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第二話 完璧すぎるメイドたち

白銀邸の朝は、鐘の音ではじまらない。


 使用人棟の廊下を走る、控えめな足音。

 厨房で火が入る音。

 銀器が布の上へ置かれる、かすかな金属音。

 遠くで庭師が水栓を開く音。

 それらが順に重なり、屋敷全体が、眠っていた獣のように静かに目を覚ます。


 玲奈――怪盗《霧影》こと霧島蓮は、その音の順番を聞きながら目を開けた。


 まだ目覚ましは鳴っていない。


 窓の外は薄い灰色で、中庭の木々は朝靄に沈んでいた。

 部屋の中は冷えている。

 昨夜、美咲が西棟裏へ向かう影を見てから、蓮は深く眠っていなかった。


 それでも、疲労は表に出せない。


 今日の玲奈は、昨日より少しだけ白銀邸に慣れた新人メイドでなければならない。

 緊張は残っている。

 だが、怯えてはいない。

 仕事には真面目で、観察力はある。

 ただし、鋭すぎてはいけない。


 蓮は鏡台の前に座った。


 まず、顔を整える。

 肌の色を均一にし、目元を柔らかく見せ、唇には控えめな色を置く。

 化粧は濃すぎてはいけない。白銀家のメイドとして求められるのは、華やかさではなく、清潔さと節度である。


 次に、髪。


 栗色のウィッグを丁寧に被り、内側の固定を確認する。

 髪の流れを整えすぎると人形のようになるため、耳の横に一筋だけ自然な乱れを残した。

 鏡の中の玲奈は、昨日よりわずかに柔らかい印象になっていた。


 さらに、服の下の補正を確かめる。


 体の線を作る道具は、ただ身に着ければよいものではない。

 長時間動くと、わずかに位置がずれる。

 階段を上る。

 屈んで物を拾う。

 銀器を運ぶ。

 食器を棚に戻す。

 そうした動作のたびに、不自然さが出れば終わりである。


 蓮は鏡の前で、軽く膝を曲げ、腕を伸ばし、振り返る動作を確認した。


 問題ない。


 ただし、問題がないこと自体が問題だった。


 美咲は、そこを見る。


 昨日、エプロンの紐を結び直すふりをして、玲奈の腰まわりを確かめた。

 花瓶を拾う動きで、体の輪郭の変化を見ようとした。

 手首、肩、髪の揺れ、声の戻り。

 美咲は、ただのメイドではない。


 蓮は、裁縫箱を見た。


 美咲が持ってきた裁縫箱。

 その中には、発信機らしき安全ピンが一本紛れている。


 捨てるのは簡単だ。

 壊すのも簡単だ。

 だが、それでは美咲に「気づいた」と知らせるだけになる。


 蓮は、その安全ピンを取り出し、エプロンの裏側に留めた。


 相手に追わせる。


 こちらの動きを見せる。


 そして、見せた動きの裏で本命を探る。


 怪盗に必要なのは、見つからないことだけではない。

 見つかっても、相手に誤った地図を持たせることだ。


 蓮は鏡の中の玲奈に向かって、静かに微笑んだ。


「おはようございます、美咲さん」


 玲奈の声だった。


 柔らかく、少し眠たげで、しかし不快感はない。


 よし。


 蓮は扉を開けた。


 使用人棟の廊下には、すでに朝の気配が満ちていた。

 階下から、料理長の声が聞こえる。

 紗枝が誰かに指示を出している。

 遠くで黒崎が咳払いをした。


 廊下を歩き、階段へ向かう。


 その途中で、美咲と出会った。


 黒髪のメイドは、すでに身支度を終えていた。

 髪は整っている。

 服装にも乱れはない。

 昨日と同じように端正で、同じように自然だった。


 自然すぎる。


「おはようございます、玲奈さん」


「おはようございます、美咲さん。今朝もお早いですね」


「昨日、覚えることが多かったので。少し早めに起きて、頭の中を整理していました」


「私もです。白銀邸は、広いですね」


「ええ。迷ってしまいそう」


 美咲はそう言って微笑んだ。


 嘘だ。


 蓮は、すぐにそう判断した。


 美咲は迷ってなどいない。

 昨夜の時点で、西棟裏まで一人で動いている。

 屋敷の大まかな構造は、すでに頭に入れているはずだ。


「今日は、配膳経路の確認があるそうですね」


 美咲が言った。


「はい。粗相のないようにしないと」


「玲奈さんなら、大丈夫でしょう」


「そんなことはありません。昨日も、花瓶を運ぶだけで緊張しました」


「そうは見えませんでした」


 美咲の目が細くなる。


「とても、慣れているように見えました」


