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死神

 マルセイユの岸へ着くと、氏家は輸送船の乗員が降りていくのを見た。

 荷を運ぶ者が来て、別の者が行く先を指した。海の上では船ごとに見ていた人々が、岸では一人ずつ歩いていた。

 ここまで届けた。

 そう思って初めて、肩に残っていた力が抜けた。

 「棕櫚」では、休養と補給が始まった。機関を調べる者はすぐには上陸できなかったが、交代すれば街へ出られた。木下は順番を確かめ、帰艦した者の顔を見て、次の者を送り出した。

 野本は、パンを買って戻った。

 頼んだ数を指でも示したため、思っていた倍を渡されたという。周りの者が笑い、取り分が増えたことは誰も嫌がらなかった。

 氏家も、一つ受け取った。

 口の傷は、もう噛む邪魔をしなかった。

 休む時間を取ると、次の仕事までの間に余裕ができた。椛島は聴音器の具合を確かめ、機関長は点検の結果をまとめた。眠ったあとに読み返すと、前の日には見逃しかけた数字に気づいたという。

 氏家は頷いた。

 休養は結局その一日だけになった。

本来はあと二日のはずが急遽変更になったのだ。

 母校で被害が出たことで、船団を護衛する艦が足りなくなったのだ。こちらへ送ってきた輸送船を、今度はアレキサンドリアまで送ることになった。

 入港中の日程も、それに合わせあるものはなくなりあるものは延期になった。

 司令部からの指示を受け、氏家は航海長と海図を開いた。

 遠回りして故郷へ帰る話ではない。帰ると思っていた基地が、また先になっただけだった。

「次は、直掩です」

 佐野が言った。

 これまでのように、外周のさらに外で単艦遊撃を行う配置ではなかった。輸送船に近い所で、他の護衛艦と受け持ちを分ける。

 船隊の指揮を執るのは、ノーマン中佐だった。

「中佐のお手並み拝見、といきますか」

 佐野が言い、氏家の顔を見た。

「私の顔を、まだ参考にしておるのか」

「もう、ほとんど元に戻られました」

「ならば、その話も元へ戻すな」

 艦橋にいた者が笑った。

 笑いが収まると、佐野は予定の隊形を示した。前へ出る艦、側方を守る艦。何かあった時に、どちらへ船を逃がすか。

 氏家は、ノーマンから伝えられた要領を読んだ。

 同じ速力で走るだけでも、各艦の間には確認することがあった。隣の艦に任せたつもりが、相手はこちらが守ると思っていれば、そこが空いた。

 出港する前に、その場所を埋めておく。

 氏家は、自分の艦が引き受ける範囲を確かめた。

     *

 数日後、椛島が報告した音は、船団のものではなかった。

 氏家は聴音の方位を聞き、見張りへ海面の確認を命じた。

 船隊指揮へ知らせると、ノーマンの艦から指示が返った。「棕櫚」が探知した敵を攻撃し、その間は別の護衛艦が船団との間を受け持つ。

 近くにいた輸送船が、こちらの動きを見ていた。

 氏家は、その船から離れていく距離を確かめた。

 音のある方へ走る。

 艦の速力が上がると、椛島には聞きづらくなった。直前の方位を保ち、海面に何か見えればすぐ知らせるよう命じた。

 見張りが、波の間に小さなものを見た。

「潜望鏡」

 声が上がった。

 すぐに見えなくなった。

 氏家はその位置を聞き、艦の針路を定めた。

「爆雷投下用意」

 命令が艦尾へ渡った。

 投下の用意が整ったという声が戻った。

 氏家は、敵が潜望鏡を下ろしてから経過した時間を見た。

 そのままいるとは限らない。

 艦首が観測した位置へ近づき、やがてそこを通り越した。

「投下始め」

 艦尾から爆雷が落ちた。

 野本は、落とした者の手が戻るのを見た。次の爆雷が動き、また水へ入った。

 衝撃が来た。

 舷側の水が盛り上がり、白い飛沫が上がった。

 野本は、飛沫を見ている間にも次の指示を待った。

 「棕櫚」は距離を取り、聴音するため速力を落とした。

 椛島が耳を澄ませた。

 爆発のあと、すぐに相手の動きが分かるわけではなかった。自分たちが作った音が、まだ残っていた。

 氏家は、同じ問いを繰り返さなかった。

 椛島の顔が、少し変わった。

「ブローの音と思われます」

