船乗りとして(1)
マルタの港口を抜けても、氏家はすぐには双眼鏡を下ろさなかった。
石造りの建物が高いところまで重なり、その下に軍艦のマストが並んでいる。岸壁には荷を吊るす索が動き、人と荷車が行き交っていた。煙突から出る煙が、海上で見た時よりも近く、濃く感じられた。
船団を送り届け、帰ってきた。
そう思えるのは、あらかじめ指定された泊地に「棕櫚」の錨を落としてからだった。
「錨、利いています」
報告を受けて、氏家はようやく双眼鏡を下ろした。首にかけていた紐のところが、汗で湿っている。
艦内から報告が上がってきた。航海中にはできなかった点検を行い、消耗したものを補い、次の出港に備える。艦が戻っても、岸では別の輸送船へ荷が積まれていた。その向こうでは曳船が一隻を引き出している。
港にも休みはなかった。
氏家は佐野に、上陸を許す者と艦に残す者の割り振りを確かめさせた。
「休める者から休ませろ。帰ってから全員で働いていては、次の航海まで同じになる」
「機関科は、点検が終われば交代できます」
「機関長に任せる。ただ、甲板の作業で人手が要るなら、先に言ってくれ」
佐野は頷き、書きかけの予定を持って艦橋を出た。
降りていく途中で、甲板長の木下兵曹長に呼び止められていた。木下が何かを説明し、佐野が書き込みを直している。氏家はその二人を見てから、岸壁へ目を移した。
顔を洗い、乾いた服に着替え、揺れない椅子に腰を下ろす。さっきまで命令を待っていた男たちにも、早くそうさせたかった。
将校クラブには、幾つもの国の言葉が流れていた。
誰もが自分の国の言葉で話しているわけではない。違う軍服が同じ卓を囲めば、英語になる。言い直し、聞き返し、時には指で形を作って説明する。海へ出れば短い信号で済むことが、ここでは笑いを交えて長くなることもあった。
氏家は佐野とともに帽子を預け、奥へ進んだ。
英国海軍のウィリアム大佐が、卓から立ち上がってきた。
「氏家少佐。先日の護衛について、船団指揮官から感謝を伝えてくれと言ってきている」
差し出された手を、氏家は握った。
「恐れ入ります。お借りしている艦は素晴らしいものです。しかし、敵潜を取り逃がしました。お恥ずかしい限りです」
「船団は届いた」
ウィリアムは握った手を離し、氏家を見た。
「積んでいたものも、乗っていた者もだ」
「はい」
「数週間であの艦を動かし、実戦で護衛を果たした。貴官だけでなく、乗組員にも我々の賛辞を伝えてくれたまえ」
氏家が敬礼すると、ウィリアムも答礼を返した。
「では、休日を楽しんでくれ」
大佐が卓へ戻っていくと、佐野が小声で言った。
「乗組員に伝えます」
「頼む」
その時、横からワインのグラスが差し出された。
「大佐の賛辞だけでは喉が渇くだろう」
フランス海軍のマルロー少佐だった。
少し癖のある髪を手で撫でつけ、グラスを持っている。軍服の襟元は整っていたが、目の下に疲れが見えた。
「ありがとう」
「いいなあ、君らは。休暇が多くて」
氏家がグラスを受け取るのを見て、マルローは椅子を引いた。
「我々は連日の出撃だ。毎日、これが最後のワインかもしれんと思って飲んでいる」
「その割には、よく味が分かるようだ」
「最後なら、まずいものを飲みたくはないさ」
佐野が笑った。氏家も腰を下ろした。
マルローはグラスを上げたが、すぐには飲まず、窓の外を見た。そこからは港の端が見える。煙の上がっている船があった。
「あの船も明日には出る。護衛が足りるかどうかより、荷を届けろという方が早い」
「うちの乗員にも、艦を休める暇は多くない」
