第8話 魔女の旧友
街から十分に離れた森の中で、エルシリアはようやく足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫よ」
リエナは、肩で息をしながら呆然と立ち尽くしている。追ってくる怒号はとっくの前に聞こえなくなっているが、彼女の身体の震えは止まらなかった。
「……どうして。どうして、私を助けてくれたの?」
「?」
エルシリアは首を傾げる。するとリエナは顔を上げ、首を大きく振った。その目は赤く、今にも泣きだしそうである。
「あなたは……エルシリアなのでしょう?」
しばらく沈黙が二人の間に流れるが、エルシリアは観念したように大きく息を吐いた。
「……気づいていたのね」
「すぐに分かったよ。だって、あなたはいつもそうだったから」
リエナは、泣きそうな顔のまま笑う。
「誰かが困っていたら真っ先に手を伸ばして、自分が傷ついても平気なふりをする。怒られても、責められても、最後まで人を見捨てない」
思わずエルシリアは目を逸らした。私なんかより、という言葉は口の中で消えてなくなる。
「ねえ、エルシリア。あなたは、ずっと一人だったの?」
「……どうしてそんなことを」
「誰にも頼らないで、誰にも甘えないで、平気な顔をして全部ひとりで抱えて。そんなの、駄目だよ」
距離を詰めてくるリエナの言葉に、エルシリアは困ったように微笑んだ。
「私は、慣れているから」
「そんなことに慣れちゃだめ。駄目なんだよ」
「……リエナ」
「あなたはもっと怒っていいし、もっと泣いていいし、もっと助けを求めていいの」
「どうして、そんなに私のことを……」
「好きだったから」
あまりにもまっすぎな言葉だった。目を見開いたエルシリアを見て、リエナは顔を赤くしながらも言葉を止めることはない。
「ずっと好きだったの。あなたが笑うと嬉しかったし、あなたが無事だと安心したし、あなたが誰かを助けるたびにすごいって思って、誇りだった。でも、誰もあなたを見ていないのが悔しかった。……今も、変わらないのでしょう?」
エルシリアは何も言えない。ただ、彼女の目を見つめることしかできなかった。
「だから、お願い。私と一緒に来て」
「どこへ?」
「どこでもいい。こんな国、もう捨ててもいいじゃない。別の国では、魔女が受け入れられる場所もあるんだよ。あなたなら、どこへ行っても生きていける。……私と一緒に逃げよう」
「……」
「ねえ、エルシリア」
リエナは更に一歩近づいた。
「あなたを傷つける場所から離れようよ。私を助けてくれたあなたは、きっとこれから罪人として手配されちゃう。私、あなたがこれ以上傷つくのは嫌だよ」
その声は、ほとんど泣き声だった。目を瞑って彼女の言葉を反芻していたエルシリアは、少しだけ寂しそうに笑う。
「ごめんなさい。私は行けないわ」
「どうして?」
リエナの声が掠れている。
「どうして、そんな顔で断るの」
エルシリアは顔を上げ、森の奥を見た。彼女には守らなければならないものがある。命に代えても、叶えたい夢がある。
「私には、やるべきことがあるから」
「そんなの、他の誰かに任せればいい」
「駄目よ。私にしかできないことなのだもの」
そう言って笑うと、リエナは悲しそうな顔をした。
「エルシリア。あなたは、もっと自分を大切にして」
「……努力するわ」
良い笑みを浮かべたエルシリアを、リエナはジト目で睨む。しかし、すぐに小さく笑った。
「今の言い方、絶対に嘘でしょ」
「嘘じゃないって。ちゃんと努力する」
「……そういうところも、好きだよ」
彼女の真剣な言葉に、エルシリアは再び困ったように笑った。どう返せばいいのか分からない。ただ、胸の奥がじんわりと温かい。自分を思ってくれている人がいるというだけで、勇気になる。
「ねえ。……抱きしめても、いい?」
声を落とした彼女に、エルシリアは穏やかに微笑みながら頷いた。
「いいわよ」
次の瞬間、リエナは堪えていたものが堰を切ったかのように、エルシリアへ飛びついた。
「っ……エルシリア……!」
細い腕が、強くエルシリアを抱きしめる。その身体は震えたままだ。怖かったのだろう。悔しかったのだろう。それでも、ここまで来たのだ。彼女は少しだけ目を丸くして、それからそっとリエナの背に手を回す。
「……怖かったでしょう?」
「怖かったよ……!」
彼女の肩に顔を埋めたまま、リエナはくぐもった声で言う。
「私を殺したいと思う人たちがあんなにたくさんいて、何を言っても聞いてくれなくて。私、何もできなかった」
「……あなたは何も悪くない」
そっとリエナの背中を撫でると、彼女は涙で顔を濡らしながら、それでも微笑もうと口角を上げた。
「ずるい。そうやってあなたが優しいから、私、もっと好きになっちゃう」
エルシリアは少し目を見開いて、それから優しく微笑んだ。リエナもその笑みにつられるように、自然な笑みを浮かべる。しかしすぐに涙を溢れさせ、エルシリアの肩に額を寄せた。
「……あなたが生きていてよかった。生きていてくれて、ありがとう。そして、私を助けてくれて、ありがとう」
エルシリアはしばらく何も返せなかったが、リエナの身体を抱きしめている腕に力を込めた。
「こちらこそ、あなたが生きていてよかった。あなたを助けられてよかった」
リエナは小さく息を呑み、泣き笑いのような声を漏らすと、再びエルシリアを強く抱きしめた。
「元気でね、リエナ」
「……あなたもね」
二人は少しだけ離れたが、まだ互いの手は離れない。
「本当に、来てくれないの? 後悔するかもしれないよ」
「後悔はするよ、きっと」
「……じゃあ、どうして」
「ここでしか叶えられない夢があるから」
エルシリアは穏やかに笑ったが、リエナは悔しそうに唇を噛んだ。
「ほんと、頑固なんだから」
「私の長所の一つだよ」
二人は笑い合い、そして最後にもう一度だけ抱き合った。
「じゃあ、約束して。……死なないで」
「それは約束できないかもなぁ。でも……私は、私の好きなように生きるよ。生きることを諦めることはしない」
その言葉に、リエナは安心したように笑った。




