燃ゆる母港(1)
「また二隻、やられた」
中佐参謀は、書類を卓へ置いた。
ギュンターは、記された艦番号を見た。帰投を確かめられていない艦の報告だった。二つの番号の下に、乗員の名はなかった。
「罠を張ったつもりが、こちらが嵌められたらしい」
参謀は言った。
「敵司令部へ送り込んだ情報員からも、連絡が途絶えている」
ギュンターは顔を上げた。
「向こうも、それほど馬鹿ではないということですか」
「ああ。少し、うまくいきすぎていた」
参謀の指が、紙の端を押さえた。
前に、作戦を変えるべきだと言った時にも、その指は同じ所にあった。日本の駆逐艦は戻った。ウジイエは、音を聞いて追い、別の音へ誘われ、魚雷を撃たれたところまで覚えているはずだった。
次にも同じように追ってくるとは限らない。
そう具申した。
もう一度は使えると答えたのが、今、向かいにいる男だった。
ギュンターは、その話を繰り返さなかった。
言えば、参謀の顔は変わるだろう。自分の気も少し晴れるかもしれない。
それで、二隻の艦が帰ることはなかった。
「情報員の消息は、確かめられないのですか」
「今のところは。向こうが何を知ったかも、まだ分からん」
参謀が答えた。
紙にある運航情報は、もう使えなかった。正しいものが混じっていたとしても、どれが正しいかを海の上で確かめるのは、自分たちだった。
ギュンターは海図を出した。
「別の手を使います」
参謀が、椅子の背から身体を離した。
「策があるのか」
「奴らを、港から出にくくする」
ギュンターはマルタを指した。
敵艦は船団に付き添って出撃し、燃料と爆雷を使い、戻って補給する。休ませる者と働かせる者を入れ替え、傷んだ機関を直し、また出てくる。
あの駆逐艦も、その繰り返しの中にいた。
海にいる艦だけを追っていれば、別の艦が港から来た。
「港口の防潜網を、どうする」
参謀が尋ねた。
「出入りする艦には、通る場所が必要です」
ギュンターは、港へ入る線を引いた。
帰投する駆逐艦の後ろに付く。水を乱す推進器に近づき、その航跡に潜望鏡を紛れ込ませる。網を開けている間に入り、閉じられる前に出る。
話しながら、ギュンターは自分の艦の長さを思った。
海図では、線を一本引くだけだった。
「中で攻撃したら、出口はすぐに閉じられるぞ」
「ですから、目標を探して居続けることはできません。撃つ位置と、出る向きを同時に決めます」
「日本艦を狙うのか」
「いれば、狙います」
ギュンターは答えた。
「いなければ、在泊する敵艦を」
参謀は頷いた。
報告に使う言葉を、もう考え始めているように見えた。作戦が成功すれば、司令部の指導によるものになる。失敗すれば、現場での判断が問われるだろう。
ギュンターには、その男の考えが分かる気がした。
だが、ここで確かめたいのは、功を誰のものにするかではなかった。
「港外にも、敵艦はいるものとして計画します。網の開放を確認できなければ、入りません」
参謀が海図を見た。
ギュンターは、帰る線も引いた。
*
U30では、魚雷の確認が続いていた。
前の出撃で、命中したはずの魚雷が炸裂しなかった。あれを海から取り戻して調べることはできなかったが、次に使うものは手元にあった。
ギュンターは担当の下士官から報告を受けた。
異状はないという。
「確認した項目は、航海長にも渡しておけ」
「はい」
兵が魚雷の脇を通った。通路を空けるため、別の者が身体を壁へ寄せた。
ワルターは、艦長と一緒に奥へ進んだ。
「港へ入る間、浮き上がっては困る」
ギュンターが言った。
「ですが、潜りすぎれば底へ近づきます」
「そうだ。位置と深度の報告を、別々に聞かせてくれ。片方がよいから、もう片方もよいと思いたくない」
ワルターは頷いた。
操舵と深度の担当へ、手順を確かめさせた。自分たちの速度を上げれば前へ出られるが、前の駆逐艦が速力を落とせば、近づきすぎる。回頭の時には、その内側を切るか、外側へ遅れるかでも位置が変わった。
蓄電池の残りを確かめ、待つ時間と走る時間を見積もった。
「途中で諦めることもある」
ギュンターは、集めた者へ告げた。
「港が見えれば、必ず入るという命令ではない。網を抜けられない、出口へ戻れないと判断したら、別の機会を待つ」
先任の下士官が、兵の顔を見た。
ギュンターはその者へ、前の艦へ近づきすぎた時の報告を確かめた。
敵に見つからないために黙るのと、艦長へ危険を伝えずに黙るのは違った。
