死闘の果てに
夜の海では、艦首の立てる波だけが白かった。
U30は灯火を消し、浮上したまま進んでいた。ディーゼル機関の響きが足の裏へ伝わる。
充電は、まだ終わっていなかった。
修理した潜望鏡は使える。応急措置をした所にも、今のところ変化はない。
その報告を、ギュンターは繰り返し聞いた。
「マルセイユまで、あと三十海里」
ワルターが、天測の結果を海図へ記して報告した。
「日の出で潜航する。甲板へ出る者は、交代で喫煙を許す。火は見せるな」
ギュンターが言うと、中尉が艦内へ伝えた。
兵が上がってきた。
煙草を持っていない者も、外の空気を吸っていた。濡れた鉄と人の汗の匂いがしない風を、何度も胸へ入れていた。
ギュンターは、その隣で海を見た。
戦争が終われば、商船へ乗るのもよいかもしれない。
海を渡り、荷を届け、また別の港へ行く。
昔は、寄港地のことを手紙に書いた。読んだ相手が、どんな顔をするかを考えた。
結婚するはずだった女は、もういない。
戦争の後にも海へ行くのなら、帰る理由を、自分で見つけなければならないのだろう。
甲板の兵が、煙草を消した。
「終わったら、ゆっくり吸いたいです」
小さく言った。
ギュンターは、その手元を見た。
「そうだな」
答えた。
空の端が明るくなった。
吸い終えた者から、艦内へ下りた。
ワルターが充電の状態を知らせた。
「潜航用意」
ギュンターは最後に水平線を見た。
淡い赤色が、海へ伸びていた。
*
「艦底に重大な損傷はありません」
氏家は、点検の報告を聞いた。
マルセイユでの停泊中、木下も若い士官とともに、衝突した箇所を確かめていた。
機関と舵の試験にも異状はなかった。
敵の潜望鏡を壊したかどうかは分からない。自分たちが動けることは確かめた。
いま「棕櫚」は、港を出た船団を護衛していた。
届ければ、また別の船を受け取る。海へ出る仕事は、まだ終わっていなかった。
木下は救助網を確かめていた。野本が、絡みかけていた索をほどいた。
使わずに済むなら、それでよい。
使うことになれば、今ほどいた一箇所が、上がってくる者の手を邪魔せずに済む。
氏家は艦橋から、その作業を見た。
「左舷後方、魚雷」
声がした。
「輸送船へ向かいます」
「喚起信号」
氏家が命じた。
笛が鳴った。
輸送船の動きが変わり始めたが、魚雷は近かった。
船団の中央で、水柱が上がった。
続いて、煙が上がった。
船が傾いた。
「聴音」
「雑音が多く、判別できません」
椛島が即答した。
船団の機関、回避する船の動き、被雷した所の音。
敵はそのどこかにいた。
ギュンターかもしれない。
そうでなくても、救助へ寄る艦を狙う者はいる。
氏家は被雷した船を見た。
海へ人が落ちていた。
「本艦は救助に向かう。左舷、救助網を下ろせ」
命じた。
「警戒は続ける。救助の者以外は、配置を離れるな」
佐野が針路を変えた。
艦が近づき、速力を落とした。
野本は、網の下にいる男へ声を掛けた。相手の言葉は分からなかったが、手を伸ばす方向は分かった。
濡れた指が索を掴んだ。
木下が、上から引く者の位置を変えた。
「一人を上げたら、場所を空けろ」
次の男が掴んだ。
その間も、見張りは海を見ていた。
*
マルセイユの南南東十一海里。
ギュンターは潜望鏡を覗いていた。
輸送船へ撃った魚雷は、命中した。
その後、船団の音の中へ入り、護衛艦の接近を待った。
ウジイエが来た。
救助網を下ろし、海の人間を引き上げていた。
また、その仕事を選んだ。
ギュンターは照準を確かめた。
「二番、発射用意」
ワルターが距離と動きを伝えた。
止まるほどまで速力を落とした艦なら、避けられないはずだった。
手を差し出す日本兵が、接眼部の向こうにいた。
