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狼狩り(2)

 司令部の通路では、靴音がよく響いた。

 氏家は制服を整え、扉の前で名乗った。

「氏家少佐、出頭いたしました」

「入れ」

 返事をしたのは、司令部付の少佐参謀だった。兵学校では一期上に当たる。

 部屋へ入ると、椅子を示された。

 氏家は、卓上の書類を見た。

 海図はなかった。

「間諜が見つかった」

 参謀が言った。

 氏家は顔を上げた。

 今日、敵が待っていた場所と、司令部が伝えた航路が繋がった。

 軍港を出る船の計画を、誰かが向こうへ渡していた。

「英国の情報部が逮捕へ向かったが、直前に拳銃で自決したそうだ」

 氏家は、次の言葉を待った。

「誰ですか」

「君も知っている人物だ」

 参謀が氏家を見た。

「英国婦人海軍部隊の、シンプソン中尉」

 氏家は、相手の顔を見たまま動かなかった。

 聞き違えたように思った。

 シンプソンという名は、ほかにもある。

「メアリー・シンプソン中尉ですか」

「そうだ」

 参謀は答えた。

 氏家の手が、膝の上で止まった。

 白いワンピースの裾が風で動いた。帽子の鍔へ手を添え、こちらの名前を言い直した女がいた。

 その姿が、机の向こうの書類と重ならなかった。

「彼女が」

 それだけ言った。

 参謀は、発見に至った経緯を説明した。

 司令部では、情報に接する数人へ疑いを持っていた。その者たちに、少しずつ異なる計画が伝わるようにした。

 敵がどの計画に沿って動くかを見れば、情報の出た経路を絞れる。

 今日、海へ出た船団には、そのための役目もあった。

 氏家は聞いていた。

 自分たちは囮だった。

 輸送船も、「棕櫚」も、そのことを知って出た。

 しかし、誰の名へ辿り着くために走ったかは、知らなかった。

 知らされていれば、自分の判断は変わったか。

 そう思い、すぐに答えられなかった。

「彼女が計画を渡したことは、確かなのですか」

 氏家は尋ねた。

 参謀は、英国情報部が調査を進め、逮捕に至る判断をしたと答えた。氏家へ渡す書類には、捜査のすべては記されていなかった。

 説明を聞いても、ここで本人に何か問うことはできなかった。

 そのことが、ようやく胸に来た。

 メアリーは死んだ。

 間諜という言葉を聞くより先に、彼女を知っていた。

 卓の向こうで、本について話した。料理を選んでもらい、何でもない会話で笑った。

 その女は、もうどこにもいなかった。

「何か、残した言葉は」

 氏家は訊いた。

 参謀は少し首を振った。

「今、君へ伝えられるものはない」

 氏家は頷いた。

 何を信じていたのか。誰へ帰りたかったのか。なぜ、その仕事をしていたのか。

 彼女がドイツ系で、学生時代をドイツで過ごしたことは聞いていた。それだけで、目の前の話が分かるわけではなかった。

 同じ出自を持つ者が、皆そうするわけではない。

 氏家は、その考えを声には出さなかった。

 まだ、ほかの説明が続いていた。

     *

「実は、英国情報部は君と中尉の関係にも疑いを持っていた」

 参謀が言った。

 氏家は顔を上げた。

「私をですか」

 声が強くなった。

 参謀は頷いた。

「二人で食事をしていたことは、知られている」

「救助の礼を言われたことはあります。街で会い、昼食を取ったこともあります。それだけです」

 氏家は答えた。

 言葉を一つずつ置いた。

「作戦の話は、していません」

「君の今日の行動と戦果も、報告されている。少なくとも、君が敵を助けたという話にはならん」

 参謀は言った。

「向こうも、疑いをそのまま押し通すつもりはないだろう」

 氏家は、手を握った。

 輸送船の船員が機関を回した。見張り員が潜望鏡を見つけ、椛島が音を聞き、水雷長の下で兵が爆雷を落とした。

 その仕事が、艦長に疑いのない証拠として並べられていた。

 乗員は、そのために戦ったのではなかった。

「必要なら、私が話したことを報告します」

「そうしてくれ。思い出せる範囲でいい」

 紙を示された。

 氏家は、筆記具を持った。

 どこで会ったか。いつ食事を取ったか。どんな話をしたか。

 書けば、思い出す。

