」
氏家は命じた。
佐野が、艦の針路と発見方位を合わせた。
潜望鏡は海面へ出た頭だけだった。その下の艦が、どちらを向いているかまでは見えない。
先の相手を追うためにこちらが通る所へ、魚雷を放つつもりかもしれなかった。
氏家は、その艦へ向ける新しい針路を選んだ。
「取舵一杯。針路、〇九〇」
操舵員が復唱した。
艦首が左へ回った。
氏家は手すりに触れ、潜望鏡のあった海面を見た。
「魚雷です」
別の報告が来た。
白い筋は、「棕櫚」が先ほどまで進んでいた所へ向かっていた。
「最大戦速」
氏家は命じた。
艦をそこへ戻さず、回頭を続ける。
機関室では、増速の要求が来た。圧力を確かめ、使える力を出す。甲板の傾きが変わっても、針の動きから目を離さなかった。
雷跡が後方へ移った。
氏家は一度そちらを見てから、艦首方向へ戻した。
かわした一本を見送り続ける余裕はなかった。
「潜望鏡、艦首方向。距離三百」
報告が続いた。
敵も、こちらの向きが変わったことを知ったはずだった。
潜望鏡が水を切り、海へ消えた。
「二百」
見張り員の声がした。
氏家は最後に見えた場所を、佐野へ確かめさせた。
浮いている杭のように、そこへ残っているわけではない。潜ったあとの向きと移動を見込む。それでも、前に音だけを追っていた時より、近い位置を確かめていた。
「爆雷、分散投下。間隔三秒。用意」
水雷長が答えた。
設定を確かめた兵が、次の兵へ声を送った。
艦尾から落とす位置は、一つではない。敵が潜った辺りを横切り、間隔を置いて爆雷を海へ送る。
氏家は航路を保たせた。
「投下始め」
爆雷が落ちた。
水雷長が次を命じた。数える声に合わせ、次の爆雷が送られた。
三秒は、甲板の兵には短かった。落としたものを見送り、次を扱う。手を戻す場所が決まっていなければ、その間に動けなかった。
兵は、波が艦尾を洗う中で仕事を続けた。
艦が投下した海面を離れた。
後方に、水柱が上がった。
爆発の響きが船体へ来た。
氏家は双眼鏡を向けた。
次の水柱が、少し離れた所へ上がる。白い水が落ちると、波が重なった。
海面だけでは、その下に何が起きたかは分からなかった。
「後方、浮遊物。油を認めます」
見張り員の報告が来た。
氏家はその場所を見た。
薄く広がるものの間に、破片らしいものがあった。海の色が、そこだけ違っていた。
艦橋の誰かが、息を吐いた。
「聴音を続けろ。別の敵を忘れるな」
氏家は言った。
爆発が響いている間は、椛島も聞き分けられなかった。返事を急がせず、報告を待つ。
最初に聞いた一隻は、まだ別の方位にいるかもしれなかった。
その時、味方の艦影が現れた。
「後方、英国駆逐艦」
「左舷、桃、欅です」
佐野が確認を取った。
海図で約束していた位置に、艦の形ができた。
通信と信号が届き、どの海面を誰が押さえるかが伝わった。
ウィリアム大佐の率いる英国艦も来ていた。
氏家は、その船首の向きを見た。
自分の艦へ集まってきたわけではなかった。敵の逃れる先へ、それぞれ進んでいる。
前には、ジョナサンが来るまで自分たちだけだった。
今日は、この配置を先に用意していた。
*
ほかの艦からも、敵潜水艦との接触が報告された。
水柱が別の海面へ上がった。
氏家はそれを見たが、自分の艦から見えるだけで戦果を決めなかった。各艦の位置と最後の敵の方位を合わせ、同じ相手を二度数えていないかを確かめる。
船団からも連絡が来ていた。
散開した船は、予定の方向へ逃れていた。一隻が遅れていたが、機関を動かし、護衛艦がそちらへ寄っていた。
沈んだ船は、なかった。
氏家は、その報告を聞いてから敵の海面へ目を戻した。
油の広がる所に、人の姿は見えなかった。
「浮遊物の周りも、確かめろ」
氏家は言った。
木下へ、救助の用意を保つよう伝えた。
爆雷を落とした兵が甲板に残り、艇を扱う兵が別の場所で待った。敵の生き残りが浮けば助ける。浮かなければ、艇を出して拾うものはない。
同じ海面に、別の潜水艦が残っている可能性もあった。
氏家は、見張りと聴音の報告を聞いた。
水柱が止んでも、すぐには静かにならなかった。味方の機関音があり、遠くへ動く船団の音もあった。
椛島は、敵らしい刻みがもう一度戻るかを確かめていた。
氏家は時計を見た。
先の戦闘では、三十分待ったあと、別の音へ艦を走らせた。
その時よりも、今は多くの艦が海を見ている。
それでも、海の下をすべて見渡せるわけではなかった。
各艦からの報告を合わせ、今回の攻撃では複数のUボートを撃沈したとの判断が出た。浮遊物や油、爆発後の状況が、その根拠だった。
すべての敵が沈んだという報告ではなかった。
氏家は自艦の攻撃と捜索の結果を送った。
敵兵の姿は、確認できなかった。
かつてユトランドで、甲板へ引き上げた男を思い出した。あの時は、泳ぐ者が見えた。今日は油と破片があった。
勝ったという言葉の先に、どちらの海もあった。
木下から、救助の用意をした者の状況が届いた。
氏家は頷いた。
「そのまま待たせすぎるな。交代を入れろ。警戒は続ける」
「はい」
佐野が取り次いだ。
通信員が、電報を持ってきた。
「司令部より。基地帰投後、艦長は直ちに司令部へ出頭せよ、とのことです」
氏家は用紙を受け取った。
短い指示だった。
戦闘についてなら、こちらからも報告を送っていた。なぜ、帰った直後なのか。
「ほかには」
「ありません」
氏家は紙を佐野へ渡した。
「了解と返せ。船団と各艦の帰投を確かめる」
帰る艦の中で、兵は持ち場を一部解いた。
野本が水を運んでいた。受け取った者が飲み、カップを返した。前の航海より声が出ていた。
木下が、次に休ませる者を呼んだ。
氏家はその様子を見てから、帰投の針路へ目を向けた。