 蓮は、少し困ったように笑った。


「前の勤め先でも、物を運ぶ仕事は多かったので」


「そうでしたね」


「美咲さんこそ、銀器の扱いがお上手でした」


「壊すと大変ですから」


「それだけで、あんなに落ち着いて扱えるものなのですね」


「玲奈さんは、褒めるのがお上手」


「本心です」


 二人は階段を下りた。


 会話は穏やかだった。

 だが、蓮は分かっていた。


 美咲は、昨日の観察結果を確かめている。

 玲奈は、前職で本当にメイドをしていたのか。

 仕事の慣れは、使用人としての経験によるものか、それとも別の訓練によるものか。


 こちらも同じだ。


 美咲の銀器の扱いは、一般的な接遇経験の範囲を超えている。

 重さのある盆を持つとき、手首に負担が出ない角度を瞬時に選んでいた。

 廊下で人とすれ違うときも、逃げ道を塞がれない位置を自然に取っていた。


 メイドの動きではない。


 潜入者の動きだ。


 控室に着くと、紗枝が二人を待っていた。


「二人とも、今日から本格的に晩餐会の準備に入ります。昨日より忙しくなりますから、私語は控えてください」


「はい」


「まずは一階客間の清掃。その後、食器の確認。午後は西棟前の準備室で花器と燭台の配置確認。夕方、奥様から直接指示があります」


 奥様から直接。


 蓮は、その言葉に注意を向けた。


 白銀瑠璃子が、二人の新人に直接指示を出す。

 普通の屋敷なら、あり得ないことではない。

 だが、白銀邸では意味が違う。


 瑠璃子は、二人を見ようとしている。


 使用人としてではなく、何かを隠す者として。


 美咲も同じように感じたのだろう。

 ほんの一瞬だけ、指先が動いた。


 蓮はそれを見逃さなかった。


「玲奈さん」


 紗枝が言う。


「はい」


「あなたは午前中、客間と廊下の清掃を。美咲さんは銀器棚の確認を手伝ってください」


 蓮は一瞬、内心で眉を寄せた。


 分けられた。


 美咲と別行動になる。


 これは好都合でもあり、不都合でもある。


 美咲に監視されずに屋敷を調べられる。

 だが、美咲が何をするか分からない。


「承知いたしました」


 玲奈は素直に頭を下げた。


 美咲も同じように答える。


「承知いたしました」


 その声には、何の乱れもなかった。


 午前の客間清掃は、単調な仕事に見えて、情報の宝庫だった。


 客間には、客人が入る。

 客人が入る場所には、警備の線が引かれる。

 警備の線がある場所には、例外がある。

 例外こそが、潜入経路になる。


 蓮は、玲奈として布巾を手にしながら、部屋を読む。


 第一客間。


 大きな窓が三つ。

 外は中庭。

 窓の鍵は古いが、内側に追加のロックがある。

 暖炉は飾りではなく、煙突が生きている。ただし、人が通れる幅ではない。

 壁の絵画の裏には配線。

 部屋の隅に小型カメラ。

 視界は広いが、花台の影にわずかな死角。


 第二客間。


 こちらは晩餐会前の控え室になる予定。

 入口が二つある。

 一つは正面廊下。

 もう一つは使用人通路へつながる小扉。

 小扉には鍵があるが、古い。

 ただし、扉の上に磁気センサーらしきものがある。


 第三客間。


 使われていない。

 家具には白い布が掛けられている。

 埃は少ない。定期的に清掃されている。

 窓の外は西棟側の庭。

 ここから西棟の二階窓が見える。


 蓮は窓を拭くふりをして、西棟を観察した。


 昨夜、美咲が消えた方向。

 西棟裏の小道。

 庭師用倉庫。

 搬入口。

 地下へ続くらしい石段。


 石段には鉄の扉がある。

 昼間は南京錠がかかっている。

 しかし、錆のつき方が均一ではない。頻繁ではないが、使われている。


 宝石の保管庫が地下にある可能性は高い。


 蓮は、窓を磨きながら呼吸を整えた。


 焦るな。


 まだ二日目だ。

 今日の目的は、宝石の場所を断定することではない。

 宝石の移動経路を知ることだ。


 月下の雫は、三日後の披露会で展示室に出される。

 展示室が西棟二階にあるなら、地下保管庫から上げる必要がある。

 そのとき、必ず人と鍵と記録が動く。


 動くものは、盗める。


「玲奈さん」


 背後から紗枝の声がした。


 蓮は、自然な速度で振り返る。


「はい」


「窓拭き、丁寧ですね」


「ありがとうございます。前の勤め先で、窓に拭き跡が残るとよく注意されましたので」


