雷跡(1)
「右舷二時方向、雷跡!」
見張り員の声に、氏家林太郎少佐は双眼鏡を上げた。
船団の向こう、陽に照らされた海面に一本の白い筋が伸びていた。波頭とは違う。白く泡立つ筋は途切れず、輸送船の横腹へ向かって進んでいる。
狙われているのは船団中央の一隻だった。黒い船腹の上に、荷を積んだ甲板が低く見える。船尾から曳く航跡はまだ真っすぐだ。
「警笛! 船団に知らせろ!」
命じながら、氏家はその船の船橋を見つめた。
かわしてくれ。
駆逐艦「棕櫚」の警笛が、海上に長く響いた。自分たちには見えていても、輸送船から同じものが見えるとは限らない。海面の照り返しが違い、見張りの目の高さも違う。今、誰か一人がこちらを向けばよかった。
「船団へ警告、右舷より雷撃!」
航海長の佐野大尉が信号員へ命じた。氏家が口を開くより早かった。
輸送船の船首波が崩れた。
船尾に濃い水が湧き、黒い船腹が少しずつ向きを変える。遅い。氏家は双眼鏡を握り直した。これほど大きな船が曲がるには、舵が動くだけでは足りない。水を押し、船体を動かし、その何千何万という重さの向きを変えなければならなかった。
雷跡はそれを待たずに進んだ。
輸送船の船尾に白い筋が重なった。一瞬、見失う。
次に現れた時、筋は船の向こう側にあった。
船尾のすぐ後ろを抜けている。
「……かわした」
声が漏れた。輸送船はなお回頭を続けていた。船尾の甲板で人が走るのが見える。沈む船から逃げる動きではなかった。
佐野も双眼鏡を下ろしたが、氏家とは目を合わせなかった。既に次の船と、その後ろの護衛艦を見ている。
「各船、回避しています」
「対潜戦用意。聴音員、感は」
警笛の余韻が消えたあとも、耳の奥に音が残った。
「棕櫚」の後方から、別の護衛艦の信号が上がる。氏家はそちらを一瞥して、雷跡が伸びてきた海面に目を戻した。今は青い波があるばかりだった。潜水艦の姿も、潜望鏡も見えない。
相手はその下にいる。
椛島兵曹からの報告を待った。
聴音器を耳に当てた椛島には、警笛も人の声も遠くなっていた。
海の中は静かではない。「棕櫚」の機関が鳴り、船団の幾つもの推進器が水を叩いている。その音が重なり、うねり、時に別の方向から戻ってくる。訓練で英国の下士官が聞かせた潜水艦の音を、思い出して取り出せるわけでもなかった。
椛島は顎を少し引いた。
一つ、細い音が混じっている。
大きな船の緩やかな響きとは違う。速く細かく、水の奥で同じ刻みを繰り返す。耳に当てた器具を押しつけたくなるのをこらえた。強く当てたところで音が近づくものではない。
隣に控えた兵が、報告を待っていた。
椛島はもう一度方向を確かめた。急いで違う海面を示せば、艦を丸ごとそちらへ走らせることになる。
「左舷後方、感あり。距離約千五百。潜水艦です」
兵がそのまま艦橋へ伝える。椛島は声を追わず、音を聞き続けた。
「左舷後方か」
氏家は海面と、卓上に記された船団の位置を見比べた。魚雷を撃ったあと、相手も移動している。雷跡の始まった場所へ走ればよいというものではない。
「面舵一杯。最大戦速。爆雷戦用意」
「面舵一杯!」
「最大戦速!」
「爆雷戦用意!」
復唱が続いた。
操舵員が舵輪を回し、機関への命令が送られる。氏家は信号員を振り向いた。
「司令へ報告。我、対潜戦につく」
命令を受けた信号員が動く。その後ろで、佐野が船団との間隔を確かめていた。
「右へ回頭して船団の後ろを抜けます。最後尾との間隔、余裕あり」
「よし」
傾いた艦橋の床を、氏家は脚を開いて受けた。
「棕櫚」は英国から貸与されたH型駆逐艦だった。艦に乗り込んだ最初の日、手に触れるものの一つ一つが違っていた。伝声管の口の位置、計器の文字、扉の開く向き。頭では分かっていても、手は以前の艦のものを探した。
その艦を、今は全速で回している。
船首が右へ振れ、輸送船の黒い船腹が艦橋の窓を横切った。白い船尾波が広がる。立ち位置を変えた信号員が、足を踏み替えて踏ん張った。
速力がつくまでの僅かな間、船体の傾きだけが先に感じられた。
