友が散った海(1)
機関の不調が報告されたのは、その後の航海から戻ってきた時だった。
直ちに航行できなくなるほどのものではない。しかし、次に最大戦速を命じた時、今日と同じように走れるかどうか、機関長は確約しなかった。
「一度、開けて確かめたいところがあります」
氏家は報告を聞き、入渠を求めた。
海上では、機関へ遠慮して命令を出せるとは限らない。使う時には使わなければならず、そのためには、今、使わずに直す時間が要った。
乾いたドックに船体が据えられると、「棕櫚」はひどく大きく見えた。
水の下に隠れていた艦底が現れ、舵と推進器が人の目の高さから見える。海上で指一本の動きのように命じていた操艦が、これだけの鋼を動かす仕事だったことを思い出させた。
その艦に、脚立と足場が取りつけられた。
機関科の者が機械を点検している間、甲板の者は塗装の手入れをしていた。出港できない時間に済ませられることは、済ませておかなければならない。
氏家も作業服に着替え、刷毛を持った。
最初、そばにいた水兵が道を開けようとした。
「そのままでいい。どこを塗ればよい」
訊くと、水兵は困ったように木下兵曹長を見た。
木下は氏家の手元を確かめた。
「そこは、まだ下地を落としているところです。艦長には、こちらをお願いいたします」
指されたところへ移り、氏家は刷毛を動かした。
思ったほど一様には塗れなかった。力を入れると厚くなり、軽く撫でれば下が見える。隣の水兵の手は、無駄なく動いていた。
「これでいいか」
「もう少し、刷毛を立てずに」
水兵は言ってから、しまったという顔になった。
「こうか」
氏家が手を変えると、彼は頷いた。
「はい。それでよろしいと思います」
木下が別の作業へ戻った。水兵も、目の前の鋼板へ向き直る。
氏家は黙って刷毛を動かした。
海でこの男に同じことを訊いたら、返事を待っている間に艦が進んでしまう。今は手を止めて教わることができた。
「艦長自らペンキ塗りか。変わった国だな、君の国は」
上から声がした。
マルローだった。ドックの縁からこちらを見下ろし、それから通路を回って降りてきた。
「艦長が塗ってはいけない決まりはない」
「うちには、そんなことを始める艦長がいない。いれば部下が驚く」
「うちの者も、初めは驚いていた」
氏家が言うと、隣の水兵が笑いそうになり、刷毛を見つめた。
マルローは艦腹へ目を移した。
「しかし、よく働く艦だ。乗員も忙しいだろう」
「だから、塗る場所ぐらいは受け持てる」
「それが、この前の慎重な艦長の休暇か」
氏家は刷毛を缶の縁に置いた。
「座って待っているより、手を動かしている方がいい」
「それは分かる」
マルローは少し離れて、作業中の乗員が通れる場所に立った。
「機関はどうだ」
「点検と調整が済めば、戻せる。今のところ、長くはかからないと言っている」
「このところ八面六臂だったからな。たまには我々に任せて休んでくれ」
「君たちも忙しいのに、すまんな」
「気にするな。昨日、うちの甲板の者に、君らの艇の扱いを見せてもらった。なかなか役に立つと言っていた」
氏家は木下の方を見た。兵曹長は離れた足場で水兵に指示をしている。
「それはよかった」
「こちらのやり方も話したらしい。あれは違う、これも違うと、双方なかなか譲らなかったそうだ」
「どちらが勝った」
「最後は、海へ下ろしてから考えよう、となったとか」
マルローは笑った。
氏家も笑った。国の違いより前に、自分の艦のやり方を譲りたくない者たちだったのだろう。
「君はまた出るのか」
「ああ。アレキサンドリアの方だ。戻ったら、君の艦も直っているとありがたい」
彼は艦腹の新しい塗装を見た。
「修理が済んだら頑張ってくれ。その時は、難しいことを言わずに、うちの国の輸送船もよろしくな」
「できることはする」
「また慎重だ」
「できない約束をするよりいい」
マルローは頷いた。
「それなら、戻ってから一杯、というのはどうだ」
「それは約束しよう」
「よし。艦長、作業を続けてくれ」
彼は冗談めかして敬礼し、通路へ戻った。
氏家も刷毛を取り直した。缶の縁で余分な塗料を落とし、鋼板に薄く伸ばした。
マルローの足音は、ほかの作業音に混じって聞こえなくなった。
*
艦長室の扉が叩かれたのと、開いたのは、ほとんど同時だった。
「艦長、大変です。フランスの輸送船団が」
佐野が入ってきた。
氏家は顔を上げた。返事も待たずに入ってきたことを咎めようとして、やめた。
佐野の顔に、それどころではないものがあった。
「これです」
差し出された電報用紙を取った。
フランス語の短い文が並んでいる。氏家は最初の行へ目を落とした。救援要請。雷撃。護衛艦からの戦況報告。
「マルローは」
「分かりません。ただ、電文によれば」
「分かっている。フランス語も少しぐらいなら読める」
言ってから、氏家は佐野の顔を見た。
彼は口を閉じて待っていた。
氏家はもう一度電文を読んだ。船の名と、位置と、被害を追う。最初に目を通したはずの行を読み直した。
アレキサンドリアの目前で、フランスの船団が襲われていた。
船団壊滅を伝える電文もあった。ただ、受信した順序と、現場で発した時刻は同じではない。一通のあとに続いた知らせが、その一通より前の状況ということもある。
