船乗りとして(2)
帰投した「棕櫚」の甲板で、毛布にくるまった船員が立ち上がろうとしていた。
脚に力が入らず、そばの水兵が肘を支える。男はその手を見てから、顔を上げた。
「メルシー」
水兵は言葉の意味が分かったらしく、少し頭を下げた。そのまま、艇へ降りるところまで付き添った。
氏家は収容者の記録を受け取った。衛生員は、陸で手当てを続けなければならない者を先に送り出していた。
船員が一人、こちらを向いて何か言った。
氏家にはその全ては分からなかったが、帽子を取り、礼を返した。
塩と油で汚れた顔に、男が僅かに笑みを見せた。
艇員と、艦に残っていた者の報告を全部聞き終わるまで、氏家は上陸しなかった。
その夜、将校クラブでウィリアムに呼び止められた。
前のように、手は差し出されなかった。
「氏家少佐。あれは蛮勇だぞ」
大佐の口調は静かだった。氏家は姿勢を正した。
「我が軍で被雷した船の救助が禁じられていることは、知っているだろう」
「承知しております」
「君の国では」
「禁止の命令は出ておりません」
ウィリアムは黙って氏家を見た。それから、近くの卓を示した。
氏家が椅子の前へ進むと、大佐も腰を下ろした。
「船を止める。その船を潜水艦が撃つ。次に救助へ来た船も撃たれる。助けようとした者の数が、そのまま新しい遭難者の数になることがある」
氏家は頷いた。
その禁令ができるまでに、英国海軍は多くの者を失っていた。船から海へ落ちた者だけではない。彼らを拾おうとして、そのそばへ停まった船の乗員もいた。
「護衛艦を失えば、ほかの船はどうなる」
「危険が増します」
「その船には、まだ海へ落ちていない人間がいる」
大佐は卓上に手を置いた。
「貴官が誰を見て決めたのか、私は聞いておきたい」
氏家は少し考えた。
「海にいた者を見ました。それから、外側を動いているフランスの護衛艦を」
「救助の間、敵を押さえてくれると考えたか」
「はい。艇を離したあと、本艦も動き続けました」
「しかし、艇が戻る時には、もう一度停まる」
「はい」
相手が撃たなかったのか、撃てなかったのか、別の海域へ移っていたのかは分からない。
「同じことをすれば、いつも助けられると思ってもらっては困る」
「承知しました」
「それで、禁止がないのなら、貴官はどうする」
氏家は大佐を見た。
「船乗りとして、助ける方法を考えます」
「当然の責務、というわけか」
「そう、我々は英国海軍から教えられました」
ウィリアムの口元が少し動いた。
「よく覚えているな」
「忘れられないことでしたので」
大佐は椅子の背へ身体を戻した。
「それを今の海でどう果たすかを、我々も考え続けている」
大佐が何を心配しているのかは、先ほどよりよく分かった。
「失礼します、大佐」
マルローが近づいてきた。
敬礼をしたあと、氏家に向き直った。
「まず、礼を言わせてもらう。君たちのおかげで、我が国の船員が帰ってきた」
「負傷した者は、陸へ送った。そちらに記録が渡るはずだ」
「聞いている」
マルローは頷いた。しかし、いつものように椅子を引かず、その場に立っていた。
ウィリアムが見上げた。
「どうした、少佐。不満がありそうだな」
「いえ、そういうわけでは」
「氏家が艇を下ろしたせいで、貴官らが臆病者だと言われたか」
マルローの頬が赤くなった。
氏家は彼の顔を見て、立ち上がりかけた。
「それは、悪かった。俺たちは――」
「君が言ったのではないことは、分かっている」
マルローは手で制した。
「海へ出なかった者ほど、よく見ているものだな。誰が艇を下ろし、誰が下ろさなかったか」
氏家は黙った。
マルローがようやく椅子へ手をかけた。
「我々は君たちほど早く艇を下ろせない。手順の問題もある。疲れた乗員もいる。止まる時を間違えれば、艦をさらすことになる」
椅子に座ると、彼は指を組んだ。
「それを知って、艦も兵も危険にさらせなかった」
氏家は卓の向こうを見た。
あの時、マルローの艦は動いていた。艇を下ろしたこちらを見てからも、外の海を探していた。海中に敵が残っているとすれば、最初に追わなければならない位置にいた。
「私は、君が後ろで敵潜を狩ってくれると信じていた」
マルローが顔を上げた。
「だから艇を出せた。君まで同じように艇を下ろしていたら、こちらも考え直していた」
「そうか」
「そちらの見張りと聴音に、うちの艇員の背中を預けた」
言ってから、氏家は自分の言葉を確かめた。実際、そうだった。
マルローは指を解いた。
「それは、うちの乗員にも言ってやってくれ」
「必要なら言う。だが、まずは君から伝えてほしい」
「私からか」
「君が見ていた海のことは、君の方がよく知っている」
マルローは視線を落とし、少しの間、卓の木目を見ていた。
やがて、氏家へ手を差し出した。
