初戦果(2)
「棕櫚」が通った跡で、海が持ち上がった。
水が盛り上がり、崩れる。衝撃が船体を伝わってきた。
艦尾で水雷長が姿勢を立て直した。爆雷を落とした所を見ている兵の一人が何か言いかけたが、その声は続いた水の音に消えた。
氏家は艦橋から、白く濁った海面を見た。
敵の船体は見えない。
当たったか。
砲弾なら、命中した瞬間を見ることができた。海の下の爆発には、それがなかった。今上がった水は、敵のそばで炸裂しても、遠くで炸裂しても上がる。
「右舷後方、浮遊物!」
見張り員が声を張った。
細かいものが波の間に散っていた。一つが回り、黒い面を見せた。
「油が広がっています!」
青い海面が、ところどころ異なる色を帯びていた。光の当たる向きで、鈍い虹色が浮かぶ。
第一の護衛で追った敵も油を出した。
あの時は、そこで見失った。
氏家は喜ぶ者へ声をかけず、聴音の報告を待った。
椛島には、爆発の響きが長く残っていた。
音は一度に消えない。水の奥で幾つもの響きが返り、どこから来たかが分からなくなる。自艦は回頭しながら遠ざかっている。直前に聞こえた漏れの音を探しても、同じ所にはもうなかった。
椛島は待った。
音が弱まる。
その奥で、別のものが鳴った。
低く軋み、途中で鋭く折れるような響きだった。爆雷の音ではなかった。続けて、何かが潰れていくような音がした。
椛島の口が僅かに開いた。
身体を動かすと、その音まで取り落としてしまいそうだった。
やがて何も続かなくなった。
椛島は耳に当てていた器具を片方だけ離した。そばの兵がこちらを見ていた。何度も報告を伝えてきた男が、今は黙って答えを待っている。
「圧壊音です」
椛島は言った。
「敵潜、沈下。船体が潰れたと思います」
自分の声が、やけに近く聞こえた。
兵が艦橋へ伝える間に、椛島はもう一度耳を戻した。機関の音が復活していないか、別の音が近づいていないかを確かめた。
潰れたという報告を出しても、海にはまだ聞くべきものがあった。
「圧壊音。敵潜、沈下」
報告が届いた。
艦橋で、押さえていた声がほどけた。
「やった」
一人の声に、別の者が続いた。佐野も息を吐き、海面から目を離さず頷いた。
氏家は双眼鏡を上げたままだった。
撃沈した。
初めて、沈めたことを確かめられる敵だった。
あの船には何人いたのか。先ほど甲板を走っていた男は、最後にどこへ入ったのか。艦長は、海が入ってきた時も部下へ命じていたのだろうか。
知らなかった。
マルローを沈めた潜水艦かどうかも、分からない。ここへ走ってきた時に欲しかった勝利は得た。それなのに、マルローの声が戻ってくるわけではなかった。
油の浮く海を見ていると、そこへ敵の姿を探す時とは違う力が要った。
「各員、生存者の発見に努めよ」
氏家が命じた。
佐野が僅かに振り向いた。
その目に、まだ戦果を確かめたい気持ちがあった。氏家自身にもあった。
「勝負は終わった」
氏家は海を見たまま言った。
「明日は、我々かもしれん」
佐野はすぐ前へ向いた。
「見張り員、漂流者を探せ。浮遊物の周囲、よく見ろ」
艦橋の声が変わった。
敵潜の位置を告げていた見張り員が、今度は波の間の小さなものを一つずつ確かめ始めた。
*
「棕櫚」は速力を落として、油の広がる場所へ戻った。
砲と爆雷の警戒は解かない。別の潜水艦がいれば、今度はこちらの動きが見られているかもしれなかった。
木下兵曹長は、艇を出す場合に備えて甲板の者を集めていた。
「人が見えたら、先に知らせろ。勝手に飛び込むな」
兵が頷いた。
海面には木片らしいものもあり、薄い板が裏返っているものもあった。最初に人の頭のように見えた黒いものは、近づくと角のある破片だった。
