第四話 メイド服の下の怪盗
白銀邸の時計が、十時五十分を告げた。
晩餐会の余韻は、まだ屋敷のあちこちに残っていた。
客人たちが去った玄関ホールには、花の匂いと香水の残り香が薄く漂っている。廊下には、磨き上げられた靴が絨毯を踏んだ跡がわずかに残り、広間のテーブルには片付けきれなかったグラスが数脚だけ置かれていた。厨房では料理長が最後の確認をし、紗枝は銀器の数を台帳と照らし合わせている。黒崎は警備員と短い言葉を交わし、白銀瑠璃子は、すでに二階南側の書斎へ戻ったという。
表向きには、晩餐会は何事もなく終わった。
月下の雫も、無事に披露された。
だが、霧島蓮だけは知っていた。
何事もなく終わったなどということは、絶対にない。
玲奈の姿をした蓮は、自室の灯りを消したまま、鏡台の前に座っていた。部屋は薄暗い。窓の外には中庭があり、その向こうに西棟の影が沈んでいる。月は雲に隠れたり現れたりを繰り返し、そのたびに庭の石畳が白く浮かんでは消えた。
鏡の中の玲奈は、晩餐会の疲れをまとっていた。
栗色の髪はまだ整っている。
白いカチューシャも外れていない。
メイクも崩れてはいない。
黒のメイド服も、清楚な輪郭を保っている。
しかし、蓮は自分の変装に、いつもより多くの危険が入り込んでいることを理解していた。
袖口に仕込んだ安全ピンは、美咲に一度触れられている。
床下の小箱を引き出すために使った糸も、彼女に見られた可能性が高い。
そして、あの内箱。
蓮が外箱を囮にし、内箱をクロスの中へ滑り込ませた直後、美咲はそれを奪った。あまりに鮮やかな手際だった。
あれが本物の月下の雫だったとは思えない。
展示台の上には、その後も青白い宝石が輝いていた。黒崎も瑠璃子も、宝石の無事を確認したように見せた。だが、その「無事」が何を意味するのかは分からない。
本物が展示台にあったのか。
内箱に入っていたのか。
そのどちらも偽物だったのか。
あるいは、瑠璃子は本物と偽物を使い分け、怪盗二人を試しているのか。
どれもあり得る。
蓮は、鏡の中の玲奈を見た。
今夜十一時。
廊下の飾り棚の古い時計は、晩餐会中に十一時を指していた。実際の時刻とは合っていなかった。あれは、合図だ。
十一時に、飾り棚の仕掛けが動く。
もしくは、動かせる。
青い花器。
銀の小箱。
古い時計。
小さな彫像。
それらが、準備室の床下機構とつながっている。
美咲は、それを知っている。
少なくとも、蓮より半歩先にいる。
蓮は静かに立ち上がった。
今夜の目的は、月下の雫を盗むことではない。
まず、美咲が奪った内箱の意味を知ること。
次に、瑠璃子が仕掛けた本当の保管経路を見抜くこと。
そして可能なら、美咲より先に本物へ届くこと。
蓮は化粧を直さなかった。
ウィッグも外さなかった。
補正具もそのままにした。
玲奈として動く必要がある。
夜の屋敷で、使用人の姿は不審者よりも安全だ。
ただし、使用人として自然に歩ける時間は、もうほとんど残っていない。
蓮は扉を開けた。
廊下は静かだった。
使用人棟の灯りは最低限しか残っていない。床板は古く、踏む場所を間違えれば小さく鳴る。蓮は昼間の記憶をたどり、音の出ない位置だけを選んで歩いた。
階段を下りる。
控室の前を通る。
厨房の奥では、まだ料理長が片付けをしている気配があった。紗枝の声も聞こえる。黒崎の気配はない。おそらく西棟か、瑠璃子の書斎だ。
廊下を進む。
飾り棚が見えた。
青い花器は、夜の照明の下で昼より深い色をしていた。銀の小箱は棚の中央に置かれ、古い時計は正確に十一時を指している。小さな彫像は、昨日よりわずかに左を向いていた。
蓮は、まず周囲を確認した。
右の廊下、無人。
左の客間、灯りなし。
天井のカメラ、角度は固定。
黒崎の気配なし。
美咲の気配も、今のところない。
蓮は玲奈として、花瓶の水を確認するふりをした。片手を布巾に添え、もう片方の手で銀の小箱に触れる。
押す。
カチリ。
内部で小さな金属音がした。
次に、古い時計。
時計の針はすでに十一時を指している。蓮は長針に触れず、台座をわずかに押した。
カチ。
今度は、棚の奥ではなく、床下から音が返ってきた。
最後に、小さな彫像。
蓮は彫像を左から右へ、ほんの数ミリだけ動かした。
青い花器が沈んだ。
棚全体が、わずかに震える。
だが、動いたのは棚ではなかった。
廊下の床、飾り棚のすぐ横に、細い線が浮かび上がった。昼間は木目に紛れていた部分が、音もなく開く。人ひとりが通れるほどの幅ではない。最初はそう見えた。
しかし、床板はさらに内側へ引き込まれ、斜め下へ続く狭い階段が現れた。
蓮は息を止めた。
白銀邸の旧通路。
表の図面にはない。
使用人にも知らされていない。
だが、この屋敷が美術品と宝石を保管するために増改築を重ねてきたなら、古い収蔵庫や避難経路があってもおかしくない。
問題は、誰がそれを使っているかだ。
「やっぱり、来ましたね」
背後から声がした。
蓮は振り返らなかった。
美咲だった。
黒髪のメイドは、廊下の影から静かに現れた。手には燭台用の布を持っている。夜の廊下に立っていても、不自然ではない理由をちゃんと用意している。
「美咲さんも、夜のお仕事ですか」
蓮は玲奈の声で言った。
「ええ。忘れ物を取りに」
「こんなところに?」
「玲奈さんも、こんなところにいらっしゃる」
「花器の水を確認していました」
「夜十一時に?」
「気になってしまって」
「勤勉ですね」
「美咲さんほどではありません」
二人は、開いた床の前で向き合った。
もう互いに、ただのメイドのふりだけでは済まない段階に入っている。だが、それでもまだ「玲奈」と「美咲」は崩さない。
美咲は床下の階段へ視線を落とした。
「一緒に行きますか」
「どちらへ?」
「下へ」
「黒崎さんに叱られます」
「では、黒崎さんを呼びますか」
「それも困りますね」
「でしょう?」
美咲は微笑んだ。
その笑みは、昼間の給仕のときに客人へ向けていたものと同じだった。上品で、控えめで、隙がない。だが蓮には、その下にある刃が見えていた。
「美咲さん」
「はい」
「昨夜の内箱、どこにありますか」
美咲の目が、わずかに細くなった。
「何のことでしょう」
「クロスの中から消えたものです」
「玲奈さんは、よく落とし物をしますね」
「美咲さんは、拾い物がお上手です」
「必要なものは大切にすると言いましたから」
