第11話 血濡れた魔女(1)
エルシリアが森を歩いていた時、ある違和感に気が空いた。いつもよりも森が静かだ。普段は絶え間なく聞こえてくる動物の鳴き声がどこか遠く、異様な静けさに満ちている。
ばっと顔を上げると、空が赤く染まっていた。ただの夕焼けの赤ではない。血のように濁った、重たい赤。何かが起きていると思った瞬間、遠くから、かすかな悲鳴が聞こえてきた。
「……」
街の方向だろうか。そう判断したエルシリアは、手にしていた薬草をその場に放り投げ、走り出した。
目の前に広がる景色は、地獄そのものだった。
道はひび割れ、焼け焦げた木材があちこちに散らばっている。倒壊した家が道を塞ぎ、砕けがガラスが月明りを鈍く反射する。昨日まで誰かが暮らしていたはずの場所が、今は崩壊していた。
そして、そこかしろに人が倒れていた。うつ伏せのまま動かない者、壁にもたれて血を流している者、腕を伸ばし、誰かを庇うように息絶えている者。血は石畳の溝を伝い、赤黒い跡となって広がっている。
人の声は聞こえない。ただ風の音だけがやけに大きく響いている。
「……」
エルシリアは立ち尽くした。視線の先に、倒れている男がいる。片腕を失いながらも、最後まで子どもを庇おうとしたのだろう。小さな身体を抱きしめるようにして動かなくなっている。その子どもも、命は消えてしまったようだ。
少し離れた場所では、買い物籠を握ったまま倒れている老女がいた。その指先は白くなるほどに強く籠を掴んでいる。逃げようとした途中で力尽きたのだろうか。
さらに奥には、崩れた壁の下敷きになった青年が一人。助けを呼ぼうとしたのか、口を開けたまま固まっている。その瞳はもう、何も映していなかった。
遅かった。来るのが、遅すぎたのだ。
彼女が歯を食いしばった、その時。
「まだいたのか」
低い声が聞こえた。反射的に声がした方へ視線を向ける。すると瓦礫の向こう側には、一人の男が立っていた。
否——ただの男ではない。魔族だ。人の姿に近いが、その輪郭はどこか歪んでいる。額には歪に歪んだ黒い角が二本生えており、口元は人を嘲るかのように吊り上がっている。赤い瞳は獲物を見つけた獣のようにぎらつき、爪は長く、血に濡れて鈍く光っていた。
その足元にはまだ息のある人間たいた。腹を押さえたまま震えている男と、腕を伸ばして助けを求める少女。だが魔族はそれらを一瞥し、手を軽く振っただけで彼らの命を奪った。
「人間の魔女か。珍しいものが残っていたものだ」
魔族は楽しそうに嗤う。エルシリアは目の前が真っ赤になりそうな激情を抑え込み、口を開いた。
「あなたが、この街の人を殺したの」
「そうだ。弱い生き物を掃除しにきたのさ」
あっさりと言い放った魔族の言葉を聞いたエルシリアは、瞳から温度を消した。彼女の周囲に魔力が集まり、散らばった破片が宙に浮く。
久しぶりだ。こんなにも、怒りを覚えたのは。
「ほう。その程度の魔力で、我に挑むか」
「……」
「愚かだな」
嘲るような魔族の言葉に答えず、エルシリアは杖を取り出して構えた。
「あなたを、ここで殺す」
静かな声の裏には、燃えるような怒りがあった。
◇ ◇ ◇
「っ……!」
魔力障壁が砕け、衝撃が腕を痺れさせる。勢いを殺すことができずそのまま吹き飛ばされ、何度も瓦礫の間を叩きつけられ、ようやく地面に転がり落ちた。
息が詰まる。全身が痛い。視界がぐにゃりと歪むが、それでも退くことはできない。
この魔族を逃せば、また誰かが殺されてしまう。別の街が壊されてしまう。
だから……。
「まだ立つか」
