友が散った海(2)
艦へ戻ると、機関長が待っていた。
氏家は今度、報告を最後まで聞いた。
点検を終え、必要な調整をし、組み戻しが進んでいる。出渠したあとに機関を試す。予定に変更がなければ、再び海へ出られる。
「分かった。ご苦労だった」
機関長は氏家の顔を見たが、何も尋ねなかった。
艦内には、フランスの船団が襲われたことが既に伝わっていた。誰が帰ってこないのかも、やがて伝わるだろう。
氏家は艦長室へ入った。
卓上に、塗料の小さな跡があった。作業のあとに袖か手を触れさせたのだろう。爪で擦ると、乾いた端が少し剝がれた。
戻ってから一杯。
氏家は椅子に座り、手を止めた。
あの時は、簡単に約束できることだと思っていた。
フランスの船団を護衛する約束よりも、司令部へ頼みに行くことよりも、ずっと簡単なことだった。
次に帰ってきたら、あの卓で飲めばよかったのだ。
氏家は顔を上げた。
窓の外には足場があり、その向こうにドックの壁があった。
なぜ、艦を入れた。
問いが頭から離れなかった。
マルローは、次の魚雷を探すと言っていた。停まる時を誤れば艦も兵も危険にさらすと、あれほどはっきり言った男だった。
その男が、魚雷の前へ自分の艦を入れた。
避けられなかったのか。ほかに守る方法がなかったのか。既にどこかをやられていたのか。
報告に、その全ては書かれていなかった。
氏家は彼が命令を出した瞬間を知らない。その声を聞いてもいない。
あの最後の判断を、こちらの言葉で整えることはできなかった。
外で工具の音がした。
「棕櫚」は直っていく。
直ったら出られる。そこで敵に会えば、爆雷も砲も使える。
氏家は白い紙を引き寄せた。
筆記具を持ち、潜水艦を誘い出すための案を書き始めた。
二日後、葬儀に参列した。
軍艦旗が、風を受けて僅かに動いていた。
氏家は佐野と並び、帽子を取って立った。フランスの士官の中に、将校クラブで見覚えのある顔があった。ワインの銘柄をめぐって、マルローと言い合っていた男だった。
今日は何も言わず、前を見ている。
式の言葉が続いた。氏家は聞こうとしたが、頭に浮かぶのは別の声だった。
艦長自らペンキ塗りか。
君の国は慎重だな。
語尾の癖まで思い出せるのに、式が終わっても彼は話しかけてこない。
氏家は帽子を握る手の力を抜いた。
マルローの名が読み上げられた。
もう、この港へ戻ってこない。
将校クラブで椅子を引くことも、うちの船団も頼むと言うこともない。
仇は取る。
氏家は顔を上げたまま、そう誓った。
誰に言い聞かせているのか、自分でも分からなかった。
*
「それは許可できない」
佐藤少将の返事は早かった。
氏家は持参した案を卓上に置いていた。囮を使って敵潜水艦を誘い出す。「棕櫚」自身が餌になり、寄ってきた相手を撃破するというものだった。
「フランス艦隊の仇を取りたい気持ちは、司令部の誰もが同じだ。しかし、運用できる艦に余裕があるわけではない。何より、危険すぎる」
「本艦には、聴音に優れた兵曹がおります。爆雷の扱いも、乗員は十分に」
「貴官の艦の腕前を疑っているのではない」
佐藤は案の紙を押さえた。
「敵が何隻来る」
「それは、誘い出してみなければ」
「どこから来る」
氏家は海図を指した。
「想定した海域には、逃走のための余地も取れます」
「貴官が取った余地へ、別の敵が待っていたらどうする」
氏家は口を閉じた。
それは、フランスの船団に起きたことだった。
「敵の来る場所へ行き、敵に見つけさせ、こちらへ撃たせる。そこまで相手に任せて、貴官の艦の能力で取り返すつもりか」
「速力と回避で、攻撃の機会を」
「その速力を得る前に撃たれたら、機関室の者は何をすればよい」
佐藤の声は上がらなかった。
氏家には、それがかえって重かった。
艦の速力を紙に書いた。回頭に必要な余地も考えた。しかし、魚雷が来る方向が一つではなかった時、海図の線どおりに走れるとは限らない。
機関長の油に汚れた袖が、頭に浮かんだ。
「ですが、閣下」
それでも氏家は、紙を引き取れなかった。
「我々は欧州の国々から、まだ格下に見られております。ここで、たとえ戦死しようとも、我々の犠牲が帝国の地位を上げると確信しております」
「少佐ごときが、国家の運営に口を出すな」
そばにいた参謀の大佐が叱った。
氏家は姿勢を正した。
大佐は、氏家の案と顔を交互に見た。
「貴官に預けたのは駆逐艦と、その乗員だ。国家の地位をその命で量る任は与えていない」
氏家は頬が熱くなるのを感じた。
「出過ぎたことを申しました」
佐藤が氏家を見た。
「君の気持ちは十分に理解している。しかし、勝率の低い賭けに部下を投入することはできない」
氏家は返事をする前に、自分が言った「我々」という言葉を考えた。
死ぬ覚悟を述べたつもりだった。
その中に、佐野も、椛島も、機関長も、塗装を教えてくれた水兵も入れていた。
彼らに、国家の地位のために死ぬかとは訊いていない。
「承知いたしました」
氏家はようやく、案を引き取った。
書き込んだ線が、自分でも奇妙なほど細く見えた。
「明日から、君の艦には船団護衛の任を外れてもらう」
佐藤が続けた。
氏家は顔を上げた。
「閣下、それは」
出過ぎた具申のために、艦まで任務から外されるのか。