「では、あれは必要なものだったんですね」
「少なくとも、今夜は」
認めた。
蓮は、心の中で一つ線を引いた。
美咲は内箱を持っている。
そして、それは今夜の旧通路に必要なものだ。
「中身は見ましたか」
「見ました」
「宝石でしたか」
「見たいですか」
「質問に答えていません」
「玲奈さんも、いつも答えませんよ」
美咲は階段へ足をかけた。
「ここで話していると、誰かが来ます。下で続きを」
蓮は、すぐには動かなかった。
美咲を先に行かせるのは危険だ。
だが、後ろを取られるよりはいい。
通路が狭いなら、前後の位置は重要になる。
「私が先に行きます」
蓮が言うと、美咲は笑った。
「信用されていませんね」
「信じる人は負けるのでしょう」
「あら。覚えていてくださったんですね」
「大切な助言でしたから」
「必要な助言、ではなく?」
「今のところは」
蓮は階段を下り始めた。
背後に美咲が続く。
床板は、二人が降りた直後、音もなく閉じた。
闇が濃くなる。
階段は狭く、古かった。
壁は石造りで、ところどころに湿気がある。表の白銀邸とは違い、ここには華美な装飾がない。足元には古い金属の縁取りがあり、階段の中央だけがわずかに擦れている。長年、誰かが使っていた証拠だ。
蓮は片手でスカートの裾を押さえながら、慎重に下りた。
こういうとき、メイド服は不利だ。
布が多い。
裾が引っかかる。
補正具で重心が普段と違う。
ウィッグも、頭の位置を低くしたときに壁へ擦れる危険がある。
だが、それは美咲も同じだ。
後ろから聞こえる足音は静かだった。美咲も布を扱い慣れている。暗い階段でも、迷いなく足を運んでいた。
「玲奈さん」
「はい」
「歩きにくくありませんか」
「少し」
「その格好では、大変でしょう」
「美咲さんも同じでは」
「私は慣れています」
「私も、少しは」
「そうでしょうね」
会話は小さい。
だが、狭い通路では、声はよく響いた。
蓮は、階段の途中で一度だけ立ち止まった。
壁に小さな傷がある。
新しい。
誰かが最近、金属でこすった跡だ。
おそらく美咲が昨夜ここを通った。
もしくは、黒崎か瑠璃子の誰か。
美咲が後ろで止まる。
「何か?」
「足元を確認していただけです」
「慎重ですね」
「美咲さんが後ろにいますから」
「ひどい言い方」
「正直なだけです」
蓮はまた歩き出した。
階段の終わりに、鉄の扉があった。
扉には鍵穴がない。代わりに、中央に四角いくぼみがある。何かをはめ込むための形だ。
美咲が前へ出た。
「ここからは、私が」
「内箱ですね」
「ええ」
美咲はエプロンの裏から、小さな黒い内箱を取り出した。
それは昨夜、蓮がクロスの中へ隠し、美咲に奪われたものだった。大きさは手のひらほど。表面には月を模した銀の紋が刻まれている。
「中身を見る前に、鍵として使うんですか」
蓮が言うと、美咲は肩をすくめた。
「中身は、鍵でした」
美咲は内箱を開けた。
中には宝石はなかった。
代わりに、薄い銀色の板が入っている。複雑な切れ込みがあり、鍵というより、紋章の一部のように見えた。
「月下の雫ではない」
「ええ。残念でした?」
「少し」
「正直ですね」
「必要な失望です」
「使い方がうまくなりましたね」
美咲は銀板を扉のくぼみにはめた。
低い音が響く。
扉の内部で歯車が動いた。
ガコン、と重い音がして、鉄の扉が少しだけ開く。
その瞬間、美咲は銀板を抜き取った。
蓮は見ていた。
銀板を扉に残さない。
つまり、帰りにも必要になる。
あるいは、誰かを閉じ込めるために使える。
美咲は扉を押し開けた。
その先には、広い地下空間があった。
旧収蔵庫。
壁一面に古い棚が並び、木箱、額縁、布をかけられた彫像、錆びた金庫、使われなくなった展示台が置かれている。天井は低いが、奥行きはある。空気は冷たく、湿気と古い紙の匂いが混ざっていた。
奥の壁には、円形の窓のようなものがある。
だが、外へ通じているわけではない。
月の光を取り込むための反射鏡か、古い採光装置だろう。
その中央に、黒い台座があった。
台座の上には、何もない。
蓮は空間全体を見た。
入口は一つ。
左右に棚。
奥に台座。
天井に古いレール。
床には細い溝。
準備室の床と同じ構造だ。
月下の雫の本当の移送経路は、ここにつながっている。
「ここが本命ですか」
蓮が言った。
「たぶん」
美咲は答えた。
「たぶん?」
「白銀瑠璃子は、簡単には答えを置いてくれませんから」
「そのわりに、迷いなく来ましたね」
「来なければ、答え合わせもできません」
美咲は旧収蔵庫の中央へ進んだ。
蓮は距離を保って続いた。
互いに、三歩以上近づかない。
相手の手が届く距離には入らない。
だが、離れすぎてもいけない。
旧収蔵庫には罠がある。片方が何かを踏めば、もう片方も巻き込まれる可能性がある。
美咲は黒い台座の前で止まった。
「玲奈さん。月下の雫が、なぜ『月下』なのか知っていますか」
「月の光に似ているからでは」
「普通はそう考えます」
「違うのですか」
「昔、この宝石は月の光の下でだけ本当の色を見せる、と言われていたそうです」
「伝説ですね」
「ええ。伝説は、たいてい警備装置の説明を隠すために使われます」
蓮は、奥の円形装置を見た。
「月の光で動く仕掛け」
「もしくは、そう見せる仕掛け」
美咲は内箱から銀板を取り出し、台座のくぼみに当てた。
何も起こらない。
蓮は周囲を見た。
台座には銀板をはめるくぼみがある。
しかし、それだけでは足りない。
飾り棚と同じだ。
複数の手順が必要になる。
「青い花器、小箱、時計、彫像」
蓮は呟いた。
「ここにも四つあるはずですね」
美咲が言った。
「さすが」
「褒めていませんね」
「少しは褒めています」
蓮は旧収蔵庫を見回した。
四つの要素。
青。
銀。
時刻。
像。
青は、おそらく奥の円形装置。
銀は、美咲の持つ銀板。
時刻は、月光の角度。
像は、彫像か、影の形。
蓮は棚の間を歩いた。
布をかけられた彫像が三体ある。
一体は女性像。
一体は鳥。
一体は天秤を持った人物。
天秤。
重さ。
蓮は天秤像の前で止まった。
床に、わずかな円形の跡がある。
像は動かせる。
美咲が後ろから言った。
「動かしますか」
「動かしたら、何か起こるかもしれません」
「だから動かすのでしょう」
「美咲さんらしいです」
「玲奈さんほどでは」
二人は同時に像へ手をかけた。
