幽霊潜水艦
「左舷に艦影が見えます」
月齢二日の夜だった。
サルディーニャ島、アルゲーロの西六十海里。二二〇〇を回った海は穏やかで、星の下に、低い艦影が浮いていた。
「潜水艦のようです」
この海域に連合国の潜水艦がいるという知らせはなかった。
艦長は双眼鏡を上げた。
「戦闘配置」
敵潜は動かなかった。こちらの艦影も煙も見えるはずなのに、潜ろうとしない。
やがて艦首が向いた。
「敵、増速しているようです」
故障して潜れないのか。それなら、砲で応戦するか、浮上したまま逃げようとするはずだった。
こちらへ来る。
「主砲、射撃用意」
砲術長が復唱した。
「距離二千を切りました」
「撃て」
砲口が光った。
敵潜のそばに水柱が立った。次の斉射も、艦影の前後を挟んだ。
潜水艦は針路を変えなかった。
夜目にも、艦首の水が見えた。
「突っ込んできます」
もう、艦体を避けられない。
「各員、耐衝撃態勢」
手近なものを掴む音がした。誰かが息を呑んだ。
「当たります」
艦長は目を閉じた。
衝撃は来なかった。
目を開けると、海には何もいなかった。
波だけが、舷側へ寄せていた。
*
「そこで終わりか」
氏家が言うと、佐野は椀を置いた。
「はい。翌朝になっても、何も見つからなかったそうです」
「それを見た艦長は、誰なんだ」
砲術長が尋ねた。
「そこまでは聞いておりません」
「便利な話だな」
士官室で笑いが起きた。
夜食の麺から湯気が上がっていた。食べ始めに比べると汁を吸い、箸で持ち上げるたびに少し重くなっていた。
船団を送り届けた「棕櫚」は、再び単艦の哨戒についていた。食事のために海が安全になるわけではないが、交代して席につく時間はあった。
艦長がいつまでも箸を持たずにいると、給仕の兵が気にする。氏家は麺を口へ運んだ。
「潜水艦なら、海の中へ消えるのが仕事だろう」
「ですが、真横に来てから潜るのは無理でしょう」
「だから怪談になるんだ」
機関長が椀を寄せた。
「本当にぶつかったら、向こうの方がただでは済まん」
佐野は笑わず、時計を見た。
「どうした」
「ちょうど今頃の話でして」
佐野が、海図の上で確かめた位置を言った。
アルゲーロの西、六十海里。
「おい」
砲術長の箸が止まった。
「それを先に言え」
「先に言えば、麺を食べてくださらないでしょう」
もう一度、笑いが起きた。
その時だった。
「左舷、艦影。距離約一万」
見張りの報告が届いた。
椀が置かれた。
皆が、佐野を見た。
「私にはわかりません」
佐野は、思わず両手を離していた。
氏家は立った。
「行くぞ」
*
風に当たると、汁の温かさが口の中に残っているのがわかった。
艦橋で双眼鏡を受け取り、報告の方向を見る。低い影があった。
「潜水艦のようです」
見張りが言った。
誰も笑わなかった。
佐野は当直士官から針路と速力を引き継いだ。艦橋の時計を見て、すぐ海へ目を戻した。
「各砲及び魚雷発射管、戦闘用意」
氏家は命じた。
艦内を兵が走った。木下の声が、途中から走る足を整えた。急いで角を曲がった兵を止め、持ち場へ送り直している。
敵潜は動かなかった。
艦影が少しずつ大きくなる。海面へ低く伸びる甲板と、司令塔が分かれて見えた。
氏家は、相手の砲に人がついていないことを確かめた。
だからといって、撃たれないとは限らない。
「魚雷にも警戒。接近しすぎるな」
「了解」
佐野が針路を整えた。
しばらく待った。
風に流れる旗も、人影も見つからなかった。
「砲術長。艦首の横へ一発。威嚇する」
命令を受けた砲が動いた。
砲声が夜の海を渡った。
水柱が潜水艦の横に立った。水が落ちても、甲板に変化はなかった。
やがて、小さな白いものが上がった。
「白旗です」
佐野の声がした。