 報告した。

 氏家は水雷長を見た。聴音の報告が、伝えられた。

「浮上するか」

「その可能性があります」

 艦内の水を追い出し、海面へ出ようとしている。損傷で潜っていられなくなったのか。そこまでは分からなかった。

「主砲、射撃用意」

 氏家は命じた。

 浮上して魚雷を撃つことも、砲を使うこともできた。

 海面へ出てくるものを、ただ眺めてはおけなかった。

「右舷後方、敵浮上」

 艦橋の者が、一斉に顔を向けた。

 水面が割れ、黒い艦体が出た。艦首が持ち上がり、その周りから水が流れ落ちた。

 砲術長が目標を確かめた。

 氏家は命じた。

「射撃始め」

 四インチ砲が鳴った。

 潜水艦の前部甲板に、砲弾が当たった。破片が飛び、甲板の一部がめくれたように見えた。

 氏家は敵の司令塔を見ていた。

 ハッチが開いた。

 人が出た。

 何かを持ち上げた。

「艦長、白旗です」

 声がした。

 白いものが、風を受けた。

「撃ち方やめ」

 氏家は即座に命じた。

 砲術長が繰り返し、砲の方からも返事が戻った。

 砲声がやんだ。

 艦橋の下で、兵が顔を上げた。

 敵潜水艦は水面にいた。先ほどと同じ黒い艦体だった。

 いまは、その上の人間が両手を見せていた。

     *

「臨検班、整列」

 氏家が命じた。

 木下が人を揃えた。武器を持つ者と、索を用意する者がいた。

「本艦は敵潜に接舷し、生存者を捕虜として収容する。各員、戦時国際法を遵守せよ」

 氏家は、臨検に向かう者の顔を見た。

「降伏した者へ、手を出すな。武器の確認は確実に行え。負傷者がいれば、先に報告すること」

 返事を聞いた。

 敵艦が投降の意図を示し、抵抗する者がいないことを確かめながら、艦を寄せた。

 佐野が距離を伝えた。

 機関への指示が続いた。近づけばよいという操艦ではなかった。波で上下する二つの艦体を、強くぶつけないようにしなければならなかった。

 索が渡った。

 敵兵が受け取った。

 少し前まで、その男の艦へ爆雷を落としていた。

 野本は索の張りを見て、隣の者へ声をかけた。

 臨検班が移った。

 敵艦の上で、将校らしい男が命令を出していた。兵が順に移る場所へ集まった。

 ハッチから出てきた男が、一度立ち止まった。

 背後を見ていた。

 木下は急がせかけ、相手の手が空いているのを確かめてから、乗り移る所を指した。

 男は顔を戻した。

 足をかけた。

 野本が手を差し出した。

 相手の手が、その手を握った。水と油で滑った。

 引き上げると、男の息が近くへ来た。

 初めて、敵兵の顔が目の前にあった。

 野本は手を離し、次の男を見た。

 大きな負傷をした者はいなかった。

 転んだ時についたらしい擦り傷や、打ち身を確かめる者はいた。手当てをする者が水を渡すと、男は器を両手で持って飲んだ。

 その手の震えを、氏家は見た。

 投降した潜水艦の艦長が、前へ出た。

「オスカー・ハーシング大尉です」

 英語で名乗った。

 氏家も姓名と階級を伝えた。

 大尉の目が、一度動いた。

「ルテナンコマンダー、ウジイエ」

 氏家は頷いた。

「ご存じでしたか」

「名前は」

 ハーシングが答えた。

 帽子も服も濡れていた。相手の艦長は、こちらの顔より先に、自分の乗員がどこにいるかを確かめていた。

 氏家は、収容した者の人数を伝えた。

 大尉が自分の人数と照らし、頷いた。

 そこで、ようやく相手の肩が下がった。

「負傷者には、手当てをしています。艦内で待機していただきます」

 氏家は言った。

「乗員も、同じ扱いを」

「もちろんです」

 大尉は氏家を見た。

 返事を確かめてから、短く礼を述べた。

「貴官を、軍人として尊敬します」

 氏家は、どう答えるか少し迷った。

 砲撃をやめるのが遅ければ、この男も甲板へ上がれなかったかもしれない。いま礼を言われている行為と、その前に命じた攻撃は、同じ自分がしたことだった。

「お預かりする乗員に、危害は加えません」

 氏家は答えた。

 ハーシングは頷いた。

 それ以上の言葉は、求めなかった。

 司令部と協議した結果、捕虜は英国海軍の巡洋艦へ移送することになった。