その瞬間、蓮は気づいた。
美咲の左手は像を押している。
右手はエプロンの内側へ伸びている。
何かを出す気だ。
蓮は先に動いた。
天秤像を押すふりをして、足元の布を美咲の方へ滑らせる。
美咲は足を引いた。
その一瞬、美咲の右手の動きが止まる。
蓮は像を回した。
石のこすれる音。
奥の円形装置に、薄い光が入った。
月光ではない。
白銀邸の外灯か、どこかの反射光だ。
しかしそれは、鏡のように角度を変え、黒い台座の上へ細い線を落とした。
美咲は銀板を台座にはめた。
今度は音がした。
台座の中央が開く。
中から、細長いガラス筒がせり上がった。
その中に、青白い光があった。
月下の雫。
蓮も美咲も、動かなかった。
展示室で見た宝石と同じ光。
だが、こちらの方が深い。
青白い光の奥に、わずかに銀の揺らぎがある。
これが本物か。
それとも、これも罠か。
美咲が先に言った。
「綺麗ですね」
「ええ」
「欲しくなりますね」
「怪盗ですから」
「認めるんですか」
「ここまで来て、まだメイドだと言っても無理があります」
蓮は玲奈の声で言った。
美咲は笑った。
「そうですね。でも、まだ玲奈さんでいてください」
「なぜですか」
「その方が、崩す楽しみがありますから」
空気が変わった。
蓮は一歩下がろうとした。
遅い。
美咲の足が、床の溝の一部を踏んだ。
旧収蔵庫の入口側で、鉄の扉が閉じる音がした。さらに天井のレールから、細いワイヤーが何本も落ちてくる。
蓮は横へ飛んだ。
だが、メイド服のスカートが棚の角に引っかかる。
蓮は即座に裾を払う。
その一瞬の遅れを、美咲は見逃さなかった。
美咲は布を投げた。
白いクロス。
晩餐会で使われたものと同じ材質だが、端に重りが仕込まれている。クロスは蓮の肩と腕に絡み、動きを制限した。
蓮は腕を抜こうとする。
美咲が踏み込む。
黒髪が揺れ、メイド服の白いエプロンが闇の中で翻った。
「変装は、顔だけではありません」
美咲は低く言った。
「支点を壊せば、全体が崩れます」
蓮はクロスを引き裂くように腕を抜いた。
だが、その瞬間、美咲の指がカチューシャではなく、その下の固定ピンを正確につかんだ。
まずい。
蓮は首をひねる。
しかし、間に合わない。
ピンが抜かれた。
栗色のウィッグが、わずかに浮く。
蓮は片手で押さえた。
美咲の膝が、蓮の足元のクロスを踏む。腕が使えない。蓮は後ろへ下がるが、棚に背中が当たる。
「離してください」
玲奈の声。
だが、息が乱れた。
声の芯が一瞬だけ低く落ちる。
美咲の目が光った。
「今の声、いいですね」
蓮は歯を噛んだ。
次の瞬間、美咲はウィッグの固定をもう一つ外した。
栗色の髪がずれ、白いカチューシャが床へ落ちる。
蓮は片手で髪を押さえたまま、もう片方の手で美咲の腕を払う。
美咲は軽く退く。
その動きは優雅で、メイドの所作の延長に見えた。だが、実際には完全に戦闘の間合いだった。
「玲奈さん。いえ、まだ玲奈さんでいいですか?」
「美咲さんこそ、手慣れていますね」
「変装を崩すのは、変装するより簡単です」
「そうでしょうか」
「ええ。相手が守っている場所を見ればいい」
美咲は一歩踏み込んだ。
今度は顔。
蓮は避けようとしたが、美咲の手には小さな白い布があった。化粧落としを含ませた布だ。
頬をかすめる。
冷たい感触。
蓮は顔を背けた。
だが、頬の一部の化粧が落ちた。輪郭を柔らかく見せていた陰影が消え、玲奈の顔の中に、霧島蓮の骨格がわずかに戻る。
美咲は満足そうに見た。
「やっぱり」
蓮は低い声で言った。
「最初から疑っていたんですか」
「握手したときから」
「早いですね」
「あなたもでしょう」
「ええ。でも、あなたほど性格は悪くありません」
「それはどうでしょう」
蓮はクロスを捨て、距離を取った。
ウィッグはまだ完全には外れていない。だが固定は半分以上崩れている。メイクも一部落ちた。声も、完全な玲奈を保つには危うい。
それでも、まだ終わっていない。
蓮は自分のエプロンの紐へ手を伸ばした。
美咲が警戒する。
蓮は紐をほどき、エプロンを外した。軽く丸めて、左手に持つ。
「逃げやすくするためですか」
美咲が言う。
「戦いやすくするためです」
蓮はエプロンを投げた。
美咲は避ける。
その瞬間、蓮は棚の上の小箱を蹴った。
小箱が床に落ち、中から古いカードが散らばる。美咲の視線が一瞬だけ動く。蓮はそこへ踏み込み、美咲の手首をつかんだ。
美咲は細い。
だが、見た目ほど軽くない。体の軸が強い。
蓮はそのまま押し込もうとしたが、美咲は肩を回し、するりと抜けた。
代わりに、蓮のメイド服の脇の留め具へ指をかける。
ピンポイントだった。
美咲は、蓮の変装がどこで支えられているかを見抜いている。
胸元の補正パッドを固定していた内側のベルトが、引かれる。
服の上から整えられていた輪郭が、わずかに崩れる。
蓮は即座に押さえようとしたが、美咲はその反応を待っていた。
反対側から、腰回りの補正を固定する紐が抜かれる。
軽いパッドが一つ、メイド服の内側から床へ滑り落ちた。
布と道具で作られていた玲奈の輪郭が、少しずつ解体されていく。
蓮は表情を険しくした。
「趣味が悪いですね」
「戦術です」
「人の変装を壊すのが?」
「怪盗の装備を無力化しているだけです」
美咲は冷静だった。
その冷静さが、かえって蓮を苛立たせる。
蓮は、崩れたウィッグを片手で押さえながら後ろへ下がった。背中に台座が当たる。ガラス筒の中の月下の雫が、青白く光っている。
今、ここで美咲と争っている場合ではない。
宝石が目の前にある。
だが、宝石に手を伸ばせば、美咲に背中を見せることになる。
美咲も同じだ。
だから、まず相手を崩す。
蓮は、手元の袖口から予備の安全ピンを抜いた。
美咲が反応する。
その視線は、蓮の手元に向いた。
蓮は安全ピンを投げない。
逆に、自分のウィッグを押さえていた残りのピンを抜いた。
栗色のウィッグが完全に外れる。
床へ落ちた。
美咲が一瞬、動きを止める。
鏡のような月光の中に、玲奈ではない顔が現れた。
メイクはまだ半分残っている。
だが、髪と輪郭が消えれば、もう清楚な新人メイドではない。
そこにいるのは、女装を武器にした怪盗、霧島蓮だった。
蓮は低い声で言った。
「これで満足ですか」
美咲は、静かに笑った。
「霧島蓮。怪盗《霧影》」
