拳と櫂(1)
艦長、すごい顔ですね」
佐野が言った。
氏家は航海長を見た。右目で見れば、いつも通りの顔だった。左目では、腫れた瞼が邪魔をした。
「報告は、右側へ来てしてくれ」
「承知しました」
佐野は素直に右へ回った。その素直さが、かえっておかしかった。
「棕櫚」は輸送船団の側方を航行していた。海は穏やかで、各船の煙がほぼ同じ向きへ流れていた。試合の日から、まだ顔の腫れは引ききっていなかった。
「ウィリアム大佐が引き分けにされましたが、艦長は勝ったと思われますか」
「いや。完敗じゃないか。倒れずに済んだだけ、よかったというのが本音だな」
言うと、唇の傷が引きつれた。
佐野は笑った。
「ノーマン中佐も、似たことをおっしゃっていました」
「あちらは顔が腫れておらん」
「上着を着る時、ずいぶん慎重でした」
蹴りが入った手応えはあった。それを思い出して勝ったことにするには、自分が受けた拳の数が多すぎた。
氏家は海へ目を戻した。
見張り員が、双眼鏡をゆっくり動かしていた。艦橋の下では、野本が別の水兵と言葉を交わしている。声が少し大きくなり、すぐに木下から注意が飛んだ。
その声を聞くと、リングを囲んでいた顔が戻った。
あの日も、彼らはよく声を出した。
*
試合の日取りが決まったのは、「狼狩り」から戻ったあとのことだった。
双方の出撃と修理が重なり、岸で交わした約束は延びていた。氏家は忘れていなかったが、自分から日を決めに行く気にもなれずにいた。
艦長室で次の命令を待っていると、ノーマンが訪ねてきた。
「貴官の艦を見に来た。今日は、船団を連れていない」
椅子を勧めると、中佐は座る前に部屋を見回した。
「ここで、あの速力を出していたわけだ」
「あの時は、ここに座っておりませんでした」
「そうだったな」
中佐は頷き、椅子へ腰を下ろした。
机の端には、司令部へ出した報告の控えがあった。氏家はその上に、次の航海で使う書類を置いた。
ノーマンは尋ねなかった。
「港で休める日が、一日取れそうだ。貴官はどうだ」
「こちらも、その日なら」
「では、約束を果たそう」
氏家は相手の肩幅を見た。
岸で見た時には、騒ぎを収める方が先だった。改めて椅子へ座っている姿を見ると、この男と殴り合うと言った自分の声が、少し遠く聞こえた。
「お忘れではなかったのですね」
「部下が、忘れさせてくれない」
氏家は笑った。
笑ってから、まだ笑えるのだと思った。
中佐は、その短い間を待った。
「艇の方も、出せるか」
「木下に確かめます」
「こちらも、漕ぐ者はいる。よく口を動かす者が、櫂も同じくらい動かせるか見ておこう」
「それなら、こちらにもおります」
ノーマンが笑った。
メアリーについては、何も言わなかった。知っているかどうかも、氏家には分からなかった。自分に起きたことを、目の前の相手へすべて説明しなくても、次の休みの話はできた。
氏家は木下を呼んだ。
やって来た兵曹長は、中佐へ敬礼をし、日取りを聞くと即座に答えた。
「出せます」
「ずいぶん早いな」
「人選はしております。艇も使える状態です」
「当直に穴は開けるなよ」
「はい。その分も含めて、航海長と相談いたします」
木下は返事をしながら、氏家を見た。
どうやら、艦長の方も出られるのかと確かめている。
「私も出る」
氏家が言うと、兵曹長は口元を少し緩めた。
*
翌日の短い練習で、艇は思うほど進まなかった。
漕ぎ手が弱いわけではなかった。櫂は力強く水を掻いた。しかし、一人が水を捉える時には、隣の者がもう引き終えている。艇が左右に揺れ、飛んだ水が前の者の背へかかった。
「力任せにするな」
木下が声をかけた。
「前を見ろ。櫂を水へ入れるところを揃えろ」
野本は、前に座る者の肩を見た。
自分が強く引けば、艇は速くなると思っていた。遅れている者を待つと、一漕ぎ損をしている気になった。
それが、かえって皆の足を引いていた。
「もう一度」
艇指揮が号令をかけた。
野本は腕だけで急がず、櫂が入るのを待った。柄に体重をかけ、身体を起こして引いた。前の者の背が、同じ時に動いた。
水を離れた櫂から、滴が落ちた。
先ほどより、艇の動きが滑らかになった。
岸から見ていた氏家も、それには気づいた。
木下が戻ってくると、野本は掌を見せた。皮が剥けた所はなかったが、指の付け根が赤くなっていた。
「本番までに手を潰すなよ」
兵曹長が言った。
「まだ漕げます」
「知っている。だから今日は、ここまでだ」
野本は不満そうだったが、艇を片づけ始めた。
氏家も自分の拳を見た。甲板の上で型を動いてみると、脚の運びが鈍っていた。遠くから踏み込み、突きを届かせる。その距離は身体が覚えていた。しかし、向かいの相手が同時に詰めてくる時の感触は、一人では戻らなかった。
佐野が、空いている甲板の範囲を確かめていた。
「私も、少しお相手しましょうか」
「ここで私を倒すと、航海長が艦を出すことになるぞ」
「では、やめておきます」
氏家が笑うと、佐野も笑った。
そのあとで航海長は、試合には手当てをする者も付くと伝えた。勝負の決まりは双方で確かめ、危険な攻撃は避けることになっていた。
氏家は頷いた。
リングの決まりを聞きながらも、自分がどれほど相手の間合いへ引き込まれるかは、まだ分かっていなかった。
