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第三話 月下の雫、消える

 晩餐会当日の白銀邸は、朝から音が違っていた。


 普段なら、使用人棟から順に目覚めていく屋敷の音は、控えめで、几帳面で、どこか抑制されている。

 しかしその日は、まだ夜明けの薄青い光が中庭に残っているうちから、厨房では鍋が鳴り、廊下では足音が交差し、銀器を磨く布のこすれる音が絶えなかった。


 白銀瑠璃子が所有する宝石、月下の雫。


 それが今夜、招待客の前に披露される。


 屋敷の誰もが、その一事のために動いていた。


 玲奈――怪盗《霧影》こと霧島蓮も、その中にいた。


 鏡台の前で、蓮はゆっくりと息を吐いた。


 鏡の中には、清楚な新人メイドが座っている。

 栗色の髪は白いカチューシャで整えられ、柔らかな前髪が額にかかる。

 目元の化粧は控えめで、唇の色も淡い。

 黒のメイド服は、白銀邸の規則通りに隙なく着られていた。


 ただし、完璧すぎてはいけない。


 蓮は、髪の一筋をわずかに崩した。

 エプロンの紐は左右対称にしすぎない。

 胸元や腰まわりの補正は、動いたときに不自然に見えない位置へ微調整する。

 コルセットの締め方も、昨日よりわずかに緩めた。


 今夜は長い。


 給仕。

 客人誘導。

 展示室前の準備。

 披露後の片付け。


 そのどこかで、蓮は月下の雫に手を伸ばす。


 だが、問題は宝石だけではない。


 美咲。


 もう一人の新人メイド。

 黒髪で、端正で、落ち着いた所作を持つ女。

 いや、女と断定するには、まだ早い。

 蓮はそう判断していた。


 美咲の動きは、使用人のものではない。

 視線の使い方、力の隠し方、距離の取り方、罠の置き方。

 すべてが、同業者のそれだった。


 おそらく、月下の雫を狙っている。


 そして、蓮の変装にも気づきかけている。


 蓮は鏡の中の玲奈を見つめた。


 今夜、月下の雫を盗むだけなら、難しくはない。

 難しいのは、美咲より先に盗み、美咲に奪われず、瑠璃子の罠を越えて、この屋敷から出ることだ。


 蓮は小さな裁縫箱を開けた。


 そこには、昨日まで美咲が仕込んでいた発信機入りの安全ピンはもうない。

 美咲が回収した。

 その代わり、蓮は同じ形の安全ピンを三本用意していた。


 一本はただの安全ピン。

 一本は軽い重り入り。

 一本は、細い糸を通すための加工を施したもの。


 実用的な道具ではある。

 だが、それ以上に、相手の目を引くための餌だった。


 美咲は必ず見る。

 玲奈の胸元、袖口、エプロンの裏。

 そこに何があるか、何がないか。


 ならば、見せる。


 見せたものを読ませ、読ませた上で外す。


 蓮は加工した安全ピンを、エプロンの裏側ではなく、袖口の内側へ留めた。

 見つけられる位置。

 だが、すぐには触れにくい位置。


 扉の外で、床が鳴った。


 蓮は手を止めた。


 二回のノック。


「玲奈さん。起きていますか」


 美咲の声だった。


 早い。


 蓮は立ち上がり、玲奈の声で答える。


「はい。今、支度が終わったところです」


 扉を開ける。


 廊下には、美咲が立っていた。


 黒髪はいつも通り整っている。

 白いエプロンは清潔で、袖口にも乱れがない。

 だが、胸元には昨日の安全ピンがなかった。


 見せていたものを、消した。


 蓮はそれに気づかないふりをした。


「おはようございます、美咲さん」


「おはようございます、玲奈さん。今日は大事な日ですね」


「はい。緊張しています」


「そうは見えません」


「顔に出にくいだけです」


「便利ですね」


「美咲さんも、落ち着いていらっしゃいます」


「私も、顔に出にくいだけです」


 二人は同じように笑った。


 朝の廊下には、まだ誰もいない。

 薄暗い窓から差し込む光が、二人のメイド服の白い部分だけを浮かび上がらせていた。


「今日の役割表、覚えていますか」


 美咲が尋ねた。


「はい。十八時三十分に準備室待機、十九時に展示室前補助、十九時十五分に披露用クロス確認、十九時三十分に客人誘導補助、二十時に展示後片付け補助です」


「完璧ですね」


「忘れて失敗したくありませんから」


「玲奈さんは、失敗が嫌いなんですね」


「誰でも、仕事で失敗はしたくないと思います」


「そういう意味ではなくて」


 美咲は一歩近づいた。


 廊下の空気が、少しだけ狭くなる。


「玲奈さんは、失敗を怖がっているというより、失敗する自分を許せないように見えます」


 蓮は、玲奈として少し困った顔を作った。


「そこまで大げさではありません」


「そうですか」


「美咲さんは?」


「私?」


「失敗は、お嫌いですか」


 美咲は、ふっと目を細めた。


「嫌いです。でも、失敗を利用するのは好きです」


 蓮は微笑を保った。


「難しいことをおっしゃいますね」


「そうでしょうか」


「はい。私には、まだ」


「玲奈さんなら、すぐ分かりますよ」


 美咲はそう言い、階段の方へ歩き出した。


「行きましょう。紗枝さんに叱られます」


「はい」


 蓮は半歩後ろを歩きながら、美咲の背中を見た。


 失敗を利用する。


 それは、警告か。

 予告か。

 あるいは、今夜の勝負の方針か。


 蓮は袖口の安全ピンの位置を意識した。


 今夜、美咲は必ず仕掛けてくる。


 控室では、紗枝がすでに待っていた。


 テーブルの上には、晩餐会の進行表、配膳表、客人名簿、食器配置図が広げられている。

 料理長は厨房から何度も顔を出し、庭師は外の照明確認に向かう準備をしていた。

 黒崎は、いつもよりさらに硬い表情で立っている。


「全員、聞いてください」


 黒崎の声で、控室の空気が締まった。


「本日は、白銀家にとって重要な晩餐会です。客人は十六名。十九時三十分から月下の雫の披露があります。使用人は各自の持ち場を離れないこと。不審な人物、不審な物音、不自然な移動があれば、即座に私へ報告してください」