「名前まで知っていましたか」
「有名ですから。変装で屋敷に入り込む怪盗。人を傷つけず、鍵だけを開ける。綺麗な仕事をする」
「褒めていますか」
「少しは」
「そうですか」
蓮は、床に落ちたウィッグを見なかった。
ここで拾えば、負けだ。
玲奈は崩れた。
だが、霧島蓮はまだ動ける。
美咲は言った。
「でも、綺麗な仕事だけでは、今夜は勝てません」
「あなたは、汚い仕事が得意そうですね」
「必要なら」
美咲は再び白い布を構えた。
蓮は動いた。
今度は逃げない。
踏み込む。
美咲は布を振る。
蓮は腕で受け、逆にその布をつかんだ。
引く。
美咲の体がわずかに前へ出る。
蓮はその瞬間、美咲のカチューシャに手を伸ばした。
美咲が目を見開く。
初めて、余裕が消えた。
蓮はカチューシャを狙ったのではない。
その下の固定点を狙った。
美咲が先ほど蓮にしたことを、そのまま返す。
黒髪の根元に指が届く。
硬い感触。
本物の髪ではない。
蓮は笑った。
「やっぱり」
美咲は後ろへ跳んだ。
だが、遅い。
黒いウィッグの固定ピンが一本抜けた。
髪がずれる。
美咲は即座に押さえた。
「乱暴ですね」
「戦術です」
「真似ですか」
「学習です」
蓮はもう一歩踏み込んだ。
美咲は距離を取ろうとする。
蓮は床に落ちていたクロスを蹴り上げる。
布が美咲の足元へ絡む。
美咲の姿勢がわずかに崩れた。
蓮はその隙に、美咲の頬へ手を伸ばした。
白い布は、まだ蓮の手にある。
美咲が蓮のメイクを落とすために使ったものだ。
蓮はそれを返した。
布が美咲の頬を拭う。
薄い化粧が落ちる。
美咲の顔の輪郭が変わった。
柔らかく見せていた線が消え、目元の印象が鋭くなる。
唇の色も少し薄くなり、作られていた「美咲」の顔が揺らいだ。
美咲は蓮の腕を払った。
だが、もう遅い。
蓮は、見た。
黒髪はウィッグ。
メイクは骨格を隠していた。
喉元には、声の響きを変えるための小さな補助具が隠されている。
腰と胸元の輪郭も、衣装と補正具で作られている。
美咲もまた、女ではない。
蓮は低い声で言った。
「あなたも、同じ穴の狢ですか」
美咲は、しばらく黙っていた。
そして、諦めたように笑った。
その笑い方は、さっきまでの美咲とは違った。
柔らかくない。
少し低く、乾いている。
「見破ったつもりですか」
「十分でしょう」
「まだ、名前は知らない」
「教えてくれますか」
「嫌です」
「では、こちらで呼びます。怪盗《黒蝶》」
美咲の目が、初めて明確に揺れた。
蓮は続けた。
「黒い糸。相手の動きを利用する罠。変装の支点を崩す手口。数年前、横浜の宝飾展で警備主任を出し抜いた怪盗がいましたね。通称、黒蝶。女だという噂でしたが」
美咲は、ゆっくりと黒いウィッグのピンを外した。
もう隠しきれないと判断したのだろう。
黒髪が床へ落ちる。
その下から現れたのは、短くまとめられた地毛だった。
メイクの半分が落ちた顔は、女装メイド美咲ではなく、若い男のものだった。
蓮より少し年上に見える。
目元は鋭く、口元には皮肉な笑みがある。
彼は喉元の補助具を外し、低めの声で言った。
「黒羽湊。怪盗《黒蝶》」
「やっぱり」
「得意げですね」
「少しは」
「褒めていません」
「分かっています」
二人は、互いに崩れた姿で向き合った。
蓮はウィッグを失い、メイクの一部を落とされ、補正具もいくつか外れている。清楚なメイド玲奈の輪郭は、もうない。
湊もまた、黒髪のウィッグを失い、化粧を拭われ、美咲としての端正な輪郭が崩れている。胸元や腰回りに仕込まれていた補正具の線も乱れ、ボリュームのあるメイド姿は、作られた装備だったことを隠せなくなっていた。
ただし、どちらも完全に裸にされたわけではない。
剥がされたのは、怪盗としての外装だ。
正体を隠すための道具。
相手を油断させるための形。
美しさは武器だった。
その武器が、互いの手で壊された。
蓮は言った。
「よくも、ここまで壊してくれましたね」
湊は答えた。
「先に宝石を取りに行けばよかったのに」
「あなたが邪魔をするからです」
「お互い様です」
二人の視線が、同時に台座へ向いた。
ガラス筒の中の月下の雫。
青白い光は、何事もなかったようにそこにある。
湊が先に動いた。
蓮も動く。
台座までは三歩。
一歩目、湊が床の溝を踏む。
二歩目、蓮が湊の肩をつかむ。
三歩目、二人の手が同時にガラス筒へ伸びる。
だが、ガラス筒は動かなかった。
ロックがかかっている。
湊が舌打ちした。
「銀板だけでは足りない」
蓮は周囲を見た。
台座の側面に小さな穴がある。
丸い。
何かを差し込む形。
蓮はすぐに思い出した。
青い花器。
銀の小箱。
時計。
彫像。
まだ、時計がない。
この旧収蔵庫には、時刻を示すものが必要だ。
蓮は奥の円形装置を見た。
光の線が、台座の上を少しずつ動いている。
今は、ガラス筒の左側を照らしている。
おそらく十一時ちょうどに、光が中央へ来る。
蓮は腕時計を見た。
十時五十九分。
あと数十秒。
湊も気づいた。
「一分後」
「その瞬間に開く」
「どちらが取るかですね」
「ええ」
蓮と湊は、互いから目を離さなかった。
五十九秒。
五十八秒。
五十七秒。
時間がやけに遅く流れる。
蓮は、頭の中で選択肢を並べた。
湊を押さえる。
宝石を取る。
銀板を奪う。
扉を開ける。
逃げ道を確保する。
全部は無理だ。
優先順位を決める。
一、宝石。
二、脱出。
三、湊の妨害。
四、変装の回復。
変装は、もう捨てる。
今夜の玲奈は終わった。
必要なら、別の顔で逃げればいい。
湊が言った。
「蓮さん」
「急に馴れ馴れしいですね」
「あなた、人を傷つけない主義でしたね」
「状況によります」
「では、今は?」
「あなた次第です」
「安心しました」
湊は笑った。
そして、床に落ちた蓮の胸元補正パッドを蹴った。
蓮の足元へ滑る。
蓮は一瞬、足を取られそうになった。
湊が踏み込む。
狙いは宝石ではない。
蓮の残った衣装の支点だ。
湊は、蓮のコルセットの外側に隠れた留め具へ指をかけた。
そこを外されれば、動きづらさは減るが、玲奈としての体型の維持は完全に崩れる。すでに崩れているとはいえ、さらに姿勢が変われば、逃走時に目立つ。
蓮は湊の手首をつかんだ。
「まだやりますか」
「崩せるものは崩します」
「しつこい」
「それが強みです」
蓮は湊の腕を引き、反対の手で湊の胸元に仕込まれた補正パーツの固定布をつかんだ。