魚雷が当たれば、その男も海へ入る。
ギュンターは目標を外さなかった。
「発射」
命じた。
魚雷が出た。
潜望鏡を下げた。
「さらばだ、ウジイエ」
声は、自分で思ったより小さかった。
*
「艦首方向、魚雷」
氏家は顔を向けた。
白い筋が伸びてきた。
網には、まだ人の手が掛かっていた。
「総員、耐衝撃態勢」
氏家は命じた。
野本は、上がりかけた男の腕を離さなかった。もう一人の兵が身体を支え、二人で甲板へ引き入れた。
魚雷が近づいた。
「外れます」
見張りが叫んだ。
氏家は、耳にした声と海面を確かめ直した。
雷跡は、艦首右舷の三十メートルほど先を抜けた。
爆発はなかった。
手すりを掴んだ指が、強く固まっていた。
いま生きている。
そう思うより先に、氏家は艦首の先を見た。
魚雷は、あちらから来た。
「収容、終わりました」
報告が来た。
周囲に見える遭難者を上げ終えたという意味だった。被雷した船の全員が助かったと、確かめられたわけではない。
他の護衛艦が、捜索へ寄っていた。
「前進全速。舵中央。爆雷戦用意」
氏家は命じた。
救助網が引き上げられた。
木下は収容した者を通路の外へ移し、濡れた服のまま震える者へ毛布を渡させた。
佐野が、船団の回避と他艦の受け持ちを確かめた。
「棕櫚」は、雷跡の来た方へ走った。
*
命中音が来なかった。
ギュンターは時計を見た。
不発なら、船体へ当たる音はあるはずだった。
「敵、増速」
聴音員が報告した。
「本艦へ向かっています」
「前進全速。急速潜航」
ギュンターが命じた。
艦が潜った。
最初の爆雷が来た。
頭上の破裂音が、艦体を揺さぶった。手を掛けた所ごと動く。兵の肩が壁へ当たった。
ギュンターは深度の報告を聞いた。
まだ、耐えた。
機関を動かし、離れてから止めた。
駆逐艦の音が向きを変えた。
こちらへ戻ってくる。
「取舵一杯。最大戦速」
蓄電池が減る。
今は、その先の残量を惜しんで沈むわけにはいかなかった。
背後で爆雷が破裂した。
兵が、応急措置をした箇所へ身体を寄せた。
まだ漏れていなかった。
「機関停止。油を流せ」
ギュンターが命じた。
海面へ油が上がれば、沈んだと考えるかもしれない。
艦は流れを受けて移った。
ギュンターは待った。
駆逐艦は離れなかった。
「敵、追尾しています」
聴音員が言った。
なぜ分かる。
機関を止めた艦を、何で追う。
ギュンターは機器を見た。
新しい装置を積んだのか。
考えは浮かんだが、その証拠はなかった。
また爆雷が来た。
艦が大きく傾いた。
「トリムを取れ」
叫んでから、既に兵がその作業に入っているのを見た。
自分の声より先に、手が動いていた。
*
「油、見えます」
「棕櫚」の見張りが報告した。
海面に、虹色の輪が広がっていた。
「仕留めたか」
氏家の声に、椛島が答えた。
「まだ、感があります」
機関音ではないという。
「水切り音のような雑音です。初めから、混じっていました」
「機関を止めてもか」
「はい。今も続いています」
氏家は、衝突した時の感触を思い出した。
敵の上に何かが残り、水を受けて鳴っているのか。
潜望鏡が直っていても、他の傷まで直っているとは限らない。
雷撃が外れたのも、損傷のためだったかもしれない。
だが、原因を確かめるより、今聞こえる方向を確かめる方が先だった。
「水雷長。投下間隔を五秒。推定位置を覆う」
氏家が命じた。
水雷長は、航海長と投下点を合わせた。
後部甲板へ命令が渡った。
兵が秒を数えた。
艦が走る間に、爆雷が順に海へ入った。
水柱が続けて立った。
その下に、艦と人がいる。
氏家は、次の報告を待った。
*
「後部機関室、浸水」
U30の中で、声が上がった。
機関長が兵を動かした。