「分かった時に言え。命令を待って、知っていたことを後から言うな」
「はい」
返事を聞いて、ギュンターは頷いた。
皆が持ち場へ戻った。
機関の方から、工具を置く音がした。
ワルターが、交代の予定を見せた。長く待つことになれば、全員を同じ時間に疲れさせるわけにはいかなかった。
「今、食べられる者には食べさせろ」
ギュンターが言った。
「艦長も、今のうちに」
中尉が答えた。
ギュンターは、まだ見るものがあると言いかけた。
中尉の目は、その返事を待っていた。
「そうしよう」
狭い所へ腰を下ろし、器を受け取った。
すぐ隣では、兵がパンを割っていた。大きさが不揃いになり、片方を相手へ渡す前に、少しだけちぎり直した。
渡された者が笑った。
ギュンターは温かいものを口へ運んだ。
皆と同じ時に食べると、自分がここで動かす艦の大きさが、海図を見ている時よりよく分かった。
*
二日後、U30はマルタ沖にいた。
待つ間は深度を取り、必要な時に潜望鏡を上げて海面を確かめた。陸が近くても、潜っている者には港の鐘も岸の声も届かなかった。
艦内の空気は、次第に温かくなった。
ギュンターは襟元を緩めた。背中へ汗が流れ、座ると服が肌へ貼りついた。
待つ時間は、作戦図より長かった。
ワルターが残量を伝えた。
まだ待てる。しかし、待ったあとで港へ入り、また外へ走る分を残さなければならなかった。
兵が器を運んできた。
飲もうとすると、聴音員の報告があった。
「複数のスクリュー音。近づきます」
ギュンターは器を返した。
電動機が動き、艦の響きが戻った。深度の報告を聞き、潜望鏡へ目を当てた。
水面が視野を横切った。
その向こうに、煙があった。
駆逐艦が続いていた。フランス艦隊だった。港へ向かっている。
ギュンターは短く観測し、潜望鏡を下ろした。
「針路、そのまま。速力を合わせる」
ワルターが復唱した。
再び上げた時には、最後尾の艦の艦尾が大きく見えた。
白い航跡が、視野の下を埋めていた。
近い。
そう思っても、離れすぎれば隠れるものがなくなった。
艦が揺れた。
ギュンターは潜望鏡の把手を握り直した。前の艦が押しのけた水が、こちらの艦体を動かしていた。視野が上下し、煙突が一度見えなくなった。
深度の担当が報告した。
調整の指示が続いた。
ギュンターは命令を重ねず、戻るのを待った。
兵の手が、前の指示を処理している間に次を叫べば、どちらへ合わせるか分からなくなる。
視野が落ち着いた。
前の艦の艦尾が、また見えた。
「いい。そのまま」
ギュンターが言った。
聴音員には、駆逐艦の推進器の音が大きく聞こえていた。敵側でも、いま自分の艦の音に耳を塞がれているはずだった。
しかし、見張りの眼まで塞げるわけではなかった。
潜望鏡を上げる時間を短くした。
見る。下げる。
位置を確かめ、また見る。
港口が近づいた。
ギュンターは、前の艦の進む所を見た。通航させるために防潜網が下げられ、艦が通っていった。
「航海長、位置は」
報告が返った。
「進める」
ギュンターは命じた。
艦首は、先ほど駆逐艦が通った水を進んだ。
艦内では、港に入ったかどうかを見られない者が多かった。針路の命令と深度の報告を聞き、計器を見て、自分の持ち場を守っていた。
先任下士官が、後ろを一度振り返った。
兵が頷いた。
艦は、網の開いた所を抜けた。
*
潜望鏡の中に、港が広がった。
陸が、近かった。
停泊する船の向こうに岸壁があり、建物があった。海の上から見れば、それらは動かないものだった。今、自分の艦だけが水の下を動いていた。
ギュンターは日本の駆逐艦を探した。
いなかった。
少なくとも、見渡せる所にウジイエの艦はなかった。
どこかの船団について走っているのだろう。その艦がいないから、ここへ入れたのかもしれない。
いれば、撃った。
いない相手を探して、出口を失うわけにはいかなかった。
ギュンターは、英国の駆逐艦二隻へ目を移した。
帰投してくるフランス艦の、前方にいた。
目標の位置を伝えた。魚雷の担当が、指示を受け取った。発射管の用意が進んだ。
ワルターが、港口へ戻る針路を確かめた。
ギュンターは潜望鏡を下ろした。
艦内の者へ顔を向けた。
自分の命令を待っている眼があった。
岸へ戻ったばかりの敵兵も、いま食べているかもしれない。上着を脱ぎ、濡れた服を替え、明日の当直を確かめているかもしれなかった。
その時間を、終わらせるために来た。
「一番から四番、発射用意」