湊の目が細くなる。
「そこですか」
「お返しです」
蓮は引いた。
湊のメイド服の内側で、形を整えていたパッドがずれた。作られていた曲線が乱れ、美咲の姿はさらに崩れる。
湊は眉をひそめた。
「乱暴ですね」
「戦術です」
「便利な言葉になりましたね」
互いに、もう遠慮はなかった。
ただし、動きは冷静だった。
怒りに任せているわけではない。
相手の変装を崩すことで、動作と心理の余裕を奪う。
それは怪盗同士の戦いとして、合理的だった。
十一時。
旧収蔵庫の奥で、小さな鐘の音が鳴った。
円形装置から伸びた光が、台座の中央を射抜く。
ガラス筒のロックが外れた。
蓮と湊が同時に動く。
蓮は宝石へ手を伸ばす。
湊は銀板を引き抜く。
一瞬、蓮は迷った。
宝石か。
銀板か。
宝石を取っても、銀板がなければ扉を開けられない可能性がある。
銀板を取れば、宝石は湊に渡る。
湊は、その迷いを作るために銀板を狙った。
蓮は宝石を選んだ。
指先が月下の雫へ届く。
冷たい。
だが、宝石に触れた瞬間、台座の側面から細い金属の輪が飛び出した。蓮の手首を拘束するほどではないが、動きを止めるには十分だった。
罠。
瑠璃子の罠だ。
湊が笑った。
「綺麗な仕事だけでは勝てませんよ」
湊は銀板を抜き、同時に別の薄い板を差し込んだ。
準備していたのだ。
台座の罠が一瞬だけ緩む。
湊は月下の雫をつかんだ。
蓮の手から、青白い光が離れる。
「黒蝶」
蓮は低く言った。
湊は、崩れたメイド姿のまま、優雅に一礼した。
「いただきます」
蓮は手首を外そうとする。
金属の輪は固い。
壊せないほどではないが、数秒かかる。
その数秒が致命的だった。
湊は月下の雫を小さな黒い布に包み、エプロンの内側へ入れた。さらに台座から銀板を回収する。
蓮は輪を外した。
だが、湊はすでに入口へ向かっている。
「逃げられると思いますか」
蓮が言う。
「逃げます」
「扉は閉まっています」
「銀板があります」
「それを奪います」
「できれば」
湊は鉄の扉へ向かった。
蓮は追う。
その瞬間、湊は床に落ちていた黒いウィッグを蹴り上げた。ウィッグが蓮の視界を遮る。蓮は払うが、その一瞬で湊は扉のくぼみに銀板を差し込んだ。
扉が開く。
湊は外へ出た。
蓮も続こうとする。
だが、湊は外側から銀板を抜いた。
扉が閉まり始める。
蓮は駆け込もうとした。
間に合わない。
重い鉄の扉が、蓮の目の前で閉じた。
暗闇。
旧収蔵庫に残されたのは、蓮一人だった。
いや、正確には、玲奈の残骸と霧島蓮だった。
床には栗色のウィッグ。
白いカチューシャ。
外れた補正パッド。
ずれたエプロン。
化粧の落ちた白い布。
そして、空になった台座。
蓮は、鉄の扉を見た。
「やってくれたな」
低い声が、地下に響いた。
完全に返り討ちにされた。
月下の雫は湊の手に渡った。
蓮の変装は崩された。
旧収蔵庫に閉じ込められた。
しかも、銀板は湊が持っている。
状況だけ見れば、負けだ。
だが、蓮は焦っていなかった。
焦れば、本当に負ける。
蓮はまず、床に落ちた自分の道具を拾った。ウィッグはもう使えない。固定ピンが何本も抜けている。補正パッドも散らばり、コルセットの留め具も一部外れている。メイクは半分落ち、玲奈の顔は戻らない。
蓮は、玲奈を捨てることにした。
残ったエプロンを外し、動きやすいようにメイド服の裾をまとめる。胸元や腰回りの補正具も、ずれているものは外した。作られた輪郭にこだわっている場合ではない。
怪盗として動く。
蓮は旧収蔵庫を見回した。
出口は鉄の扉だけではないはずだ。
こういう地下収蔵庫には、換気口、搬入口、非常通路がある。
宝石を保管するなら、火災や浸水に備えるはずだ。
蓮は奥の円形装置へ向かった。
月光を取り込む装置。
もしくは、それを装った光学装置。
その下に、整備用の小扉があった。
鍵はない。
ただし、固く閉じている。
蓮は床に落ちた安全ピンを拾い、曲げた。即席の工具にする。小扉の隙間へ差し込み、内部の爪を探る。
時間がかかる。
だが、開く。
カチ。
小扉が外れた。
中には、古い歯車と鏡があった。さらに奥に、狭い空間が続いている。人が通るにはきついが、蓮なら通れる。補正具を外していなければ無理だった。
湊が変装を崩したせいで、逃げ道に入れる。
皮肉だ。
蓮は苦笑した。
「失敗を利用する、か」
湊の言葉を思い出す。
使わせてもらう。
蓮は狭い整備通路へ身体を滑り込ませた。
石と金属の匂い。
埃。
古い油。
膝と肘が壁に当たる。
メイド服の布が引っかかりそうになるたび、蓮は慎重に押さえた。
通路は斜め上へ続いていた。
おそらく、西棟の壁裏へ出る。
蓮は進んだ。
一方、黒羽湊は鉄の扉の外で、深く息を吐いた。
美咲の姿は、もう半分以上壊れている。
黒いウィッグはない。
メイクは頬の一部が落ちている。
補正具もずれ、メイド服の輪郭は不自然になっている。
それでも、遠目にはまだ「乱れたメイド」で通るかもしれない。
湊は、月下の雫を包んだ黒い布を確認した。
確かな重み。
青白い光は布越しにもかすかに滲む。
本物かどうか。
それはまだ分からない。
白銀瑠璃子なら、ここまで来ても偽物を置く可能性がある。むしろ、ここに置いてあったからこそ偽物かもしれない。
だが、少なくとも蓮より先に取った。
その事実は大きい。
湊は銀板をしまい、階段を上がろうとした。
そのとき、背後で小さな音がした。
鉄の扉の内側ではない。
別の方向。
湊は振り返った。
壁の向こう、旧収蔵庫とは別の通路から、誰かが動く音がする。
蓮か。
早すぎる。
閉じ込めてから一分も経っていない。
湊は舌打ちした。
「本当にしつこい」
その声は、もう美咲のものではなかった。
湊は階段を駆け上がる。
床下通路の出口まで戻る。
上の廊下へ出れば、飾り棚の前だ。
そこで美咲の姿を整え直し、何食わぬ顔で自室へ戻る。
それが最善。
だが、床板を押し上げようとした瞬間、上から声がした。
「そこまでです」
黒崎の声だった。
湊は動きを止めた。
まずい。
今の姿では、出られない。
上には黒崎がいる。
もしかすると瑠璃子も。
湊は、手元の銀板を握った。
この通路には、別の出口があるはずだ。
なければ、瑠璃子や黒崎が使いづらすぎる。
湊は階段を戻らず、横の壁を探った。
石の一部に、わずかな隙間。