 黒崎の視線が、一瞬だけ玲奈と美咲を通過した。


「特に西棟では、許可された行動以外を禁じます。展示室の扉、展示台、宝石箱には触れないこと」


「はい」


 全員が答える。


 蓮も、美咲も、同じ声で返事をした。


「玲奈さん、美咲さん」


「はい」


「あなた方は奥様から直接役割を与えられています。客人誘導、展示室前補助、片付け補助。いずれも失敗は許されません」


「承知いたしました」


 玲奈が言う。


「承知いたしました」


 美咲も続く。


 黒崎は頷いた。


「では、準備に入ってください」


 その瞬間から、白銀邸は一段階速く動き出した。


 玲奈は午前中、客間の最終清掃を任された。


 磨かれた床。

 整えられた椅子。

 花瓶の角度。

 カーテンのひだ。

 客人が通る廊下の照明。

 銀器棚の埃。

 全てを確認する。


 だが、蓮の意識は別の場所にも向いていた。


 青い花器の飾り棚。


 昨日、美咲が銀の小箱を押し、棚の奥で小さな音がした。

 あれは仕掛けの一部である。

 しかし、棚は動かなかった。

 もう一つの解除点がある。


 蓮は、廊下の花を整えるふりをして飾り棚へ近づいた。


 青い花器。

 銀の小箱。

 古い時計。

 小さな彫像。


 今日は、昨日と配置が違う。


 いや、違うように見えるだけか。


 蓮は視線だけで確認した。


 銀の小箱が、昨日より一ミリほど奥にある。

 彫像の向きが、わずかに右へ傾いている。

 時計の針は止まっている。

 昨日は三時十五分だった。

 今日は、六時三十分。


 動かしたのは誰か。


 黒崎か。

 瑠璃子か。

 美咲か。


 六時三十分。


 今日、玲奈と美咲が準備室へ待機する時刻。

 偶然ではない。


 蓮は、布巾を動かしながら考えた。


 時計の針が解除点か。

 銀の小箱を押し、時計を特定の時刻へ合わせる。

 さらに青い花器が関係する。


 しかし、触れられない。


 ここで動かすのは危険だ。

 昼間は人が多い。

 今夜、披露会が始まり、使用人も客人も動き回る時間帯なら、かえって隙ができる。


「玲奈さん」


 紗枝の声。


 蓮は振り返った。


「はい」


「廊下の確認は終わりましたか」


「はい。こちらは問題ありません」


「では、厨房へ。料理長が人手を欲しがっています」


「承知いたしました」


 蓮は飾り棚から離れた。


 そのとき、廊下の角に黒髪が一瞬見えた。


 美咲だ。


 こちらを見ていた。


 蓮は気づかないふりをして、厨房へ向かった。


 厨房は戦場だった。


 白銀邸の厨房は広い。

 大きな作業台が二つ。

 壁には銅鍋が並び、奥にはオーブンと冷蔵室がある。

 料理長は普段の穏やかさを半分捨て、鋭い声で指示を飛ばしていた。


「玲奈さん、そこにある白い皿を拭いて。指紋を残さないでね」


「はい」


「美咲さん、グラスの数を確認。割れているものがないか見て」


「承知しました」


 美咲も厨房にいた。


 二人は同じ作業台を挟んで向かい合う形になった。


 白い皿を拭く玲奈。

 グラスを確認する美咲。


 料理長や紗枝の目があるため、余計な会話はできない。

 だが、会話がなくても、探り合いはできる。


 美咲はグラスの縁を指で確かめながら、時折、玲奈の袖口を見た。


 見ている。


 安全ピンに気づいたか。


 蓮は、あえて袖口を少しだけ見せるように皿を持ち替えた。

 美咲の目が、一瞬だけ細くなる。


 餌を見つけた目だ。


 蓮は、内心で頷いた。


 美咲は必ず取りにくる。

 安全ピンの中身を確かめにくる。

 そこで、こちらも美咲の袖口か胸元に何かがないか確認できる。


 しかし、美咲はすぐには動かなかった。


 代わりに、グラスを一つ持ち上げて言った。


「料理長、こちらのグラス、縁に小さな欠けがあります」


「あら、本当。よく見つけたわね。これは下げましょう」


 料理長がグラスを受け取る。


 美咲はその流れで、作業台の下へ視線を落とした。


 蓮も見た。


 床に、小さな紙片が落ちている。


 誰かのメモか。

 それとも、美咲が落としたものか。


 玲奈は皿を拭きながら、一歩移動した。


 靴先で紙片を隠す。


 美咲の視線が玲奈へ向く。


 蓮は微笑んだ。


 これは、こちらが拾う。


 美咲の目が、笑った。


 どうぞ、と言っているようだった。


 料理長が別の作業へ向かった瞬間、蓮は皿を置き、布巾を落とした。


「あ」


 自然に屈む。


 布巾と一緒に、紙片を拾う。


 手の中に収める。


 立ち上がる。


「失礼いたしました」


「気をつけてね」


「はい」


 紙片は、手の中で折りたたまれている。