「そう。では、次は廊下の飾り棚をお願いします。特に、奥の青い花器には触れないように」


「青い花器、ですね」


「ええ。奥様のお気に入りです」


 蓮は頷いた。


 青い花器。


 客間前の廊下にある飾り棚。

 瑠璃子のお気に入り。

 触れてはいけない。


 触れてはいけない物は、理由がある。


 高価だからか。

 壊れやすいからか。

 あるいは、何かを隠しているからか。


 蓮は廊下へ出た。


 飾り棚には、陶器、銀の小箱、古い時計、小型の彫像が並んでいる。

 その中央に、青い花器があった。


 深い瑠璃色。

 光の角度によって、海の底のようにも、夜空のようにも見える。

 確かに美しい。

 だが、それだけではない。


 花器の下の台座に、微細な傷がある。

 何度も動かされた跡。

 しかし、紗枝は触れるなと言った。


 誰かが触る。

 だが、使用人には触らせない。


 蓮は布巾を持ったまま、周囲の埃を払う。


 花器には触れない。


 代わりに、飾り棚の背面を見た。


 壁との間に、わずかな隙間。

 空調の流れではない。

 棚そのものが、固定されていない。


 隠し扉か。

 小さな金庫か。

 あるいは、単なる配線用の空間か。


 確認したい。


 だが、今は無理だ。


 廊下の向こうに、黒崎がいる。

 背を向けているが、気配を消してこちらを見ている。


 蓮は、棚の上を丁寧に拭き、何も気づかなかった新人の顔でその場を離れた。


 黒崎の視線が、背中から外れる。


 まずい。


 白銀邸は、屋敷そのものが罠だ。


 調べようとすれば、調べていることを見られる。

 見なければ、情報が取れない。


 そのとき、廊下の反対側から美咲が現れた。


 銀器用の布を持っている。

 仕事の途中のように見える。


「玲奈さん。紗枝さんが、こちらの棚の確認を終えたら一度控室へ、と」


「ありがとうございます。今、終わりました」


 美咲は飾り棚へ目を向けた。


「あら、綺麗な花器」


「奥様のお気に入りだそうです。触れないようにと言われました」


「そうですか」


 美咲は一歩近づいた。


 蓮は内心で警戒した。


 触れる気か。


 ここで美咲が触れば、紗枝か黒崎が来る可能性がある。

 それを利用して、玲奈も巻き込むつもりか。

 あるいは、玲奈が止めるかどうか試すつもりか。


「美咲さん」


 玲奈は柔らかく言った。


「紗枝さんから、触れないようにと言われています」


「ええ。聞こえました」


 美咲は、花器には触れなかった。


 ただし、棚の下段にあった銀の小箱を、布越しにわずかに動かした。


 カチリ。


 小さな音がした。


 蓮は表情を変えなかった。


 美咲は、何かを確かめた。

 銀の小箱が鍵か、重りか、目印なのか。


 だが、その直後、美咲は何事もなかったように微笑んだ。


「本当に美しいですね。月下の雫も、こういう色なのでしょうか」


「私は、新聞でしか見たことがありません」


「私もです」


 美咲は、銀の小箱を元に戻した。


 完全に同じ位置へ。


 その正確さが、かえって異常だった。


「では、控室へ行きましょう」


「はい」


 二人は並んで歩き出す。


 蓮は、エプロンの裏に留めた安全ピンの重みを感じていた。


 美咲は、発信機の位置で玲奈が飾り棚にいたことを把握しているはずだ。

 だから現れた。

 つまり、発信機は生きている。


 こちらの動きを読まれている。


 だが、今の美咲の行動で、蓮も一つ情報を得た。


 美咲も、あの飾り棚に何かあると知っているか、少なくとも疑っている。


 青い花器。

 銀の小箱。

 動く棚。


 白銀邸の隠し構造の一つが、そこにある。


 昼食後、黒崎から午後の指示が出た。


「玲奈さん、美咲さん。お二人には、西棟前準備室で花器と燭台の配置確認をしてもらいます」


 紗枝が少し驚いた顔をした。


「黒崎さん、新人二人だけでよろしいのですか」


「奥様のご指示です」


 その一言で、紗枝は黙った。


 蓮は心の中で警戒を強める。


 瑠璃子の指示。


 新人二人を、西棟前準備室へ。

 しかも、二人だけで。


 罠だ。


 だが、行かない選択肢はない。


「承知いたしました」


 玲奈は頭を下げた。


 美咲も同じように言う。


「承知いたしました」