木下はそれを確認して、上へ知らせた。
木下は、艇のそばへ来た若い兵の足元を見た。
「今のうちに、そこを片づけておけ」
兵は視線を落とし、足を取られそうなものを避けた。何を考えるかより、まず出せるようにしておく必要があった。
氏家はその準備を艦橋から見下ろした。
沈んだ船の中から、ここまで浮いてこられる者がいるとは思えなかった。潰れるほど沈んだという報告だった。海面へ顔を出すまで、どれだけの水を上がらなければならないのか。
それでも、探す前からいないと決めることはできなかった。
漂流物の間を目でたどった。
手が上がれば。
声がすれば。
生きている者が一人いれば、木下たちの艇を出せる。
「左舷、漂流者なし」
「右舷も、認めません」
同じ報告が続いた。
油の膜を、艦の起こした波が裂いた。その裂け目も、しばらくするとまた薄くつながった。
ハリアーの船影はまだ近くにあった。
信号員がその船へ、状況を尋ねる信号を送っていた。返答はすぐには来なかった。向こうも砲撃を受けたあとで、誰かが船橋へ戻り、誰かが旗を読まなければならない。
佐野が時計を見た。
氏家はその動きを知っていた。
止まった輸送船を守るために来たのである。ここで際限なく探していれば、ハリアーを再び孤立させることになる。
もう一度、周囲を回って確かめさせた。
見張り員たちは、先ほど指した漂流物へ戻らぬよう、探した海面を報告し合っていた。一人の目を別の者が引き継ぎ、見えない側を確かめる。
人はいなかった。
氏家は双眼鏡を下ろした。
「捜索を終える。警戒は続けろ」
甲板から、木下が顔を上げた。
氏家は頷いた。
艇は出さなかった。
海の光が低くなっていた。
砲煙は消えている。初めて見た時に急いで潜っていった低い艦影も、もうどこにもなかった。
氏家は艦内へ通報を命じた。
「作業やめ。総員、黙祷」
命令が、それぞれの場所へ伝わった。
警戒と操艦のために必要な者は、持ち場を離れない。見張り員は目を海に残し、操舵員は舵輪のそばに立っていた。ほかの者が手を止め、頭を下げた。
機関室でも、動いている機械を見ていた者が姿勢を静めた。
誰に祈るのか。
氏家は帽子の下で目を伏せた。
今沈めた敵の名は一つも知らない。声も聞いていない。知っているのは、砲の周りに人がいて、近づく「棕櫚」を見て潜ったことだけだった。
自分が撃たせ、爆雷を落とさせた。
あの船の者が死んだのなら、その命令で死んだのである。
そのあとで安らかであれと祈る。祈られた側は、それをどう聞くだろう。
答えは来なかった。
マルローの葬儀で俯いた時には、友人の声と顔があった。今はその顔すらない。それでも海の下にいた者が、自分たちと同じように持ち場で命令を待っていたことは分かった。
氏家は、目を閉じたまま息を吐いた。
艦の機関は動いている。
生きている者の仕事は、今も続いていた。
「黙祷やめ」
顔を上げた。
「ハリアーの護衛に戻る」
*
ハリアーへ近づくと、砲撃を受けた痕が見えた。
船橋の下に黒く汚れた箇所があり、甲板の縁にも破れた所があった。そこを避けて、乗員が移動している。海面に沈み込んだような大きな傾きはなかった。
「損傷の処置を行っているそうです。機関も、応急復旧を進めています」
信号の返答を受け、佐野が告げた。
「必要な支援を尋ねろ」
氏家は言った。
兵員は既に他船へ移った。ここに残った者が船を扱い、故障を直している。直らなければ曳航の手配も必要になるだろう。
氏家は機関長へ、向こうの機関の状態が分かり次第知らせるよう通報させた。人を送る必要が出た時には、誰を出せるかを考えておかなければならなかった。
返答を待つ間も、「棕櫚」はハリアーの周囲を警戒した。