これだけでは、どの艦がどこで沈み、誰が生きているかは分からなかった。
「ほかの続報は」
「今のところ、ありません。通信員に、入り次第こちらへ回すよう伝えました」
「そうか」
氏家は紙を卓へ置きかけ、また持ち直した。
「司令部へ行くぞ」
立ち上がると、床は揺れなかった。
そのことが、腹立たしいほどはっきり分かった。
ドックの外へ出る途中、機関長と会った。
彼は氏家の足を止めないよう、横へ寄った。
「艦長、点検について報告が」
「帰ってから聞く」
「分かりました」
機関長が下がりかけた時、氏家は立ち止まった。
「何か、出港を遅らせるものがあるか」
「今のところはありません。ただ、組み戻したあと、試して確かめる必要があります」
「それは、いつ終わる」
機関長は一度考えてから答えた。
氏家には、その短い間が長く感じられた。
「予定どおり進めます。確認を省くことはできません」
急げと言いそうになった。
機関長の袖が油で汚れていた。足元も同じだった。ここで艦を動かせるようにしている男に向かって、艦を動かせないことを責めてどうする。
「分かった。続けてくれ」
「はい」
「司令部へ行く。何か変われば、佐野に知らせてくれ」
氏家は再び歩き始めた。佐野がすぐ後ろについてきた。
ドックの中では、まだ刷毛が動いていた。
昨日、自分が塗ったところも、その中にあった。
司令部では、通信の報告を待つ者が卓を囲んでいた。
壁に海図が広げられ、別の卓には電報用紙が積まれている。普段も忙しい場所だったが、今日は声が低かった。
氏家は佐藤少将を認め、敬礼した。
「閣下、フランスの船団は」
「全滅らしい。護衛の駆逐艦も、数隻やられたという」
「マルロー艦については」
「まだ確かめられていない」
佐藤は卓上の紙を示した。
「いまあるのは、現場からの電報だけだ」
氏家は一通ずつ目を通した。艦名の綴りを確かめ、発信時刻を見た。
沈んだという報告があった。雷撃を受けたという報告もある。それらを全部足せば、同じ船を二度数えてしまうかもしれない。
参謀が海図に印を置いた。
アレキサンドリアまで、あと僅かのところだった。
「ここまで来て」
佐野が小さく言った。
港が近いから安全になるわけではない。そのことは、氏家も分かっていた。それでも、二十マイルという距離を見てしまうと、あと少しだったと考えずにはいられなかった。
通信員が新しい紙を持ってきた。
氏家が顔を上げる。紙はまず佐藤に渡され、参謀へ回った。
まだ、マルローの消息ではなかった。
氏家は椅子を勧められたが、しばらく立っていた。
海であれば、針路を変えられる。速力を上げ、見張りを増やし、聞こえた音へ向かうことができる。ここでは、誰かが書いた文字を待っているだけだった。
自分の艦が海にいれば、何かできたのではないか。
そう思うたび、完全ではない機関のことが頭に浮かんだ。
機関長は確認を省けないと言った。自分も、それでよいと言った。
氏家はようやく椅子へ座った。
佐野は艦へ一度戻り、続報を受け取る態勢を確かめてきた。戻ってきた時、作業は予定どおり進んでいると報告した。
「そうか」
氏家はそれだけ答えた。
別の紙が届いた。
読み終えてから、海図を見た。指で距離を測りかけ、やめた。
今から「棕櫚」が出られたとしても、もう間に合わない。
それを認めると、待っている時間だけが残った。
生き残った護衛艦からの詳しい報告が届いたのは、その日の夕刻だった。
氏家は朝からいた同じ卓の前で、それを聞いた。
船団は、アレキサンドリアの手前、約二十マイルで雷撃を受けた。
魚雷は一つの方向から来たのではなかった。回避した先にも雷跡があり、別の船へ避けさせようとしている間に、また撃たれた。
参謀が海図の上へ指を置いた。
「複数の敵潜がいたものと考えられる」
氏家はその指を見た。
「棕櫚」が初めて追った敵は、一隻だった。それでも、撃ち返されたあと、機関を止められて見失った。そういう艦が幾つも、船団の来る場所で待っていたのだ。
「輸送計画を知っていたのでしょうか」
氏家が尋ねると、参謀は紙へ目を戻した。
「その疑いはある。ただし、今の段階で断定はできん」
誰が、どこから知らせたのか。
それを訊いても、今、答えられる者はいなかった。
報告が続いた。
マルローの艦は、輸送船へ向かう魚雷の前に、自艦を入れたという。
氏家は顔を上げた。
参謀が、次の行を読むまでの間があった。
「艦橋直下に命中。艦橋にいた艦長以下、即死したと報告されている」
部屋の音が遠くなった。
氏家は参謀の口が動くのを見ていた。続きの説明があったはずだが、言葉は頭に残らなかった。
マルローが死んだ。
先ほどの一行を読み違えたのかもしれないと思い、紙を見せてもらった。
綴りは、確かに彼の名だった。
魚雷。艦橋直下。艦長。
知っている単語ばかりだった。
氏家は読み終え、紙を返した。
「……承知しました」
佐野が隣に立っていた。何か言おうとしているのが分かったが、氏家はそちらを見なかった。
海図の端を押さえた重しへ目を落とした。
指先を置けば冷たそうな、金属の重しだった。
それを見ている間に、次の報告が読み上げられた。