前の時より、水の音が大きかった。
爆雷が右舷で破裂した。
「右舷、浸水」
ギュンターは、その方を見た。
兵が押しつけた物の横から、水が噴いた。別の者が手を出した。流れは変わったが、止まらなかった。
傾きが増した。
「止まりません」
機関長が報告した。
その声に、言い訳はなかった。
ギュンターは深度計を見た。
潜ったままでは、間に合わない。
「メインタンク、ブロー。急速浮上」
命じた。
ワルターが復唱した。
空気が送られた。
艦が持ち上がった。
ギュンターは、兵たちを見た。
まだ戦える。
浮上すれば、目で相手を見て、砲を向けられる。
「浮上次第、砲撃戦用意。魚雷も用意」
声を出した。
砲の兵がハッチへ向かった。
自分について来た男たちだった。
ここまで来て、もう戦わなくてよいと命じる言葉を、ギュンターはまだ持てなかった。
*
「ブロー音。浮上します」
椛島が言った。
「爆雷戦もとい。各砲、発射用意」
氏家は命じた。
海面が盛り上がった。
潜水艦の司令塔が出た。続いて甲板が見えた。
上部がわずかに歪んでいた。
白旗はなかった。
人が出てきた。
砲へ走った。
艦尾から煙が出た。機関が始動した。
「敵、艦首を向けます」
佐野が言った。
「魚雷」
声がした。
「全速前進。船団へ警笛」
氏家が命じた。
自分が避けた魚雷は、後ろにいる輸送船へ行く。
知らせなければならなかった。
敵潜の砲が光った。
「主砲、照準各個。撃て」
氏家が命じた。
斉射で艦が揺れた。
水柱が敵の周囲に立った。
潜水艦が向きを変えた。
雷跡が、扇状に伸びてきた。
広がった側へ逃げれば、越える海面が大きくなる。
「取舵一杯」
氏家は魚雷の来る側へ艦首を向けた。
佐野が復唱した。
野本は手を掛けたまま、目を離さなかった。
雷跡が、艦のそばを通った。
「回避」
声と重なるように、船体が揺れた。
魚雷の爆発ではなかった。
「艦首、錨庫付近に着弾」
報告が来た。
氏家は、応急班を向かわせた。
「負傷と浸水を確認。機関、速力を保て」
砲術長は射撃を続けた。
敵の前部砲周辺へ、主砲弾が当たった。
人が倒れた。
もう一人が、海へ落ちた。
敵の砲が止まった。
氏家は、その場所を見た。
まだ白旗は出なかった。
「敵、機関停止」
報告があった。
司令塔へ、人が出てきた。
何かを持っていた。
「撃ち方やめ」
氏家が命じた。
砲術長の声が続いた。
白い布が上がった。
「白旗です」
見張りの声がした。
次の砲弾は出なかった。
氏家は腕を下ろした。
まだ敵へ向いた砲の向こうに、傷ついた艦が停まっていた。
*
ギュンターは、白旗を持っていた。
日本艦の砲口が、こちらを向いていた。
だが、撃たなかった。
甲板の兵が、負傷した砲手へ寄った。
海へ落ちたもう一人へ、索を出そうとしていた。
ギュンターは、その動きを見た。
砲を撃たせたのは、自分だった。
兵が自分の名を呼んだ。
「艦長」
振り向くと、ワルターがいた。
「艦内の者を、上げます」
「全員を確かめろ」
ギュンターは答えた。
まだ、それを命じる仕事があった。
中尉が下りた。
ギュンターは旗を持ち続けた。
向こうの駆逐艦が近づいてきた。
上から索が投げられた。
日本の兵が、手を動かしていた。
*
「敵潜乗組員には、武人として接すること」
氏家の命令が艦内へ伝わった。
武器を確かめ、負傷者を先に上げる。臨検班は艦内も捜索する。
佐野は、損傷した艦が沈み込まないよう、接近する位置を確かめた。
機関から応答が返った。
木下が兵を揃え、索を送った。
野本は敵の甲板へ目を向けた。
さっきまで砲があった所に、血が見えた。
「そちらを見るのは後だ。手を出せ」
木下が言った。
野本は、上がってくる男へ手を伸ばした。