「撃ち方待て。白旗確認」
氏家は命じた。
砲は目標へ向いたままだった。
人が出てきた。続いてもう一人。彼らは低い甲板に立ち、こちらを見上げていた。
顔までは見えなかった。
「臨検班、後部甲板へ」
氏家は、接舷を命じた。
首席航海士が班をまとめた。ベルリンの大使館に勤務したことのある士官で、敵兵の言葉を確かめる役も担う。
木下が索の用意をさせた。
「野本。急ぐな。行き足を見ろ」
「はい」
野本は、潜水艦の低い甲板を見た。少し前、同じような所へ手を差し出した。その時には、敵の艦長も出てきた。
今度は、誰が先頭なのかわからなかった。
「棕櫚」が速力を落とした。
機関の音が変わる。佐野は距離だけでなく、両艦の動きを見て後進を命じた。
投げられた細索が、敵潜の甲板を越えた。
ドイツ兵が拾った。取りつけた舫索を引く手が、ひどくせわしなかった。
「索の輪へ入るな」
木下が声を掛けた。
こちらの兵へ言ったのだったが、敵兵も身を引いた。
防舷物が両艦の間で軋んだ。
「接舷」
報告があった。
「臨検班、乗艦」
兵が敵の甲板へ渡った。
*
最初に移ってきたのは、下士官だった。
続いて二人。その後を、水兵が八人来た。
「艦長、士官がいません」
報告が届いた。
氏家は甲板を見た。
下士官たちはまとまっていた。一人が残る二人へ何か言い、水兵が口を開きかけると、振り向いた。
水兵は黙った。
首席航海士が問い掛けた。
返答は短かった。
士官が戦死したのなら、遺体か、負傷者がいるはずだった。他の乗組員がいないのもおかしい。
「艦内捜索の許可を願います」
「許可する。負傷者にも注意しろ」
首席航海士がハッチを下りた。
待っている間、舫索が擦れた。
先ほどまで、士官室には笑い声があった。氏家はそのことを思い出した。目の前の下士官の顔と、笑いの残った自分の口元が、うまく結びつかなかった。
首席航海士がハッチから顔を出すなり、声を上げた。
「衛兵。その三人を分離して拘束しろ」
下士官の一人が、兵の手を払おうとした。
首席航海士がドイツ語で命じた。
男は手を下ろした。水兵たちは、互いの顔を見ながら甲板へ座らされた。
氏家は艦橋から下りた。
「報告せよ」
首席航海士は、声を落とした。
「艦長以下、士官は殺されています。絞殺、射殺と見られます。残る乗組員は、艦後部に閉じ込められております」
氏家は、相手の顔を見た。
「反乱か」
「そう思われます。拘束されていた者から、事情を聞いております」
氏家は、座っている兵たちへ目を移した。
幽霊船ではなかった。
だが、海で消える艦の話よりも、ずっと身近な所へ来てしまった。
*
閉じ込められていた者を、順に上げた。
同じ制服を着ていても、先に出てきた者たちのそばへは置けなかった。
後から出てきた水兵が下士官を見つけ、歩み寄ろうとした。腕を押さえると、日本の兵まで睨んだ。
首席航海士が説明した。
男は頷かなかった。それでも足は止めた。
「双方を離せ。話を聞く者も、混ぜるな」
氏家が命じた。
木下は兵を割り振った。狭い甲板のどこに人を置くか、通路をどこに残すか。武器を持つ衛兵にも、見張る相手以外の動きを見られる位置が必要だった。
艦内で負傷していた者には、手当てをした。
水を配る時、一人が杯を取らなかった。兵がもう一度差し出すと、男は、拘束された下士官の方を指した。
首席航海士が何か言った。
男は杯を受け取ったが、長く握ったままでいた。
なぜ反乱を起こしたのか。
氏家は問いを聞き、通訳された答えを聞いた。
答えは揃わなかった。
命令について話す者がいた。殴られたことを訴える者がいた。自分はハッチが開いていたから外へ出ただけだと繰り返す者もいた。
閉じ込められていた兵は、別の順番で話した。