ギュンターは命じた。
報告が返った。
潜望鏡へ、もう一度目を当てた。
そこに、艦がいた。
「発射」
魚雷が離れた。
艦の釣合いが変わり、担当する者が調整した。
ギュンターは、命中する所を見続けなかった。
「面舵一杯。後部、五番六番、発射用意」
艦が回り始めた。
港口へ向かう。
前の駆逐艦の影から出た時、まだ誰にも見つかっていないかどうかは分からなかった。発射した魚雷を見れば、敵は侵入を知る。
来た道を、出る。
ワルターの声が続いた。
針路。深度。速力。
ギュンターは潜望鏡を回した。
港口が見えた。
その時、爆発の音が艦内へ届いた。
海が、艦体を押した。
兵の肩が一度動き、すぐに持ち場へ戻った。
命中した。
ギュンターは、そう判断した。
まだ、どちらの艦がどうなったかを数える時間はなかった。
港口を抜ける間、ギュンターは一度だけ後ろを見た。
黒い煙が上がっていた。
その手前で、フランスの駆逐艦が動き始めていた。艦首が回り、煙突から新しい煙が出た。
網を閉じられる前に、外へ出なければならなかった。
「そのまま進め」
ギュンターは命じた。
言いながら、深度の報告を待った。
前へ出ろと急がせたくなる。しかし、速度を上げれば艦の上下の動きも変わった。港口で浮き上がれば、岸からも艦からも撃たれる。
ワルターが、担当する者へ顔を向けた。
兵が答えた。
艦は揺れながら、外へ進んだ。
ギュンターが次に見た時、港口は後ろにあった。
通り抜けた。
口へ出しかけ、やめた。
後部の魚雷が、まだ残っていた。
フランス艦が近づいてきた。
今度は、その艦尾を追っているのではなかった。こちらへ来る艦首を見ていた。
敵艦長も、何が港を襲ったか確かめようとしている。
どこにいるか分からない潜水艦を追って、ここまで出てくる。
ギュンターは把手を握った。
来い。
声には出さなかった。
艦内では、発射の用意が済んでいた。兵は彼の顔を見ず、次に出る命令へ耳を向けていた。
敵艦の位置を伝えた。
まだ待つ。
煙突の後ろから、港の火が見えた。艦橋の上に小さな人影があった。
ギュンターは距離を測り直した。
「五番、六番、発射」
後部の魚雷が離れた。
ギュンターは、潜望鏡を下ろした。
「メインタンク、ブロー。砲撃戦用意」
圧縮空気が送られ、艦が上がり始めた。
ここからは、姿を隠せなかった。
ハッチの下で、砲の要員が待っていた。腰を屈め、前の者が進む場所を空けた。外へ出る用意をした者の顔に、汗が光っていた。
浮上を伝える声がした。
ギュンターは上へ進んだ。
ハッチが開いた。
外の空気が入った。
港口で、水柱が立っていた。
フランス艦の姿が傾いて見えた。その先で、新しい煙が上がった。動いていた艦が速力を失い、港の入口近くで止まろうとしていた。
八十八ミリ砲の要員が配置に就いた。
弾が運ばれた。足元を水が流れ、兵が踏ん張った。
「準備が整い次第、砲側判断で目標を攻撃」
ギュンターは、港口の敵艦を示した。
砲が向いた。
発砲した。
衝撃が甲板を伝わり、煙が流れた。
港の方で、艦橋の近くに破片が飛んだ。
艦内から出てきた者が、短く声を上げた。
次の弾が入った。
また撃った。
敵の艦橋にいる者が、身を伏せるのが見えた。
ギュンターは海面を見渡した。
この砲で、魚雷の代わりをさせるつもりはなかった。既に傷んだ敵艦の動きをさらに妨げられればよい。港の奥で船が動こうとしても、入口には被雷した艦があった。
今、その場所を出ようとしている者は、砲火も受けた。
こちらの兵の声が弾んだ。
長く潜っていた者たちが、目標を自分の眼で見た。閉じた艦内で命令を待っている時には見えなかった成果が、火と煙になっていた。
ギュンターにも、それが必要な気持ちは分かった。
もう一発撃った。
ここまでだ。
「射撃やめ。急速潜航用意」
命じると、先任下士官が兵を戻し始めた。
弾を扱っていた者も、砲を動かしていた者も、手順に従った。後ろへ顔を向けた兵が、すぐに叱られた。
ギュンターは、まだ来ていない敵艦を探した。
ウジイエが戻るかもしれない。別の艦が、こちらを見ているかもしれなかった。
港の煙を眺めて、自分の艦を失うわけにはいかなかった。
最後の兵が下りた。
ギュンターもラッタルへ脚をかけた。
港の方で、火が明るく見えた。
甲板へ戻る敵兵は、もういない場所もあるだろう。
ギュンターは下りた。
ハッチが閉じた。
外の音が遠くなり、また艦内の声だけになった。




