第2話 魔女と騎士の出会い(1)
エルシリアが人前で魔法を使わなくなったのは十七歳のことだった。魔法を完全に使わなくなったのではなく、誰かに見られる場所では使わなくなったというだけである。彼女の考えは単純で、自分は清廉潔白な魔女だと証明することに疲れたのだ。
どれほど素晴らしい魔法を生み出しても、どれほど多くの人間を救っても、人々が見るのは結果ではなく魔女という肩書きだけ。
「もう好きにしたらいいのよ。私が何をしているのか、誰にも知られなくても」
研究塔の窓辺に座った彼女は一人呟く。雪が降る王都を眺める彼女の銀色の髪は、風に揺れていた。
「世界が平和なら、それでいいわ」
これは決して諦めではない。自分が誰にも期待されないように自分も誰かに期待することはしない。誰にも邪魔されないように、自分の好きなように動く。
そう考えたら、悪いことではないように思えたのだ。
それから彼女は、自分が成したことを徹底的に隠すようになった。夜中に発生した魔物の群れが村を襲う前に全て消滅していたり、原因不明の病の治療法が数日後には編み出されていたり。人々は救世主を探そうとしたが、そこに一切の痕跡は残っていない。
当然だ。痕跡を残せばすべて台無しになる。それに、魔女が助けたという記録が残れば、人々はまた疑うだろう。魔女がまた何かを企んでいる、と。
「名もなき誰かで十分よ」
そう言って、彼女は夜の街を歩く。誰にも気づかれないまま。誰にも感謝されないまま。
◇ ◇ ◇
ある夜、エルシリアは王城の屋根に立っていた。月明りに照らされたこの巨大な建物は王国の象徴であり、国の中心でもある。その周囲には、強力な結界が張られている。
「……強力な、ねぇ。相当杜撰だと思うのだけれど」
彼女は結界の魔力の流れを見て、小さくため息を吐いた。王国自慢の防御結界だと言いながら、あちこちに亀裂が入りかけている。持ってあと数年……いや、数か月だろうか。大規模な魔力攻撃を受けたらもっと早く崩壊するだろう。
原因は単純明快。結界を維持する人員不足と、あまりに古い術式のせいだ。
「これでよく今まで持ったものね」
エルシリアは苦笑する。もしこの結界が敵勢力によって破られたら、間違いなく王城は落ちる。すると、王族だけではなく城下町にまで多大な被害が及ぶだろう。それを厭った彼女は、機を見計らって結界を修復しに来た。
結界に触れ、手に魔力を集める。淡い光が周囲で舞い、複雑な魔法式が幾重にも展開され始めた。
「……ここを繋いで、これをこうして……」
独り言を呟きながら、慎重に術式を組み替えていく。集中力が必要な作業だ。彼女は真剣な顔で結界と向き合い、丁寧に魔力を流し込む。
しかし、あと少しで終わる、というその時だった。
「動くな」
背後から声が聞こえた。それと同時に、エルシリアの首元に冷たいものが触れる。刃物だろうか。
彼女が反射的に振り返ると、そこには一人の若い男がいた。漆黒の髪に、鋭い蒼い瞳。夜の闇の中でも整った顔立ちをしているということが分かる。王国騎士団の制服を着ているので、騎士なのだろう。
「…………」
エルシリアは目を瞬いた。完全に気配を消していたはずだったのに見つかってしまったことの驚きを隠しきれていない。
「何者だ。王城に侵入し、結界に干渉している理由を答えろ」
騎士は低い声で問いかけてくる。普通なら焦るべきはずの場面なのだろうが、エルシリアは少し考えた後にこりと笑った。
「ええと……結界のお手入れをしていました」
「何?」
彼の眉が動く。彼女は結界を指差しながら、首を傾げた。
「この結界に綻びがあったので、修繕を。放っておくと壊れてしまうところでしたから」
騎士はしばらく無言になったが、数秒後にはただでさえ鋭い瞳をもっと鋭くさせた。
「ふざけたことを言うんじゃない」
「ふざけてなんかいませんよ。本当に結界を治していただけです。ほら、確認してみてくださいよ」
こういう時には堂々としていた方が良いと知っているエルシリアは、余裕気な笑みを浮かべながら彼を真っ向から見つめ返す。すると彼は困惑した様子を見せた。
剣は下ろしてもらえなかったが、彼の視線が結界へと移り、その表情に驚愕が浮かんだので彼女の言葉が正しいということを理解したのだろう。
「……何をした」
「先ほども申しました通り、結界のお手入れを行っただけです」
「お前は結界師なのか? 結界師ならば、なぜ賊のようにこそこそと動いている」
「秘密です」
口の前に指を立てて片目を瞑ってみせると、騎士は更に警戒したように眉を顰めた。しかし怪しい彼女を捕えようとする素振りは見せない。彼は、剣を収めながら言った。
「……今回は見逃してやる。だが、次に同じことをしている所を見つけたら詳しい話を聞かせてもらう」
「分かりました」
エルシリアは素直に頷いて、屋根の端へ歩いていく。しかし飛び降りようとする前に、騎士に呼び止められた。
「待て。お前の名を聞いておきたい」
月光の下で振り向いたエルシリアの銀色の髪が、美しく輝いた。
「私は、ただの魔女ですよ」
そう言って、彼女は闇へ消えた。




