従軍記者
ギュンターは、帰港命令の紙をワルターへ渡した。
「キールですか」
「ここで直せる所は、もう直した」
中尉は、整備の記録へ目を落とした。
U30は、潜れる。魚雷も撃てる。だが、それだけで、いつまでも海へ出てよい艦ではなかった。出撃の合間に手を入れ、次まで保たせてきた箇所が増えていた。
機関の兵が、同じ継ぎ目を繰り返し調べている。前には聞こえなかった響きを、耳で覚えた者もいた。
「戻れるうちに戻る」
ギュンターは言った。
ワルターは頷いた。
帰れると聞いた兵は、笑った。
その後で、海図を見た。
キールへ帰るには、地中海から出なければならなかった。
*
「英国の駆逐艦が、ジブラルタルへ行っているそうです」
マルタへ戻った「棕櫚」の士官室で、佐野が言った。
「待ち伏せか」
砲術長が尋ねた。
「Uボート回航の情報があるらしい」
「こちらにも、たまには待っている仕事を回してもらいたいものだ」
佐野は椅子へ背を預けた。
補給を終えれば次の船団が待っていた。休みを予定していても、海へ出られる艦が足りなくなれば、予定の方が変わる。
海図の西には海峡があった。
大西洋から地中海へ入る艦が通る所なら、港から港へ探し回るより、場所を絞ることはできる。
「待っているから楽だとは限らんぞ」
氏家は言った。
「ですが、船団を抱えて走るよりは」
「向こうも、待たれる場所は知っている」
佐野は口を閉じ、海図を見た。
「定時の連絡が来なかったら、沈んだと思うんでしょうか」
水雷長が言った。
敵の基地にも、帰る時刻を待つ者がいる。
氏家は、マルローの知らせを待った時のことを思った。
「連絡できない事情もあるだろう」
答えた。
「それでも、ずっと来なければ、出ていった場所から探すしかない」
「私は、潜水艦は御免ですね」
砲術長が言った。
「お前ほど賑やかな者は、向こうも困るだろう」
機関長が応じた。
笑いが起きた。
氏家も笑ったが、海図からは目を離さなかった。
*
タリファの東方二十海里。
U30の中で、聴音員が僚艦の音を報告した。
ギュンターは時刻を確かめた。
これから入ってくる艦と、これから出ていく自分たち。その二隻の動きを合わせて、英国艦の哨戒を抜けるつもりだった。
入ってくる艦は、先に姿か音を見せる。
駆逐艦がそちらへ向けば、U30の前に空いた場所ができる。
相手が来なければ、無理に仕掛けない。僚艦の艦長とは、そのことまで確かめてあった。
「敵駆逐艦、方位一一五。距離、約四千」
潜望鏡についていたワルターが言った。
「まだ、こちらへは向いていません」
ギュンターが替わった。
海面を短く見た。
英国艦は二隻だった。
一隻が動いた。少し遅れて、もう一隻も針路を変えた。
見張りが何を見つけたのか、こちらには分からない。
だが、向く方は分かった。
僚艦を追う二隻の、側面が開いてきた。
「雷撃用意」
ギュンターが命じた。
距離と方位を取り直した。ワルターが時刻を読み、相手の運動を確かめる。
発射するまで、誰も余分なことを言わなかった。
魚雷が出ていった。
ギュンターは潜望鏡を下げた。
艦の中に、待つ時間が残った。
一度目の爆発が聞こえた。
続いて、もう一度。
ギュンターは潜望鏡を上げ、海面を見た。
駆逐艦が傾いていた。もう一隻にも、黒い煙が上がっていた。
僚艦は見えなかった。
水柱の落ちる所に、人がいるかもしれなかった。こちらには、その人を拾う手段がなかった。
「深度八十。前進強速」
命令を出した。
ワルターが復唱した。
兵が動いた。艦内の空気が、わずかに変わった。
沈めたことを喜ぶ声は、持ち場の仕事が済むまで出なかった。
深度を確かめ、進む方向を変えた。英国艦のいた所を離れ、海峡の外へ向かう。
ギュンターは、握っていた手を開いた。
「これで地中海ともお別れですか」
ワルターが尋ねた。
「命令はそうだ」
「日本の駆逐艦は、まだこちらにいます」
「そうだな」
ウジイエ。
名前は、艦の報告より先に頭へ戻った。
決着をつけたかった。
だが、今いる兵をキールへ戻すのも、自分の仕事だった。
ギュンターは整備の記録をしまった。
帰ってからでなければ、直せない所がある。
