戻ってきた男
「今更、地中海か」
キールの岸壁で、同僚が言った。
「貧乏くじだな」
ギュンターは艦へ運び込まれる荷物を見ていた。
整備を終えたU30は、また海へ出られるようになっていた。交換された物は新しく、残った物には、乗員の手が触れた跡があった。
半年前に戻った時、機関の兵は、ようやく眠れると言った。その兵が今、出撃前の点検をしている。
「借りを返さなければならん」
ギュンターは答えた。
同僚は肩をすくめた。
ブルガリアが停戦し、トルコも降伏した。西部戦線の知らせも、明るいものではなかった。
輸送船を一隻沈めて、何が変わるのか。
その疑問を、ギュンターも考えたことがあった。
だが、日本の駆逐艦が、まだ地中海にいた。
先に沈めておけば、帰ってこなくなった戦友が、帰れたかもしれない。
そう思うたびに、ウジイエの名前が戻ってきた。
誰がどの艦に沈められたか、全てが分かっているわけではなかった。それでも、あの艦が生き残っていることを、放っておけなかった。
同僚が去ってから、ワルターが書類を持ってきた。
出撃する者の名が並んでいた。
「全員、確認しました」
中尉が言った。
今回の作戦への参加は、志願だった。
ギュンターは名を読んだ。顔が浮かんだ。
「お前も、帰る所があるだろう」
ワルターに言った。
「あります」
「終わりも近いかもしれん」
「それなら、艦を帰す者も要ります」
中尉は、岸壁の下を見た。
兵が一人、荷物を受け取っていた。受け取り損ねた紐を、隣の者が掴んだ。
「皆、勝てば帰れると思っております」
ギュンターは書類から目を上げた。
それを約束できるとは、思わなかった。
敗れても、海へ行かなくても、家へ帰れる日が来るのかもしれない。だが、その言葉を自分で口にすることは、まだできなかった。
「俺に付き合えば、危険だ」
「前から、承知しております」
ワルターが答えた。
責める口調ではなかった。
そのために、ギュンターは返す言葉を探した。
「出撃前の確認を続けてくれ」
結局、そう命じた。
中尉は頷き、艦へ下りた。
ギュンターは、もう一度名簿を見た。
死んだ者に返す借りのために、ここにいる者を連れていく。
本人たちが志願したからといって、その重さがなくなるわけではなかった。
*
「タリファ西方十海里」
航海長が報告した。
夜間、浮上して進んできたU30の蓄電池は、十分に充電されていた。
ギュンターは、黒い海を見た。
前には、帰るために抜けた海峡だった。
今度は、戻るために潜る。
「潜航用意」
兵が下りた。最後の見張りを確かめ、ハッチを閉めた。
艦が海へ入った。
海峡の哨戒艦が増えたという情報は、聞いていた。前に英国の駆逐艦を沈めた所を、今度も同じように通れるとは思わない。
流れと艦の位置を確かめ、機関の出力を抑えた。
ただ流されるのではない。深度を保ち、向きを保つための仕事があった。
ギュンターは、艦内へ伝えさせた。
「本艦は、これより地中海へ入る。今回の目標は日本海軍だ。志願してくれたことに感謝する」
声の届いた先で、兵が姿勢を直した。
何も命じられていない者は、静かに横になった。狭い通路で身体を動かす時にも、壁へ肩を当てないよう気をつけていた。
「哨戒艦の音です」
聴音員が言った。
音が近づいた。
艦の中では、蓄電池の残りと深度が報告された。
ギュンターは、その数字を聞いた。
聴音員が黙っている間、自分で耳を澄ませても、同じものを聞き分けられるわけではない。
待った。
「遠ざかっています」
報告が来た。
ワルターは海図の位置を直した。
まだ、海峡の外へ出たわけではなかった。
誰も声を上げなかった。
*
潜望鏡深度へ戻した時、英国の駆逐艦は意外に近かった。
ギュンターは一度潜望鏡を下げ、位置を確かめ直した。
こちらをおびき出しているのか。
そうであれば、海面を覗く自分は、相手の狙いどおりに動いたことになる。
もう一度、短く見た。
艦尾の旗は英国のものだった。
同じH型でも、ウジイエではない。
