燃ゆる母港(2)
逃れる針路へ進むと、兵たちの声も低くなった。
水を飲む者がいた。服の袖で顔を拭き、すぐ計器へ目を戻す者がいた。
ワルターが人員を確認した。
「全員、戻っています」
ギュンターは頷いた。
その返事を聞くまで、自分が最後に下りたのだから大丈夫だとは言わなかった。外へ出た者を、自分の眼ですべて数えたわけではなかった。
潜航したあとの漏水の確認が続いた。
異状なしという声が、奥から返ってきた。
ギュンターは、やっと肩を少し下げた。
艦の力を使った。
魚雷を放ち、蓄電池を使い、長く潜って待った。いま出せる速力を、来る時と同じつもりで命じることはできなかった。
ワルターが、その残りを伝えた。
「帰投して、補給する」
ギュンターが言った。
「交代で休ませろ。港へ戻るまで、見張りは緩めない」
中尉が復唱した。
先ほど甲板で声を上げた兵が、腰を下ろしていた。掌を膝へ置き、顔を上げた。
「艦長、英国艦は」
「命中はした。被害の確認は、見た範囲で報告する」
ギュンターは答えた。
兵が頷いた。
その男に向かって、戦果を少なく言うつもりはなかった。しかし、港で炎が上がったことと、何隻を沈めたかは同じではなかった。
ワルターが報告のために時刻を記した。
ギュンターは隣で、その数字を見た。
ウジイエはいなかった。
だから、ウジイエを沈めることはできなかった。
それでも、敵は困る。出入りする場所が塞がれ、休むはずだった乗員が火を消し、負傷者を運ぶ。港へ帰ればよいと思っていた艦長も、帰る道を考え直さなければならなかった。
ギュンターは海図へ顔を向けた。
自分が引いた帰投の線があった。
部下が休める場所へ、その線を繋げなければならなかった。
*
マルタでは、艦を動かす命令と、負傷者を運ぶ声が重なっていた。
岸から来た者が、火の出ている艦へ向かった。戻ってきた者が別の人手を求め、呼ばれた男が持っていた物を脇へ置いた。
入口近くでは、被雷したフランス艦が擱座していた。
退かさなければ、他の艦の出入りが難しかった。
しかし、その艦の中にも人がいた。
救護を急げという命令と、移動のために調べろという命令が、同じ場所へ届いた。出来る者が出来る方へ動き、足りない者をまた呼んだ。
誰も、港の外を見なくてよいとは言っていなかった。
それでも、今、目の前で助けを求めている者を通り過ぎて、沖の見張りに立てと言うのは難しかった。
司令部では、届いた報告が並べられた。
英国艦の被雷。フランス艦の損傷。港口の状況。
同じ艦のことが別の報告に入り、時刻の異なる情報が一緒に届いた。確かめられたものから、海にいる艦へ知らせる必要があった。
伝える言葉を選ぶ間も、担架は運ばれていた。
*
「艦長、司令部から電報です」
通信員が用紙を差し出した。
氏家は受け取った。
艦橋の外では、いつも通り輸送船が走っていた。
電文を読み、もう一度、日時を見た。
昨日、十五時。
マルタの基地に、敵潜水艦が侵入した。
在泊艦船に被害。港口に支障。
「航海長」
佐野が近づいた。
紙を渡すと、相手の顔が変わった。
氏家は、その先にいる見張り員を見た。目は海へ向けられていた。報告する者が、次の言葉を待っていた。
「どうされますか」
佐野が尋ねた。
「護衛を打ち切って、帰るわけにはいかん」
氏家は答えた。
先に言葉を出さなければ、頭の中に戻る道だけが広がりそうだった。
あの岸壁で菓子を受け取り、兵が競技の話をしていた。木下は、差し入れを当直ごとに分けた。ノーマンは、身体を慎重に捻りながら舷梯を降りていった。
その港が、今、焼けていた。
「日本艦の被害について、ほかの知らせは」
「まだ、ありません」
通信員が答えた。
ないという返事は、無事という報告ではなかった。
氏家は海図を見た。
マルセイユまで、まだ一日以上あった。
今、艦を回せば、早く港へ戻れる。それでも、昨日の攻撃には間に合わない。負傷者を運ぶにしても、火を消すにしても、まずはその場所へ着かなければならなかった。
着いた時に、何が出来るかも分からなかった。
目の前には、まだ港に着いていない船があった。
「棕櫚」が離れるところを、その船員は見る。
理由を知らされれば、なお不安になるだろう。帰る基地へ敵が入ったという知らせを受けて、護衛艦まで減る。
「船団を、マルセイユまで送る」
氏家は言った。
「司令部に、護衛を続行すると伝えろ。入港後は、現地で二日の休養と補給を取ってから帰投する計画だ。港の状況を、引き続き知らせてもらう」
通信員が命令を確かめた。
佐野は紙を返した。
「押っ取り刀で帰れば、港外で待たれているかもしれん」
氏家が言った。
「敵は、慌てて戻る艦も狙える。あれだけのことをして、一隻も外へ残しておらんとは思えない」
佐野が頷いた。
敵の配置を知っているわけではなかった。それでも、自分が港を攻撃したなら、どこへ次の艦を置くかは考えられた。
氏家は、艦橋にいる者の顔を見た。
紙に書かれた言葉は、もう何人かに見えていた。見なかった者も、佐野の顔を見ていた。
小さな艦で、それを隠したまま次の港へ入ることはできなかった。
「総員へ、私から知らせる」
氏家は伝声の用意をさせた。
「艦長より達する」
声が艦内へ伝わった。
