雷跡(2)
海上の光がハッチから落ちてきた時、ギュンター大尉は最後まで艦上に残っていた。
蓄電池の充電が終わるのを待っていたのだ。浮上してディーゼル機関を回している間、U30は遠くから見える船でしかなかった。空と海の両方を見張らせ、充電が済んだという報告を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。
「潜航用意」
見張り員を先に下ろし、自分も梯子を降りた。
ハッチを閉めると、軽油と油、塗料、男たちの汗の臭いが戻ってきた。艦上では忘れかけていた臭いだ。肩が当たりそうな通路を一人が身体を横にして抜け、別の一人が弁に手をかける。
ギュンターはその中へ戻ると、むしろ落ち着いた。
波をかぶりながら充電を待つより、息苦しい鉄の中で自分の艦を動かしている方がよかった。
「深度二十で水平」
命令に従って、艦の傾きが整えられた。
報告に少し遅れがあると、ギュンターは担当の男の顔を見た。男は計器を確かめ、口を開いた。
「深度二十。艦水平です」
「よし」
この艦では、急かされて曖昧な数字を言うより、確かめて答える方がよい。そう覚えるまで、新しく乗った者には幾度か言い聞かせなければならなかった。
クレタ島の西、約二百マイル。アレキサンドリアとマルセイユを結ぶ航路を断つことが、ギュンターに与えられた任務だった。
聴音員が船団を告げた。
潜望鏡を上げると、輸送船の煙が細い視界に入った。護衛の一隻はH型だった。しかし掲げている旗が違う。
「航海長」
ワルター中尉に覗かせる。
「日本海軍ですか」
「らしいな」
こんな海まで来たか、とギュンターは思った。英国の艦を日本人が動かしている。相手が誰であれ、輸送船の前を塞いでいることに変わりはない。
魚雷の準備を命じ、船団の進む速さを見た。潜望鏡を長く出してはいられない。一度下げ、頃合いを見て再び上げた。
標的が進んできた。
「一番、発射」
発射の音のあと、護衛艦が動いた。輸送船も曲がり始める。
発見された。
「潜望鏡下げ。急速潜航」
深度を下げ、機関を止めた。艦は潮に預けられたが、上の敵は迷わず近づいてきた。
音が頭上を走る。
爆雷の衝撃で、電灯が揺れた。どこかで金具が鳴った。通路にいた乗員が配管を掴み、声を呑んだ。
「各区画、報告」
ギュンターは声を低く保った。手をついた卓の下から、もう一度衝撃が伝わった。
漏水なし。異常なし。報告が狭い艦内に戻ってくる。
素早い相手だった。
ギュンターは深度を戻させた。爆発のあとで、向こうもこちらの音を見失っているはずだ。潜望鏡に、回り込んだ駆逐艦の艦尾が入った。
「艦尾発射管、用意」
撃ち返してから、再び深く潜った。
命中の音を待ったが、聞こえなかった。
代わりに、駆逐艦の推進器が乱れ、やがて回転を落とした。こちらを探している。
「機関停止。艦を水平に保て」
発射管のところから来た男が、一人ずつの顔を見ながら通路を進んだ。誰かが大きく息を吐き、すぐに口を閉じた。ギュンターは手を上げた。必要な報告まで黙らせるつもりはなかったが、今は音を聞きたかった。
汗が顎から落ちた。拭うと、掌にも油の臭いがついていた。
もう一度爆雷が来れば、次も同じように耐えられるとは限らない。
しばらくして、聴音員が顔を上げた。
「敵スクリュー音、遠ざかっています」
ギュンターはすぐには答えなかった。
船団へ戻ったのだろう。こちらを沈めるために留まるより、守るべき船を選んだ。
「聞き続けろ」
「はい」
ワルターが隣へ来た。
「逃しましたね」
「あちらもそう言っているさ」
ギュンターは僅かに笑った。
誰も笑い声を立てなかった。それでも、卓の近くにいた男の肩が少し下がった。
逃れた。艦も、男たちも、まだここにいる。
日本海軍の駆逐艦を撃ち損じたことは、次に浮上してから考えればよかった。
*
「棕櫚」が船団に追いつく頃には、艦橋に飛んだ飛沫は乾き、氏家の頬に塩が残っていた。
元の位置へ戻る進路を佐野に任せ、艦内からの報告を受けた。
負傷者なし。機関異常なし。舵も異常なし。
使った爆雷の数を水雷長が報告した。残数も続いた。氏家は復唱させ、手元に記した。
戦闘が終わっても、艦を止めて休ませられるわけではない。次の魚雷が来れば、この状態のまま再び曲がり、走り、爆雷を落とすことになる。
「輸送船より信号」
さっき狙われた船だった。
信号員が読み上げる。警告への礼だった。
氏家は双眼鏡を上げた。黒い船腹には損傷がなく、船尾からはまた真っすぐに航跡が伸びている。
「了解と返せ」
それだけ命じ、双眼鏡を下ろした。
「向こうには、間に合ったようですね」
佐野が言った。
「警笛より先に気づいたのかもしれん」
「そうだとしても、こちらも鳴らしました」
佐野の言葉に、氏家は少し笑った。
「そうだな」
敵を逃がしたという報告は変わらない。しかし、あの船が浮いていることも変わらなかった。
佐野は一度海面を見てから、声を落とした。
「機関への増速の通報、途中で重なりました。私と当直が両方取り次いでいます」