「一番、二番。発射用意」
ギュンターが命じた。
航海長が方位と距離を確かめた。目標は、基地へ戻るように進んでいた。
沈めれば、この海へ敵が入ったことが知られる。
しばらく暴れれば、ウジイエが出てくるかもしれなかった。
魚雷の兵が、用意を報告した。
ギュンターは時計を見た。
「一番、発射」
わずかに向きを変えた。
秒を数え、二番を撃った。
「急速潜航。深度八十」
潜望鏡が下げられた。
上から音が増した。敵が気づいたのかもしれない。
衝撃音が伝わった。
ギュンターは、その音を聞いた。
もう一度上がって確かめる必要はないと判断し、離脱を続けた。
後に、その英国艦が撃沈されたという知らせが、連合国へ届いた。
U30は地中海に入っていた。
五日後、ギュンターは、潜望鏡の向こうにマルタを見た。
*
「基地に近かったから、気が緩んでいたのでしょうか」
士官室で、砲術長が言った。
ジブラルタルの英国艦が沈んだという知らせを、氏家は机へ置いた。
「そうだったと、誰かが見たわけではない」
氏家は答えた。
港の近くでも、寝ている間でも、艦は沈む。
それは、この艦も経験しかけたことだった。
「思い過ごしかもしれんが、ギュンターが戻った気がする」
氏家が言うと、佐野が顔を上げた。
「奴が、本艦を狙っているとして。諸君なら、どこで待つ」
「港の近くでしょう」
機関長が先に答えた。
「出てくる艦は、港を通ります。行き先が分からなくても」
氏家は頷いた。
相手の名を確かめる手掛かりは、電報にはなかった。
それでも、あの魚雷と、不発の衝撃を思い出した。
決着をつけたいという気持ちはある。
マルローの艦が沈んだ時にも、同じように、敵へ向かいたいと思った。
しかし、その気持ちのために部下を動かしてよいとは思わない。
「敵が誰でも、出港した時から警戒する。今日の任務は、船団を受け取ることだ」
氏家は言った。
見張りを増やし、交代の順を変えた。聴音の担当にも、出港前から用意をさせる。
機関長が、増速に応じられる状態を報告した。
「最後まで気を緩めず、生きて故国へ帰ろう」
氏家は、集まった士官を見た。
口にしても、その言葉を叶える保証はなかった。
だが、全員で帰るために何をするかは、相談できた。
「航海長。船団との会合は」
「本日、一〇〇〇です」
「出港用意を」
佐野が立った。
椅子を戻す音が重なった。
*
野本は、いつもより早く配置へついた。
木下が、見張りの受け持つ方向を確かめていた。
「海が静かでも、ぼんやりするな」
「はい」
艦が動き始めた。
防波堤が近づき、やがて後ろへ流れた。
野本は、港に残る船を見た。
このまま何もなく戻る日もある。それでも、戻ってからでなければ、今日がその日かどうかは分からない。
艦長から、英国の同型艦が沈んだことが伝えられた。
敵との遭遇は減っているが、見張りを厳重にするようにという命令だった。
木下は、報告を始めた兵の声を遮らなかった。何が見えたかを聞き、艦橋へ伝えさせた。
波に浮いた木片だった。
見張りを続けた。
椛島は耳を当てていた。
港の音が離れ、海の音が戻った。
船団から、予定どおり会合するとの電報が来た。
氏家は、輸送船の煙を探した。
「感あり」
椛島の声がした。
「方位、一三五。待ってください。感、消えました」
艦橋が静かになった。
「今の音は、聞き覚えがあります」
椛島が続けた。
「本艦へ魚雷を命中させた敵と、よく似ています」
氏家は、椛島の報告を聞いた。
ギュンターかもしれない。
だが、名前を当てても、魚雷を防げるわけではなかった。
「航海長。之の字運動」
氏家が命じた。
「見張り、潜望鏡に注意。船隊指揮及び護衛各艦へ、敵潜発見、対潜戦闘に入ると打電」
佐野が復唱した。
「棕櫚」の針路が変わった。
*
U30は、船団の音の中から離れつつあった。
ギュンターは、海面を見た。
旭日旗を掲げたH型駆逐艦が来た。
ウジイエだった。
艦が針路を変えた。
「一番から四番、発射用意」
