第12話 血濡れた魔女(2)
静寂。煙が晴れると、そこに魔族の姿はない。完全な勝利……のはずだった。
「…………」
エルシリアは膝をつく。全身が痛い。魔力はほとんど残っていない。服は破れ、身体は傷だらけだ。指先が震え、立ち上がろうとしても力が入らない。
視界が揺れる。耳の奥では、絶えず甲高い音が響いている。それらから意識を逃すように、彼女は淡い息を吐いた。
「……まだ、終わっていないわ」
誰に聞かせるでもないその声は、ひどく弱々しかった。彼女は血で濡れた手を握りしめる。
周囲を見回しても、誰もいない。誰も、救えなかった。
「……ごめんなさい」
小さく呟く。せめて、この人たちを弔いたいと、そう思った時。
「……」
かすかな気配を感じ取った。エルシリアは顔を上げて、身体を引きずりながらその場所へ向かう。
瓦礫の隙間に、一人の少年がいた。彼は倒れた大人のそばにいる。どちらも血まみれで、瓦礫の下敷きになっていた。少年の父親と母親だろうか。彼はその間にうずくまって、片方の手で女の服の裾を握り、もう片方の手で男の腕を抱きしめるように掴んでいた。まるで、離れたくないとでも言うように。……まだ起き上がってくれると、信じているように。
「……!」
生きている人がいることに気づいたエルシリアは急いで駆け寄った。
「大丈夫?」
少年は震えていた。目は大きく見開かれ、涙でいっぱいになっているのに、泣くことすらできないようだ。エルシリアはしゃがみ込んで、少年の視線の高さに合わせる。
「怖かったわね」
できるだけ優しく声をかける。
「もう大丈夫よ」
そう言いながら、少年に向けて手を伸ばした。しかし手が触れる前に、少年の身体がびくりと跳ねる。エルシリアは彼の反応を見て、すぐに手を止めた。
「あ……」
しまった。自分は今この子にとって、助けに来た人ではなく、血まみれで怪しい魔女でしかない。少年は唇を震わせながら、小さく首を振った。来ないでと、そう言いたいのだろうか。
胸が痛むが、彼の反応は当然だ。こんな血に濡れた姿をしている自分が近くにいて、安心できるはずがない。
「……ごめんなさい。驚かせてしまったわね」
少年は何も言わない。ただ、両親らしき二人のそばから離れようとしない。
エルシリアは視線を落とした。二人の胸は動いていない。確実に、死んでいる。
もっと早く気づいていたら、もっと多くの命を救えたのだろうか。魔族を倒しても、失った命はもう帰ってこない。
彼女はそっと立ち上がって、周囲を見渡した。家は崩れ落ち、木材の焼ける臭いが漂っている。もう動くことのない人々の中で、たった一人、この少年だけが残されたのだ。
「……少しだけ、待っていて」
誰にともなく言う。少年に、だろうか。亡くなった人々に、だろうか。この街そのものに、だろうか。
「すぐに、ちゃんと……」
言いかけて、言葉が途切れる。ちゃんと、何をするのだろう。彼女には、彼らを弔い、埋葬し、祈ることしかできない。それくらいしかできないが、それでもやらなければならないことだ。
そう思った時だ。少年が、かすかに口を開いた。
「…………」
声には出ていないが、何かを言おうとしている。エルシリアはすぐにしゃがみ直した。
「どうしたの?」
少年は震える指で、倒れた女の手を握ったまま、もう片方の手でエルシリアを指差した。
——どうして、あなたは泣いているの。
——どうして、そんな顔をするの。
彼の言葉が聞こえた気がした。エルシリアは、その問いに答えることはできなかった。ただ微笑もうとするが、うまく笑えない。頬が痛くて、目の奥も痛い。
少年から目を逸らして、彼のそばに落ちていた布切れを拾い上げる。少し汚れているが、まだ使えるだろう。それを軽く払ってから、そっと差し出した。
「これで顔を拭いて」
少年はじっとエルシリアを見つめている。彼女は無理に押し付けることはせず、布を彼の膝の上に置いた。
「怖いなら、無理に近づかなくてもいいわ。でも……あなたは、一人じゃない」
彼女の言葉を聞いた少年の瞳が揺れた。すべてを理解できなかったのかもしれないが、彼は両親らしき二人を見て、次にエルシリアを見た。そして、また震え始める。
