初戦果(1)
出港から十一時間が過ぎていた。
艦長室にいても、氏家の脚には艦橋の振動が残っていた。腰を下ろすと身体が休もうとするのに、耳だけが廊下の足音を待っている。
机の上には、航海長から渡された船団の位置があった。アレキサンドリアから来た兵員輸送船は、マルセイユへ向かっている。「棕櫚」はその外側を走り、通信と見張りで船団との関係を確かめながら、敵潜の出そうな海を探っていた。
何も出ない時間は長かった。
廊下で足音が止まり、戸が鳴った。
「艦長、輸送船団指揮官から入電です」
入ってきた通信士は、用紙を差し出しながら内容を告げた。
「兵員輸送船ハリアー、機関の不具合により離脱。兵員は他船に移乗」
氏家は紙を受け取った。
兵員を移したのなら、船団は航海を続ける。残された船には、機関を直す者と、その船を動かすための乗員が残っているはずだった。
「今の位置は」
通信士が用紙の下を示した。
氏家は椅子を引く間も惜しんで立った。脚に、座っていた時間の重さが一瞬だけあった。
廊下を抜け、梯子を上がる。
艦橋では佐野が卓上の海図を押さえていた。氏家が入ると、そばにいた者が身体を引いた。誰もが既に電報を知っている顔だった。
「ハリアーは船団の後ろに残っています。兵員の移乗を終えて、船団は先へ進んだそうです」
「護衛は」
「残っている艦の報告はありません。照会しています」
氏家は海図を見た。
輸送船と護衛艦を、すべての場所に置くことはできない。兵員を積んだ船団を守るにも艦が要る。故障した一隻へ何隻残すかを考えている間に、船団との間隔は開いていく。
今、この付近で自由に動ける艦は「棕櫚」だった。
「本艦これより、ハリアー護衛に向かう」
佐野が顔を上げた。
「航海長、針路は」
「ふた、まる、はち」
「針路、二〇八。最大戦速」
操舵員が復唱した。機関への命令が送られる。
艦首が向きを変え始めた。
「司令へ、本艦の行動を報告。ハリアーにも知らせろ」
「はい」
「砲術長、砲戦用意」
佐野が氏家を見た。
「浮上して来ますか」
「動けない船なら、敵は魚雷を惜しむかもしれん」
魚雷を撃てば、それだけ手持ちが減る。次に出会う輸送船へ使う分も、護衛艦から逃れるための分も要った。故障した船が孤立していると見れば、浮上して砲を使う判断はあり得た。
もっとも、必ずそうなるわけではない。
「水雷長にも知らせろ。砲だけで済むとは限らん」
佐野は頷き、続けて命じた。
前部の砲から準備の報告が届く。後部からも声が来た。
艦橋の床の震えが強くなった。進む先の海はまだ何も見せていなかった。
*
機関長は、回転を上げながら修理した箇所を見ていた。
入渠中、止まった機械の前で触れた部品が、今は熱を帯びて動いている。試験は済ませた。異状なしと報告もした。それでも、静かなドックで確かめたものと、急な増速の中で受ける振動は同じではなかった。
「そのまま見ていろ」
持ち場の兵に言うと、相手は頷いた。指示された箇所から目を離さず、そばの計器を確かめる。
上からは、ハリアーという輸送船が故障したとだけ知らされていた。
直せなければ、海の上で止まる。
そのことに、機関室の者は詳しい説明を要しなかった。船は、砲がなくても浮いていられる。機関が止まれば、潮と風に動かされながら、誰かの助けが来るのを待つことになる。
「圧力、保っています」
「左右、回転よし」
報告を聞き、機関長は艦橋へ返させた。
艦橋へ、ハリアーからの電報が届いた。
「我、敵艦の攻撃を受く」
氏家は復唱を聞く前に双眼鏡を上げた。
「敵の数、分かるか」
「記載ありません」
「照会。射撃を受けているのか、雷撃なのかも確かめろ」
通信員が動いた。
「右舷二時方向、煙!」
見張り員が指した海面を、氏家は双眼鏡で探った。
低い煙があった。ひと筋の黒煙ではない。風に流されながら、途切れ途切れに薄い塊が重なっている。
その先に、大きな船影が見えた。
「ハリアーと思われます」
佐野の声がした。
船影の近くに水柱が立った。少し遅れて、海上の小さなものが光った。
輸送船が撃っているのではなかった。
「敵潜、浮上しています!」
氏家は双眼鏡の中で、低い船体と、その中央に盛り上がった艦橋を捉えた。前方の砲の辺りが再び光る。砲煙が風に押され、海面を這った。