 氏家は船隊指揮へ状況を伝えた。船団は、ほかの護衛艦が引き続き守っていた。

 収容した者へ水を渡し、移送の用意を進めた。

 彼らが座っている所へ、当直に向かう水兵が通りかかった。いつものようには歩けず、一度立ち止まった。

 ドイツ兵が脚を引いた。

 日本の水兵が、小さく頭を動かした。

 それだけで、通る所ができた。

     *

「艦長のお名前は、敵にも知れ渡っているようですね」

 佐野が言った。

 氏家は、敵潜水艦を見た。

 まだ、水面に残っていた。前部の傷んだ甲板が見えた。

「死神扱いか」

 自分の声が、思っていたより低かった。

 報告上、沈めた敵潜水艦は既に五隻になっていた。

 そのたびに、潜水艦の中にいた者を自分は知らなかった。どの程度の人数がいたかは推し量れても、誰が食事をしていたか、誰が家からの便りを読んでいたかは分からなかった。

 数字を足せば、一つの艦の乗員よりはるかに多くなった。

 今日、ハーシングの顔を見た。

 それより前の艦長の顔は、見ることができなかった。

「まさか。先ほどの大尉も、軍人として尊敬すると言っていたではありませんか」

 佐野が言った。

 いつもの軽い声ではなかった。

「軍人か」

 氏家は繰り返した。

 軍人になりたいという思いだけで、兵学校を選んだわけではなかった。

 二高にいた頃、家が没落した。その先、帝国大学へ進み、学問を続けるつもりだった道が、そこで細くなった。

 暮らしを立てる必要があった。

 兵学校へ入れば、海へ出られる。陸軍より世界を見られるかもしれないと考えた。

 世界は、確かに見た。

 英国へ派遣され、新しい技術を学んだ。ユトランドでは、乗員の一人として初めて実戦を経験した。

 今は地中海で、自分の命令を待つ者がいた。

 学問の道を選んでいれば、こうはならなかったと思っても、今の持ち場が別の誰かへ移るわけではなかった。

 氏家は、先ほど水を渡していた兵を見た。

 器が戻され、次の仕事に使うものが運ばれていた。

「艦長、少し休まれては」

 佐野が言った。

「顔に出ておるか」

「試合の時とは、違います」

 氏家は笑おうとして、やめた。

「少々、疲れた」

「ここは、我々が」

 航海長は、必要な確認の順を伝えた。捕虜の移送、臨検班の帰艦、船隊指揮との連絡。何かあれば、すぐ呼ぶという。

 氏家は聞き、頷いた。

「頼む。何かあれば」

 艦長室へ戻った。

 椅子へ座ると、甲板の声が少し遠くなった。

 人を捕虜にした。

 そのことを、よかったと思っていた。

 同時に、前に沈めた艦にも、同じように顔を見て話せる者がいたはずだった。

 白旗を上げる時間があった者と、なかった者。

 自分が次の命令を出すまでの、短い間があった。

 氏家は目を閉じた。

 敵が魚雷を撃てる間は攻撃する。降伏したらやめる。その区別は、頭では明らかだった。

 終わったあとに残る顔まで、同じように分けられるわけではなかった。

 戸の外を、人が歩いた。

 足音が止まり、ノックがした。

「艦長、臨検班、帰艦しました」

 氏家は目を開けた。

「入れ」

 報告を受けた。

 暗号表などの機密書類を探したが、主要なものは処分されていると見られた。残った艦の状態も、伝えられた。

 氏家は一つずつ聞いた。

 もうひと頑張りだという言葉だけで、乗員を働かせるわけにはいかなかった。自分も、休んだ分だけ次の報告を正しく聞かなければならなかった。

     *

 敵潜水艦の処分は、氏家に委任された。

 士官室へ各科長を集め、状態を確かめた。

 損傷した艦を曳いていけば、「棕櫚」も速力を落とす。船団へ戻る仕事が遅れ、曳航の途中で敵に遭えば、守るものがもう一つ増えた。

 今の状態で、自艦を危険にさらさず持ち帰れる見込みは薄かった。

 撃沈処分に、異論はなかった。

 ただ、捕虜が『棕櫚』に乗っている間に始めることは、しなかった。

「撃沈処分は、捕虜を英国艦へ引き渡したのち、実施する」

 氏家は言った。

「砲と魚雷の訓練も兼ねる。人が残っていないことを、最後にもう一度確かめろ」

 水雷長が頷いた。

 砲術長は、射撃の順を確認した。