修理が済み、ようやく海へ戻れるという時に。
「早合点するな」
佐藤は海図へ視線を移した。
「単艦で遊撃してもらう。地中海全域を行動し、貴官の判断で敵潜水艦を撃破せよ」
氏家は言葉の意味を取り直した。
「単艦で、でありますか」
「船団の列を離れるなという命令では、貴官の艦を十分に使えないと考えた」
参謀が別の紙を差し出した。船団の予定と、敵潜水艦の活動が報告された海域だった。
「閣下は、神出鬼没の活躍を期待しておられる」
先ほど叱った大佐が言った。
氏家は紙を受け取り、目を通した。
佐藤が続けた。
「敵のために的を作るのではない。敵が襲おうとする船の外で、先に見つける。見つからぬ時に、無理に戦闘を起こす必要はない」
「はい」
「自艦の修理も補給も、貴官が見通しておけ。単艦で動くとは、好きなだけ遠くへ行けということではない」
氏家は頷いた。
自由になる分だけ、艦長の判断に委ねられるものが増える。その中には、追わないことも、引き返すことも入っていた。
「ありがとうございます。棕櫚は、準備が整い次第、対潜戦闘に服します」
敬礼してから、氏家は海図をもう一度見た。
マルローの艦が沈んだ位置には、印が残っていた。
その印を見つめすぎぬよう、視線を移した。
司令部を出ると、佐野が待っていた。
氏家の手にある紙を見て、彼は一歩近づいた。
「いかがでした」
「案は却下された」
「そうですか」
「代わりに、船団護衛から外れる。単艦で敵潜を狩ることになった」
佐野が顔を上げた。
「遊撃、ですか」
「そうだ。明日からだ」
佐野の表情に、抑えきれないものが浮かんだ。
船団について走る間、彼も敵がどこから来るかを待ち続けていた。これからは、こちらから探しに行ける。
氏家にも同じ気持ちがあった。
敵に会えるかもしれない。マルローを沈めた潜水艦が、そこにいるかもしれない。
それを、そのまま部下へ向けてよいとは思えなかった。
「航海長、出港できる状態を確かめるぞ」
「はい」
「機関長の試験の結果を聞く。次に、水雷長から爆雷の補充、ボースンから艇と甲板の整備だ」
佐野は頷いた。
氏家は渡された紙を畳んだ。
「今日の船団の予定も、調べておいてくれ。航路を考える」
佐野は足早に先へ進んだ。氏家も、そのあとを追った。
やることがあると、足を止めずに済んだ。
*
出渠した「棕櫚」は、再び水に浮いていた。
機関を試した結果に問題はなく、次の航海に必要なものも積み込まれた。水雷長が補充した爆雷を確認し、機関長が燃料の量と航海の見通しを報告した。
氏家は一つずつ聞き、航海長と照合した。
ドックで見た鋼の量が、頭から離れなかった。燃料があり、人が仕事をし、蒸気を送り、回転を伝えて、初めてこの艦は動く。
それを案の紙では、一語の速力で済ませていた。
出港の朝、総員を前部甲板へ集めた。
木下が整列を確かめる。士官と下士官兵が、それぞれの位置に立っていた。
氏家が出ると、号令がかかった。
「頭、中!」
顔がこちらを向いた。
氏家は挙手の敬礼で答えた。
「なおれ。休め」
海から来る風に、新しい塗料の臭いが僅かに混じった。
「本日より、本艦は隊司令の直接の指揮を離れ、単艦で敵潜水艦撃破に当たる」
前列の一人が顎を引いた。後ろの者も氏家を見ている。
「厳しい任務である。輸送船団の航海の安全は、諸君の働きにかかっている。見張り、聴音、通信の報告をもとに、本艦は敵を探す。機関と操舵、砲と爆雷の働きが、その攻撃を支える」
氏家はそこで言葉を切った。
マルローの名を出そうと思えば出せた。フランスの船団のことを言い、敵を取れと命じることもできた。
前に立つ男たちの顔を見た。
それは今日、この艦に与えられた任務の言葉ではなかった。
「各員の努力を期待する。分からないことは、分からないままにせず報告せよ。本艦は、その報告に従って動く」
訓示を終えると、木下が姿勢を整えさせた。
氏家は礼を受けた。
「解散。出港用意、かかれ」
列がほどけた。
男たちはそれぞれの持ち場へ向かった。これから何をするか分かっている者の歩き方だった。
佐野が氏家のそばへ来た。
「本日の船団は、アレキサンドリアからマルセイユへ向かう兵員輸送です」
「兵員輸送か。出てくると思うか」
「おそらく」
氏家は海を見た。
来てほしいと思っている自分がいた。
船団に魚雷を撃たれる前に、こちらが見つけて沈める。それならば、今日の命令にも従える。
「本艦は、護衛艦隊の外側に位置する」
佐野に告げ、艦橋へ上がった。
信号員が命令を受け、港へ出港を知らせる。機関への通報が送られ、錨が上がり始めた。
「進路、一三五。機関、原速」
復唱が来た。
「棕櫚」の船尾に、白い水が湧く。
ドックでは動かなかった艦橋の床に、馴染みの振動が戻った。氏家はそれを脚で受けながら、港の外へ目を向けた。
出ていく艦を、岸の者が見上げていた。
昨日までこの港には、戻れば一杯飲もうと言う友人がいた。
今日、氏家が戻ってきても、その男はいない。
「通信員、見張り員、聴音員。諸君の報告が頼りだ」
氏家は艦橋に届く声を聞きながら言った。
「敵を見つけてくれ」
佐野が短く答えた。
艦首が、港口の向こうの海へ向いた。