 蓮はすぐには見ない。


 美咲は何も言わない。


 だが、二人の間で一つの取引が成立した。


 美咲は紙片を見せた。

 玲奈は拾った。

 つまり、美咲は玲奈に何かを伝えようとしている。


 罠かもしれない。

 だが、罠も情報である。


 厨房の作業が一段落したあと、蓮は洗い場へ向かった。

 手を洗うふりをして、紙片を開く。


 そこには、短くこう書かれていた。


 六時半、棚。


 それだけだった。


 蓮は、すぐに紙片を水で濡らし、指先で崩した。


 六時半、棚。


 青い花器の棚。

 時計の針が六時三十分を示していた。

 準備室待機の時刻も十八時三十分。


 美咲は、飾り棚の仕掛けを動かすつもりだ。


 なぜ知らせる。


 共闘の誘いか。

 罠への誘導か。

 それとも、玲奈を巻き込んで罪を分散させるためか。


 蓮は手を拭き、厨房へ戻った。


 美咲は、何事もなかったようにグラスを磨いていた。


 蓮はその隣に立ち、小さな声で言った。


「落とし物、処分しておきました」


 美咲は手を止めない。


「助かります」


「大切なものだったのですか」


「いいえ。必要なものです」


「そうですか」


「玲奈さんは、必要なものと大切なものを分ける方ですか」


「場合によります」


「私は、必要なものは大切にします」


「合理的ですね」


「怪我をしないためです」


 美咲はそう言い、グラスを棚に戻した。


 怪我をしないため。


 また警告だ。


 六時半、棚。

 来るなら来い。

 ただし、怪我をしないように。


 蓮は思った。


 挑発にしては親切すぎる。

 共闘にしては信用が足りない。


 やはり、美咲の目的は読めない。


 午後五時を過ぎると、白銀邸は晩餐会の顔になった。


 門から玄関までの道には照明が灯り、庭の噴水が動き出した。

 正面玄関には赤い絨毯が敷かれ、客人を迎えるための花が飾られる。

 客間には控えめな音楽が流れ、廊下には香のような淡い匂いが漂っていた。


 玲奈と美咲は、玄関ホール近くで客人用の手袋とクローク札を確認していた。


 客人は六時から到着し始める。


 一人目は、白髪の紳士。

 二人目は、美術商らしい中年の女性。

 三人目は、若い実業家。

 その後も、蒐集家、評論家、財団関係者、白銀家と古くから関係のある人物が続く。


 蓮は、給仕をしながら客人の顔と名前を照合した。


 全員が招待客か。

 偽名の人物はいないか。

 美咲の仲間が紛れていないか。

 瑠璃子の用意した監視役はいないか。


 怪しい人物は、三人。


 一人は、美術商の女性。

 指輪が多すぎる。

 手袋を外す回数が多い。

 何かを触る癖がある。


 一人は、若い実業家。

 屋敷の美術品より、廊下のカメラを見ている。


 一人は、評論家。

 杖をついているが、足取りが一定しすぎている。

 杖が本当に必要か疑わしい。


 しかし、今夜の最大の敵は客人ではない。


 美咲だ。


 美咲は完璧に働いていた。


 客人へ微笑む角度。

 飲み物を差し出す距離。

 名前を呼ぶタイミング。

 誰かが振り返る前に、すでに半歩下がっている。


 その姿は、まさに優秀なメイドだった。


 ただし、蓮だけには分かる。


 美咲は常に西棟への動線を意識している。

 客人を誘導しながら、廊下の混雑、黒崎の位置、瑠璃子の視線、警備員の巡回を測っている。


 十八時二十五分。


 黒崎が玲奈と美咲を呼んだ。


「準備室へ向かいます」


「はい」


 二人は同時に返事をする。


 廊下を進む。


 東棟から西棟へ向かう途中、飾り棚がある。


 青い花器。

 銀の小箱。

 古い時計。

 小さな彫像。


 時計の針は、六時三十分を指している。


 美咲が歩きながら、ほんのわずかに速度を落とした。


 蓮も合わせる。


 黒崎は前を歩いている。

 振り返らない。


 今か。


 美咲の手が、布巾を直すふりをして銀の小箱へ伸びる。


 蓮は同時に、水差しを持ち替えるふりをして彫像の向きを直した。


 カチリ。


 小箱の音。


 続いて、時計の内部で細い歯車が動く音。


 最後に、棚の奥で低い音がした。


 青い花器が、ほんのわずかに沈んだ。


 棚は動かない。


 だが、蓮の足元で床がかすかに震えた。


 仕掛けは飾り棚そのものではない。

 別の場所を動かしたのだ。


 準備室の床。


 蓮は直感した。


 美咲も同じはずだ。


 黒崎が西棟の扉を開ける。


 電子音。

 鍵の音。

 扉が開く。


 準備室へ入る。


 室内は昨日と同じように整えられていた。


 花器。

 燭台。

 白いクロス。

 奥の展示室扉。

 赤い紐。