聴音の報告に、敵潜の音はなかった。
椛島は交代を待ちながら、器具を耳に当て直していた。耳の当たる所が痛かった。手を離したくなるたび、別の機関の音がないか確かめた。
圧壊した音を思い出して聞こうとすると、今聞いているものが遠くなる。
あれは報告した。
椛島は、ハリアーのある方へ耳を戻した。
しばらくして、そちらの音が変わった。
途切れていた響きの中に、低い回転が現れた。まだ揃ってはいない。弱まり、持ち直し、ゆっくり続いた。
「ハリアー、機関を動かしていると思われます」
報告を出した時、艦橋へも信号が届いていた。
「応急復旧。低速で航行可能」
佐野が読み上げた。
氏家は双眼鏡を上げた。
船尾で水が動いていた。初めは船全体が動いたかどうかも分からなかった。やがて船首の脇に小さな白い波ができる。
ハリアーが進み始めた。
「本艦は警戒配置のまま、ハリアーを護衛する。船団指揮官に、航行再開を知らせろ」
信号員が命令を受けた。
氏家は佐野に、その針路と速力を合わせさせた。
「無理をさせるな。向こうの出せる速力でいい」
「はい」
ハリアーの甲板から、一人がこちらを見た。
距離があるため表情は見えなかった。腕が上がったように見え、すぐ手すりの陰へ消えた。
氏家は双眼鏡を下ろした。
そこに人がいた。
それで、ここへ来た理由の一つは果たせた。
艦内の点検報告が揃った。
砲に異状はなく、使った弾と爆雷の数が記録された。急な回頭で移動したものを戻し、甲板を確かめ、機関の状態を調べる。負傷者の報告はなかった。
木下は艇の準備を解かせたあと、そのままにしていた甲板を整えた。戦闘配置の者へ水を回すように言い、次の当直へ知らせることを下士官と確かめた。
やった、という声が兵の間にも残っていた。
それを木下は止めなかった。初めて沈めた。自分たちの砲が当たり、爆雷が届き、艦は無事だった。嬉しくないはずがなかった。
その声を聞いたあとで、誰かが黙って海を見た。ほかの者も、少しして持ち場へ戻った。
上から聞こえた黙祷の号令は、もう終わっていた。
艦橋へ当直の交代が上がってきた。
引き継ぐ者が、ハリアーの位置、針路、警戒する方向を聞いた。氏家は、先ほどまで張っていた声が一段低くなったことに気づいた。
戦闘のあいだ、誰もが普段より大きな声を出していた。今は近くの者に届く声で足りる。その違いが、艦橋の広さを変えたようだった。
佐野が引き継ぎを確かめ、氏家のそばへ戻った。
「敵潜の報告は、その後ありません」
「そうか」
ハリアーはゆっくり進んでいた。
速力のある「棕櫚」が、その歩みに合わせている。氏家は波の流れる速さを見てから、机の上の記録へ目を落とした。
撃沈という文字を書くことになる。
その文字の下に、海へ落ちた破片と、椛島の聞いた音があった。助けられた者の名は書けなかった。
復讐を果たしたと書くこともできない。
氏家は報告の内容を確かめ、司令へ送らせた。敵潜一隻を撃沈。本艦に被害なし。ハリアーの護衛を続行する。
口にしてしまうと、短かった。
佐野が横で息をついた。
「艦長……腹が減りましたね」
氏家は彼を見た。
声に気兼ねがあった。今それを言っていいのかという顔だった。
烹炊所の皿を思ったことを、氏家は思い出した。自分の腹にも、遅れて同じものが来た。
「そうだな」
答えると、佐野の肩が少し下がった。
「交代した者から食わせよう。見張りは空けるな」
「はい」
佐野が取り次いだ。
伝声管から返った声に、艦の中でまだ仕事をしている者がいた。蒸気を送り、舵を取り、砲を確かめ、飯を用意する者がいる。
氏家は海へ顔を向けた。
ハリアーの小さな船首波は、途切れずに続いていた。