「分かった」
氏家はその手を握った。強い握力だった。
「次に君が艇を下ろす時には、こちらが外を見よう」
氏家が言うと、マルローは小さく笑った。
「その前に、下ろす手順をうちの者にも見せてくれ」
「水雷長と甲板長に話しておく」
「では、今日のところはワインを飲め。船員の話も、機械の話も、明日にできる」
ウィリアムが立ち上がった。
「その明日、寝不足で来るなよ」
マルローは真面目に頷いたが、大佐が離れると、氏家へ顔を向けた。
「何杯までなら寝不足にならないと思う」
「今夜は一杯にしておこう」
「日本海軍は慎重だな」
氏家は笑った。
次に海で彼の艦を見た時、今日までとは違う任せ方ができると思った。
*
マルローが同僚のところへ行ったあと、佐野が氏家のそばへ来た。
「艦長。悔しいですね」
日本語だった。
氏家はグラスを置いた。佐野も近くの卓へ聞かせるつもりではないらしく、声を低くしている。
「何がだ」
「まだ、我々が何かするたびに、国ごと比べられることです」
向こうの卓で、士官がこちらを見た。目が合うと、何も言わずに連れとの話へ戻った。
ここへ来てから、氏家も感じていたことだった。
歓迎して手を差し出す者もいれば、東洋から来た士官を珍しいもののように見る者もいる。兵学校で覚えた英語をこちらが言い直すと、それだけで笑う者もいた。
日本がロシアの艦隊を破った話をしても、自分の目の前にいる日本人を同じ軍人として見るとは限らない。
「俺たちも、ほかの国の艦を見る時、似たようなことを考えているかもしれん」
佐野は少し黙った。
「ですが」
「嫌なものは嫌だ。それでいい。ただ、今日はマルローが何をしていたか、聞けただろう」
「はい」
「俺たちの働きを見ている者もいる。海から上がってきた船員は、軍服の国籍を見てから索を掴んだわけじゃない」
佐野は頷いた。
氏家は、舷側で水兵の肘を借りていた男を思い出した。ひと言の礼を言い、やっと笑った。あの顔を、佐野も見ていたはずだった。
「棕櫚の皆に、今日の話を伝えてくれ」
「大佐の言葉もですか」
「それもだ。艇が早く下ろせたことだけを褒めるな。止まっている間、見張りを続けた者がいる」
「分かりました」
佐野はグラスを手に取った。
その時、背後から女性の声がした。
「帝国海軍駆逐艦、棕櫚の方々ですか」
二人は振り向いた。
金髪をまとめた女性が立っていた。給仕ではなかった。海軍の制服に、士官の階級章をつけている。
司令部に英国婦人海軍部隊の要員が来ていることは聞いていたが、氏家はまだ、こうして話しかけられたことがなかった。
「艦長の氏家林太郎少佐です。こちらは航海長の佐野大尉」
英語に戻って名乗ると、女性は二人に礼をした。
「メアリー・シンプソン中尉です」
氏家が椅子を引こうとすると、彼女は手で辞退した。
「お休みのところ、申し訳ありません。少しだけ、お伝えしたいことがありまして」
「どうぞ」
「今日の救出、お見事でした。……いえ、私がそのように申し上げるのも、失礼ですね」
言い直す時、彼女は僅かに困ったような顔になった。
氏家は首を振った。
「お心遣い、ありがとうございます」
「私どもの部隊の者の婚約者が、助けられた船員の中にいたのです」
氏家は佐野と顔を見合わせた。
海から上げた男たちは、名前と負傷の具合を確かめる相手だった。誰がどこで待っているのかまでは、知らなかった。
「その方の具合は」
「手当てを受けています。命に別状はないと聞きました」
メアリーは、そこで少し息をついた。
「彼女は、どなたに礼を言えばよいか分からず、私のところへ来ました。艦に伺おうとしたのですが、皆様もお疲れでしょうし」
「艇を出した者も、艦に残っていた者も、休んでいます」
「そうでしょうね」
彼女はすぐに頷いた。
その返事に、氏家は好感を持った。礼を言いたい者の都合だけで、兵を呼び出すよう求めはしなかった。
「彼女は今、近くにおります。お会いいただけますか」
「私たちでよければ」
氏家が答えると、メアリーの顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
彼女は立ち去ろうとしてから、もう一度こちらを向いた。
「艦名は、しゅろ、とお呼びするので合っていますか」
「はい」
「よかった。覚えてから参りましたので」
佐野が笑顔を見せた。
「間違いありません」
メアリーは二人に小さく会釈し、入口の方へ歩いていった。
氏家はその背を見送り、グラスを卓へ置いた。
海上で艇に入った人数が、今、陸で誰かを安心させていた。書類に記した名前の向こうに、まだ知らない人がいる。
佐野も立ち上がった。
「艦長、行きましょうか」
「ああ」
入口の近くで、メアリーが二人を待っていた。