そんな彼を見ていると、胸の奥が締め付けられた。この子は今、何を見ているのだろうか。血まみれの魔女か、それとも……。
彼女が再び口を開こうとした、その時。
遠くから、鎧の擦れる音と荒い足音が聞こえてきた。この街の異変に気が付いた隣街からの援軍がようやく来たのだろうか。だが彼らがやって来ても、そこにあるのは救いではない。この街の人々は皆死んでしまったのだから。
「……」
姿を見せた人々の顔色が、みるみる変わる。血に濡れたエルシリアを見た彼らのうちの誰かが、小さく呟いた。
「……まさか、こいつがやったのか」
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。遅れてやってきた彼らの目は真実を見ようとしない。血に濡れて、遺体の中で立っている魔女。その姿があれば、十分なのだろう。
「違います。この街を襲ったのは魔族です。私は、それを——」
「嘘をつくな!」
叫び声が彼女の言葉を遮る。男は顔を青ざめさせながらも、怒りだけは一人前だった。
「こんなところに魔族が出るはずがないだろう!」
「そうだ! 魔女め、化物め!」
「街を滅ぼしたのはお前だ! お前が皆を殺したんだ!」
次々と跳んでくる言葉。エルシリアは、かすかに目を伏せた。
……ああ、そうか。彼らは、最初から答えを決めていたのだ。すべてを魔女のせいにしてしまえば、説明がつく。自分たちが何もしなかったことまで、すべてを魔女のせいにできる。責任を押し付ける相手がいるというのは、便利なものだ。
「捕まえろ!」
「待て。危険だ、無闇に近づくな!」
騎士も剣に手をかける。その目にあるのは、警戒と、先入観と、恐怖だけ。
——お前たちは、後から来たくせに。
エルシリアは、喉の奥で笑いそうになった。魔族が暴れていた時、彼らはどこにいたのだろう。この街の情況を知らなかったのか、実力者を集めていたのか。
仮に魔族がいる間に彼らが来ても殺されていたかもしれない、などということはどうでもいい。少なくとも今ここにいる彼らは、戦ってすらいない。血を流しておらず、守るために命を賭けていない。
それなのに、真っ先に口にすることが、「魔女が殺した」だなんて。
あまりにも、ひどい。
目を伏せると、少年と目が合った。彼は何かを言いたそうだったけれど、何も言わない。恐怖で心が閉ざされてしまったのだろうか。だが、彼の小さな手は、震えながらもエルシリアの袖を掴んでいた。
その小さな手を見て、彼女は少し眉を下げる。この子を怖がらせてしまったことが、今は何よりも痛かった。
「この子をお願いします」
エルシリアは顔を上げ、はっきりと言う。
「生きています。怪我はありますが、命に別状はありません」
彼らは戸惑ったようだが、ようやく少年へと視線を向けた。その目に、わずかな動揺が浮かんでいる。
今更、そんな顔をするのか。エルシリアは息を吐いて、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「……悪役みたいに笑って去るべきかしら」
すべてを自分が壊し、すべてを自分が奪った。そう演じれば、きっと彼らは納得するだろう。魔女はやはり魔女だった、と。彼らが望んでいる物語に、きれいに収まってくれる。
……だがここには、死んだ人たちがいる。そんな場所で、勝ち誇ることなどできるはずがなかった。ましてや、彼らの無責任な怒りに合わせて、わざと憎まれるような真似をする気にもなれない。そんなことをして、誰が救われるのだろう。
「残念。私はそこまで性格が悪くなれないみたい」
もう、色んなことがどうでもよかった。彼女は、少年の肩にそっと手を置く。彼はびくりと震えたが、避けようとはしなかった。
「あなたは大丈夫よ。もう、怖いものはいないわ」
中身のない、空っぽな言葉。一番怖いのは、魔族よりも人間なのかもしれないが、どうでもよかった。
もう十分だ。
エルシリアは気づかれないように、踵を返す。背後からは、怒号が飛んできた。
「逃がすな!」「待て!」
彼女が振り返ることはない。ただ鉛のように重い身体に鞭を打って全力で走りながら、その場を去った。