ハリアーの甲板を、小さな人影が動いていた。
「距離五千!」
「主砲、砲撃戦用意」
砲術長の命令が伝わった。
氏家はハリアーと潜水艦を見比べた。敵潜を狙った弾がそのまま輸送船に向かう位置なら、接近する向きを変えなければならない。
「砲術長、輸送船を巻き添えにせず撃てるか」
「撃てます。本艦は敵潜の側面に位置しています。ハリアーは射線から外れます」
氏家も確かめた。
「よし。潜られる前に叩く」
船首が波を切った。飛沫が、艦橋の縁で細かく散った。
砲術長は測距の報告を聞き、照準を合わせる者へ指示を送っていた。氏家から発砲をせかす声はかけなかった。ここで艦長が別の号令を重ねれば、砲の側がどちらに従うかを考える一瞬ができる。
「敵潜、砲撃をやめました!」
砲の周りにいた人影が移動していた。
こちらを見つけた。
敵潜の甲板で、二人が続けて艦橋へ向かった。一人は走り、もう一人は一度砲の方を振り返ったように見えた。次の波が船体を隠し、姿は分からなくなった。
「距離四千!」
「撃ち方用意」
「撃ち方用意よし!」
氏家の手に、双眼鏡の縁が食い込んだ。
敵も急いでいる。砲の周りに人はもういない。艦橋のところに最後の影が見え、それも消えた。
「急速潜航に入ります!」
船体が海面へ沈み始めた。
狙える面積は、一秒ごとに小さくなる。
砲術長は敵影を追い、測距の声を待った。船は揺れ、標的の見えている部分も変わる。氏家は次の号令を待った。
氏家は、潜水艦の艦橋の下へ海が上がってくるのを見ていた。
「距離三千!」
「てーっ!」
砲術長の号令が響いた。
*
閃光のあと、砲声が氏家の胸を叩いた。
甲板を踏んでいた脚にも、別の衝撃が来た。「棕櫚」の砲が撃ったものだと分かっていても、身体はその音を受けるたびに硬くなった。
二門から放たれた弾を、氏家は見て追えるわけではなかった。
低い敵影の近くに、水が上がる。
もう一方では、白い飛沫と黒いものが同時に跳ねた。
「命中!」
艦橋で声が上がった。
双眼鏡の中で、敵潜の艦橋上部が崩れていた。細長いものが傾き、海へ落ちた。上へ突き出していた形がなくなっている。
「潜望鏡をやった」
氏家の声に、佐野が同じ所を見た。
だが、敵は沈まずに潜ろうとしていた。艦橋の上を吹き飛ばしても、その下の船体が破れていなければ潜航はできる。浮上していた場所には、まだ低い胴が残っていた。
「主砲、次発。副砲、撃ち方用意!」
砲術長が続けた。
「各個に、てーっ!」
砲声が重なった。
敵潜の周りへ幾つも水柱が立ち、破片が散った。黒い船体は、その水の間からさらに低くなった。
氏家は、先ほど甲板を走っていた男を思い出した。今はあの船の中にいる。
間に合わず取り残された者は見えなかった。
「敵潜、潜航しました!」
海面に敵の形がなくなった。
「撃ち方やめ。砲戦警戒を続けろ」
砲術長の声が返った。
残った煙は、撃った時より薄く、遠く感じられた。砲声がやんだために、「棕櫚」の機関と風の音が急に大きくなった。
「水雷長、爆雷戦用意」
「爆雷戦用意よし」
待っていた声が届いた。
「聴音員、感は」
「航海長、最後の位置を押さえておけ」
「記録しています」
佐野は既に時刻を確かめていた。氏家が聞く前に、次の針路を考えるための線が海図に引かれていた。
「速力を落とす。聴音を確かめる」
機関への通報が送られた。
潜望鏡を失ったなら、敵は海面を覗いて「棕櫚」の位置を測れない。しかし、耳まで失ったわけではない。この艦が近づく音は聞こえるだろう。魚雷も残っているかもしれない。
潜望鏡を使えない相手なら沈められる。
そう思うところを、氏家は海図へ目を戻した。敵は見えなくなった。自分たちにも、その位置を知らせる目はなくなっている。
使えるのは、消える直前に見た姿と、これから届く音だった。
椛島は砲撃が始まった時から、聞こえているものを区別しようとしていた。
艦の砲声は、水の中にも来る。自艦の増速の音がその下に続き、近づいた輸送船の響きも重なっていた。直前まで潜水艦は浮上していた。どこにいるかを知っているのに、その音だけを取り出すことは難しかった。
砲撃がやんだ。
やがて自艦の回転が落ちる。