「聞いていた。同じ命令でも、二つ来れば向こうは確かめたくなる」
「次の当直までに、順を揃えます」
「機関長と相談してくれ。こちらの都合だけで決めるな」
佐野は頷いた。
下手な乗員が集まった艦ではなかった。航海と砲術の士官は佐世保、水雷長は舞鶴、機関長は横須賀から来た。下士官兵もそれぞれの鎮守府から選ばれている。氏家自身は海軍省からの派遣だった。
各人に、自分の艦で覚えたやり方があった。
「急げ」と言われた時、報告を先にする者と、手を先に動かす者がいる。確かめてから声を出す者と、声を出して相手に確かめさせる者もいる。どちらも、それまでの艦では仕事を果たしていたのだ。
五週間で、英国の艦の扱いは覚えた。
互いの扱いは、まだ覚えきっていなかった。
訓練の初め、伝声管に向かって二人が同時に命令を出したことがある。機関室から聞き直され、艦橋では互いに、相手が言うとは思わなかったと言った。氏家はその場で、誰が取り次ぐかを決めさせた。
その順が、今日、敵の魚雷を前にして僅かに崩れた。
同じ言葉が二度届いただけで済んだ。次もそうだとは限らない。
「航海長、操舵員にも聞いておけ。今日、聞きづらい号令がなかったか」
「分かりました」
操舵員が一瞬こちらを見た。氏家はその目に頷いてから、艦橋を出た。
当直中に長く離れるつもりはなかった。聴音の持ち場まで行き、椛島を見た。
兵曹は器具を手入れしていた。氏家に気づくと手を止め、身体を起こす。
「そのままでいい」
椛島は姿勢を崩さずに待った。
「最初の距離は、どの程度の見込みだった」
「音の強さと変わり方からです。千五百は、おおよその見当です」
「最後の、十というのもか」
「はい。艦の音が大きくなって、最後ははっきり取れませんでした。それまでの方位と近づき方からです」
氏家は兵曹の顔を見た。椛島は言い訳をしている顔ではなかった。ただ、聞こえたものを伝え直している。
「分かった。次から、音で取れたものと、その先の見込みを分けて知らせてくれ」
「はい」
「聞こえなくなった時は、そう言ってくれればいい」
椛島の指が、聴音器の縁に触れた。
「撃沈の音は、取れませんでした」
「敵がまた撃ってきた。あれで分かる」
「申し訳ありません」
「お前の報告で船団から引き離した。謝るところではない」
兵曹が顔を上げた。
「だが、こちらが走りすぎれば聞けなくなるんだな」
「はい。速力が上がると、どうしても」
「それも、遠慮なく言え」
椛島は今度、短くはっきり返事をした。
艦長が急がせ、聴音員は聞くために速力を落としたい。同じ敵を追う仕事の中に、そんな食い違いがあった。艦橋にいれば、声の来ない時間をただ遅いと思ってしまう。
氏家は兵曹の手元を見た。器具を拭く布が、汗と油で汚れていた。
「続けてくれ」
立ち去ろうとすると、椛島がもう一度口を開いた。
「艦長」
「何だ」
「あの敵は、機関を止めるのが早かったです」
「そうか」
「こちらが聞き直す頃には、もう音がなくなっていました」
氏家は頷いた。
「次に会うまで、覚えておこう」
艦橋へ戻ると、佐野が針路と速力を報告した。
氏家は受け取り、所定の位置に立った。輸送船の列が、右手の海をゆっくり進んでいる。その外側を、別の護衛艦が走っていた。
第二特務艦隊がマルタへ来てから、半年が経っていた。
氏家たちは、その間ずっとこの艦で海を走っていたわけではない。英国から貸与された艦に人が集められ、訓練し、船団護衛につくまでには時間が必要だった。待っている間にも、他の艦は出ていった。
日英同盟に基づく派遣。氏家が日本を出る時に受けた説明は明確だった。英国は輸送船を失い、護衛の艦を必要としている。日本は艦隊を送り、その役を果たす。
海上で見る任務は、もう少し手触りがあった。
煙を吐く輸送船。曲がるのに時間のかかる船腹。命令を受けた機関室の男たち。魚雷が抜けたあとも海を見続ける見張り員。
自分の号令が届く先に、そういう人間がいた。
「艦長、先ほどの敵、浮上しますかね」
佐野が尋ねた。
「いつかはする。電池がなくなるまで潜ってはいられん」
「その時、見つけたいものです」
「向こうも、充電中にこちらへ会いたくはなかろう」
佐野は小さく笑ったが、すぐ海へ目を戻した。
氏家も双眼鏡を上げた。
今頃、あちらは狭い艦内で、こちらの音が遠ざかるのを聞いているのかもしれない。こちらと同じように人数を確かめ、壊れたところがないか調べているのだろう。その艦長が誰か、氏家には分からなかった。
撃ち返してきた魚雷の白さは覚えている。
向こうも、爆雷の音を覚えているはずだった。
船団の最後尾から、新たな信号が見えた。佐野が信号員に確かめさせる。航路も速力も、予定どおりだった。
今日の輸送船は一隻も沈んでいない。
そう思ってから、氏家は「まだ」と付け足した。
マルタへ戻るまで、この海は続く。帰投の報告を出すまでは、終わったと言えなかった。
「左舷、異常なし」
見張り員の声が来た。
氏家は答え、右舷へ目を移した。波頭が日を受け、白く光っていた。
艦尾では、次に使う爆雷の確認が始まっていた。