そのことを、忘れてはならなかった。
*
新聞記者は、小さな手帳とカメラを持って乗艦した。
報朝新聞の記者で、軍報道部の嘱託として、地中海の艦隊を取材に来たという。
氏家は、司令部からの指示を読んでいた。
艦内の行動は、できるだけ便宜を図る。ただし、当直の仕事を妨げてよいという意味ではない。
出港前、木下が通路と階段を案内した。記者は頷きながらも、機関の兵へ質問しようとして、荷物の通る所に立っていた。
「そこを空けてください」
言われると、すぐ避けた。
悪意があるようには見えなかった。
何が邪魔になるのかを、まだ知らなかった。
出港してから、ジブラルタルの知らせが届いた。
派遣された英国駆逐艦二隻が沈んだという。
詳しい経過は、分からなかった。
氏家は電報を読み、佐野へ渡した。
記者が、艦橋でその話を聞いた。
「我々なら、どうだったのでしょう」
「勝てたかもしれません。沈められたかもしれません」
氏家が答えると、記者は笑った。
「御謙遜ですね。Uボートキラーの氏家少佐らしくない」
氏家は、手帳を見た。
自分の返事が、そこへどう書かれるのかと思った。
「相手がどこにいたかも、まだ分かりませんから」
記者は、少し首を傾けた。
しばらく後、また艦橋へ来た。
「今回は敵潜が現れませんね。残念です」
佐野が顔を向けた。
氏家は、目で止めた。
「記者さん。あなたは、軍務は」
「乙種合格でした。幸いにも召集されずに――」
言葉が止まった。
艦橋の兵が、記者を見ていた。
彼は手帳を閉じた。
「失礼しました。つい、口が」
頭を下げ、艦橋を下りた。
「海へ叩き込んでやりたくなります」
佐野が言った。
「泳げるかどうかを、聞いてからにしろ」
氏家が答えた。
佐野は笑わなかった。
敵が来ない間にも、見張りは立っていた。機関の兵は汗をかき、椛島は音を聞いていた。
残念と言った男には、それが見えなかったのだろう。
氏家は、視線を海へ戻した。
「左舷後方、魚雷」
声が上がった。
「輸送船へ向かいます」
*
「喚起信号」
氏家が命じた。
輸送船が舵を取った。
船腹へ向かっていた筋が、船尾を抜けた。見張りが早く見つけていなければ、あそこへ届いていた。
「戦闘配置。爆雷戦用意」
椛島の報告が来た。
「感あり。右舷後方」
「面舵」
佐野が復唱した。
艦首が動き始めた時、別の声がした。
「右舷、魚雷」
「舵中央。最大戦速」
舵が戻された。
艦の傾きが残った。氏家は手すりを掴み、白い筋の行く先を見た。
「艦尾後方、通過」
もう少し回り込んでいれば、舷側を差し出すところだった。
「敵潜、感ありません」
椛島が言った。
氏家は、回避した輸送船を見た。
船団の列が乱れていた。後続の船も針路を変え、護衛艦がそのそばへ寄っている。
船隊指揮から、アレキサンドリアまでの直掩を求める電報が来た。
「了解と返せ」
氏家は命じた。
敵を追って遠くへ走れば、船団のそばが薄くなる。
だが、この敵を残せば、また狙ってくる。
佐野と、船団の速力と間隔を確かめた。機関長へ、減速した後の増速について尋ねた。
減速する。置いていかれた艦に見せる。
追ってきた敵の発射の気配を聞き、動き始める。
いつ動くかを誤れば、操艦に必要な速力が得られない。
「船団から離れすぎない。反応がなければ、予定の位置へ戻す」
氏家が言った。
佐野は頷いた。
イタリア艦へ、最後尾を受け持つことと、その意図を知らせた。
記者が艦橋へ戻ってきた。
「魚雷だったのですか」
問いながら、海を見た。
「これからが本番です」
氏家は言った。
「申し訳ありませんが、我々には、あなた一人を守るために持ち場を離れる余裕はありません」
記者の顔が変わった。
「万一の場合でも、乗組員は退艦命令まで職務を続けます。あなたは民間人です。その義務はありません」
少し意地の悪い言い方をしたと、氏家も思った。
「ただし、勝手に艇へ近づかれても困ります。指示した場所で待機してください」
記者は頷いた。
その頷きは、乗艦した時より小さかった。
*
「棕櫚」は速力を落とした。
輸送船の船尾が、少しずつ遠くなった。