氏家は、どれを信じるかをその場で決めなかった。
「各人の話を、別々に記録してくれ」
首席航海士が頷いた。
殺された士官には、もう問い返せない。
甲板にいる者たちが生きていても、それだけで全部が分かるわけではなかった。
無線で司令部へ報告した。
フランス海軍の巡洋艦が、捕虜と拿捕艦を受け取りに来ることになった。
氏家は、舫っている潜水艦を見下ろした。
艇内を捜索した兵が戻ってきた。残っている生存者はいないという。
首席航海士は人数を照合し、もう一度確認した。
狭い艦の中には、人の使った物があった。食器も寝床も、次の当直に備えた道具も。殺された士官たちをそこへ残して、臨検班は上がってきた。
ハッチの口が黒かった。
氏家は、その中へ目を向けるのをやめた。
*
夜が明ける頃、巡洋艦が来た。
大きな艦だった。
その上にも、引き継ぎのために甲板へ出てきた人々がいた。手すりのそばへ立った兵が、こちらの様子を見ている。
双方を分けて送り出す段取りを決めた。
先に移乗する者を揃え、氏名と人数を確かめた。下士官たちは引き続き監視し、「棕櫚」に残した。
潜水艦には、生きている者はいなかった。
曳航の用意が始まった。
無傷に近い艦だからといって、綱を掛ければ終わりではない。低い甲板には海水が上がる。曳く向きが悪ければ、艦首を押し下げてしまう。
首席航海士が確認事項を伝え、佐野が両艦の位置を見た。
木下は、張る索のそばから兵を離した。
野本も、索の動く範囲を見て立ち位置を変えた。
潜水艦は静かだった。
氏家が、巡洋艦の甲板へ目を上げた時だった。
「敵潜、沈んでいます」
声がした。
「いえ、潜航を始めています」
氏家は振り向いた。
低い甲板へ海水が上がっていた。
「浸水か」
佐野が身を乗り出した。
船尾から水が動いた。
ただ沈むのなら、あの水は何なのか。
舫索が張った。「棕櫚」の舷側が引かれた。
「索から離れろ」
木下が叫んだ。
「舫索、切断」
氏家が命じた。
斧を持った兵が近づいた。野本が、そばにいた兵を引き戻した。
刃が振り下ろされた。
二本の索が切れ、端が跳ねた。引く力が失われ、艦が揺れ返した。
潜水艦の甲板が、水の下へ消えた。
「巡洋艦から信号。貴官、何故に敵潜を解放するや」
氏家は思わず口を開いた。
「知るか」
それを信号にするわけにはいかなかった。
「本職の判断にあらず。敵潜、自ら潜航。危険ありと伝えろ」
信号員が動いた。
椛島の報告が来た。
「水中音。発射管を開く音と思われます」
誰が開けるのだ。
氏家は、今しがた自分が確認したことを思った。
だが、聞こえたものを否定している時間はなかった。
「全速前進。巡洋艦へ、魚雷警戒」
機関への伝令が走った。
停まっていた艦は、命令と同時に全速力へならなかった。蒸気を受けた機関が回転を上げ、船体が震えた。
白い筋が出た。
「魚雷、四本」
見張りが叫んだ。
「巡洋艦へ向かっています」
氏家は、向こうの艦橋を見た。
甲板には、まだ兵がいた。
水柱が立った。
続いて、火が上がった。
巡洋艦の船体が持ち上がり、折れた。
大きな音の後に、もっと大きな水音が来た。
手すりのそばにいた人々が、見えなくなった。
「最大戦速」
氏家は叫んだ。
「棕櫚」が増速した。
巡洋艦のいた海が、広く窪んで見えた。そこへ水が流れ、浮いた物が引かれていった。
舷側の水を見て、誰かが叫んだ。
氏家は手すりを掴んだ。艦が走っていることは分かった。それでも、海の動きから目を離せなかった。
「Uボートが沈みます」
低い艦影が、また見えた。
艦尾を上にして、ほとんど垂直に立っていた。
水が艦体を伝い落ちた。
それが海へ滑り込んだ。
巡洋艦を追うように、消えた。
*
氏家は速力を落とさせ、救助の用意を命じた。