「それは分かっている。君らの休みを取り上げたいわけじゃない」
マルローはワインを一口飲んだ。
「ただ、うちの船団も頼めればと思うだけだ」
「棕櫚」に割り当てられる船団は、英国のものだった。日本は日英同盟に基づいて艦隊を派遣している。ここでフランスの士官と同じ酒を飲んでも、艦長の判断で護衛の割り振りを変えられるわけではなかった。
「我々が英国の船団につけば、その分、英国の艦がほかへ回れる。そう思ってほしい」
「分かっているよ」
マルローは空いた椅子を足で少し寄せ、通りかかった給仕が通れるようにした。
「分かっていても、海へ出る日の朝には愚痴が出る。君は出ないのか」
「部下の前では、出さないようにしている」
「なるほど。では、ここで出せ。航海長には口止めをしておけばいい」
佐野はグラスを置いた。
「私がいないところでお願いしたいものです」
マルローが笑った。氏家は少しだけワインを飲んだ。
「ところで、敵は逃げる前に君へ撃ち返したそうだな」
マルローの声が変わった。
氏家は佐野を見た。佐野は目を逸らさなかった。
「艦長、敵の情報は共有した方がよいと思いまして」
「兵学校にいた時から、お前は人の話をよく覚えている」
「二期上の先輩のお話なら、なおさらです」
マルローは二人を見て、卓に指を置いた。
「誰から聞いても構わんだろう。これは愚痴とは違う」
氏家は頷き、爆雷のあとで来た二本の魚雷と、その後に消えた音について話した。相手が傷ついたかどうかは分からない、と付け加えた。
マルローは途中で遮らずに聞いた。
「地中海にギュンターが来たと聞いた。君の相手は、それかもしれん」
「ギュンター?」
「北海で大暴れした男だ。英国を干上がらせかけた、とまで言う者がいる」
「一人でか」
「そこは話が大きくなるものさ。ただ、船を沈めていることは確かだ」
氏家はグラスを置いた。
「ジブラルタルを抜けてきたのか。対潜網はどうした」
「スペインに聞いてくれ」
マルローが肩をすくめた。
海峡を塞ぎ、艦を並べ、それでも敵は来る。戦争に加わっていない国の海岸も、戦争をしている者の航路から消えるわけではなかった。
「同じ男だと決まったわけではない」
氏家が言うと、マルローは頷いた。
「名前を知っても、潜望鏡に名札がつくわけじゃない。次に会ったら、そのつもりで相手をするだけだ」
氏家はもう一度グラスを持った。
「君の艦では、被雷した船を見つけた時、どうする」
マルローは飲みかけたワインを止めた。
「まず、次の魚雷を探す」
「その先は」
「その先を決めるために、探すのさ」
氏家は彼の顔を見た。
「そうだな」
それ以上は訊かなかった。
*
「艦長、十二時方向、黒煙。輸送船が燃えています」
次の哨戒でその声を聞いた時、氏家は窓の向こうを見た。
水平線の上に、煙が太く立っていた。船が普通に焚く煙とは違う。風に流されながら幅を広げ、根元に炎が見え隠れしている。
双眼鏡を上げると、輸送船の船腹が傾いていた。
その外側に駆逐艦がいる。さらに向こうには、煙を引いて離れていく船の影があった。
「フランスの船団のようです」
佐野の声を聞きながら、氏家は燃える船の周囲を見た。
海面に点があった。浮遊物か、人か。
一つの点が、水を掻いた。
「全速前進。本艦は該船の救助に当たる。半舷救助、半舷対潜戦用意」
佐野が一瞬こちらを見て、すぐに復唱した。
艦内へ命令が送られた。信号員には、フランスの護衛艦へ救助に向かうことを知らせさせた。
被雷した船に近づくことが、何を意味するかは分かっていた。