機関室では、上から来た「最大戦速」の命令が復唱されていた。
機関長が圧力計を見た。針は下がりかけ、再び持ち直した。急な増速で蒸気を使えば、そこへ供給を追いつかせなければならない。
重油を焚くこの艦には、石炭を運ぶ罐焚きの列がなかった。だからといって、命令ひとつで何もかも済むわけではない。燃焼の具合を見、蒸気の圧力を保ち、回転の上がる機械を確かめる。汗が目に入っても、計器から目を離せない時があった。
「右、回転上がります」
「左も上がる。潤滑、見ておけ」
油と熱い鉄の臭いの中で、機関長が短く指示を返した。
大きな振動が床から上がってきた。回頭のため身体が片側へ寄せられる。誰も海面を見てはいなかった。輸送船を魚雷がかすめたことも、まだ知らない。機関室へ届いたのは、戦闘の号令と増速の要求だった。
頭上の艦橋が何をするにも、この回転が要る。
機関長はもう一度圧力計を見て、増速を続けさせた。
艦尾では、爆雷の留め具が外されていた。
「深度八十、確認」
「八十、確認」
水雷長の前で、下士官が設定を読み上げた。
丸い鋼の容器に収められた火薬は、砲弾のように目に見える敵へ飛んでいくものではない。海に落とし、沈むのを待ち、深さで炸裂させる。その時、「棕櫚」は既に先へ走っていなければならなかった。
下士官がもう一つの爆雷を確かめる間、水雷長は艦首の向きを見た。甲板を流れる風が強くなっている。手すり越しに見る海が、急に速く後ろへ走り始めた。
各員は訓練を重ねてきた。順序を知らぬ者はいない。
それでも、爆雷にかけた手が一度止まった。
「用意よしと、艦橋へ」
水雷長が言うと、下士官は顔を上げて復唱した。手が再び動き出した。
「司令より、了解」
報告を受けた氏家は、艦橋の前へ向き直った。
「棕櫚」は回頭を終え、椛島の示した方位へ走っていた。海は相変わらず明るかった。船首で砕ける水が風に散り、艦橋まで飛んできた。
「聴音、今の方位」
椛島の報告が戻るまで、少し間があった。
「右へ寄っています。音は大きくなっています」
佐野がその方位を卓上で確かめた。
「少し右です」
「面舵。敵潜へ向ける」
舵の命令が続く。氏家は海面を見ながら、耳を報告の方へ残していた。
聴音器には相手の艦影が映るわけではない。椛島の耳に聞こえる音と、魚雷が来た方向と、そこから経った時間。それらを繋いで敵を追っている。海中の相手が進路を変えていれば、こちらの判断も変えなければならなかった。
「距離、推定二百」
氏家は水雷長への命令を用意した。
「百」
海が船首の下へ吸い込まれる。
「五十」
機関の振動が強い。椛島の報告も、最初ほど明瞭には聞こえなくなっていた。艦自身の音が邪魔しているのだ。
佐野が氏家を見た。氏家は頷いた。
「十。推定真上」
「水雷長、攻撃開始」
「攻撃開始、了解!」
艦尾へ号令が走った。
「爆雷投下用意。三、二、一――レッコー!」
鋼の容器が転がり落ちた。
艦尾の白い航跡に呑まれ、一瞬だけ黒い端が見え、すぐに消える。続く爆雷も、泡立つ水の下へ沈んだ。
氏家は艦尾を見たいと思ったが、前方から目を離さなかった。水雷長に任せた仕事だ。こちらは艦を走らせなければならない。
椛島は聴音器を耳から外した。
それを待っていたかのように、衝撃が来た。
足の裏から身体へ、短く硬い力が突き上がった。艦橋の何かが鳴り、佐野が卓の縁を押さえた。
後方の海面が盛り上がる。
大きな水柱が立ち、日光を受けた飛沫が白く広がった。遅れて届いた音が、腹の底に響いた。二つ目の水柱が、その横から噴き上がる。
派手なもんだな。
氏家は頭の片隅でそう思った。こんな時に、見物人のような感想が浮かぶものなのか。
爆雷の威力が目の前に現れている。しかし、あの下で敵に何が起きたかは見えなかった。
「砲術戦用意。各員、敵艦発見に努めよ」
敵が浮上してきた時には撃つ。
氏家の命令を受け、砲員が海面へ目を向けた。水柱が崩れ、白く濁った海に波紋が広がっていく。何か黒いものが現れそうで、現れない。
