第10話 騎士の正義(2)
初めて彼女と会った日のことを、今でもはっきりと覚えている。
あれはまだ、夜明け前のことだった。王都を巡回していた彼は、王城の屋根で奇妙な魔力反応があることに気が付いたのだ。誰かが王城の結界に干渉しようとしていることに気づいた彼は、警戒しながらそこへ向かった。
そして、一人の女が結界に触れていたのを彼は見た。黒い外套を纏っており、長い銀色の髪をまとめもせずに地面に落としていた。
「動くな」
女の首に刃を当てると、女の肩はびくりと跳ねた。振り返った彼女の顔はあまりにも整っていたが、それ以上に怪しかった。
「何者だ。王城に侵入し、結界に干渉している理由を答えろ」
問いかけると、女は焦る様子を微塵も見せずに、余裕げに笑みを浮かべた。
「結界のお手入れをしていました」
その声は落ち着いていて丁寧だったが、それがまた怪しさを際立たせていた。
「ふざけたことを言うんじゃない」
「ふざけてなんかいませんよ。本当に結界を治していただけです。ほら、確認してみてくださいよ」
そう言いながら彼女が一歩横にずれたので、彼はしぶしぶと結界の魔力反応を確認した。確かに、変な工作はされていなかった。さらに彼が朝に見た時よりも遥かに強固になっていたのだ。
「……何をした」
「先ほども申しました通り、結界のお手入れを行っただけです」
「お前は結界師なのか? 結界師ならば、なぜ賊のようにこそこそと動いている」
「秘密です」
そう言って唇の前に指を当てて片目を瞑った彼女を見て、ひどく動揺したことを覚えている。どうしてあんなにも動揺してしまったのか、彼本人でも分からないほどだ。
その時、彼は彼女を見逃してしまうことになった。彼女が悪意を持って結界に干渉していなかったということを理解したため、それ以上彼女を疑いかかるのは間違ったことだと思ったのだ。
去り際に彼女の名前を尋ねると、月光の下で振り向いた彼女は、美しい銀色の髪を揺らしながら美しい笑みを浮かべたのだった。
「私は、ただの魔女ですよ」
——彼女の言葉を、彼は一生忘れることはない。
◇ ◇ ◇
数日後、エリアスは森へ向かっていた。自分でも目的は決めていなかったが、気づけば足が森に向いていたのだ。
彼が小屋の前で立ち止まると、小屋のすぐ隣で薪を割っていた女——エルシリアが顔を上げる。彼女は驚いたように目を瞬くと、不思議そうに首を傾げた。
「あら。また私に何か御用ですか、騎士様?」
「俺は、エリアスだ」
「そうでしたね。何か御用ですか、エリアス」
彼女は相変わらずである。エリアスは小さく息を吐いた。
「……君は、本当に何も言うつもりはないのか」
「何をです?」
彼女は首を傾げたままだ。何を言っているのか分からないと言いたげな表情だが、本当は分かって言っているのだろう。
「『赤月の魔女』の件」
その名前を出した瞬間、エルシリアの表情が僅かに変わった。どこか申し訳なさそうに困ったように眉を下げて、すぐにいつもの穏やかな顔へ戻る。ほんの一瞬のことだったが、彼は見逃さなかった。
「……ご存じなのですね」
「騎士団にも報告が上がっている」
「そうですか」
エルシリアは薪を置いて、エリアスに向かい合う。感情の読めない瞳を見つめ返し、彼は口を開いた。
「君が『赤月の魔女』を助けたのだろう?」
彼の問いかけに、彼女は何も言わなかった。ただ困った表情を浮かべる彼女を見ていると、ひどく苛立ってしまう。
「君は、自分が何をしたのか分かっているのか。王国中から追われる可能性がある相手を救ったんだ。魔女狩りが活発化している今、君自身も当然命を狙われるだろう」
「そうでしょうね」
「それなのに、君は何も言わないままのつもりなのか」
声が低くなる。強く拳を握りしめて怒りを堪える彼を見て、エルシリアはやはり不思議そうに彼を見ていた。
「何のことですか?」
「自分が今まで何をしてきたのか、言うつもりはないのか」
王城の結界を修繕し、人々の病を治し、魔物による災害を防いだこと。人知れず救ってきた数えきれない命があることを公表すれば、少しだけでも彼女を見る目は変わるかもしれない。
「ありませんよ」
しかし、彼女は簡潔に答えた。一切の迷いがない声である。
「何故だ」
「意味がないからです。今さら私が何をしたと言っても、信じたい人しか信じませんし、どうせ誰にも届きませんし」
そう言って空を見上げた彼女を見て、エリアスは何も言えなくなった。彼女は何度も世界から見捨てられているのだろう。どれだけ人の命を救っても、魔女だというだけで恐れられ、差別されてきた彼女の苦労は、どれほどのものなのだろうか。
エリアスの表情が曇ったのに気づいたのか、彼女は小さく笑った。
「それに、私が英雄扱いされたら困ります。静かに暮らせなくなりますし、私の夢も叶いませんから」
あまりにも小さな理由なように聞こえたが、彼女にとっては大切なのだろう。エリアスは目を伏せ、胸の内で自嘲した。
自分は何を馬鹿なことを考えている。彼女の功績を明らかにすれば、彼女は救われると思っていた。だが、それは違う。ただ自分が楽になりたいだけではないのか。正しい人間を正しい場所へ戻したいという自分の考えに心酔し、自分のために動こうとしているのではないのか。彼女は、名誉ではなく静かな日々を選ぼうとしているのに。
「……君が、選んだことなのか」
「そうですね」
エルシリアは頷いて、優しく微笑んだ。
「初めて、自分のために選んだことかもしれません」
その言葉に、エリアスの胸が痛んだ。「初めて」という一言が妙に引っかかる。今まで彼女は、自分のために何かを選んできたことはなかったということなのか。
「……分かった。君の意思を尊重する」
彼が言うと、エルシリアは少し驚いた顔を見せる。
「案外すんなりと引いてくださるのですね。意外です」
「君は私を何だと思っているのだ」
「しつこい騎士」
「……」
「あ、冗談ですよ。だからそんなに傷ついた顔をしないでください」
笑みを浮かべるエルシリアを見て、エリアスもほんの少しだけ口元を緩めた。
彼女が望まないのなら、無理に真実を暴くことはしない。だが彼女を傷つけるものがあるのなら、今度は自分が盾になることはできるだろうか。と、そんなことを考えながら。