 黒崎は鍵束を取り出した。


「西棟の扉は、私が開けます。準備室内での作業は三十分以内。展示室側の扉には近づかないように」


「はい」


「また、準備室には監視があります。不審な行動は控えてください」


 黒崎は、そう言って二人を見た。


 普通なら、使用人に対して言うには露骨すぎる言葉だった。

 だが、黒崎はあえて言った。


 見ているぞ。


 そういう意味だ。


 西棟への扉が開く。


 昨日と同じ、電子音と鍵の音。

 扉の向こうは、東棟より空気が冷たい。


 準備室に入ると、昨日より物が増えていた。


 大きなテーブルの上には、花器が三つ。

 壁際には燭台が六本。

 棚には白いクロス、予備のグラス、銀の盆。

 奥には展示室へ続く扉。

 その扉の前には、昨日なかった赤い紐が張られている。


 近づくな、という印だ。


 黒崎は台帳を置いた。


「この図の通りに、花器と燭台を配置してください。終わったら、控室へ戻るように」


「黒崎さんは?」


「私は執事室で別件を処理します。三十分後に戻ります」


 蓮は、意外に思った。


 本当に二人だけにするのか。


 もちろん、監視はある。

 カメラもある。

 扉のセンサーも生きているだろう。

 だが、物理的には二人だけになる。


 瑠璃子は何を見たいのか。


 黒崎が出ていく。


 扉が閉まる。


 静寂。


 蓮と美咲は、同時に台帳を見た。


 図面には、花器と燭台の配置が描かれている。

 ただし、部屋全体の寸法や扉の位置も分かるようになっていた。


 蓮は、それを一瞬で記憶する。


 美咲も同じだろう。


「では、始めましょうか」


 美咲が言った。


「はい」


 二人は、まず花器を動かした。


 花器は重い。

 二人で持つ必要がある。

 美咲は自然に片側へ回り、玲奈に向かって言った。


「そちら、持てますか」


「はい。大丈夫です」


「無理はしないでくださいね」


「ありがとうございます」


 二人で花器を持ち上げる。


 重心が偏っている。

 美咲は、それを知っているかのように支えた。


 蓮も即座に合わせる。


 花器を置く。


 その一連の動作で、二人は互いの力を測った。


 美咲は、見た目より力がある。

 しかし、力を隠すのが上手い。

 玲奈も同じように、必要最小限の力だけを表に出す。


 普通の新人メイド二人なら、もっと苦戦するはずだ。


 だが、二人とも失敗しない。


 完璧すぎる。


「玲奈さん」


「はい」


「少し、左へ」


「このくらいですか」


「ええ。図面通りなら」


 美咲が台帳を見るふりをして、準備室の奥の扉へ視線を投げた。


 展示室側の扉。

 赤い紐。

 カメラ。

 足元の金属プレート。


 蓮は、その視線を見た。


「美咲さん、燭台はどちらから並べましょう」


 あえて声をかける。


 美咲は、すぐに視線を戻した。


「入口側からのほうがよさそうです」


「分かりました」


 蓮は、燭台を一本持ち上げた。


 燭台は銀製で、予想より重い。

 底面に刻印がある。

 白銀家の家紋。

 その横に、小さな番号。


 管理番号だ。


 蓮は、番号の規則を記憶した。


 一、三、五。

 向かい側に二、四、六。


 奇数と偶数を分ける配置。

 意味があるのか、単なる美観か。


 美咲が二本目の燭台を運ぶ。


 その途中で、わざとではないほど自然に、足元のクロスをずらした。


 床が見える。


 そこには、細い溝があった。


 床板の継ぎ目ではない。

 何かを動かすための線だ。


 蓮は、見た。


 美咲も、見せた。


 これは挑発か。

 情報共有か。

 それとも、こちらが反応するかを見る試験か。


 蓮は、何も気づかなかった顔で燭台を置いた。


「こちらでよろしいでしょうか」


「ええ。綺麗です」


 美咲は微笑む。


 その微笑の奥で、こちらの反応を読んでいる。


 蓮は、台帳へ視線を落としながら考えた。


 床の溝。

 展示室扉の手前ではなく、準備室中央。

 花器と燭台の配置は、その溝を隠すようになっている。


 つまり、準備室には何かがある。


 隠し昇降口か。

 地下からの搬入口か。

 月下の雫を展示室へ運ぶための、秘密の動線か。


 もしそうなら、宝石は正面の展示室扉を通らない。

 警備の目は扉に向けられているが、本命は床下かもしれない。