*
当日、氏家は縄で囲まれた四角を見て、こんなに狭いのかと思った。
周囲は、もう人で埋まっていた。
日米の水兵だけではない。英国の下士官も、フランスやイタリアの将校も来ていた。互いの軍服を見ながら場所を譲り、また前へ詰めている。
もっと小さな催しのつもりだった。
そのつもりが、来てみれば軍楽隊までいる。
「航海長。私たちは、何を始めるんだ」
「試合です」
「それは知っている」
佐野は、遠くの将官たちへ目をやった。
佐藤少将の姿もあった。氏家は姿勢を正した。
「ずいぶん大事にしてくれたな」
「今からでも、艦へ戻りますか」
「戻れる顔をしておるか」
周りで笑いが起きた。
野本は笑わなかった。氏家の手を見ていた。
少佐は上着を脱ぎ、木下へ渡した。
「そんな顔をするな。艇の方は、頼むぞ」
「はい」
野本の返事は、ひどく堅かった。
向こうから、ノーマンがやって来た。
既に手にグローブを着けていた。氏家も両手を差し出し、紐を結んでもらった。拳を握り直すと、素手の時とは形が違った。
「少佐、約束通りだな」
「はい。貴官も」
二人は相手の顔を見た。
海の上で助けられたことへの礼は、既に言った。その話を始めて、今日は拳を交わさずに済ませるわけにはいかなかった。
楽隊が演奏を始めた。
日米の国歌が吹奏され、周囲の者が姿勢を正した。氏家も立った。
楽器の音が止むと、一瞬、港の物音が戻った。
それから誰かが声を上げ、観衆が一斉に動いた。
氏家は縄をくぐった。
足元が、艦の甲板とも、練習をしていた床とも違う。二、三歩動いて確かめた。横へ脚を出すと、縄がすぐ近くにあった。
開始の合図がした。
ノーマンは、いきなり大きな拳を振り回しては来なかった。
左手が先に出た。
氏家は半歩退いた。拳が鼻の前を通った。退いた足を戻そうとすると、もう次の拳が来た。
腕で受け、横へ動いた。
相手がついてきた。
艦長室で座っている時には見えなかった足の速さがあった。大きな身体が、一歩で間合いを潰した。
氏家は蹴った。
脇へ脚が入る感触があった。ノーマンの身体が少し傾いた。観衆から声が上がった。
その声の間に、拳が頬へ来た。
頭が横へ振られた。
何が当たったかを考えるより先に、右手を上げた。二発目を腕に受けた。重かった。
離れたい。
しかし、背後に縄があった。
氏家は足を踏み替え、横へ抜けた。相手の肩へ突きを入れたが、思っていたほど身体が伸びなかった。グローブが押し合い、すぐに顔の近くへ拳が戻ってきた。
遠くから踏み込める場所が欲しかった。
ノーマンは、その場所を作らせなかった。
氏家が前脚を上げると、今度は脇へ回られた。脚を下ろしたところへ左が来た。受けたと思ったのに、顔へ衝撃が届いた。
口の中に血の味がした。
木下の声が聞こえた。
何と言ったかは分からなかった。ただ、自分へ向けて叫んでいるのは分かった。
氏家は膝を伸ばした。
倒れるほどではない。
そう思った直後、腹へ一発来た。息が抜けた。足元が沈むように見えた。
縄へ寄りかかると、さらに追われる。
氏家は相手の胸へ踏み込んだ。肩がぶつかり、腕が絡んだ。離せと声がした。二人が分けられた。
そこで、やっと息を吸えた。
合図が鳴った。
隅へ戻ると、佐野が顔を見た。
「水を」
口をすすぎ、吐き出した。
野本が、濡らした布を木下へ渡していた。兵曹長が氏家の頬に当てた。冷たさのあとに、痛みが来た。
「先に脚を上げると、間合いに入られるな」
氏家が言うと、佐野は頷いた。
「はい、図体のわりに意外と足さばきが早いですね」
「見ておれば分かるか」
「はい」
木下が布を離した。
氏家は、口の端だけで笑った。そこも痛かった。
再び中央へ出た。
ノーマンの息も、最初より大きくなっていた。
氏家はすぐに退かなかった。相手の左へ自分の左手を触れさせ、足を外へ出した。続く右を避けきれず、肩へ受けた。それでも、横に動く場所ができた。
蹴りを出した。
今度は、足が戻るまで相手を見た。
ノーマンが息を吐いた。氏家へ迫る足が、一度止まった。
観衆が沸いた。
しかし、次に顔を上げた中佐は、もう正面へ戻っていた。
拳が来た。
氏家は受けた。もう一発来た。左の瞼の上へ当たり、視界の端に光が散った。
声が、一度遠くなった。
歯を食いしばると、唇が痛んだ。
相手も、口を開けて息をしていた。大きな胸が上下した。
氏家は、後ろへ下がりかけた足を踏みとどまらせた。
その時、ウィリアムの声がした。
「そこまでだ」
最初は、何の指示か分からなかった。
間へ人が入り、氏家は上げていた手を下ろした。ノーマンも拳を引いた。
大佐が、二人を見ていた。
「引き分けとする」
少し不満そうな声が周囲から上がった。勝ったと叫ぶ者も、もう一度やれと言う者もいた。
ウィリアムは首を振った。
「二人とも、艦を出してもらわねばならん」
その言葉に、笑いと拍手が重なった。
氏家も、ようやく息を吐いた。
ノーマンが近づいてきた。顔の前から拳がなくなると、相手の表情が見えた。
「蹴られるのは、慣れないものだな」
「こちらも、慣れる前に終わりました」
中佐が笑い、途中で腹を押さえた。
氏家は笑い返して、唇を押さえた。
グローブを外してもらい、二人は手を握った。
今度の握手には、観衆の歓声がついてきた。