「昨日、十五時、マルタの基地に敵潜水艦が奇襲をかけ、在泊艦船に被害が出たとの報告を受けた。被害の詳細は、まだ確認中である」
氏家は一度、言葉を切った。
若干と言って済ませるには、港口にまで支障が出ていた。すべて沈んだというような言い方をする根拠もなかった。
「本艦は護衛を続行し、輸送船団をマルセイユまで送り届ける。その後、同地で二日の休養補給を取り、帰投する計画である。新たな命令を受ければ、改めて知らせる」
艦内で、誰かが工具を置いた。
別の者は手を止めずに聞いていた。
「当地でも、基地の話を耳にするだろう。流言飛語に注意せよ。聞いた話を確かめずに広めるな。必要なものは上官へ報告せよ」
氏家は、自分の声が戻るのを聞いた。
「今、我々が守る船は、本艦のそばを走っている。各員、その任務を果たせ」
伝え終えた。
艦橋は、しばらく静かだった。
やがて佐野が、次の針路の確認を求めた。
氏家は答えた。
そこで、また艦が動き始めたように感じた。
*
木下は、部署を回っていた。
艦長の言葉を聞けなかった者がいないか確かめ、予定の変わった所を伝えた。何隻やられたのかと尋ねた者には、まだ確認中だと答えた。
「誰か、知っている者はおるのですか」
若い水兵が訊いた。
「港には、知っている者がいる」
木下は言った。
「だが、それで誰が怪我をしたか分かるわけではない」
水兵が黙った。
野本は、次の交代を確かめていた。
艇の競技に出た米兵の掌を思い出していた。同じように赤くなった手を差し出され、笑った。あの男がどこにいるかを、野本は知らなかった。
名も、よく聞き取れていなかった。
艦橋から、船団の動きについて指示が来た。
野本は返事をした。
知っている者が港にいることと、目の前の仕事をやめることは、別だった。
木下が歩き去ったあとも、兵は持ち場にいた。
氏家は、航海長と次の寄港を確かめた。
燃料と食料。必要な点検。休ませられる人数。
マルタで済ませるつもりだった仕事を、マルセイユへ移さなければならなかった。
「語学のできる者も、上陸の際には気をつけさせます」
佐野が言った。
乗員には、外国語を聞き取る者がいた。それは補給にも役立ったが、街で耳にした話を、もっともらしく伝えることにも繋がった。
「言葉が分かるから、話が本当だと分かるわけではないからな」
氏家は答えた。
「相手も、こちらの軍服を見て話す。知らないことは、知らないままにしておけ。こちらの予定まで教えることはない」
言うと、メアリーの顔が一度戻った。
氏家はその顔を追わなかった。
知っている人の声だから信じたい。それを、今度は部下が経験するかもしれなかった。
佐野は頷き、書き留めた。
「二日というのは、休む時間も取れるのでしょうか」
「取らせる。そのための二日だ」
氏家は言った。
「次へ出られるよう、機関も人も整える。マルタへ走り戻って、何もかも使い切るのでは困る」
航海長は海図を見た。
氏家は、まだ腫れの残る瞼へ触れた。
ノーマンの拳は、今も思い出せた。
助けに来た駆逐艦の姿も、覚えていた。
同じ知らせを受ければ、ノーマンはどうするだろう。
自分と同じ答えを出すとは限らなかった。
戻る艦長を、愚かだと言う気にはなれなかった。帝国海軍の艦に被害が出たと、具体的な名を知らされた時、自分の手が今と同じように止まるかは分からなかった。
それでも、今は止めた。
「棕櫚」は、船団のそばにいた。
*
ギュンターが基地へ戻ると、U30の補給が始まった。
港へ入った時のことを尋ねる者がいた。砲の兵が、腕を動かして説明しかけ、先任下士官に仕事の続きを促された。
まず艦を、次に使える状態へ戻す。
報告は、そのあとにも出来た。
司令部には、敵の港口が塞がれたとの知らせが届いていた。
ギュンターは、自分が見たことを伝えた。英国艦への雷撃と爆発、追ってきたフランス艦への雷撃、港外での砲撃。確かめられなかった部分は、そのまま残した。
参謀は、前より明るい顔をしていた。
港外に、別の艦を出すことになった。
ギュンターの艦には、休養と補給が必要だった。代わりのUボートが、敵基地へ戻る艦を待つ。
海図の線は、まだ続いていた。
ギュンターは、自分の艦へ戻った。
兵が横になっていた。寝ている者の隣を、当直へ向かう者が身体を傾けて通った。
ワルターが、次の補給の順を伝えた。
ギュンターは聞いた。
港で敵が何人死んだかは、この艦では数えられなかった。
戻った者の交代は、数えられた。
中尉の報告を確かめ、自分も座った。
その後、マルタへ帰投しようとした英国の駆逐艦が、港外で撃沈された。
U30ではなく、交代して出たUボートによるものだった。
「棕櫚」へ届いた知らせは短かった。
氏家は、読んでから紙を伏せた。
戻らなくてよかったと言えば、自分の判断の話になる。
戻った艦には、艦長がいて、命令に従った乗員がいた。
その人々が、いま海の底にいた。
氏家は、通信員へ受信の確認を命じた。
佐野が近づいた。
「船団に、異状はありません」
報告した。
氏家は頷いた。
「引き続き、警戒する」
言い、海へ顔を向けた。
夕方の光の中を、輸送船が進んでいた。
それぞれの船腹の上に、人がいた。
まだ、港へ届けなければならなかった。