 ただし、床の溝が、ほんのわずかに開いている。


 花器と燭台の影に隠れて、普通の目には分からない。

 だが、蓮には見えた。


 美咲も見た。


 黒崎は気づいているのか。

 いや、気づいているとしても表情に出さない男だ。


「十九時に奥様がこちらへ来られます。それまで、クロスと燭台の最終確認を」


「承知いたしました」


 黒崎は準備室の扉の外へ出た。

 完全には離れない。

 だが、室内には玲奈と美咲だけが残る。


 美咲はすぐには動かなかった。


 蓮も動かない。


 二人は、まず本来の仕事を始めた。


 クロスのしわを伸ばす。

 燭台の位置を整える。

 花器の向きを確認する。

 展示室扉の前には近づかない。


 カメラが回っている。


 天井の隅。

 壁の装飾の中。

 扉の上。


 見られている。


 美咲が低く言った。


「床、見ましたか」


 蓮は、クロスを整えながら答える。


「何のことでしょう」


「意地悪ですね」


「仕事中ですから」


「では、仕事の話を。そちらの燭台、少しずれています」


「ありがとうございます」


 玲奈は燭台へ近づく。


 その位置からなら、床の溝が見える。


 溝は、準備室中央の花器の下から、展示室扉の手前まで伸びていた。

 おそらく、床下の小型昇降台。

 宝石箱を地下から上げるための通路かもしれない。


 美咲が花器の位置を直すふりをする。


 花器の台座の下に、細い金属板が見えた。


 美咲はそれに触れない。


 触れれば、監視に映る。


 蓮は、袖口の安全ピンを外した。


 落としたふりをして床へ落とす。


 小さな音。


「あ」


 玲奈は屈む。


 安全ピンは床の溝の近くに落ちている。


 蓮は拾う瞬間、溝の隙間へ細い糸を滑り込ませた。

 どこへつながっているかを知るためではない。

 この後、床が動いたかどうかを知るための印だ。


 美咲が横から言う。


「玲奈さん、袖口が少し」


「すみません。引っかかってしまって」


 美咲の手が伸びる。


 袖口を直すふりをして、蓮の安全ピンを見ようとする。


 蓮は、あえて拒まなかった。


 美咲の指が袖口に触れる。


 ほんの一瞬。


 美咲は、安全ピンが加工品であることに気づいただろう。

 しかし、中身までは分からない。


 その代わり、蓮も見た。


 美咲の袖口の内側。


 そこに、黒い糸が一本縫い込まれている。

 ただの縫い糸ではない。

 強度のある細い糸。

 何かを引くためのものだ。


 美咲も、床か扉に何かを仕掛けるつもりだ。


「直りました」


 美咲が言う。


「ありがとうございます」


「今日はよく引っかかりますね」


「緊張しているのかもしれません」


「玲奈さんが?」


「はい」


「それは大変」


 二人は微笑み合った。


 十九時。


 準備室の扉が開く。


 白銀瑠璃子が現れた。


 紺色のドレスを着ている。

 首元には真珠。

 髪は美しくまとめられ、指には青い石の指輪が光っていた。


 その後ろに黒崎。


 さらに、黒い小箱を持った警備員が二人。


 蓮は、その小箱を見た。


 宝石箱。


 いや、宝石箱を入れた保護ケースか。


 思ったより小さい。

 だが、重そうだ。

 警備員の手首に負担が出ている。


 美咲の視線も、同じ小箱へ向いた。


 瑠璃子は二人を見た。


「準備は?」


「整っております」


 玲奈が答える。


「同じく、確認済みです」


 美咲が続く。


「そう」


 瑠璃子は、準備室をゆっくり見回した。


 床の溝。

 花器の位置。

 燭台。

 クロス。


 彼女はすべて見えているようだった。


「展示室を開けます」


 黒崎が展示室扉の前へ進む。


 カードをかざす。

 鍵を回す。

 暗証操作を行う。


 蓮は細部を見ないようにした。

 見すぎれば怪しまれる。

 しかし、音と時間は記憶した。


 扉が開いた。


 展示室の中は、薄暗かった。


 中央に展示台。

 天井から落ちる柔らかな照明。

 壁には小さな絵画。

 床は黒に近い石材。

 展示台の周囲には見えない警備線が張られているはずだ。


 警備員が小箱を展示台の近くへ運ぶ。


 瑠璃子が言った。


「玲奈さん、美咲さん。あなたたちはここまで。中へは入らないで」


「はい」


 二人は準備室側で控える。


 黒崎と瑠璃子だけが展示室へ入った。

 警備員は入口で待機する。


 展示台の上で、小箱が開かれる。


 その瞬間、青白い光がこぼれた。


 月下の雫。


 蓮は、息を止めかけた。


 宝石は、想像より静かだった。


 派手に輝くのではない。

 光を内側に抱え、ゆっくりと返す。