砲は用意されていた。爆雷の兵も待っていた。
椛島が聞いていた。
機関室へは、すぐ増速する可能性を伝えてあった。蒸気を保ち、命令を待つ。
「艦が停まっています」
記者が言った。
「分かっています」
「ですが、このままでは」
「黙ってください」
佐野が怒鳴った。
氏家は横を見た。
記者も佐野も、海を見ていた。
「いまは質問に答えられない」
氏家が言った。
記者は口を閉じた。
時計が進んだ。
船団との距離が増えた。
椛島の声が来た。
「注水音、続いて金属音。発射管を開く音と思われます」
「前進。最大戦速まで増速」
氏家が命じた。
機関が応じた。
艦尾に水流が起こった。止まるほどまで速度を落とした艦は、ゆっくりと行き足を得た。
「右舷後方、魚雷」
「速力、十五ノットまで読み上げ」
佐野が復唱した。
十。十一。
氏家は、魚雷と艦の動きを見た。
十二。十三。
白い筋が伸びてきた。
十四。
「十五」
「取舵一杯」
艦が傾いた。
記者が壁へ肩をぶつけ、手帳を落とした。拾う者はいなかった。
「右舷、魚雷通過」
水雷長が発射位置を推測し、椛島の報告と照らし合わせた。
佐野が艦をそちらへ向けた。
敵は出力を上げ、深い方へ逃げていた。
もう一度、魚雷が来た。
氏家は回避を命じた。
今度は、記者も手を掛けていた。
回避を確かめると、彼はカメラを持ち直した。
「後部へ行かせてください」
氏家は、一瞬その顔を見た。
白かった。
だが、さっきのように、ただ海を見てはいなかった。
「配置の邪魔をするな。指示に従え」
兵の案内で、記者が下りた。
「爆雷投下用意」
氏家は命じた。
後部甲板で、爆雷が動いた。
記者は通路を空け、兵の肩越しへカメラを向けた。
海へ落ちる物を追った。
振動が来た。
続いて、水柱が立った。
記者は、身体を寄せてカメラを守った。
水が落ちてから、また構えた。
「右舷後方、油と浮遊物」
報告が来た。
木材と思われる物が、波に揺れていた。
「感ありません」
椛島が言った。
「戦闘配置のまま待機」
氏家は命じた。
油の輪は広がった。
記者は、その海へカメラを向けていた。
艦長も兵も、まだ配置を解いていない。
彼も、尋ねずに待った。
一時間が過ぎた。
聴音にも、見張りにも、敵の気配は戻らなかった。
「戦闘配置もとい。護衛へ復帰する。順次交代で休息」
氏家が命じた。
兵が動いた。
記者は下がり、空いた通路の端で、落とした手帳を受け取った。
表紙が折れていた。
*
艦長室へ来た記者は、まず頭を下げた。
「先ほどは失礼しました。偉そうなことを言っておきながら、あんな姿を」
「座ってください」
氏家はソファーを示した。
狭い部屋だった。カメラを置けば、手帳を広げる場所が少なくなった。
「カメラを持てば、プロですね」
氏家が言った。
記者は顔を上げた。
「怖くなかったわけではありません」
「そうでしょう」
「構えている間は、何を写すかを考えていました」
氏家は頷いた。
自分も、怖さを感じるより先に、舵や速力を考える時があった。
あとで、手が震えることもある。
「国民へ伝えられる写真が撮れたと思います」
記者が言った。
「現像しないと、分かりませんが」
「敵の艦は、写りませんね」
「水柱と、働いている方々が写っています」
「そこをお願いします」
氏家が言った。
「報告で確かめられた戦果を書いてください。海に浮いた物だけで、人数までは分かりません」
記者は手帳を開いた。
折れた表紙を撫で、鉛筆を取った。
「氏家少佐御自身のことも、伺えますか」
「私には、とりわけ」
「どうして海軍へ入られたか。後に続く者のためにも」
氏家は少し黙った。
英雄になるつもりで入った話なら、書きやすいのだろうか。
「北海道の、伊達村で生まれました」
氏家は言った。
中学から二高へ進んだ。学問を続けるつもりだったこと。在学中に、実家が没落したこと。
話すと、机の上の紙を見る若い自分が戻ってきた。
続けたかった。
だが、暮らしていく道を選ばなければならなかった。
「それで、兵学校へ」
「はい」
「最初から海へ憧れていた、というわけでは」
「それだけではありません」
氏家は答えた。