艇を下ろせる所まで戻る間にも、見張りが海を探した。
声は聞こえなかった。
浮いた木片があった。水に浸かった布があった。
艇がその間へ入った。別のフランス艦も救助に近づいていた。
「棕櫚」の甲板では、残ったドイツ兵が座っていた。彼らも、巡洋艦のいた方を見ていた。
海から戻った兵は、氏家へ報告した。
人を見つけられなかった。
氏家はもう一度、捜索する範囲を指示した。
夜食の時に怪談を聞いた者たちは、それについて何も言わなかった。
野本は艇から上がり、濡れた手をズボンで拭いた。索を切った兵が、斧を持ったまま立っていた。
「置いておけ」
木下が言った。
兵は斧を置いた。
「お前のせいではない」
それを聞いても、兵はしばらく手を開けなかった。
*
「誰も残っていませんでした」
首席航海士は繰り返した。
氏家は、報告を聞き直した。捜索した区画、最後に出てきた兵、人数の確認。
生存者はいなかった。
臨検班員も、同じことを言った。
ドイツ兵を一人ずつ尋ねても、答えは変わらなかった。下士官の一人は、初めのうち怒っていたが、やがて机を見たまま話すようになった。
彼らが嘘をついているのだとしても、「棕櫚」の兵が見た艦内は変わらない。
機関を動かし、潜り、魚雷を撃つ。
誰か一人が物陰に残って、全部をやったという話では、氏家も佐野も納得できなかった。
何が起きたのか、分からなかった。
巡洋艦は敵潜水艦の攻撃によって沈んだ。そのように報告された。
反乱については、生存者の供述と、士官たちが殺されていたという臨検班の記録を引き渡した。供述の食い違いも記した。
裁くのは、自分ではなかった。
裁判で明らかになる事柄があったとしても、無人の艦が動いた理由まで明らかになるとは思えなかった。
*
夜、氏家は艦橋へ上がった。
佐野が海を見ていた。
「麺を食べ損ねましたね」
佐野が言った。
「お前の話が長いからだ」
「申し訳ありません」
いつものように返したが、笑わなかった。
氏家は、そばに立った。
下の甲板で、当直を交代する声がした。引き継ぐ者が一度聞き直し、前の者が説明を繰り返していた。
反乱を起こせばどうなるか、敵の下士官たちも知っていたはずだった。
それでも、艦長を殺した。
殺された者が、どのような艦長だったのか。自分には分からない。兵の訴えだけで、あの死体の主を決めつけることもできなかった。
だが、自分の艦にも、命令を受ける者がいる。
苦しいと報告した者へ、もう少し耐えろと命じたことがあった。危険を承知で、もう一度近づけと命じたこともあった。
それを一度もせずに、戦場で艦を動かせるとは思わない。
ならば、耐えられるかどうかを、誰が確かめるのか。
「佐野」
「はい」
「俺が無理を言っていると思ったら、言え」
佐野は氏家を見た。
「これまでも、申し上げております」
「これからもだ」
「承知しました」
少しして、佐野が付け加えた。
「部下の報告を聞くのは、艦長だけではありませんから」
氏家は頷いた。
航海長がいて、科長がいて、兵曹たちがいる。兵の顔を見る者は、艦長よりもずっと多かった。
任せることと、知らずに済ませることは違う。
氏家は甲板へ下りた。
木下が、交代を終えた兵を休ませていた。野本もそこにいた。
「飯は食ったか」
氏家が尋ねると、野本が顔を上げた。
「はい」
「寝ておけ」
「はい。艦長も」
言ってから、野本がしまったという表情で口を閉じた。
木下は叱らなかった。
「そうする」
氏家は答えた。
艦内へ入る前に、一度だけ海を見た。
あの艦は、もういなかった。
ここには、明日も命令を聞く者がいる。
その者たちを反乱へ追い込む指揮官になってはならない。
氏家は、海から目を戻した。
寝床へ行く兵の、足音が聞こえていた。