 青く、白く、冷たく、それでいてどこか生き物のように見える。


 なるほど。


 蓮は思った。


 これは、盗まれるためにある。


 美しいものは、人の理性を削る。

 価値があるから盗むのではない。

 盗みたいと思わせるから価値がある。


 隣で、美咲も月下の雫を見ていた。


 その表情は穏やかだったが、目だけが鋭い。


 瑠璃子は宝石を展示台に置き、黒崎が照明を調整する。

 宝石箱は展示台の下、黒い布のかかった台へ置かれた。


 宝石そのもの。

 展示台。

 宝石箱。

 警備線。

 警備員。

 扉。


 すべてが視界に入る。


 だが、今は手を出せない。


 客人が来る。

 披露が始まる。


 瑠璃子が展示室から戻ってきた。


「二人とも、客人を誘導して」


「承知いたしました」


 玲奈と美咲は、準備室を出た。


 廊下へ戻ると、すでに客人たちが集まり始めていた。


 月下の雫を見るために。


 披露は、厳粛に進んだ。


 瑠璃子は展示室の入口に立ち、客人を数名ずつ中へ通した。

 展示台の周囲には近づけない。

 客人は一定の距離から宝石を見るだけである。

 黒崎は展示室内、警備員は扉の両脇。

 玲奈と美咲は準備室と廊下の境で、客人の流れを調整する。


 蓮は給仕の盆を持ちながら、時間を測っていた。


 十九時三十五分。

 一組目。

 十九時四十二分。

 二組目。

 十九時四十九分。

 三組目。

 十九時五十六分。

 四組目。


 展示室の扉は開いたまま。

 だが、警備線は生きている。

 客人が近づきすぎると、黒崎が静かに制止する。


 美術商の女性は、宝石を見たあと、指輪を触っていた。

 若い実業家は、展示室の天井を見ていた。

 杖の評論家は、床の材質を確かめるように杖を置いた。


 全員、何かしら怪しい。


 だが、本命は美咲だ。


 美咲は、客人を案内しながら、展示室内へ一歩も入らない。

 黒崎の言いつけを完全に守っている。

 だからこそ不自然だった。


 動かない者が、最も危険な場合がある。


 二十時。


 披露が終わった。


 客人たちは東棟の広間へ戻され、食後酒と談笑の時間に入る。

 展示室周辺には、瑠璃子、黒崎、警備員二名、玲奈、美咲だけが残った。


 黒崎が言った。


「玲奈さん、美咲さん。準備室のクロスと燭台を片付けてください。展示室内には入らないように」


「はい」


 予定通り。


 蓮は、内心で体の奥が冷えるのを感じた。


 ここからだ。


 瑠璃子は展示室内で、月下の雫を宝石箱へ戻す準備をしている。

 黒崎がそばにつく。

 警備員は入口に立つ。

 玲奈と美咲は準備室で片付け。


 触れられない距離。

 だが、近い。


 近すぎるほど近い。


 玲奈はクロスを畳む。

 美咲は燭台を運ぶ。


 床の糸。


 蓮が先ほど溝に滑り込ませた糸は、切れていなかった。

 つまり、床の昇降台はまだ動いていない。


 月下の雫は、展示台にある。


 瑠璃子の声が聞こえる。


「黒崎、箱を」


「はい」


 宝石箱が開く音。


 蓮はクロスを畳みながら、展示室の反射を見た。


 準備室の花器に、展示台がわずかに映っている。

 そこに、青白い光。


 瑠璃子が宝石へ手を伸ばす。


 その瞬間、廊下側でグラスの割れる音がした。


 大きな音だった。


 警備員の一人が振り返る。


 黒崎の視線が一瞬だけ入口へ向く。


 美咲が動いた。


 速かった。


 燭台を持ったまま体をずらし、展示室入口の死角へ入る。

 だが、展示室内には入っていない。

 赤い紐を越えていない。

 その位置から、袖口の黒い糸を指先で引いた。


 蓮は見た。


 展示室の床近く、黒い布の下で何かが動く。


 宝石箱の台が、ほんのわずかに傾いた。


 瑠璃子の手元がずれる。


 月下の雫が、展示台の上で小さく滑った。


 落ちる。


 いや、落ちない。


 黒崎が即座に手を伸ばし、宝石を受け止めた。


 だが、その一瞬で警備の視線がすべて展示台へ集まった。


 蓮は動いた。


 クロスを畳むふりをして、床の溝へ足をかける。

 先ほどの飾り棚の仕掛けによって、溝はわずかに開いている。

 蓮はそこへ、袖口の安全ピンに通した細い糸を落とした。


 糸の先には小さな重り。


 それが床下の何かに触れる。


 カチ。


 準備室の花器の下で、微かな音。


 床の昇降台が動いた。


 ほんの数センチ。


 展示室側ではなく、準備室側の床下から、小さな黒い箱がせり上がった。


 宝石箱ではない。


 予備の宝石箱。


 いや、移送用の内箱か。


 蓮は理解した。


 瑠璃子は本物の宝石を展示台に置いていた。

 しかし、移送時には床下の内箱へ戻す構造になっている。