濡れた袖を掴み、腕を引いた。
敵兵は甲板へ膝をついた。
息を吐いた。
次の者が来た。
「棕櫚」の錨庫付近では、応急班が点検をしていた。直ちに航行を妨げる損傷はなく、周辺の乗員にも大きな負傷はないとの報告が来た。
氏家は聞いてから、敵潜へ目を戻した。
負傷した砲手が運ばれてきた。
布が赤かった。
もう一人は、海から引き上げられていた。
「二名、収容。息はあります」
報告を受け、氏家は命じた。
「できる限りの手当てを。運ぶ場所を空けろ」
兵が動いた。
砲弾を渡した手が、今は担架を支えていた。
野本は、敵兵に杯を渡した。
男の指が震え、杯の縁が歯へ当たった。
野本は手を添えた。
同じ水だった。
この艦の者が飲んでいる水を、相手も飲んだ。
*
「艦長をお連れしました」
氏家は顔を上げた。
思っていたより若い男だった。
髭が伸び、制服は濡れていた。海図や報告書の中にいた名前が、身体を持って目の前へ来た。
男は姿勢を直し、敬礼した。
「U30艦長、ギュンター・マルシェル大尉です」
鮮やかな英語だった。
氏家も敬礼を返した。
「棕櫚艦長、氏家林太郎少佐です」
手を差し出した。
ギュンターが握った。
冷たい手だった。指には力が残っていた。
氏家は、その手を離した。
怒りを向ける相手を見たはずなのに、顔を見て最初に思ったのは、疲れている、ということだった。
自分も、同じ顔をしているかもしれなかった。
負傷兵の状態が報告された。
氏家が返事をすると、ギュンターがその方を見た。
言葉は分からなくても、運ばれていった者の話だと察したらしい。
「砲手の二人です。手当てを続けています」
氏家は英語で伝えた。
ギュンターは、顔を下げた。
「部下への御配慮に、感謝します」
声が少し変わった。
「残りの者も、人数を確かめています」
氏家が言った。
「取り残された者がいれば、教えてください」
ギュンターはワルターの報告を伝えた。
臨検班の確認と照らし合わせた。
乗員を上げる仕事が終わるまで、二人は艦を見ていた。
ギュンターは、U30の甲板を見下ろした。
帰るために直した艦だった。
キールから連れてきた者たちは、いま別の艦へ移っていた。
「やはり、聞いていたとおりの方でした」
ギュンターが言った。
氏家は相手を見た。
「私のことを、どこかで」
ギュンターの表情が暗くなった。
「メアリー・シンプソンを、御存じですか」
*
氏家は、すぐには返事をしなかった。
白いワンピースが浮かんだ。
庭園の光と、茶の置かれた卓が戻った。
「英国海軍婦人部隊の、中尉ですか」
「私の許嫁でした」
ギュンターが言った。
英語を解する者が、顔を伏せた。
氏家は相手を見たままだった。
ドイツ系で、学生時代にドイツにいた。
そう話した女には、自分の知らない日々があった。その日々の中に、この男がいた。
海軍中尉として会った顔と、間諜だったという報告の中の名前と、いま目の前の男が口にした名前。
どれも、同じ女性のものだった。
「彼女から、あなたの話を聞きました」
ギュンターが言った。
「人を助けるために、危険な海へ戻った日本の艦長だと」
氏家は、メアリーが礼を言った時のことを思い出した。
救った者の話をしていた。
その時の言葉まで、嘘だったとは思えなかった。
だが、何をどこまで信じてよかったかは、今も分からない。
「彼女が危険な任務を選んだのは、多分、私のせいです」
ギュンターが続けた。
「私が海軍を選ばなければ」
氏家は口を開きかけた。
あなたのせいではない、と言うには、何も知らなすぎた。
そのとおりだ、と言う権利もなかった。
「お悔やみを申し上げます」
静かに言った。
ギュンターは頷いた。
氏家の頭に、別の顔が浮かんだ。