「入ってから、海を覚えました」
記者が書き留めた。
氏家は、三十四期であることを伝えた。
「席次は、極秘にしてください」
記者が笑った。
「遠洋航海では」
「松島に乗りました」
鉛筆が止まった。
その止まり方で、氏家は、記者が『松島』の運命を知っていることを悟った。
「私が乗った、次の航海でした」
「お知り合いも」
「いました」
遠洋航海は、苦しいことばかりではなかった。
赤道祭があった。寄港地で見た街があった。海の色を、陸へ戻ってから人に説明しようとして、うまく言えなかった。
自分にそれを教えた艦が、次の航海で爆発した。
殉職した乗員も少尉候補生もほぼ知り合いだった。
艦内のどこかで、扉が閉じる音が聞こえた。
「英国へは、技術を学ぶために派遣されました。最初の実戦は、乗員としてです」
「ユトランドですね」
「艦長としては、こちらへ来てからです」
記者が確かめ、書いた。
長い経歴に中に、氏家は英雄となった自分の姿を見つけることはできなかった。
「それでも、今は各国から称賛されている」
記者が言った。
「そういう方の話は、希望になると思います」
「そういう方、ですか」
「すみません。言い方が」
彼は頭を下げた。
氏家は、初めて声を出して笑った。
性格の悪い男ではないらしい。
ただ、考えたことが口に出るまで、間がないのだった。
「褒められているのは、私一人ではありません」
氏家は言った。
「今日、魚雷を見つけた者も、機関を動かした者もいます。私の写真ばかりでは、艦のことは伝わらないでしょう」
記者は、手帳の前の方を開いた。
木下に尋ねた名前が書いてあるという。
「もう少し、皆さんに話を聞いてもよろしいですか」
「休んでいる者を、起こさないでください」
氏家が言うと、記者は頷いた。
*
「最後に、一つ」
記者が鉛筆を止めた。
「この地中海での戦いは、帝国にとって、直接の利害はありませんよね。そのことを、どうお考えですか」
氏家は、相手を見た。
個人として考えることはあった。
それを記事にする言葉と、艦長として答える言葉は、同じではない。
「軍人は、命令に従うだけです」
答えた。
「意見はありません」
記者は待った。
氏家は、続きを言わなかった。
海軍がどう判断したかを、自分が代わって説明できるとは思わない。だからといって、黙っていることが、何も考えていない証明にもならなかった。
記者は鉛筆をしまった。
「ありがとうございました」
立ちかけた時、報告が届いた。
「イタリア艦より、潜望鏡発見」
氏家は受話器を取った。
「戦闘配置」
記者は扉を空けた。
氏家が出るまで、脇へ寄っていた。
*
「位置は」
「船団後方とのみ」
佐野が答えた。
「聴音、感は」
「ありません」
椛島の返事は早かった。
氏家は海を見た。
また別の敵がいるのか。撃沈したと思った艦が残っていたのか。
まだ、どちらとも言えなかった。
船団は回避しながら進んだ。
イタリア艦へ詳しい位置を求めたが、それ以上の確かな報告は得られなかった。
十五分余りが過ぎた。
船団は、最初に艦影が報告された場所から離れていた。
新たな目撃はない。水中音もない。
氏家は、航海長と砲術長の意見を聞いた。
誤認の可能性が高いという点で、一致した。
「戦闘配置もとい。警戒は続ける」
命令が艦内へ渡った。
兵が息を吐いた。
「一体、何を見たんでしょう」
佐野が言った。
「何事もなかったことを喜べ」
「それはそうですが」
佐野は、下の甲板を見た。
ようやく休んだ兵が、また起きてきていた。
氏家にも、同じ者が見えた。
信頼されるほど、護衛を求められる。求められれば、応えたいと思う。だが、人を眠らせる時間まで、評判が作ってくれるわけではなかった。
木下へ、先ほど休息に入った者を、先に戻すよう命じた。
記者が、折れた手帳を持って立っていた。
「今のことも、書くのですか」
氏家が尋ねた。
記者は、少し考えた。
「何も起こらなかった時間も、書いてみます」
氏家は頷いた。
「それは、難しそうですね」
「はい」
記者が海を見た。
輸送船は進んでいた。
その横で、見張りが双眼鏡を上げていた。