押す。
開かない。
引く。
動かない。
銀板を当てる。
カチリ。
壁の一部が開いた。
湊はそこへ身を滑り込ませた。
狭い横穴。
どこへ続くかは分からない。
だが、黒崎に出迎えられるよりはいい。
湊は進んだ。
蓮が整備通路から出た先は、西棟の壁裏だった。
狭い空間に、古い配管と新しい配線が混在している。白銀邸が時代ごとに改修され、古い仕掛けの上に現代の警備を重ねてきたことがよく分かる。
蓮は、耳を澄ました。
上から黒崎の声。
床下通路の出口付近にいる。
やはり、黒崎は知っていた。
いや、待っていた。
瑠璃子の指示か。
蓮は壁裏を進んだ。
途中で、小さな点検口を見つける。
覗くと、廊下が見えた。
飾り棚の前に、黒崎が立っている。
その隣に、白銀瑠璃子。
瑠璃子は紺色のドレスのまま、静かに床を見下ろしていた。
「出てこないわね」
瑠璃子が言った。
「中で止まったか、別の出口へ向かったかと」
黒崎が答える。
「二人とも?」
「おそらく」
「優秀ね」
瑠璃子は、楽しそうだった。
黒崎は眉をひそめる。
「奥様。危険です。あの二人は、ただの使用人ではありません」
「知っているわ」
「では、なぜここまで」
「見たかったの」
「何をですか」
「本物を前にしたとき、どちらが先に欲を出すか。どちらが相手を利用するか。どちらが自分の仮面を捨てられるか」
蓮は、点検口の内側で息を殺した。
仮面を捨てられるか。
瑠璃子は、すべて見ていたのか。
地下の旧収蔵庫にも監視があった可能性が高い。
蓮が変装を崩されたことも、湊が正体を見せたことも、月下の雫を取ったことも。
瑠璃子は知っている。
それでも騒がない。
警察を呼ばない。
なぜか。
黒崎が言った。
「宝石は」
「問題ないわ」
「では、あれは」
「餌よ」
瑠璃子は短く言った。
餌。
地下の台座にあった月下の雫も、餌。
蓮は内心で舌打ちした。
湊が奪ったものは、やはり本物ではない。
だが、瑠璃子が「問題ない」と言う以上、本物は別にある。
では、どこに。
展示室か。
書斎か。
瑠璃子自身が身につけているのか。
瑠璃子は青い花器に触れた。
「でも、餌に食いついた魚を、すぐ逃がすのはもったいないわね」
「捕らえますか」
「いいえ。少し泳がせましょう」
「危険です」
「黒崎」
「はい」
「危険なものほど、よく光るのよ」
蓮は、その言葉を聞きながら、静かに点検口から離れた。
今、出るべきではない。
黒崎と瑠璃子の前に、崩れた姿で出れば終わる。
まず、湊を追う。
湊は偽物を持っている。
だが、本人はまだ本物だと疑いながらも持ち続けるだろう。
その偽物が、次の罠の鍵になる可能性がある。
そして何より、湊には借りがある。
蓮は壁裏を進んだ。
横穴を抜けた湊は、旧洗濯室の裏に出た。
そこは現在使われていない部屋だった。
壁には古い洗い場が残り、棚には空の瓶や壊れた洗濯板が置かれている。
上へ続く小階段があり、おそらく使用人棟の裏へ出る。
湊は鏡代わりに、窓ガラスへ自分の姿を映した。
ひどい状態だった。
美咲はもういない。
黒髪のウィッグは失われ、メイクは半分落ち、補正具はずれている。服装も乱れている。これで誰かに会えば、説明のしようがない。
湊は冷静に判断した。
美咲として戻るのは無理だ。
ならば、別人になる。
湊はメイド服の上からエプロンを外し、袖口のレースを破らないように畳んだ。補正パーツのずれを直す時間はない。むしろ、全部外してしまった方が動きやすい。
胸元と腰回りのパッドを取り外し、布で包む。
コルセットの一部を緩める。
喉元の補助具を完全に外す。
残ったメイクを袖で軽く拭い、顔の輪郭を整える。
女装メイド美咲ではなく、黒羽湊として動く。
ただし、屋敷の中で男が一人増えれば目立つ。
だから、完全に表へは出られない。
湊は、月下の雫を包んだ布を確認した。
偽物かもしれない。
だが、偽物でも価値がある。
瑠璃子が餌として使ったなら、必ず意味がある。
そのとき、旧洗濯室の扉が小さく鳴った。
湊は振り返る。
蓮が立っていた。
ウィッグを失い、メイクの半分を落とされ、補正具も外している。清楚な玲奈の面影はほとんどない。だが、その崩れたメイド服のまま立つ姿は、妙に堂々としていた。
「追いつきました」
蓮が言った。
湊はため息をついた。
「閉じ込めたはずですが」
「あなたのおかげで、狭い通路を通れました」
「私のおかげ?」
「補正具を外してくれたでしょう。あのままだと引っかかっていました」
湊は一瞬黙り、それから笑った。
「失敗を利用されましたね」
「教えがよかったので」
「嫌な生徒です」
「優秀と言ってください」
「絶対に嫌です」
二人は、旧洗濯室で向き合った。
さっきまでの激しい攻防の続きのはずだった。
しかし、互いの変装が崩れた今、空気は少し違っていた。
玲奈と美咲ではない。
霧島蓮と黒羽湊。
同じ宝石を狙う怪盗同士。
蓮は言った。
「それ、偽物ですよ」
湊は表情を変えない。
「根拠は?」
「瑠璃子が言っていました。餌だと」
「聞いたんですか」
「ええ」
「盗み聞きが上手ですね」
「怪盗ですから」
「信用できませんね」
「でしょうね」
湊は布を開かなかった。
中身を確認しない。
確認した瞬間、偽物だと分かるかもしれない。
あるいは、罠が作動するかもしれない。
それを警戒している。
蓮は一歩近づいた。
「渡してください」
「嫌です」
「偽物ですよ」
「偽物でも、あなたに渡す理由はありません」
「では、半分ずつ調べましょう」
「宝石を?」
「情報を」
湊は蓮を見た。
「共同戦線の提案ですか」
「一時的に」
「信じる人は負けます」
「疑いながら組めばいい」
「器用ですね」
「あなたもできるでしょう」
湊は少し考えた。
そして、月下の雫らしきものを包んだ布を懐に戻した。
「条件があります」
「聞きます」
「まず、私の変装をこれ以上壊さないこと」
蓮は自分の崩れた服を見下ろした。
「先に壊したのはあなたです」
「だから、ここで終わりにしましょう」
「こちらにも条件があります」
「何ですか」
「私のウィッグを返してください」
「持っていません」
「黒いウィッグを蹴りましたね」
「あなたの栗色のウィッグは地下です」
「知っています」
「戻りますか?」
「戻りません」
蓮は短く答えた。
玲奈にはもう戻れない。
今夜は。
湊も同じだ。
美咲にはもう戻れない。
