間話(2)
市場を抜ける頃には、空は赤色に染まり始めていた。人通りの少ない裏道を通り、森へ続く小道に入る。
周囲を見渡しながら歩いていたエルシリアが、ぬかるみに足を取られ転びかけた。
「……っ」
「危ない」
エリアスは反射的に彼女の腕を掴む。そして身体を支えるべく、彼女を自らのそばに引き寄せた。彼女は呆然と彼を見上げていて、自分が彼女の腕をかなり強く掴んでしまっていたことに気づく。すぐに力を緩めると、彼女は笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
「ちゃんと前を向いて歩け。君は自分をもっと大切にするべきだ」
「ふふ。エリアスは心配性ですね」
「……君がいつも無茶をするからだ」
彼が思わず目を逸らすと、彼女は笑い声を漏らしながら森の奥を見た。鳥の声が、どこからともなく聞こえてくる。
「無茶をしていたとしても、誰かが困っているなら、放っておけません」
あまりに落ち着いた彼女の声に、エリアスは言葉を失った。彼女はこういう人だと知っているつもりだった。自分が傷ついても、自分が疲れていても、それでも誰かを守ろうとする。
だからこそ、彼は恐ろしいのだ。いつか彼女は、自分の命すら惜しまなくなるのではないかと。その危うさがどうしようもなく恐ろしく、そして同時に、どうしようもなく愛おしかった。
「エルシリア」
気づいたら、彼女の名を呼んでいた。先を行こうとしていた彼女が振り返る。風が一筋、彼らの肌を撫でていく。
「……今、私の名前を」
彼女の丸い目を見ていると、自分は何を口走ったのかと羞恥が襲いかかる。
「嫌か?」
エリアスがそう返すと、エルシリアは少し考えた後、柔らかな笑みを浮かべた。
「いいえ。嬉しいです」
その時、エリアスは自分でも驚くほど自然に笑みをこぼした。胸の奥が熱い。ただ名前を呼んで、嬉しいと言われただけだ。それだけのことなのに、どうしてこんなにも嬉しくなるのか分からない。
だが、分からなくてもよかった。この一瞬が、確かに自分と彼女だけのものであったなら、それで十分だった。
小屋に戻ってから、二人は向かい合って温かな紅茶を飲んだ。木の椅子は動くと軋み、湯気の立つ杯からは薬草の香りがする。
「エリアス。もし、もしですよ?」
エルシリアはそう前置きしながら、彼の目を見る。その目は確かに彼を見ているのに、彼ではないどこか遠くを見ているかのようにも思えた。
「私が本当に悪い魔女だったら、どうしますか?」
「捕える」
「わ。迷いがないですね」
「俺は騎士だからな」
迷いなく答えたエリアスにくすくすと笑みを返しながらも、彼女は少し目を伏せた。そんな彼女を見つめながら、彼は言葉を続ける。
「だが今のお前を見ている限り、そんな日は来ないと思っている。お前が悪い魔女であるはずがない」
すると、彼女は驚いたように顔を上げてから、ゆっくりと目を細めた。その表情は、笑っているようにも、泣きそうにも見える。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。俺が勝手に思っているだけだ」
自分でも素直でないと分かるようなことを言うと、エルシリアはふっと笑った。
「エリアスは優しいのですね」
その言葉に、違う、と言いたかった。自分は優しいのではなく、彼女にだけ特別なのだと。彼女だから、守りたいと思う。彼女だから、こんなにも目が離せない。
それでも、言うことはできなかった。行ってしまえば、何かが壊れてしまうかもしれない。この心地よい日々が終わってしまうかもしれない。
それが怖かったから、エリアスはただ黙って茶を飲んだ。甘いはずの茶が、少し苦く感じられた。
◇ ◇ ◇
その後も、二人の時間は少しずつ増えていった。大したことはしていないが、些細な時間が積み重なるたびに、エリアスの中では何かが形を変えていく。
最初はただ気になるだけだったのに、次第に会えない日が続くと落ち着かなくなった。そのうち彼女の声を聞くと安心するようになり、今では森の小屋の灯りを見るだけで胸が温かくなるようになった。
この感覚が何なのか、まだ名前を付ける勇気はなかった。だが、名前を付けなくても分かってしまう。
これはただの興味ではなく、もっとずっと厄介で、理解してしまうと戻れなくなるものだ、と。
その日、小屋の中で、エルシリアは古い布を繕っていた。針を動かすその手には迷いがない。エリアスはその向かいで、剣の手入れをしていた。金属を磨く音だけが、静かな室内に響く。
「……こうしていると、変な気持ちになりますね」
呟くようにエルシリアが言った。心臓が変な音を立てたことに気づかないふりをして、彼は素っ気なく応える。
「何が変なのだ」
「私の家にあなたがいることに慣れてしまったことです。魔女と騎士、私たちは本来敵対し合っているはずの関係なのに」
「俺がいるのは嫌か?」
「いいえ。嫌というわけではありません」
エルシリアは首を振り、少し間をおいて続けた。
「……むしろ、あなたがいると落ち着きます」
その言葉に、エリアスは手を止めた。彼女にとって、自分はただの「しつこい騎士」にすぎないと思っていた。だが、今は……彼のことを、少しは大切に思ってくれているのだろうか。まるで、ここにいてもいいと言われた気がした。
「そうか」
そう返すだけで精一杯だった。エルシリアは針を動かしながら、ふと小さく笑う。
「エリアスは、私のことをよく見ていますよね」
「……君の方が、よく見ているだろう」
「そうでしょうか? では、お互い様ですね」
そう言って微笑んだエルシリアを見て、エリアスは何も返すことができなかった。
お互い様。自分が彼女をよく見ているように、本当に彼女も自分のことをよく見てくれているのなら。そんな淡い期待が、心のどこかで芽を出してしまう。
だが、同時に痛いほど理解していた。彼女は誰にでも優しい。自分だけが特別だと勘違いし、思い上がるべきではない。
そう思えば思うほどに、胸が苦しくなる。
——この時間がどれほど貴重であり、どれほど脆いものであり、どれほど尊く焦がれるものだったのか。この時のエリアスが知ることはない。