いつの間にか、輸送船団の煙は遠くなっていた。
氏家は双眼鏡を動かした。敵の艦首も、油も、浮遊物も見つけられなかった。
「聴音、再開」
報告を待つ間、自分の息がひどくゆっくりしていることに気づいた。
ユトランドでは、砲弾の唸る中で他人の艦に乗っていた。技術を学ぶための派遣が実戦になり、目の前で死ぬ者も見た。あの時も命令を下したが、艦長は別にいた。今、背後にいる者は皆、自分の号令を待っている。
ここで何を選ぶか。その選び方を誤れば、この艦にいる誰かが死ぬ。
そう考えても、身体は思ったほど強張らなかった。
次に来る報告のことばかり考えている。
「左舷後方、七時方向、魚雷!」
声が飛んだ。
氏家が振り向いた時、見張り員は既に別の白い筋を指していた。
「九時にも一本!」
魚雷は「棕櫚」へ向かっていた。
逃げるために息を潜めていると思った敵が、撃ち返してきた。
「取舵一杯!」
「取舵一杯!」
操舵員が舵輪を切った。氏家は手すりを掴み、迫る雷跡を見た。
一本は艦尾寄り、もう一本はもっと横から来る。二つの白い線の間に、自分の艦がある。前の輸送船より「棕櫚」は速く曲がれる。それでも舵を切った瞬間に船体の位置が変わるわけではなかった。
舵が利き、艦首が左へ振れ始めた。
床が傾いた。卓上の鉛筆が転がり、佐野が手で止めた。氏家は魚雷の方から目を離せなかった。先ほどまで他人の船に向かっていた白い筋が、今は自分の足の下を狙っている。
近い方の雷跡が、艦尾の向こうへ消えた。
もう一本は、舷側の外を斜めに走った。
船体のどこかが叩かれる音を待ってしまった。
何も起こらない。
「二本とも通過!」
見張り員の声に、氏家はようやく息を吐いた。
「敵潜は」
沈めるつもりで追ってきた自分たちを、あちらは沈めようとしている。駆逐艦に追われながら撃ち返すだけの度胸があり、そのための手順を崩さない相手だった。
「スクリュー音なし」
椛島から報告が来た。
「なし?」
「先ほどの音は聞こえません」
氏家は雷跡の先を見た。そちらも、ただの海に戻りつつあった。
「音が聞ける速力まで落とす」
佐野が機関への命令を取り次いだ。
船体の震えが僅かに弱まった。椛島がもう一度聞いている。艦橋では誰も余計なことを言わなかった。
短い沈黙のあと、同じ報告が来た。
「敵潜、感なし」
逃がしたか。
氏家は唇を結んだ。
敵は機関を止めたのだろう。海中を流れる潮に乗り、音を消して離脱する。この海域の海底は一様ではなく、流れも一様ではないと教えられていた。見える航跡がなく、音もなければ、その流れのどこに敵がいるか分からなくなる。
潜水艦が傷ついたのかどうかも、分からなかった。
手元には爆雷が残っている。魚雷を撃ってきた辺りへ戻り、推定した場所へもう一度落とすことはできる。艦を走らせて探し、音が出るまで待つこともできる。
その間に、船団はさらに遠ざかる。
「航海長、船団との距離」
佐野が答えた。氏家はその数字より先に、遠くの黒煙へ目を向けていた。
護衛の一隻が船団の外を進んでいる。先ほど雷撃された輸送船も、僅かに間隔を乱しながら航路へ戻っていた。その向こうの海面は、ここからではよく見えない。
追いたかった。
こちらへ撃ち返してきた男が、今もどこかでこの艦を窺っていると思うと、そのまま背を向けるのは腹立たしかった。
「聴音、感なし。継続します」
椛島の報告が届いた。
聞こえないものを、聞こえるとは言わない。その報告を出す兵曹も、こんな沈黙を望んではいまい。
氏家は双眼鏡を下ろした。
「敵艦を沈めることが任務じゃない」
佐野がこちらを見た。
「対潜戦もとい。通常見張りに戻れ。本艦は護衛任務に復帰する」
「護衛任務に復帰、了解」
「司令へ打電。敵潜撃沈ならず。我、固有任務に復帰する」
言葉にしてしまうと、ひどく簡単だった。
敵潜撃沈ならず。
その報告の中には、輸送船の船尾を抜けた魚雷も、艦橋の床の傾きも、今なお耳に残る爆雷の音も入らない。
氏家は船団へ戻る進路を命じた。