二人のメイドは、地下で死んだ。
残ったのは怪盗二人。
「本物はどこだと思いますか」
湊が言った。
蓮は即答しなかった。
瑠璃子は「問題ない」と言った。
展示室の宝石は本物ではない可能性がある。
地下の宝石も餌。
では、本物は最初からどこにも出ていないのか。
いや、披露会で客人たちに見せた宝石は、少なくとも本物に近い価値を持つものだった。そうでなければ、美術商や蒐集家の目をごまかせない。
本物は一瞬だけ出た。
その後、別の場所へ移された。
誰が触れたか。
瑠璃子と黒崎だけ。
宝石箱。
展示台。
床下機構。
旧収蔵庫。
餌。
蓮は言った。
「瑠璃子自身が持っている」
湊の目が細くなる。
「指輪?」
「晩餐会中、瑠璃子は青い石の指輪をしていました」
「月下の雫とは大きさが違うでしょう」
「石そのものではなく、収納器かもしれません」
「指輪に?」
「無理ではありません。月下の雫が外から見える形の宝石とは限らない。私たちが見せられたのは、カットされた外装か、保護用のケースかもしれない」
「つまり、本体はもっと小さい?」
「あるいは、分割できる」
湊は少し黙った。
「面白いですね」
「褒めていますか」
「少し」
「では、そちらの考えは?」
湊は旧洗濯室の棚にもたれた。
「私は、黒崎が持っていると思います」
「理由は?」
「瑠璃子は見せる人です。黒崎は運ぶ人です。宝石を本当に安全に移すなら、目立つ瑠璃子ではなく、誰もが『管理して当然』と思う黒崎に持たせる」
「黒崎なら、宝石箱を持っていても不自然ではない」
「ええ。むしろ自然です」
蓮は頷いた。
どちらもあり得る。
瑠璃子自身か。
黒崎か。
あるいは、その両方を使った二重のすり替えか。
湊は言った。
「では、分かれますか」
「分かれた瞬間、あなたは逃げるでしょう」
「あなたもでしょう」
「なら、一緒に行くしかない」
「どちらへ?」
蓮は答えた。
「瑠璃子の書斎です」
湊は笑った。
「正面突破ですか」
「まさか。壁裏から行きます」
「道を知っているんですか」
「さっき通りました」
「本当にしつこい」
「強みです」
湊は、少しだけ楽しそうに見えた。
「では、案内してください。霧影さん」
「その呼び方はやめてください。黒蝶さん」
「お互い様ですね」
二人は、旧洗濯室の裏から壁裏通路へ入った。
壁裏の通路は、二人で通るには狭かった。
先に蓮。
後ろに湊。
互いに、完全には信用していない。
蓮は背後を警戒し、湊は前を歩く蓮の手元を見ている。
湊が小声で言った。
「その格好、寒くありませんか」
「今さら気遣いですか」
「風邪を引かれると、逃げ足が鈍ります」
「心配の仕方が独特ですね」
「怪盗ですから」
「便利な言葉です」
二人は、古い配管の間を抜けた。
途中、蓮は足を止める。
壁の向こうから声が聞こえた。
黒崎だ。
「奥様。床下通路の反応が消えました」
「二人とも出たのね」
瑠璃子の声。
近い。
書斎だ。
蓮は点検口の隙間から中を覗いた。
瑠璃子は机の前に立っていた。黒崎は扉の近くにいる。机の上には、小さな宝石箱が置かれている。
その宝石箱は、展示室で見たものとは違う。
もっと小さい。
黒い漆塗りで、銀の月紋がある。
蓮は湊に目で合図した。
湊も覗き込む。
瑠璃子が言った。
「黒崎。あなたは下がって」
「しかし、奥様」
「大丈夫よ」
「怪盗二人が屋敷内にいます」
「だから面白いの」
「奥様」
「分かっているわ。月下の雫は安全。あの子たちに盗める場所には置いていない」
蓮は、宝石箱を見た。
あからさますぎる。
机の上の宝石箱は、また餌かもしれない。
だが、黒崎の態度を見る限り、重要なものではある。
瑠璃子は指輪を外した。
青い石の指輪。
それを宝石箱の横に置く。
そして、指輪の台座をひねった。
小さな音。
指輪の石が外れ、中からさらに小さな透明な粒が現れた。
蓮は息を止めた。
月下の雫。
展示されていた大粒の宝石ではない。
その中心部に収められていた、核のような小石。
青白い光の源。
瑠璃子はそれを小さな銀の容器へ移した。
湊の口元が動く。
当たり。
蓮の推測が当たっていた。
展示された「月下の雫」は、外装と光学ケースを含む装飾体。
本物の価値は、その中心部にある小さな石。
瑠璃子はそれを指輪に隠していた。
黒崎が言った。
「それを出されるのは危険です」
「必要なの。あの二人に最後の餌を見せるには」
「まだ試すおつもりですか」
「ええ」
「なぜそこまで」
瑠璃子は、少しだけ黙った。
そして言った。
「月下の雫を守るには、ただ隠すだけでは足りない。欲しがる者がどう動くかを知らなければならないわ。警備会社は壁を作る。でも、怪盗は壁の意味を読む。なら、私は怪盗を読まなければならない」
「そのために、二人を屋敷へ入れたと?」
「ええ」
蓮は、湊を見た。
湊も蓮を見た。
二人とも、同じ結論に至った。
最初からだ。
瑠璃子は、玲奈と美咲の正体を完全に見抜いていたか、少なくとも疑っていた。その上で、二人を雇い、月下の雫を餌に、屋敷の警備と怪盗の能力を試していた。
怪盗同士の勝負だと思っていた。
だが、本当の盤面の外側には、瑠璃子がいた。
黒崎が退出する。
書斎に瑠璃子一人。
机の上には、本物の月下の雫。
蓮と湊は、壁裏で息を殺した。
湊が小声で言う。
「どうします」
「あなたなら?」
「行きます」
「でしょうね」
「あなたは?」
「行きます」
「同じですね」
「怪盗ですから」
蓮は点検口の留め具に手をかけた。
湊が止める。
「待って」
「何ですか」
「あからさますぎます」
「罠でしょうね」
「それでも行く?」
「罠だからこそ、罠の中心に本物がある」
「同感です」
「では」
「同時に」
二人は点検口を外した。
音は最小限。
書斎の本棚の裏から、蓮と湊が滑り出る。
瑠璃子は驚かなかった。
椅子に座ったまま、二人を見た。
崩れたメイド服。
ウィッグを失った顔。
落ちたメイク。
外れた補正具。
玲奈でも美咲でもない二人。
瑠璃子は微笑んだ。
「ずいぶん、さっぱりしたわね」
蓮は低い声で言った。
「白銀瑠璃子さん。月下の雫をいただきに来ました」
湊も続いた。
「同じく」
「二人で?」
「一時的に」
蓮が答える。
「仲がいいのね」
「悪いです」
湊が即答した。
瑠璃子は楽しそうに笑った。
「そう。では、どちらが持っていくのかしら」