命じてから、もう一度相手を見た。
避ける動きが続いていた。
こちらの音を聞いたのだろう。
「機関停止。潜望鏡降下」
ギュンターは命じた。
動けば、また音が出る。
今は、向こうの動きを聞かなければならなかった。
聴音員が受信部へ触れ、耳を当て直した。
「音の判別ができません」
報告した。
「故障か」
「確認中です」
ギュンターは、機器へ目を向けた。
キールで点検した物でも、海へ戻れば不具合は起きる。
だが、今なのか。
舌打ちを呑み込んだ。
「潜望鏡上げ」
海面が見えた。
駆逐艦が、目の前にいた。
*
「左舷前方、潜望鏡航跡。距離六百」
檣楼の見張りが叫んだ。
「本艦へ向いています」
氏家は双眼鏡を向けた。
近かった。
魚雷を撃たせてから避けるには、近すぎる。
「取舵。目標の上へ乗せる。最大戦速」
佐野が命令を渡した。
艦が傾いた。
野本は、足を踏ん張った。海面へ目を戻すと、細い航跡が消えた。
「潜望鏡、見えなくなりました」
報告した。
「敵潜、潜航中」
椛島の声が来た。
「本艦の下を通ります」
鈍い音がした。
船底から、わずかな衝撃が来た。
氏家は手すりを握った。
「何が当たった」
「司令塔の構造物か、潜望鏡かと」
「舵、推進器、聴音器。異状を確認」
命令が渡った。
佐野は舵の応答を見た。機関からも報告が来た。椛島は引き続き音を聞いていた。
いま確かめられる範囲では、こちらの運動に支障はなかった。
「反転する」
氏家は命じた。
敵が潜った場所へ戻る。
艦が回頭した。佐野が針路を読み、行き足を見ながら舵を戻した。
水雷長が投下点を確かめた。
「爆雷投下用意」
氏家が命じた。
後部甲板で、兵が動いた。
木下が、艦の傾きに合わせて身体を寄せた。転がる物へ手を添え、次の作業を通した。
号令が掛かった。
爆雷が海へ投入された。
*
U30の灯りが消えた。
衝突の揺れの後へ、爆雷の衝撃が来た。
ギュンターは倒れかけた身体を支えた。どこかで、短い悲鳴がした。
「非常灯。被害を報告」
ワルターの声がした。
「左舷、浸水」
機関長が動いた。
兵が道具を渡した。水が吹く所へ手を出し、すぐ引いた。漏れる口へ当てる物を取り替えた。
ギュンターは次の回避命令を出しかけ、止めた。
今動けば、応急の手が離れる。
深度と傾きを確かめ、必要な命令を機関長へ渡した。
水の音が続いていた。
兵の背中が濡れた。後ろの者が身体を支え、別の者が道具を押しつけた。
「止まりました」
報告があった。
すぐには、誰も手を離さなかった。
もう一度確かめてから、機関長が兵を下がらせた。
床に残った水は、なくならなかった。
兵がそれを排出した。
ワルターが、負傷の有無を確かめた。打ちつけた箇所を押さえる者はいたが、持ち場へ戻れないほどの者はいなかった。
ギュンターは、聴音員を見た。
「今は、どうだ」
「駆逐艦の音は聞こえます」
先ほどの判別不能が何によるものだったかは、まだ分からなかった。
だが、頭上を走る敵の音は聞こえた。
やがて、遠ざかった。
戻ってくるかもしれない。
ギュンターは、機関を動かさなかった。
兵が濡れた道具を抱え、静かに待った。
*
氏家は衝突点の周囲を捜索させた。
確かな撃沈の徴候は、なかった。
敵潜の音も戻らなかった。
潜望鏡を壊したのなら、敵の目は使えないかもしれない。だが、目が使えなければ必ず浮いてくる、というものでもなかった。
船団から、現在位置が知らされた。
輸送船は、先へ進んでいた。
氏家は海図を見た。
ここに残れば、敵を見つけられるかもしれない。
離れれば、もう一度攻撃されるかもしれない。
何を選んでも、分からない部分は残った。
「船団へ戻る」
命じた。
佐野が針路を確かめた。
「撃沈とは、報告しない」
「はい」
氏家は双眼鏡を下ろした。
取り逃がした、と呼ぶこともできた。
それでも、届ける船があった。
野本は、海を見ていた。
艦長の命令で「棕櫚」が離れる。波だけになった場所を、まだ何度か見た。
木下が交代の者を寄こした。