 移送の時、ハーシングは自分の乗員を先に行かせた。

 氏家は、舷側でそれを見ていた。

 濡れた服を替えられた者もいた。まだ濡れた袖を握っている者もいた。短い時間でも、「棕櫚」のどこに座っていたかを氏家は覚えていた。

 大尉が最後に近づいた。

「乗員への扱いに、感謝します」

「移送先にも、人数と手当ての状況を伝えています」

 氏家は答えた。

 相手は頷き、自分の潜水艦へ顔を向けた。

 何も言わなかった。

 氏家も、処分についてそこで言葉を重ねなかった。

 大尉が敬礼した。

 氏家は返した。

 その腕が下りてから、相手は移送される方へ歩いた。

 英国巡洋艦への引渡しが済んだとの確認を受けた。

 氏家は、砲術長と水雷長を呼んだ。

 これから撃つ艦の中に、人はいなかった。

 それでも、さっきまで男たちが出てきたハッチが見えた。

 臨検班が最後に確かめた報告を聞き、氏家は命令を出した。

「目標まで、距離三千」

 報告があった。

「主砲及び副砲、射撃用意」

 砲が向いた。

 氏家は、各配置の用意を確認した。

「撃て」

 砲声が重なった。

 小さな艦体の前後へ、水柱が上がった。

「夾叉」

 砲術長が報告した。

 観測された落下位置に従い、射撃を修正する。水雷長は、魚雷を放つ針路を確かめた。

 「棕櫚」は一度目標から離れ、回頭した。

 艦が傾いた。

 氏家は手を添え、甲板の動きを感じた。下では、水雷の要員が発射の用意を続けていた。

 目標へ魚雷を向けられる位置に入った。

「魚雷発射用意」

 報告が返った。

「発射」

 圧縮空気の音がして、魚雷が海面へ入った。

 白い筋が伸びた。

 氏家はその先を見た。

「魚雷命中後、砲撃を加える。ラッパ兵、吹奏用意」

 艦の速力を落とし、機関への指示を続けた。

 行き足を止める。

 整列する者のほかに、持ち場を離れられない者もいた。見張りは海を見ていた。

 水雷長の声がした。

「命中」

 水柱が立った。

 潜水艦の姿が、その中に隠れた。

「撃て」

 砲声がした。

 水が落ちると、艦体の沈み方が変わっていた。甲板が傾き、さっきまで見えていた所が、海へ入っていった。

「左舷、整列」

 氏家が命じた。

 木下が兵を揃えた。

 野本も、その列に立った。

 司令塔は、まだ見えていた。

 索を受け取った男がいた所を、野本は見た。そこには、もう誰もいなかった。

 艦の端が水へ消えた。

 泡が上がった。

「目標、沈みます」

 声がした。

「ラッパ兵、海行かば。総員、敬礼」

 ラッパの音が出た。

 氏家は腕を上げた。

 視線の先で、潜水艦が沈んだ。

 ここにいた者は、別の艦へ移った。自分の艦を失ったが、今夜も食事をし、水を飲み、誰かの声を聞く。

 そのことを、氏家は確かめるように思った。

 海面には、まだ泡が残っていた。

 明日は、自分たちかもしれない。

 腕を下ろすまで、その考えが離れなかった。

     *

 船隊指揮へ、処分の完了を知らせた。

 ノーマンの艦から、受信の確認と復帰の指示が来た。

 氏家は航海長へ針路を伝えた。

 整列を解いた兵が、それぞれの配置へ戻った。野本は索を片づける者の所へ行き、次に使えるよう揃えた。

 敵兵が握った場所も、その索のどこかにあった。

 木下が、後片づけを終えた者へ水を飲ませた。

 椛島は、また聴音器の前にいた。

 氏家は艦橋から、その働きを見た。

 誰一人失わずに、この戦争を終えたい。

 誓えば敵の魚雷が避けて通るわけではなかった。今日、白旗を見つけた者がいなければ、撃ち方をやめる声も遅れていた。

 守るためには、見て、聞いて、命じなければならなかった。

 そして命令を受けた者が、手を動かす。

「船団、見えます」

 報告があった。

 煙がいくつも見えた。

 氏家は双眼鏡を上げた。

 戻る所には、まだ船がいた。

「予定の位置へ復帰する」

 氏家は命じた。

 佐野が復唱した。

 「棕櫚」は速力を整え、輸送船のそばへ戻っていった。


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