 展示台から宝石箱へ直接戻すように見せかけ、実際には床下経路を使う。


 その内箱が、今、準備室側へ上がった。


 美咲も気づいた。


 二人の目が合う。


 同時に、黒崎が宝石を宝石箱へ戻す動作をした。


 だが、蓮には見えていた。


 黒崎の手の中の青白い光が、一瞬消えた。


 宝石は、展示台から宝石箱へ入ったのではない。

 台の下の機構へ滑り込んだ。


 そして、準備室側の内箱に入った。


 月下の雫は、いま、玲奈と美咲の足元にある。


 蓮は、クロスを抱えたまま一歩下がった。


 美咲も、燭台を置くふりをして一歩寄る。


 二人の無言の攻防が始まった。


 まず、美咲が花器を動かそうとする。


 蓮は畳んだクロスを広げ、視界を遮る。


 美咲の手が止まる。


 蓮はその隙に、床下から出た小箱へ手を伸ばす。


 美咲が燭台を倒しかける。


 音を立てれば警備が振り向く。

 蓮は手を引かざるを得ない。


 玲奈は慌てたように燭台を支えた。


「大丈夫ですか、美咲さん」


「すみません、手が滑って」


 声は穏やか。

 しかし、目は笑っていない。


 展示室内では、黒崎が宝石箱を閉じた。


「奥様、収納完了しました」


「ええ」


 嘘だ。


 蓮は思った。


 収納されたのは、おそらく偽物か空箱。

 本物は準備室の床下から出ている。


 瑠璃子は知っているのか。

 当然、知っているはずだ。

 では、なぜこの状況を許している。


 試している。


 まただ。


 瑠璃子は、宝石を餌にして、玲奈と美咲を動かしている。


 だが、餌なら食う。


 怪盗とは、そういう生き物だ。


 警備員が廊下の音を確認しに行った。

 入口の人数が一人減る。


 黒崎は展示室内で宝石箱を持つ。

 瑠璃子は彼に何かを囁く。


 準備室には、玲奈と美咲。


 時間は数秒。


 蓮は動いた。


 クロスを抱えたまま、つまずいたふりをする。

 体が前へ傾き、床下の小箱の上にクロスが落ちる。


 その下で、蓮の指が小箱に触れる。


 冷たい。


 小箱には小さな留め金がある。

 開ける必要はない。

 そのまま取ればいい。


 だが、美咲の手がクロスの上から蓮の手首を押さえた。


「玲奈さん、危ないです」


 声は優しい。


 力は強い。


 蓮は手首を返す。

 美咲の指から抜け、逆に美咲の袖口を押さえる。


 黒い糸。


 引かせない。


 二人は、クロスの陰で手だけを動かしていた。


 外から見れば、新人メイド二人が落としたクロスを拾っているだけに見える。

 しかし、その下では、月下の雫をめぐる攻防が進んでいる。


 美咲が指先で蓮の袖口を探る。


 安全ピンを取る気だ。


 蓮はわざと取らせた。


 美咲の指が安全ピンを外す。

 その瞬間、ピンに通した糸がほどけ、床下の小箱へ絡む。


 蓮は糸を引いた。


 小箱がクロスの下で動く。


 蓮の側へ。


 美咲の目が細くなる。


 やられた、と言う目だった。


 蓮は、玲奈の顔で小さく笑った。


 だが、美咲はそこで終わらない。


 美咲は安全ピンを取った手で、近くの燭台の底を軽く叩いた。


 コン。


 音は小さい。


 だが、燭台の内部で何かが鳴った。


 展示室側の赤い警告灯が、一瞬だけ点滅する。


 黒崎が振り返る。


「何か?」


 美咲は即座に頭を下げた。


「申し訳ありません。燭台を確認しておりました」


「余計なことはしないように」


「はい」


 そのやり取りの間に、蓮は小箱をクロスごと抱え込んだ。


 手応えがある。


 重さがある。


 中身はある。


 月下の雫。


 蓮は、手に入れた。


 だが、その瞬間、美咲の声が耳元で落ちた。


「それ、本当に本物だと思いますか」


 蓮は動きを止めない。


「何のことでしょう」


「失敗を利用するのは好きだと言ったでしょう」


 美咲は微笑んだ。


 次の瞬間、準備室の床下から鋭い電子音が鳴った。


 ピ、ピ、ピ。


 警備装置。


 赤い光が床の溝から走る。


 蓮の手元の小箱が、熱を持ったように震えた。


 発信タグか。

 重さの変化を検知したか。

 いや、美咲が仕掛けたのだ。


 美咲は、蓮に小箱を取らせた。

 そして、取った瞬間に警備が作動するようにした。


 蓮は追い詰められた。


 展示室から黒崎が出てくる。


「玲奈さん。そのクロスを開きなさい」


 声が低い。


 警備員も戻ってきた。


 瑠璃子は展示室の入口に立ち、静かにこちらを見ている。


 美咲は一歩下がっている。

 完璧なメイドの顔で。


 蓮の腕の中には、クロスに包まれた小箱。


 開けば終わる。

 隠しても終わる。