敵はまだそこにいるかもしれない。船が沈むのを待ちながら、救助に来る次の船を狙っているかもしれない。艇を下ろすには艦の行き足を落とさなければならず、その間、「棕櫚」は避ける力を失う。
泳いでいる者は、こちらの判断を待てない。
「救命艇降下用意。艇員、配置につけ」
命じてから、氏家はもう一度フランスの駆逐艦を見た。
船団を離れたその艦は、燃える船の外を動いている。こちらへ寄ってくるのではなく、海面を探しながら進んでいた。
マルローの艦だった。
艦影と信号を佐野に確かめさせ、氏家は頷いた。
向こうは向こうの仕事をしている。
こちらは、その内側で人を拾う。
甲板長の木下兵曹長は、艇のそばで索の具合を確かめていた。
艇員が乗り込み、櫂と用具を整える。誰かが海面を見ようと顔を上げた。
「今はこっちを見ろ。下ろしてから、向こうを見ればいい」
木下が言うと、その水兵は索へ目を戻した。
まだ艦は走っている。艇を下ろす命令は、先から来る。木下には、停まれる時間が長くないことが分かっていた。
艇を海面へ下ろし、鉤を外し、艦から離す。その途中で一か所つかえれば、艇も艦もそこで待たされる。
「外したら知らせろ。右も左も、相手を見てからだ」
艇内の下士官が返事をした。
傾く船が近くなっていた。煙が流れ、時々、海面が隠れる。その切れ目に人の腕が見えた。
木下は手元の索を握り直した。
「前進半速」
佐野が距離を報告した。
「停止。後進一杯」
氏家の命令に、「棕櫚」の船尾で水が湧き上がった。
慣れた速力を落とす時でさえ、行き足は残る。今はそれを早く止めなければならない。輸送船まで千メートルを切っていたが、艇を下ろすために船体へ寄りつけるつもりはなかった。
傾いた船の甲板で、何かが滑り落ちた。
水しぶきが立つ。氏家には、その中に人がいたかどうか分からなかった。
「聴音員、敵潜、感は」
「感なし」
椛島の報告が来た。
敵がいないという意味ではない。音を立てずにいる相手は、聞こえない。氏家はそのことを、前の航海で覚えたばかりだった。
「艇、降下。総員、警戒を続けろ」
艦がほぼ停まったところで、救命艇が下りていった。
索が伸び、艇が海面に触れる。すぐには離れなかった。氏家は左舷の海面から艇へ、艇から右舷へ目を動かした。
櫂が揃って水へ入った。
「艇、離れました」
「前進微速」
船首が動き出す。
「半速。面舵、右へ九十度回頭」
佐野が新しい針路を確かめ、操舵員へ伝えた。
「棕櫚」は遭難船の周りを大きく回り始めた。艇だけを残して遠ざかるのではない。艦が動いて警戒しながら、艇を戻せる場所へ来なければならなかった。
氏家は水雷長に、艇のいる側とフランス艦の位置を知らせておくよう命じた。
魚雷が見つかれば、艇を避けて走り、敵を追う。命令を出してから考えるのでは遅い。
艇が最初の男へ近づいた時、その男は櫂を掴もうとした。
「待て、手を離せ!」
下士官が叫んだ。言葉が通じたかどうかは分からない。男は白い指で櫂に縋りついていた。
艇員が身を低くし、差し出した索の輪を腕にかけさせる。別の一人が男の服を掴んだ。
「引け」
二人で持ち上げると、男の身体は思ったより重かった。濡れた服が水を抱え、艇の舷側に腹が引っかかる。もう一人が手を出した。
「反対側へ寄れ」
下士官の声で、残った艇員が身体を動かした。傾きが戻る。
男が艇底へ転がり込んだ。
水を吐き、口を開けて息を吸う。そのそばを櫂の柄が動いた。休ませる場所を作るため、艇員が足を引いた。
次の男は何かの板にしがみついていた。板から手を離すことを怖がっているらしく、引き上げようとすると、またそちらへ戻ろうとする。
下士官はその手を無理に剝がさず、索を脇へ通した。