机の上に、小さな銀の容器。
その中に、本物の月下の雫。
蓮と湊は同時に動いた。
しかし、瑠璃子の指が机の下のボタンを押す方が早かった。
書斎の扉が自動で閉じる。
窓のシャッターが下りる。
本棚の前に細い金属格子が落ちる。
閉じ込められた。
瑠璃子は言った。
「第四試験よ」
「まだ試験ですか」
蓮が言う。
「ええ。ここまで来た怪盗が、最後に何を選ぶか。宝石か、逃走か、相手を売るか」
湊は目を細めた。
「悪趣味ですね」
「よく言われるわ」
瑠璃子は、銀の容器を手に取った。
「ただし、一つ訂正しておくわ。あなたたちが地下で奪い合った宝石は、偽物ではないの」
蓮と湊の表情が変わる。
瑠璃子は続けた。
「あれは、月下の雫の外殻。価値はあるわ。でも、本体ではない。今ここにある小さな石が核。二つ揃って初めて、本来の月下の雫になる」
湊が懐の布を押さえた。
つまり、湊が持っているものは完全な偽物ではない。
外殻。
そして瑠璃子の手にあるのが核。
二つ揃えれば、本物の月下の雫。
瑠璃子は言った。
「黒蝶さん。あなたが持っている外殻を出しなさい」
湊は黙っている。
「出さないなら、ここから出られないわ」
蓮は湊を見た。
「持っているんですね」
「ええ」
「出しますか」
「出すと思いますか」
「思いません」
「正解です」
瑠璃子は溜息をついた。
「若い怪盗は強情ね」
蓮は書斎の構造を見た。
扉は閉鎖。
窓も閉鎖。
本棚側の格子も閉じた。
天井に換気口。狭い。
床に絨毯。
机の下に制御ボタン。
瑠璃子の手に核。
湊の懐に外殻。
脱出には、瑠璃子の制御を止める必要がある。
宝石を取るには、湊の外殻と瑠璃子の核が必要。
つまり、ここで三者の奪い合いになる。
湊が小声で言った。
「蓮さん」
「何ですか」
「一時休戦を延長します」
「条件は」
「核はあなたが取り、外殻は私が持つ。脱出後に交渉」
「信用できません」
「私もです」
「では、成立ですね」
二人は同時に動いた。
蓮は瑠璃子へ。
湊は机へ。
瑠璃子は年齢を感じさせない速さで椅子を引いた。蓮の手が届く寸前、机の上のランプが倒れ、視界を遮る。
湊は机の下の制御盤へ手を伸ばす。
その瞬間、床から細い警報音。
黒崎が来る。
時間がない。
蓮はランプを避け、瑠璃子の手首を狙う。
瑠璃子は銀の容器を握ったまま後ろへ下がる。
意外なほど冷静で、恐れていない。
「いい動きね、霧影さん」
「試験中に褒めないでください」
「褒めていないわ」
「でしょうね」
蓮の指が銀の容器に触れる。
瑠璃子は手を開いた。
容器が落ちる。
蓮は受け止めようとする。
だが、落ちた容器は床に触れた瞬間、二つに割れた。
中は空。
蓮は目を見開いた。
また餌。
瑠璃子の本当の核は、まだ別の場所。
湊が叫んだ。
「蓮!」
制御盤が開き、湊が格子を上げようとしている。
だが、その背後に黒崎が現れた。
扉が開いたのではない。
隠し扉だ。
黒崎は、すでに書斎の中にいた。
湊が反応するより早く、黒崎が湊の手首を押さえる。
湊は外殻を守るため、懐へ手を入れる。
その隙に、瑠璃子が近づいた。
彼女の指には、別の指輪。
小さな銀の指輪。
その石座が開いている。
蓮は理解した。
本物の核は、最初の青い指輪ではない。
もう一つの指輪。
瑠璃子は、囮の指輪を外し、本物の指輪を残していた。
何重にも餌を置く女。
蓮は笑った。
「本当に、性格が悪い」
瑠璃子は微笑んだ。
「よく言われるわ」
湊が黒崎の手を振りほどく。
蓮は瑠璃子へ踏み込む。
だが、その瞬間、書斎の外で大きな音がした。
誰かが廊下を走っている。
紗枝の声。
「黒崎さん! 西棟の警報が!」
黒崎の顔色が変わった。
西棟の警報。
第三者か。
客人の誰かが残っていたのか。
それとも、瑠璃子のさらなる仕掛けか。
瑠璃子も、初めて表情を変えた。
「予定外ね」
その一瞬。
蓮と湊は同時に動いた。
蓮は瑠璃子の手から銀の指輪を抜き取る。
湊は黒崎の隙を突いて格子を上げる。
完全には開かない。
だが、人ひとりが通れる隙間はできた。
「蓮!」
湊が叫ぶ。
蓮は指輪を握り、格子の隙間へ飛び込む。
湊も続く。
黒崎が追う。
瑠璃子の声が背後から響いた。
「逃げなさい。けれど、まだ終わりではないわ」
蓮は振り返らなかった。
壁裏通路へ戻る。
湊が後ろで言う。
「指輪は?」
「取りました」
「核は?」
「確認していません」
「外殻は私が持っています」
「知っています」
「これで二つ揃いましたね」
「あなたが逃げなければ」
「あなたが奪わなければ」
二人は狭い通路を走った。
背後から黒崎の足音。
西棟では警報。
どこかで警備員の声。
白銀邸全体が、ついに目を覚ました。
蓮は、崩れたメイド服のまま走りながら考えた。
状況は最悪に近い。
玲奈の変装は壊れた。
美咲の変装も壊れた。
瑠璃子には正体を見られた。
黒崎にも見られた。
警報も鳴っている。
だが、手元には本物の核かもしれない指輪。
湊の手には外殻。
月下の雫は、まだ完全には誰のものでもない。
廊下へ出る直前、湊が蓮の腕をつかんだ。
「待って」
「何ですか」
「そのまま出たら、終わります」
「分かっています」
「なら」
湊は、自分の崩れたメイド服を見下ろした。
そして、蓮を見た。
「もう一度、仮面を作ります」
「この状態で?」
「完全でなくていい。人は、見たいものを見る」
蓮は一瞬だけ黙った。
それは正しい。
蓮と湊は、壁裏の狭い空間で、互いの服を最低限整えた。
ウィッグはない。
化粧も崩れている。
補正具も足りない。
だが、遠目に見れば、晩餐会の片付けで乱れた使用人に見えなくもない。
蓮は、残った布で顔の片側を隠す。
湊は、黒い布を頭に巻き、髪を隠す。
胸元と腰回りの崩れは、エプロンとクロスでごまかす。
完璧ではない。
だが、数秒なら通用する。
蓮は言った。
「ひどい出来ですね」
湊は答えた。
「あなたも」
「褒めていません」
「分かっています」
二人は廊下へ出た。
警報の赤い光が、白銀邸の壁を染めていた。
第四話の夜は、まだ終わらない。
しかし、清楚な新人メイド玲奈と、端正な新人メイド美咲は、もうどこにもいなかった。
そこにいるのは、仮面を剥がされ、それでもなお宝石へ手を伸ばす二人の怪盗だった。
そして二人の手には、月下の雫を完成させるかもしれない、二つの欠片が握られていた。