 逃げれば正体が露見する。


 ここで、玲奈という変装は崩れる。


 普通なら。


 蓮は、息を吸った。


 そして、玲奈の声で震えた。


「申し訳ございません!」


 大きく頭を下げる。


 その拍子に、抱えていたクロスを床へ落とした。


 小箱が転がる。


 警備員が動く。


 黒崎が手を伸ばす。


 蓮は、その一瞬を使った。


 小箱の留め金に絡ませていた糸を引く。


 小箱の外側だけが外れ、中からさらに小さな内箱が滑り出す。


 外箱は床へ。

 内箱はクロスの折り目の中へ。


 蓮は、倒れ込むふりをしてクロスを押さえた。


「すみません、足元が」


 美咲が目を見開く。


 外箱だけを警備に渡し、内箱を残した。


 それが蓮の一手だった。


 黒崎が外箱を拾い上げる。


 警備音は止まらない。


 黒崎は箱を開けた。


 中は空。


 黒崎の顔が険しくなる。


「これは何です」


 瑠璃子は、静かに笑った。


「黒崎」


「奥様」


「落ち着きなさい」


「しかし」


「宝石は、まだ展示室にあるわ」


 その言葉で、全員の視線が展示室へ向いた。


 展示台の上。


 そこには、青白い光があった。


 月下の雫。


 確かに、まだそこにある。


 蓮は、床に膝をついたまま、それを見た。


 では、この内箱は何だ。


 偽物。

 囮。

 瑠璃子の罠。


 美咲も、同じ結論に至ったようだった。


 瑠璃子は、最初から宝石を動かしていなかった。

 宝石が床下へ移ったように見せかけ、怪盗を誘い出すための囮箱を動かした。


 そして蓮は、それを取った。


 美咲は、警備装置を作動させた。


 つまり、二人とも瑠璃子の盤上で動かされた。


 黒崎は厳しい声で言った。


「玲奈さん、美咲さん。説明を」


 蓮は立ち上がり、顔を青ざめさせた新人メイドを演じた。


「申し訳ございません。クロスを片付ける際、足元の段差に引っかかってしまい……箱があるとは思わず」


 美咲もすぐに続いた。


「私も、燭台の位置を直そうとして音を立ててしまいました。申し訳ございません」


 黒崎は二人を見た。


 疑っている。


 当然だ。


 しかし、瑠璃子が言った。


「いいわ」


「奥様」


「宝石に異常はない。警備も作動した。むしろ確認になったわ」


「ですが」


「晩餐会中よ。騒ぎを広げるほうが問題です」


 黒崎は口を閉じた。


 瑠璃子は玲奈と美咲へ視線を向けた。


「二人とも、片付けを続けなさい。ただし、今後は黒崎の目の届く範囲で」


「承知いたしました」


 玲奈と美咲は、同時に頭を下げた。


 蓮は、クロスを拾いながら内箱を確認した。


 ない。


 さっきまでクロスの折り目にあった内箱が、ない。


 美咲だ。


 蓮が瑠璃子と黒崎に意識を向けた一瞬で、美咲が抜いた。


 やられた。


 蓮は、顔に出さなかった。


 美咲は、何事もない顔で燭台を片付けている。


 その袖口が、わずかに膨らんでいた。


 中身が本物か偽物かは分からない。

 だが、美咲は手に入れた。

 蓮が外箱を処理し、騒ぎを引き受けた隙に、内箱を奪った。


 美咲の仕掛けで警備が作動し、蓮が追い詰められた。

 蓮は機転で逃れたが、成果は美咲に渡った。


 これが、美咲の狙いか。


 失敗を利用する。


 蓮の失敗も。

 瑠璃子の罠も。

 警備の作動も。


 美咲は全て利用した。


 晩餐会は表向き、何事もなく続いた。


 客人たちは月下の雫の美しさを語り、瑠璃子は穏やかに微笑み、黒崎は通常通りに給仕を管理した。

 展示室の小さな警備音は、客人には伝わらなかった。


 だが、使用人の空気は違っていた。


 黒崎は玲奈と美咲から目を離さない。

 紗枝も何かを察している。

 料理長だけが、疲れた顔で料理の進行に集中していた。


 蓮は給仕を続けながら、美咲の動きを追った。


 美咲は内箱をどこに隠したのか。


 袖口にあった膨らみは、今は消えている。

 胸元にもない。

 エプロンのポケットにも不自然な重みはない。

 ならば、どこかへ移した。


 控室か。

 廊下の飾り棚か。

 食器台車か。

 あるいは、すでに誰かに渡したか。


 蓮は、客人へグラスを渡しながら考えた。


 月下の雫が展示台に残っていた以上、美咲が奪った内箱は本物ではない可能性が高い。

 しかし、瑠璃子ほどの女が無意味な囮を用意するとは思えない。

 内箱には、何か価値がある。


 鍵。

 暗号。

 本物と偽物を見分ける証。

 あるいは、宝石を盗むために必要な第二の部品。


 美咲はそれを知っていたのか。

 それとも、とりあえず奪ったのか。


 答えは、美咲に聞くしかない。


 もちろん、正面から聞くつもりはない。