 料理について、大学の本について。氏家の家族について。日本語の名前の発音について。

 メアリーは、返事を急がせなかった。

 自分が言葉を選ぶ間、卓の向こうで待っていた。

 今は、その沈黙にも別の意味を探すよう求められていた。

 氏家は一度、筆を止めた。

「中尉は、私が船団をいつ護衛するかを訊いてはいません」

 参謀が頷いた。

「それも書いておけ」

 氏家は書いた。

 事実として残せるのは、覚えていることだけだった。

 彼女が自分を利用しようとしたのかどうかは、そこから先のことだった。

 書き終えると、参謀が用紙を受け取った。

「今日は戻ってよい。追って何かあれば知らせる」

 氏家は立ち、敬礼した。

 扉の所で振り返った。

 言うべき言葉がある気がした。

 しかし、どの言葉も、彼女へは届かなかった。

 氏家は部屋を出た。

     *

 外へ出ると、港にはまだ人がいた。

 荷物を運ぶ者、食事へ向かう者、当直へ戻る者だった。声がし、遠くで船の汽笛が鳴った。

 氏家は歩いた。

 昼食を取った店の方へ行けば、あの窓がある。

 自分は窓の外を歩く人を見ていた。メアリーは、ここでは食事が来るのを待ちましょうと言った。

 あの時にも、どこかの海で船が走っていた。

 彼女は、その船の計画を知っていたのか。

 氏家は足を止めた。

 マルローの船団の知らせを聞いた日のことが戻った。報告に書かれた最期と、次に飲もうと約束した声があった。

 今日知らされた情報漏洩が、どの襲撃にどう結びついたのか、氏家にはすべて分からなかった。

 彼女の名を置けば、それで友の死を説明できるわけではなかった。

 それでも、無関係な二つの記憶として置くこともできなくなった。

 氏家は帽子の庇に触れた。

 メアリーの笑顔を思い出せた。

 だから、困った。

 敵へ情報を渡した女だと聞いても、その顔が消えなかった。

 海では、自分も見えない敵を沈めるために命令を出した。その艦の中で誰が待っていたかを、知らないまま戦った。

 メアリーを、海の下にいた者と同じように考えることも、まだできなかった。

 知っていた人の死には、声が残る。

 氏家はまた歩き出した。

 「棕櫚」の舷門では、当直の兵が敬礼した。

 氏家も答えた。

 甲板へ上がると、佐野が近づいてきた。

「司令部では、何かありましたか」

 氏家は相手を見た。

「情報の漏れた経路が見つかったそうだ」

 そこまで言って、言葉を切った。

 佐野は続きを待った。

「シンプソン中尉だと聞いた」

 相手の顔が変わった。

 救助の礼を伝えに来た時、佐野もその女を知っていた。

「逮捕の直前に、自決したという」

 氏家が言うと、佐野はしばらく返事をしなかった。

「そうですか」

 やがて、それだけ答えた。

 氏家は、英国情報部が自分も疑っていたことを伝えた。作戦の話はしていないと説明し、会った時のことを書いてきたと言った。

 佐野は黙って聞いた。

「艦内で憶測を広げることはない。必要な連絡があれば、私から伝える」

「承知しました」

 氏家は、甲板の先を見た。

 木下と野本が、使ったものを片づけていた。爆雷の残数を確かめる声も聞こえた。

「今日の船員たちは」

「全船、帰投しました。人員も、報告では全員無事です」

 氏家は頷いた。

 それは、今日できたことだった。

 メアリーの死を聞いたあとでも、消してはならなかった。

「よくやってくれた。皆にも、そう伝えてくれ」

「はい」

 佐野が持ち場へ戻った。

 氏家は艦長室へ入った。

 机には、今日の航跡と戦闘の記録が置かれていた。海図の線は、輸送船を逃がし、敵の潜望鏡へ向かい、帰る針路へ繋がっていた。

 その線の先で、別の人間が死んだ。

 自分がどこまで知り、何を知らずに働いたのか、今夜すぐには分けられなかった。

 氏家は椅子へ座った。

 メアリーは、本の中の人について、読み終えてからも考えると言った。

 あの人は、どうしてあんなことを言ったのだろう、と。

 今日、その言葉を思い出すことになるとは知らなかった。

 氏家は手元の記録を開いた。

 まず、帰ってきた者の仕事を、書き落とさずに残さなければならなかった。


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