第13話 傷ついた魔女(1)
エルシリアは重たい身体をどうにか動かして、薬棚へ手を伸ばしていた。
「……痛い」
声に出すと、喉の奥まで熱を帯びていることに気づいた。袖を捲った腕には深々と抉られた傷が覗いている。魔族の爪によって裂かれた肩は、血が固まり始めている。脇腹には黒く焼け焦げた痕が残り、足も無数の切り傷だらけだ。布越しに触れるだけで、皮膚の下まで鋭い痛みが走る。立っているだけでもふらつくほどで、少しでも気を抜けばそのまま床に崩れ落ちてしまいそうだった。
「魔力が空っぽなんだよねぇ」
そう言って苦笑する。いつもなら治療魔法で塞げる傷も、今はどうにもならない。膨大な量を誇る彼女の魔力だが、今は底をついていた。術式を組もうとしても、魔力の流れを感じないものだからどうしようもない。あれほどの相手を倒した代償としては安いくらいなのだろうと思うことで、どうにか痛みをやり過ごそうとしている。
なんとか棚から薬草を取り出し、いつもの数倍の時間をかけてすり潰して布へ包み、傷口へと押し当てた。
「っ……!」
焼けるような痛みに、思わず息を呑んだ。涙がじわりと滲んでくる。
「……情けないわね」
小さく呟き、いつものように笑って誤魔化そうとしたが、上手く笑えなかった。唇を持ち上げようとしても、頬がうまく動かない。熱のせいか、疲労のせいか、自分でも理由は分からない。ただ、いつものように笑って流すことができないことは確かだ。
今は傷の痛みよりも、熱が酷い。身体が鉛のように重く、視界が霞んでいる。額の奥がずきずきと脈打ち、息をするたびに全身に熱が回っていくような状態。寒いと思うのに、燃えるように熱い。汗が背中を伝っている感覚すらどこか曖昧だ。
椅子に腰かけることもできず、彼女は壁に手をついた。しかしその手からすぐに力が抜けて、ずるりと滑り落ちる。
「……ちょっと、寝よう」
魔力が多い者ほど、魔力を使い切ると高熱を出す。眠れば少しは楽になるかもしれないと、毛布の中へ潜り込んだ。
しかし毛布の中は思ったよりも冷たくて、身体の震えを止めてはくれない。熱に浮かされた頭では、時間の感覚も曖昧になる。自分がどのくらい長く横になっているのかも分からないまま、痛みと熱と倦怠感が波のように寄せては引いていく。
目を閉じると、あの時の光景がちらついた。赤い爪、耳障りな言葉、震えていた少年、そして自分を罵倒する人々。
エルシリアは大きく息を吐いた。考えても仕方がない。今は休まなければ、と自分に言い聞かせるが、身体は意思に反して思うように沈んでくれない。眠りに落ちる寸前で何度も意識が浮かび上がってしまい、喉が渇いて傷口はじくじくと疼いた。
まぶたの裏がじんじんと痛むが、どうにか目を閉じる。次に目を開けた時には少し楽になっているはずだと信じて。
どれほど眠っていたのだろう。遠くで扉を叩く音が聞こえる。
「エルシリア!」
聞き覚えのある声だ。
「エルシリア、いるんだろう!」
返事をしようとしたが、声にならない。体を起こそうとしたが、すぐに失敗する。腕が重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。
ぼんやりとした意識の底で、扉が開く音が聞こえた。慌ただしい足音は、まっすぐに寝台へ近づいてくる。
「エルシリア!」
やはり、エリアスだ。彼は寝台へ駆け寄るなり、息を呑んだ。
「……何だ、この怪我は」
彼の顔から血の気が引く。彼女が喉から言葉を絞り出そうとする前に、彼の手が額に触れた。触れる前に、触れていいのかを測りかねている様子が見えたが、迷っている場合ではないと思ったのだろうか。
「熱い。熱も出ているのか。……何があった?」
エルシリアは薄く目を開けた。そして、なんとか声を発する。
「……エリアス」
「何があったんだ」
「……何も」
「そんなわけがないだろう。あまりにも酷い怪我だ」
彼の声は低い。怒っているのだろうかと思ったが、ただ心配しているだけなのかもしれない。そう考えると、もっと申し訳ない気持ちになった。
「……少し、転んでしまって」
「転ぶだけで、爪に裂かれた傷を負うものか」
返ってきた言葉に、思わず小さく笑ってしまう。喉が焼けるように痛んだが、それでも少しだけ笑えた。
「エリアス、鋭いですね」
「無理して笑うな」
ぴしゃりと言われた。彼は寝台の脇に膝をつくと、慎重な手つきで彼女の肩口の布をずらす。傷を確かめるためだろう。そこに広がっているであろう傷を見て、エリアスは短く息を吐いた。
「……ひどいな」
その一言に、責める色はない。エリアスはしばらく傷を見つめ、それから立ち上がった。
「待っていろ」
「……?」
返事をする間もなく、彼は小屋の隅へ向かう。水桶を見つけると、手早く水を組み上げ、火にかけられる鍋を探して水を温め始めた。何をするつもりなのか、熱で霞む頭ではすぐに分からない。
やがて彼は、清潔な布を何枚か持って戻ってきた。
「そのまま放置しているのは駄目だ」
彼は短く言って、ぬるく温めた水に布を浸す。それを軽く絞ると、再び彼女のそばに膝をついた。
「しばらく、動かないでくれ」
彼が何をしようとしているのかようやく理解した彼女は、目を瞬いた。
「自分でやりますよ」
「できないだろう」
すぐさま否定され、反論しようと身体を起こそうとしたが、脇腹に鋭い痛みが走って息が詰まった。
「……っ」
「ほらな。どの口が自分でやるなどと言っている。だが、嫌なら言え」
「……嫌では、ないですけど」
「なら大人しくしていろ」
素っ気ない声だったが、その手つきは驚くほどに丁寧で優しかった。まず、額に浮いた汗を拭い、濡れた髪をそっと払う。額についていた不快な乾いた血が落とされていくたびに、ひやりとした水の感触が肌を撫でて心地よかった。
首筋や肩口、衣服の隙間から覗く鎖骨のあたりまで、彼は慎重に拭ってくれる。エルシリアは、思わず息を止めた。こんなふうに誰かに優しく身体に触れられるのは、いつ以来だろう。自分でどうにかすることに慣れ過ぎていて、誰かに世話を焼かれることなどほとんどなかった。まして相手がエリアスで、余計に落ち着かない。




