↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/25

友が散った海(1)

 機関の不調が報告されたのは、その後の航海から戻ってきた時だった。

 直ちに航行できなくなるほどのものではない。しかし、次に最大戦速を命じた時、今日と同じように走れるかどうか、機関長は確約しなかった。

「一度、開けて確かめたいところがあります」

 氏家は報告を聞き、入渠を求めた。

 海上では、機関へ遠慮して命令を出せるとは限らない。使う時には使わなければならず、そのためには、今、使わずに直す時間が要った。

 乾いたドックに船体が据えられると、「棕櫚」はひどく大きく見えた。

 水の下に隠れていた艦底が現れ、舵と推進器が人の目の高さから見える。海上で指一本の動きのように命じていた操艦が、これだけの鋼を動かす仕事だったことを思い出させた。

 その艦に、脚立と足場が取りつけられた。

 機関科の者が機械を点検している間、甲板の者は塗装の手入れをしていた。出港できない時間に済ませられることは、済ませておかなければならない。

 氏家も作業服に着替え、刷毛を持った。

 最初、そばにいた水兵が道を開けようとした。

「そのままでいい。どこを塗ればよい」

 訊くと、水兵は困ったように木下兵曹長を見た。

 木下は氏家の手元を確かめた。

「そこは、まだ下地を落としているところです。艦長には、こちらをお願いいたします」

 指されたところへ移り、氏家は刷毛を動かした。

 思ったほど一様には塗れなかった。力を入れると厚くなり、軽く撫でれば下が見える。隣の水兵の手は、無駄なく動いていた。

「これでいいか」

「もう少し、刷毛を立てずに」

 水兵は言ってから、しまったという顔になった。

「こうか」

 氏家が手を変えると、彼は頷いた。

「はい。それでよろしいと思います」

 木下が別の作業へ戻った。水兵も、目の前の鋼板へ向き直る。

 氏家は黙って刷毛を動かした。

 海でこの男に同じことを訊いたら、返事を待っている間に艦が進んでしまう。今は手を止めて教わることができた。

「艦長自らペンキ塗りか。変わった国だな、君の国は」

 上から声がした。

 マルローだった。ドックの縁からこちらを見下ろし、それから通路を回って降りてきた。

「艦長が塗ってはいけない決まりはない」

「うちには、そんなことを始める艦長がいない。いれば部下が驚く」

「うちの者も、初めは驚いていた」

 氏家が言うと、隣の水兵が笑いそうになり、刷毛を見つめた。

 マルローは艦腹へ目を移した。

「しかし、よく働く艦だ。乗員も忙しいだろう」

「だから、塗る場所ぐらいは受け持てる」

「それが、この前の慎重な艦長の休暇か」

 氏家は刷毛を缶の縁に置いた。

「座って待っているより、手を動かしている方がいい」

「それは分かる」

 マルローは少し離れて、作業中の乗員が通れる場所に立った。

「機関はどうだ」

「点検と調整が済めば、戻せる。今のところ、長くはかからないと言っている」

「このところ八面六臂だったからな。たまには我々に任せて休んでくれ」

「君たちも忙しいのに、すまんな」

「気にするな。昨日、うちの甲板の者に、君らの艇の扱いを見せてもらった。なかなか役に立つと言っていた」

 氏家は木下の方を見た。兵曹長は離れた足場で水兵に指示をしている。

「それはよかった」

「こちらのやり方も話したらしい。あれは違う、これも違うと、双方なかなか譲らなかったそうだ」

「どちらが勝った」

「最後は、海へ下ろしてから考えよう、となったとか」

 マルローは笑った。

 氏家も笑った。国の違いより前に、自分の艦のやり方を譲りたくない者たちだったのだろう。

「君はまた出るのか」

「ああ。アレキサンドリアの方だ。戻ったら、君の艦も直っているとありがたい」

 彼は艦腹の新しい塗装を見た。

「修理が済んだら頑張ってくれ。その時は、難しいことを言わずに、うちの国の輸送船もよろしくな」

「できることはする」

「また慎重だ」

「できない約束をするよりいい」

 マルローは頷いた。

「それなら、戻ってから一杯、というのはどうだ」

「それは約束しよう」

「よし。艦長、作業を続けてくれ」

 彼は冗談めかして敬礼し、通路へ戻った。

 氏家も刷毛を取り直した。缶の縁で余分な塗料を落とし、鋼板に薄く伸ばした。

 マルローの足音は、ほかの作業音に混じって聞こえなくなった。

     *

 艦長室の扉が叩かれたのと、開いたのは、ほとんど同時だった。

「艦長、大変です。フランスの輸送船団が」

 佐野が入ってきた。

 氏家は顔を上げた。返事も待たずに入ってきたことを咎めようとして、やめた。

 佐野の顔に、それどころではないものがあった。

「これです」

 差し出された電報用紙を取った。

 フランス語の短い文が並んでいる。氏家は最初の行へ目を落とした。救援要請。雷撃。護衛艦からの戦況報告。

「マルローは」

「分かりません。ただ、電文によれば」

「分かっている。フランス語も少しぐらいなら読める」

 言ってから、氏家は佐野の顔を見た。

 彼は口を閉じて待っていた。

 氏家はもう一度電文を読んだ。船の名と、位置と、被害を追う。最初に目を通したはずの行を読み直した。

 アレキサンドリアの目前で、フランスの船団が襲われていた。

 船団壊滅を伝える電文もあった。ただ、受信した順序と、現場で発した時刻は同じではない。一通のあとに続いた知らせが、その一通より前の状況ということもある。