椛島は肩の力を抜いた。力んでも聞こえやすくはならない。手元の方向を確かめながら、頭の中で海面の配置を組み立てた。
低い響きがある。
それより近くで、短い刻みが続いていた。
「敵潜らしい音、あり。最終位置の付近です」
隣の兵が艦橋へ伝えた。
椛島はその音を追った。一度遠くなり、また戻ってきたように聞こえる。敵が曲がったのか、「棕櫚」の向きが変わったためか。
今の報告で艦は動く。その動きを、自分の耳で確かめなければならなかった。
刻みが遅くなった。
止まる。
椛島はすぐには口を開かなかった。遠ざかった時にも、弱くなって聞こえなくなることはある。もう一度同じ方向へ耳を向けた。
別の音がしていた。
細い、途切れた擦れるような響きだった。回転の音とは違う。
「敵潜、機関停止と思われます。別の雑音が続いています」
「どんな音だ」
問いが戻ってきた。
「空気が漏れているような音です。まだ聞こえます」
損傷しているのだろう。だが、どの部分が、どれほど壊れたかを耳だけで見ることはできなかった。
漏れている音を追うほかはない。
*
「機関を止めたか」
氏家は前方の海を見た。
空気の漏れる音が続いているという。
海に入った砲弾が、船体のどこかを傷つけたのかもしれない。
「音の方位を続けて送れ」
氏家は佐野へ向いた。
「最後に見た方向と、今の音を合わせる。大きく回り込まず、そのまま詰める」
「はい。少し右へ寄せれば通れます」
佐野の指が海図に置かれた。
氏家は針路を命じた。操舵員が復唱し、艦首が僅かに右へ動いた。
聴音の報告がまた届く。
その方位は、艦が近づくにつれて変わっていた。氏家は音の強さだけで距離を決めようとせず、佐野が記した線の動きを見た。砲撃した時からどれだけ走ったか、敵がその間にどこへ動けたかを合わせて考える。
「水雷長、深度五十に用意」
潜った直後の相手だった。深くまで逃げている可能性もある。今見ていた潜航の様子と、その後の短い時間から氏家は決めた。
「深度五十、用意します」
水雷長の声が戻った。
艦尾では設定が読み上げられ、別の者が確認した。
下士官が準備を終えた爆雷から手を引くと、水雷長は投下の位置へ向き直った。走る艦の後ろへ落とす。目で狙い直すことはできない。艦橋が「ここだ」と決めたところで、遅れずに落とさなければならなかった。
海水に濡れた甲板で、一人が踏み直した。
そばの者が身体を寄せ、作業の邪魔にならぬ場所を空けた。
入渠中には同じ甲板で塗料の缶を避けて歩いていた。今は爆雷を扱っている。それぞれの持ち場を知っている者の動きは、狭い場所でもぶつからなくなっていた。
「用意よし」
報告が艦橋へ送られた。
椛島の追っている音が、急に近くなった。
大きいというより、別の響きの陰から出てきたようだった。
自艦の向きが変わっている。今までそばにあった方位が後ろへ移る。
「音、艦首の下へ入ります!」
隣の兵がそのまま送った。
椛島は器具を押さえ、続きを聞いた。
細い漏れの音がまだある。機関は戻らない。
今、近い。
「真下です!」
声が艦橋へ来た。
氏家は佐野を見た。海図で推し量った位置と、椛島の報告が重なっていた。
「投下!」
命令が艦尾へ届く。
「レッコー!」
水雷長の号令で、爆雷が海へ落ちた。
鋼の容器が艦尾の向こうへ消え、水だけが跳ねた。次も同じ所に落ちたように見えて、艦が走った分だけ先へ送られていた。
「取舵一杯。増速、急速回避!」
氏家が命じた。
操舵員の声が返り、艦が傾き始めた。
機関室へ増速の要求が来る。砲撃のために上げた回転を落とし、聴音のための速力を保ち、今また上げる。上で何が見えたかを待っている暇はなかった。
機関長は計器を見て、回転を追わせた。
「棕櫚」の艦尾に、白い水が強く湧いた。
氏家は床を踏み、手すりを握った。艦橋の片側が持ち上がる。信号員も足を開き、転がりかけたものを止めた。
烹炊所の皿は、割れずに済むだろうか。
突然、そんなことを考えていた。
人を沈めようとしている時に、皿か。
氏家は、自分の頭の中に入ってきたものに戸惑った。食事を取る時の白い皿が、今の艦の傾きと一緒に浮かんだのだった。
「そのまま回頭」
自分の声は、いつも通り出た。
海へ落とした爆雷は、まだ炸裂していなかった。




