拳と櫂(2)
手当てを受けている間に、カッターの競技が始まろうとしていた。
氏家は腫れた目の周りを確かめられ、いくつかの問いに答えた。見えているか。気分は悪くないか。頭を動かすと痛むか。
艇を見に行きたいと言うと、急がずに歩けと念を押された。
岸へ出た時には、競技艇が並んでいた。
最初は日米だけで漕ぐはずだった。それが、フランスとイタリアも加わり、輸送船団の船員たちからも一艇出ることになった。
舷側に寄せた櫂が、光っていた。
「棕櫚」の艇では、野本が両手を握ったり開いたりしていた。隣の者が何か言うと、顔を上げた。
「艦長」
氏家に気づいた。
「頼むぞ」
言うと、野本は氏家の顔を見たまま頷いた。
木下が、競技に出る者へ最後の指示をしていた。漕ぐ順を変える話ではなかった。櫂の扱いを確かめ、艇指揮に声が届くかを確かめた。
氏家は岸へ下がった。
隣にノーマンがいた。中佐は腕を組もうとして、やめた。
「どこが一番速いと思う」
「私の艇です」
「やはり、そう答えるか」
「貴官は」
「私の艇だ」
二人は、水面へ顔を向けた。
艇の周りにいた者が退き、櫂が構えられた。
合図がした。
最初の一漕ぎは、ひどく重かった。
野本は柄を引き、艇が前へ出るのを身体で感じた。二漕ぎ目で肩が起き、三漕ぎ目で、前に座る者の動きへ追いついた。
急ぎたい。
隣の艇が見えた。大きな腕が動いていた。水が跳ね、声が飛んだ。
野本は前へ顔を戻した。
号令を聞いた。
水へ入れる。引く。抜く。
手の中で柄が回り、櫂を戻す時に水面を叩きかけた。握り直して、次を揃えた。
艇が伸びた。
同じ時に引けば、自分の力が柄から逃げずに艇へ伝わった。
もう、岸の声を一つずつ聞き分ける余裕はなかった。
前の者の背を見た。汗が布へ広がっていた。その向こうの肩も、さらに前の肩も、同じ時に起きた。
息を吐いた。
吸う。
また引く。
腕が熱くなった。脚を踏ん張る所にも力が要った。櫂を戻す間だけ、ほんの少し身体が楽になり、すぐに次の水が来た。
艇指揮が声をかけた。
折り返しが近かった。
外側の漕ぎ手が大きく引き、内側が加減した。艇首が回った。野本は隣の艇の櫂へ目をやり、すぐ自分の櫂へ戻した。
ぶつけるな。
練習の時の木下の声が、耳に残っていた。
回りきると、号令が戻った。
今度は、港の建物が前に見えた。
氏家には、どの艇が先か分からなかった。
見る角度で、前に出ている艇が変わった。五艇とも近かった。少し離れたように見える艇も、次の数漕ぎでまた追いついた。
隣でノーマンが叫んだ。
その声の大きさに、氏家は一度相手を見た。
中佐は、こちらを見ていなかった。自分の艇へ身体ごと向け、片手を前へ振っていた。
氏家も水面へ戻った。
「棕櫚」の艇が、少し前へ出た。
艇指揮の声が聞こえた。
漕ぎ手の背が一斉に動いた。
氏家は口を開いた。何を叫んだか、自分でもよく覚えていなかった。ただ、皆の動きに合わせて声を出した。
後ろにいた佐野の声が重なった。
野本の掌は、もう痛いというより熱かった。
握りが緩みかけるたびに、親指をかけ直した。肩が上がった。下げろと言われた気がして、下げた。
最後の距離が、なかなか縮まらなかった。
隣に艇がいた。見ないつもりでも、櫂の先が視界に入った。
前の漕ぎ手が、少しだけ遅れた。
野本も、引き始めを合わせた。
自分一人が先に水を掻けば、また艇が揺れる。
次の号令で、全員の背が揃った。
艇が滑った。
あと何回か。
数えようとすると、号令を聞き落としそうになった。野本は数えるのをやめた。
引いた。
また、引いた。
終わりの声がした。
それでも、すぐには櫂を止められなかった。艇指揮の指示を聞いて、やっと力を緩めた。
顔を上げた。
岸で、木下が片手を上げていた。
隣の者が、野本の背を叩いた。
「勝ったぞ」
その声を聞いて、ようやく柄から指を離せた。
五艇が、一艇身ほどの間に入った。
「棕櫚」の艇が、その先頭だった。
岸へ戻ってきた漕ぎ手は、喜ぶより先に息をしていた。水を受け取り、口へ運ぼうとして、手が震えてこぼした者がいた。
野本は座ったまま、掌を膝へ置いた。
木下が近づいた。
「よく揃えた」
兵曹長は、それだけ言った。
野本は頷いた。
他の艇から降りた男が、こちらへ来た。先日の騒ぎにいた米兵だった。野本は相手を見て、一度姿勢を変えた。
男は、自分の掌を開いてみせた。
同じように赤くなっていた。
野本も手を上げた。相手が笑い、水を飲む仕草をした。
言葉は少ししか通じなかった。勝った、負けたということは、互いに分かっていた。
握手をすると、二人とも少し顔をしかめた。
その顔を見て、今度は野本も笑った。
*
差し入れは、氏家が思っていたより多く届いた。
佐藤少将からのものもあれば、競技を見ていた艦から来たものもあった。酒と菓子が並び、木下が数量を確かめていた。
「今夜の当直に回る者には、酒を出すな」