 これだけでは、どの艦がどこで沈み、誰が生きているかは分からなかった。

「ほかの続報は」

「今のところ、ありません。通信員に、入り次第こちらへ回すよう伝えました」

「そうか」

 氏家は紙を卓へ置きかけ、また持ち直した。

「司令部へ行くぞ」

 立ち上がると、床は揺れなかった。

 そのことが、腹立たしいほどはっきり分かった。

 ドックの外へ出る途中、機関長と会った。

 彼は氏家の足を止めないよう、横へ寄った。

「艦長、点検について報告が」

「帰ってから聞く」

「分かりました」

 機関長が下がりかけた時、氏家は立ち止まった。

「何か、出港を遅らせるものがあるか」

「今のところはありません。ただ、組み戻したあと、試して確かめる必要があります」

「それは、いつ終わる」

 機関長は一度考えてから答えた。

 氏家には、その短い間が長く感じられた。

「予定どおり進めます。確認を省くことはできません」

 急げと言いそうになった。

 機関長の袖が油で汚れていた。足元も同じだった。ここで艦を動かせるようにしている男に向かって、艦を動かせないことを責めてどうする。

「分かった。続けてくれ」

「はい」

「司令部へ行く。何か変われば、佐野に知らせてくれ」

 氏家は再び歩き始めた。佐野がすぐ後ろについてきた。

 ドックの中では、まだ刷毛が動いていた。

 昨日、自分が塗ったところも、その中にあった。

 司令部では、通信の報告を待つ者が卓を囲んでいた。

 壁に海図が広げられ、別の卓には電報用紙が積まれている。普段も忙しい場所だったが、今日は声が低かった。

 氏家は佐藤少将を認め、敬礼した。

「閣下、フランスの船団は」

「全滅らしい。護衛の駆逐艦も、数隻やられたという」

「マルロー艦については」

「まだ確かめられていない」

 佐藤は卓上の紙を示した。

「いまあるのは、現場からの電報だけだ」

 氏家は一通ずつ目を通した。艦名の綴りを確かめ、発信時刻を見た。

 沈んだという報告があった。雷撃を受けたという報告もある。それらを全部足せば、同じ船を二度数えてしまうかもしれない。

 参謀が海図に印を置いた。

 アレキサンドリアまで、あと僅かのところだった。

「ここまで来て」

 佐野が小さく言った。

 港が近いから安全になるわけではない。そのことは、氏家も分かっていた。それでも、二十マイルという距離を見てしまうと、あと少しだったと考えずにはいられなかった。

 通信員が新しい紙を持ってきた。

 氏家が顔を上げる。紙はまず佐藤に渡され、参謀へ回った。

 まだ、マルローの消息ではなかった。

 氏家は椅子を勧められたが、しばらく立っていた。

 海であれば、針路を変えられる。速力を上げ、見張りを増やし、聞こえた音へ向かうことができる。ここでは、誰かが書いた文字を待っているだけだった。

 自分の艦が海にいれば、何かできたのではないか。

 そう思うたび、完全ではない機関のことが頭に浮かんだ。

 機関長は確認を省けないと言った。自分も、それでよいと言った。

 氏家はようやく椅子へ座った。

 佐野は艦へ一度戻り、続報を受け取る態勢を確かめてきた。戻ってきた時、作業は予定どおり進んでいると報告した。

「そうか」

 氏家はそれだけ答えた。

 別の紙が届いた。

 読み終えてから、海図を見た。指で距離を測りかけ、やめた。

 今から「棕櫚」が出られたとしても、もう間に合わない。

 それを認めると、待っている時間だけが残った。

 生き残った護衛艦からの詳しい報告が届いたのは、その日の夕刻だった。

 氏家は朝からいた同じ卓の前で、それを聞いた。

 船団は、アレキサンドリアの手前、約二十マイルで雷撃を受けた。

 魚雷は一つの方向から来たのではなかった。回避した先にも雷跡があり、別の船へ避けさせようとしている間に、また撃たれた。

 参謀が海図の上へ指を置いた。

「複数の敵潜がいたものと考えられる」

 氏家はその指を見た。

 「棕櫚」が初めて追った敵は、一隻だった。それでも、撃ち返されたあと、機関を止められて見失った。そういう艦が幾つも、船団の来る場所で待っていたのだ。

「輸送計画を知っていたのでしょうか」

 氏家が尋ねると、参謀は紙へ目を戻した。

「その疑いはある。ただし、今の段階で断定はできん」

 誰が、どこから知らせたのか。

 それを訊いても、今、答えられる者はいなかった。

 報告が続いた。

 マルローの艦は、輸送船へ向かう魚雷の前に、自艦を入れたという。

 氏家は顔を上げた。

 参謀が、次の行を読むまでの間があった。

「艦橋直下に命中。艦橋にいた艦長以下、即死したと報告されている」

 部屋の音が遠くなった。

 氏家は参謀の口が動くのを見ていた。続きの説明があったはずだが、言葉は頭に残らなかった。

 マルローが死んだ。

 先ほどの一行を読み違えたのかもしれないと思い、紙を見せてもらった。

 綴りは、確かに彼の名だった。

 魚雷。艦橋直下。艦長。

 知っている単語ばかりだった。

 氏家は読み終え、紙を返した。

「……承知しました」

 佐野が隣に立っていた。何か言おうとしているのが分かったが、氏家はそちらを見なかった。

 海図の端を押さえた重しへ目を落とした。

 指先を置けば冷たそうな、金属の重しだった。

 それを見ている間に、次の報告が読み上げられた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。