引き継ぐ時、野本は潜望鏡を見た方向と、消えた場所を伝えた。
次の者が頷いた。
船団のそばへ戻っても、見張りは続いた。
*
長く待ってから、ギュンターは潜望鏡深度へ戻した。
「潜望鏡上げ」
操作する兵が動いた。
動きが止まった。
「上がりません」
もう一度確かめたが、結果は同じだった。
ギュンターは機関長を呼んだ。
内部から直せる所を調べた。衝突による損傷なら、上へ出なければ確かめられない箇所もある。
夜を待てば、駆逐艦に見つかる危険は減る。
だが、暗い甲板では、修理に必要な所が見えない。
「浮上する」
ギュンターは決めた。
聴音員へ、最後にもう一度海を確かめさせた。
敵の音はなかった。
「メインタンク、ブロー」
空気が送られた。
艦が上がった。
ハッチを開け、見張りが出た。ギュンターも続いた。
海は明るかった。
駆逐艦はいなかった。
ウジイエは船団を守りに戻ったのだろう。
逃した敵より、届ける船を選んだ。
軍人として、それは当たり前のことかもしれなかった。
ギュンターは、自分がどちらを選ぶために戻ってきたのかを思った。
「修理は」
兵が損傷を調べていた。
「何とかなりそうです。光学部品が破損していますが、予備があります」
動かない箇所を直し、破損したプリズムを取り替えるという。
ギュンターは用意させた。
司令塔の一部もへこんでいた。手すりに触れると、前にはなかった引っ掛かりがあった。
すぐ航行不能になる損傷ではない。それでも、飾りだから構わないと片づけてよい場所ではなかった。
潜航に支障がないかを確かめ、修理する者と見張る者を分けた。
ワルターは、兵が道具を持って出入りするハッチを空けた。
狭い艦内で使う手と、海面へ身体を出す手は、同じ兵の手だった。
濡れていた作業着が、風で冷えていた。
ギュンターは、その兵へ温かい物を渡させた。
「もう少しです」
兵が言った。
「急いで壊すな」
答えた。
見張りの報告が続いた。
敵艦はいなかった。
修理が終わり、潜望鏡が動いた。
「上げ。止め」
ギュンターが覗いた。
海面が見えた。
線が歪んでいないか、動く範囲に引っ掛かりはないか。ワルターがもう一度確かめた。
「下げ」
戻す動きも確かめた。
兵が道具を片づけ始めた時、見張りが声を上げた。
「爆音。航空機です」
「急速潜航」
ギュンターが命じた。
甲板の兵が下りた。
最後の一人を確かめて、ハッチを閉じた。
艦が潜った。
明るい海では、潜っても上から見えるかもしれない。
ギュンターは深度を指示し、海上の音を聞いた。
何も落ちてこなかった。
それでも、兵をすぐ休ませることはできなかった。
*
ギュンターは、修理の報告を聞いた。
潜望鏡は使える。浸水は止まっている。聴音は戻ったが、先ほどの不調については引き続き確認する。
直った物と、直ったと確かめられていない物を、ワルターが書き分けた。
帰投すれば、また詳しく調べられる。
このまま追えば、海で同じことが起きるかもしれない。
ギュンターは海図を見た。
ウジイエが船団にいることは確かめた。
ならば、次にどこで会うか。
マルタか、マルセイユか。
港へ戻ったところを襲うには、あの艦長は慎重すぎた。
船団を離さないことが、今日も見えた。
ギュンターは鉛筆を置いた。
「マルセイユへ向かう」
ワルターが顔を上げた。
「艦の状態は、先ほどの報告のとおりです」
「聞いた」
「悪化すれば、作戦を中止する判断も要ります」
ギュンターは中尉を見た。
キールで、艦を帰す者も要ると言った男だった。
「その時は、すぐ報告しろ」
ギュンターは答えた。
「命令を待たずに、異常を知らせてくれ」
ワルターは頷いた。
針路が変わった。
機関の兵が出力を確かめた。応急措置をした場所には、また手が伸びた。
ギュンターは、待機していた兵へ交代を命じた。
自分のために来た者を、使い切ってしまうわけにはいかなかった。
それでも、進む方は変えなかった。
海図の線は、マルセイユへ伸びていた。