「よし、来い」
顔を近づけて言い、肩を抱えるように引いた。板だけが海面へ戻った。
艇底に水が溜まる。空いた手で汲み出しながら、さらに近くの人へ向かった。
海から見上げる輸送船は大きかった。煙の向こうで船腹が軋み、艇員の一人が首をすくめた。
「船へ寄るな。流れてくる者を拾う」
下士官が言った。
まだ甲板にいる者へ、手を伸ばせるわけではなかった。艇の上から声をかけても、火と煙の向こうへ届くかどうか分からない。
近くで手が上がった。
櫂を揃え、艇をそちらへ回した。
艦橋からは、艇員の腕の動きが見えた。
一人を引き上げる間にも、「棕櫚」は進む。艇が一度視界の後ろへ消え、回頭につれて再び見える。
氏家は艇から海面へ目を戻した。
マルローの艦は、なお外側を走っていた。船団の残りの煙は遠ざかっている。護衛艦が一隻、そちらについていた。
「聴音、感なし。継続中」
椛島の報告が来る。
機関室では、停止、後進、微速、半速と変わる命令に、機関長が対応していた。最大戦速のように一方向へ回転を上げていくのとは違う。頭上で艦がどこを向いているかを、振動と命令から読まなければならなかった。
機関長は取り次ぎの声を聞き終えてから復唱した。
前の航海では、同じ命令が二度届いた。帰投後、佐野と順を確かめている。今日は一度ずつ来た。
何のために行き足を止め、また進むのかも伝えられていた。
救命艇を戻すため、もう一度止まる時が来る。
その命令を待ちながら、機関長は圧力を保たせた。
「艇、こちらへ戻ります」
報告を受けて、氏家は双眼鏡を向けた。
艇の中に人が増えていた。皆が同じ姿勢でいるわけではない。座っている者も、横たわっている者もある。艇員の櫂の動きが、最初より遅く見えた。
遭難者を乗せた艇は重い。
氏家は針路を変え、艇が寄れる側を風に合わせた。佐野が艇との間隔を読み上げる。
「微速。停止」
機関への命令が一度だけ送られた。
手すりのところに兵が集まっていた。木下は取りつく索と、上げる者の手順を確かめている。衛生員が毛布を持って待っていた。
艇が舷側へ寄った。
氏家には、下からこちらを見上げる一人の顔が見えた。頬が青白く、口が開いている。助かったのだと、まだ思えていないような顔だった。
兵が索を下ろした。
自力で登れる者から上げ、動けない者には手を貸す。登ってきた男が途中で足を止めると、上の水兵が腕を伸ばし、肩を掴んで引き寄せた。
「あと一人」
甲板から声が来た。
氏家は海面を見た。白い波が横切る。魚雷ではなかった。
「収容、終わりました」
艇員の息は荒かった。艇を上げる側も、それを待っていた側も手を休められない。
最後の艇員が戻り、艇が海面を離れた。
「前進半速」
「棕櫚」が再び動き出した。
その時、燃えていた輸送船が一段深く沈んだ。
甲板が海へ近づき、煙の根元に水が入る。氏家はそこで初めて、救命艇の向こうの海面をゆっくり見渡した。
まだ人がいるか。
問いを口にする前に、見張り員が同じ場所を見ているのが分かった。
「浮遊物あり。人影、確認できません」
艦を回しながら探し続けた。
救助した者に船員が残っていないか尋ねさせたが、答えはすぐには揃わなかった。船から飛び込んだあと、自分がどう流れたのかさえ分からない者もいた。
氏家は人数を確かめさせた。名前と照合できるものは照合し、不明な者は不明のまま記録させた。
見つからなかったから、いなかったとは言えない。
マルローの艦から信号が来た。敵潜は見つかっていなかった。
氏家は応答させ、救助した船員を乗せたまま、警戒を続けた。
*