ワインを注ぐマルロー。次に戻ったら、と話した声。
あの死も、戻らなかった艦も、なくなったわけではなかった。
いまこの男の部下を助けたからといって、失った友が帰るわけではない。
それでも、手当てはやめない。
氏家は、担架の運ばれた方を見た。
ギュンターも同じ方を見た。
まだ、生きている者がいた。
*
「マルタへ、お連れすることになります」
氏家は言った。
「到着までは、指示した範囲で身体を休めてください。部下の方々にも、そう伝えていただけますか」
「承知しました」
ギュンターが答えた。
ワルターが乗員へ声を掛けた。
張っていた肩が、少し下がった。
木下は、日本の兵とドイツの兵が通る場所を分け、休む場所を空けた。敵の言葉を聞き取れる者が、短い指示を伝えた。
野本は、毛布をもう一枚持ってきた。
渡した相手が、低く何か言った。
礼だったのだろうと、野本は思った。
頷いて、持ち場へ戻ろうとした。
汽笛が鳴った。
別の艦からだった。
続いて、遠くの船でも鳴った。
氏家は顔を上げた。
「艦長、司令部から入電」
通信士が来た。
顔が紅潮していた。
氏家は電文を受け取った。
読んだ。
読み直した。
休戦が成立し、戦闘を停止するとの通報だった。
氏家は、紙から目を上げた。
佐野が見ていた。
砲術長も、見張りも、氏家を見ていた。
その向こうに、ギュンターがいた。
氏家は艦内へ伝えるためのマイクを取った。
「達する」
声が出た。
何度も、この声で人を戦闘へ向かわせた。
配置につけと命じた。走れと命じた。撃てと命じた。
今度は、次の言葉が違った。
「戦争は終わった。帰れるぞ」
言った。
艦内が、一度静かになった。
それから、声が上がった。
甲板でも、誰かが笑った。
野本は、木下を見た。
木下が頷いた。
その顔を見て、ようやく、聞き間違いではないと思えた。
椛島は耳を離した。
機関室でも、報告を聞き返す声があった。機関は止めなかった。海には、まだ艦がいて、帰る港があった。
佐野が手で顔を拭った。
氏家は、ギュンターへ向き直った。
「大尉。残念ながら、貴国の負けです」
英語で言った。
「ただ、戦争は終わりました」
ギュンターは、氏家を見た。
言葉を理解してからも、すぐには表情が変わらなかった。
ワルターへ視線を移した。
中尉が頷いた。
ギュンターは、息を吐いた。
長い息だった。
氏家は、もう一度手を差し出した。
「たった今から、君たちは捕虜ではなく、ゲストです。ようこそ本艦へ」
その後に必要な引き渡しや、報告がなくなるわけではない。
それでも、いまこの甲板で迎える言葉を、自分は選べた。
ギュンターが手を伸ばした。
握った手は、先ほどより少し温かかった。
「ありがとうございます」
声がした。
何に対する礼なのか、氏家は尋ねなかった。
「汽笛を鳴らせ」
命じた。
「棕櫚」の汽笛が、海へ響いた。
ドイツ兵が顔を上げた。
日本の兵も、同じ音を聞いた。
手当てを受けている二人のそばでは、兵が仕事を続けていた。
氏家は汽笛の鳴る海を見た。
帰ったら、妻へ手紙の続きを話せる。
子供たちの声を聞ける。
マルローへは、もうワインを返せない。
メアリーにも、続きを話せない。
それでも、いまいる者を、帰すことができる。
ギュンターは、下の甲板を見た。
ワルターが、自分の部下と話していた。日本の兵が水を渡し、ドイツの兵が両手で受け取った。
勝たなければ帰れないと、思っていた。
その戦争が、終わった。
海はまだ動いていた。
艦のそばを流れる波が、陽を受けて白くなった。
野本は、毛布を持ち直した。
もう一人、冷えている者がいた。
そばへ行って、肩へ掛けた。
男が顔を上げた。
野本も、その顔を見た。
汽笛の音の下で、二人は頷いた。