 二十一時三十分。


 晩餐会は終盤に入った。


 客人たちは広間で歓談し、使用人たちは片付けに入る。

 月下の雫は再び展示室内で瑠璃子と黒崎により処理された。


 今度こそ、蓮は手を出さなかった。


 美咲も出さなかった。


 二人とも、黒崎の視線の中で働くしかなかった。


 だが、美咲が動かないこと自体が不気味だった。


 蓮は、皿を下げる途中で廊下の飾り棚を見た。


 青い花器。

 銀の小箱。

 時計。


 時計の針が変わっている。


 十一時。


 まだ十一時ではない。


 現在時刻は二十一時四十分。


 十一時。

 つまり、二十三時。


 今夜十一時に、何かが起きる。


 美咲からの合図か。

 瑠璃子の罠か。

 あるいは、飾り棚の仕掛けが再び動く時刻か。


 蓮は、その情報だけを頭に入れた。


 晩餐会が終わったのは、二十二時過ぎだった。


 客人たちは順に帰り、玄関ホールの喧騒は少しずつ消えていった。

 料理長は椅子に座り込み、紗枝は最後の食器確認をしている。

 黒崎は警備員と話し、瑠璃子はすでに書斎へ戻った。


 玲奈と美咲は、使用人棟の控室で片付けをしていた。


 誰も口を開かない。


 料理長が疲れた声で言う。


「二人とも、今日はよく働いたわね」


「ありがとうございます」


 玲奈が答える。


「本当に助かりました」


 美咲も頭を下げる。


 紗枝は二人を見ていた。


「ただ、展示室前での件は反省してください」


「申し訳ございません」


「奥様が不問にされたからよかったものの、普通なら大問題です」


「はい」


 蓮は素直に頭を下げた。


 美咲も同じようにする。


 紗枝はため息をついた。


「今日はもう休んでください。明日、黒崎さんから改めて話があると思います」


「承知いたしました」


 解散。


 廊下に出る。


 使用人棟へ向かう途中、美咲が横に並んだ。


「災難でしたね」


「美咲さんこそ」


「私は何も」


「そうでしょうか」


 蓮は玲奈の声で言った。


 美咲は笑った。


「玲奈さんは、クロスの扱いがお上手ですね」


「美咲さんは、安全ピンを外すのがお上手でした」


 一瞬、空気が止まった。


 互いに、これまでより一歩踏み込んだ。


 美咲は声を低くした。


「気づいていましたか」


「何のことでしょう」


「そういうところ、少し嫌いです」


「私は、美咲さんのそういうところ、勉強になります」


「素直じゃありませんね」


「美咲さんほどでは」


 二人は階段の前で立ち止まった。


 廊下には誰もいない。


 遠くで時計が鳴る。


 十時半。


 十一時まで、あと三十分。


 美咲が言った。


「玲奈さん。今夜は、よく眠ったほうがいいですよ」


「美咲さんも」


「ええ。私は休みます」


「そうですか」


「信じていませんね」


「美咲さんは、信じてほしいのですか」


「いいえ」


 美咲は微笑んだ。


「信じる人は、負けますから」


 そう言って、美咲は自分の部屋の方へ歩いていった。


 蓮は、その背中を見送った。


 信じる人は負ける。


 その通りだ。


 だが、疑い続ける人間も、時には罠に落ちる。


 蓮は自室へ戻り、扉を閉めた。


 すぐに着替えない。

 化粧も落とさない。

 ウィッグも外さない。


 玲奈の姿のまま、十一時を待つ。


 今夜は終わっていない。


 むしろ、ここからが本番だ。


 月下の雫は展示室に残っているように見えた。

 だが、蓮はもう、見えたものを信じていない。

 展示台の宝石が本物かどうかも分からない。

 美咲が奪った内箱の意味も分からない。

 瑠璃子がどこまで仕組んでいるのかも分からない。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 今夜、月下の雫を巡る最初の勝負で、蓮は美咲に一手遅れた。


 それは認めるしかない。


 蓮は鏡を見た。


 玲奈は、まだ美しいメイドの姿を保っている。

 清楚で、従順で、少し疲れた新人メイド。


 だが、鏡の奥の目は違った。


 怪盗《霧影》の目だった。


「十一時、飾り棚」


 低い声で呟く。


 そのとき、窓の外で、中庭の木が揺れた。


 風か。


 人影か。


 蓮は灯りを消した。


 部屋が闇に沈む。


 白銀邸の時計が、十時四十五分を告げた。


 月下の雫は、まだ消えていない。

 しかし、それが本物かどうかは、もう誰にも分からない。


 そして、十一時。


 白銀邸のどこかで、静かに歯車が動き始めようとしていた。

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