魔族が嗤った。黒い翼を広げたその姿は、人の形をしていながら人ではないものの傲慢さに満ちている。
「人間とは面白いな。壊れても、壊れても、まだ立とうとする」
「……」
「何故そこまでして戦おうとするのだ?」
エルシリアは血を拭った。腕が赤く染まるが、それを見ても彼女の表情は一切変わらない。
「さあ。私にも分からないわ。……でも」
彼女は魔力を練り合わせる。手のひらに淡い光が集まり、空気が震えた。
「これ以上死ぬ人を増やしたくないだけよ」
「ふん。愚かだな。人間は弱く、脆く、すぐに泣き、すぐに死ぬ。守る価値などない。お前も分かっているのではないのか」
嘲笑を浮かべた魔族の言葉に、エルシリアの瞳がわずかに細められる。
「……ええ。とても弱いわ。すぐに怯えるし、すぐに疑うし、すぐに誰かを悪者にしたがる」
魔族が口角を上げる。ほらみろ、とでも言いたげに。そんな魔族に嘲笑を返しながら、エルシリアは続けた。
「それでも誰かを助けようとする人がいる。傷ついても、立ち上がる人がいる。怖くても、手を伸ばす人がいる。私は……そういう人たちを、知っている」
魔族は鼻で笑った。
「綺麗事だな。人間は自分勝手だ。助け合うふりをして奪い合う。人間どうして殺し合う。そんな存在に価値があると、本気で思っているのか?」
エルシリアは少し目を伏せたが、すぐに顔を上げた。その瞳には、怒りの炎が宿っている。
「……価値があるから守るんじゃないわ。価値があるかどうかなんて私には決められない。ただ誰かが傷ついているのを見て、見なかったことにできるほど、私は冷たくないの。言っておくけど、私は人間が嫌いよ」
魔族が目を細める。彼女の言葉を面白がっているようだ。
「ほう」
「怖がるくせに、平気で人を傷つける。助けられても、すぐに忘れる。感謝するよりも先に疑う。正しいことよりも自分が楽なことを選ぶ」
言葉は淡々としているが、その節々には長い年月で積もった疲れがあった。
「私はあの人たちを見返してやるって決めた。後悔する人がいてくれないと、私の夢が叶わないから困るのよ」
魔族の顔から笑みが消える。
「……くだらんな。何故そんなもののために命を賭けようとする」
エルシリアは笑った。
「だって、私は偉大な魔女になりたいのだもの」
その瞬間、魔族の背後から黒い槍のような魔力が突き出した。しかし魔族は即座に身を翻し、翼でそれを弾く。
「小賢しい!」
魔族は吠え、直後に鋭い爪がエルシリアの肩を裂いた。
「っ……!」
鮮血が散り、痛みが走る。しかし彼女は倒れない。むしろその痛みを踏み台にするように、魔法陣を展開した。
「縛れ」
魔族の足元から光の鎖が伸び、魔族の脚を絡め取って動きを鈍らせた。
「何っ……!」
「あなたは、喋りすぎなのよ」
エルシリアは息を整えながら言う。
「人間を見下すのは勝手だけれど、才能に溢れた魔女を相手に油断はしないことね」
魔族が舌打ちをして鎖を引きちぎろうと力を込めるが、そのたびに光が増していく。それを見ながら、エルシリアは両手を合わせた。そして、魔力を限界まで膨れ上がらせる。
「まだそんな力が残っていたか」
魔族が低く唸る。
「驚いた。人間の魔女風情が、ここまでやるとはな」
エルシリアは地面を蹴り、一気に魔族と距離を詰める。そして、手のひらを魔族の胸元へ押し当てた。
「終わりにしましょう」
魔族の瞳が見開かれる。ただでは終わらぬと言うように鋭い爪が彼女の腹を貫こうと迫るが、彼女はわずかに笑っただけだった。
「消えなさい」
——光が弾けた。