氏家が言った。
「分けてあります。甘いものは、先に渡します」
木下が答えた。
「艦長にも、取り分がございます」
「今は、硬いものを噛みたくない」
兵曹長が氏家の顔を見て、何かを選び直した。
その細かい気遣いが、ありがたくも、おかしくもあった。
ノーマンは帰る前に、もう一度「棕櫚」へ来た。
舷門で迎えた氏家を見ると、わずかに眉を上げた。
「明日には、もう少し腫れるかもしれんな」
「もっとですか」
「私も、明日は貴官に腹を見せたくない」
氏家は笑いかけ、唇を押さえた。
中佐も笑うのを途中でやめた。
岸では、双方の兵が競技の話をしていた。言葉が通じないところを、櫂を引く身振りで埋めている。一人が大げさに後ろへ倒れ、周りが笑った。
「あの晩のことだが」
ノーマンが言った。
氏家は相手を見た。
「こちらの者の言葉も含めて、報告を受けた。競技をしたから、あの言い方までよかったことにはならん」
「こちらも、起きたことは確かめました」
野本たちだけを、罰のために呼び出す話にはならなかった。双方の上官へ報告がなされ、今日の競技まで含めて騒ぎを収めることになっていた。
氏家は、岸の男たちへ目を戻した。
ノーマンが手を差し出した。
「では、また海で」
「できれば、次も岸で」
「それがいい」
今度は静かに握った。
中佐は舷梯を降りた。身体を捻る時、やはり少し動きが遅かった。
氏家も艦内へ戻った。
艦長室の机には、妻へ出す手紙があった。
無事に働いている。
前に書いた一行は、今夜にはいささか言い過ぎだった。顔を冷やす布を脇へ置き、氏家はペンを取った。
今日は、米国の艦長と試合をした。
そこまで書いて、説明が足りないと思った。
喧嘩ではない。双方で決めた試合だ。怪我も大したことはない。
書き足すほど、妻を心配させそうだった。
氏家は紙を眺めた。
続きを書けば、勝ったかと子供が尋ねるかもしれない。引き分けだと答える。だが、自分では負けたと思っている。
艇の競技では、乗員が勝った。
それなら、はっきり書けた。
ペンを動かすと、戸の向こうから笑い声が聞こえた。菓子の箱が開けられたらしい。別の声が、取りすぎるなと言った。
氏家は一度、手を止めた。
今日、その声を聞いていてよいのだと思った。
メアリーのことが消えたわけではなかった。昼の楽隊を聞いていた時にも、観衆の中で白い服を探しかけた。いるはずがないと分かっていたのに、目が動いた。
それを、自分の顔へ拳が来る間には忘れていた。
今、戻ってきた。
氏家は布を目の周りへ当てた。
思い出したからといって、戸の外の笑いを止める理由にはならなかった。
しばらく冷やしてから、また手紙を書いた。
皆、よく働いている。
今日は、よく漕いだ。
そこへ、自分もよく殴られたと書きかけて、やめた。
*
「意見を申し上げても、よろしいでしょうか」
木下の声で、氏家は現在の艦橋へ戻った。
兵曹長が、野本を連れて来ていた。
「何だ」
「下士官兵は、艦長のなさったことに感動いたしております。特に、騒ぎのもとになった者たちは、懲罰を覚悟しておりました」
野本が姿勢を正した。
「その通りです。水兵を代表して、感謝申し上げます」
艦橋にいた者からも、礼を述べる声が上がった。
氏家は、その顔を見た。
艇の中で櫂を握っていた手が、今は持ち場の仕事をしていた。海図に線を引く者がいて、遠くの煙を見ている者がいた。
「私は、君たちが勝つかどうかも知らずに、レースを申し込んだんだぞ」
「その時は、勝つつもりでした」
野本が言った。
「漕いでみると、違ったか」
「一人で急いでも、艇が進みませんでした」
木下は横で聞いていた。
氏家は頷いた。
「君たちが勝ったことで、私は佐藤閣下からお褒めの言葉を頂いた。こちらこそ、礼を言わねばならん」
野本の顔が、少し緩んだ。
「あちこちから頂いたものも、まだある。帰投後、楽しんでくれ」
「はい」
返事が揃った。
木下が二人ほどを持ち場へ戻し、野本も艦橋を降りていった。
それを見送り、氏家は自分の瞼へそっと触れた。
寄せ集めの艦だと、自分でも思っていた。
誰がどこから来たかを、初めには覚えようとしていた。今は誰がどの声で答えるかを知っていた。木下が叱る時の声と、よく揃えたと言う時の声も、区別がついた。
佐野が、船団の速力について報告した。
氏家は海図を見た。右から見れば、細い線も読めた。
輸送船が速力を上げた。
煙が濃くなり、並んでいた船の間隔が少し変わった。
「船団の動きに合わせる。戦闘配置」
氏家が命じた。
「見張り員は、雷跡及び潜望鏡の発見に努めよ」
佐野が命令を伝えた。
笑っていた者も、もう海へ顔を向けていた。
野本の返事が、下から聞こえた。
氏家は双眼鏡を持ち上げた。腫れた瞼へ当てないよう、少し位置をずらした。
自分の顔は、まだ痛んだ。
艦は、いつもの速力で前へ進んだ。