 瑠璃子は、それを見せたのか。


 いや、見せたのではない。

 見つけるかどうか試している。


 蓮は、エプロンの裏の安全ピンを意識した。


 美咲にこちらの位置は伝わっている。

 だが、準備室内でどこを見ているかまでは分からないはずだ。

 それとも、美咲は別の方法で見ているのか。


 作業は順調に進んだ。


 あまりにも順調だった。


 普通なら、花器の位置を迷う。

 燭台の向きを間違える。

 クロスの角度がずれる。

 だが、玲奈も美咲も、一度見た図面を正確に再現してしまう。


 蓮は、わざと小さな失敗を入れた。


 五本目の燭台の向きを、ほんの少しだけずらす。


 美咲がすぐに気づいた。


「玲奈さん、そちら、少しだけ正面がずれているかもしれません」


「あ、本当ですね。ありがとうございます」


 玲奈は恥ずかしそうに笑い、向きを直した。


 美咲は言った。


「細かくてすみません」


「いいえ。美咲さんはよく見ていらっしゃいますね」


「性分です」


「頼もしいです」


「玲奈さんも、よく見ていますよね」


「そんなことは」


「飾り棚のときも、ここでも」


 蓮は、布巾を持つ手を止めなかった。


「仕事ですから」


「そうですね。仕事ですものね」


 美咲は、花器の縁を布で拭いた。


「ところで、玲奈さん。昨日の夜、よく眠れましたか」


 蓮は内心で警戒した。


「少し緊張していたので、浅かったかもしれません」


「私もです」


「美咲さんも?」


「ええ。夜中に少し、庭を見ていました」


 言った。


 美咲は自分から、昨夜の中庭の話を出した。


 蓮は、驚きすぎない反応を選ぶ。


「庭を?」


「窓から。月明かりが綺麗でしたから」


「そうだったのですね。私は気づきませんでした」


「そうですか」


 美咲は、玲奈を見た。


「中庭は、夜になると昼と違って見えますね。特に、西棟のほうは」


「夜の西棟は、少し怖そうです」


「怖い?」


「はい。静かすぎて」


「玲奈さんは、静かな場所が苦手ですか」


「得意ではありません」


「意外です」


「そうでしょうか」


「ええ。玲奈さんは、静かな場所でも落ち着いていそうですから」


 蓮は、少し視線を下げた。


「そう見えるだけです」


 美咲は、そこで会話を切った。


 踏み込みすぎない。

 こちらの反応だけを得て、引く。


 厄介だ。


 蓮は、燭台を最後の位置に置いた。


 その瞬間、準備室の天井近くで小さな音がした。


 カチ。


 監視カメラの角度が変わった。


 蓮は気づかないふりをした。

 美咲も気づかないふりをした。


 だが、二人とも理解していた。


 見られている。


 黒崎か。

 瑠璃子か。

 警備会社か。


 いや、おそらく瑠璃子だ。


 この部屋は、二人の試験場である。


 三十分後、黒崎が戻ってきた。


 配置を確認し、ほとんど表情を変えずに言った。


「よくできています」


「ありがとうございます」


「奥様も、お喜びになるでしょう」


 黒崎は、台帳に何かを書き込んだ。


 そのとき、蓮は気づいた。


 黒崎の台帳には、花器や燭台の配置だけでなく、作業時間も書かれている。

 開始時刻、終了時刻、担当者名。

 さらに、備考欄。


 そこに、黒崎は小さく一語を書いた。


 優秀。


 使用人としての評価か。

 それとも、不審者としての評価か。


 蓮には判断できなかった。


 控室へ戻る途中、美咲が小声で言った。


「黒崎さん、厳しいけれど、見るところは見ていますね」


「はい。少し緊張しました」


「玲奈さんでも?」


「もちろんです」


「そうですか」


 美咲は、それ以上言わなかった。


 だが、蓮は美咲の手元を見た。


 美咲の指先に、わずかな銀色の粉がついている。


 燭台のものではない。

 もっと細かく、金属というより塗装片に近い。

 準備室の床の溝か、花器の台座か、あるいは展示室側の扉か。


 いつ採った。


 蓮が燭台の向きをわざとずらした瞬間か。

 それとも、美咲がクロスを直したときか。


 美咲もまた、ただ見ていただけではない。

 何かを採取している。


 蓮は、笑いそうになった。


 完璧すぎるメイドが二人。

 だが、その完璧さが、互いの正体を浮かび上がらせていく。


 控室に戻ると、料理長が菓子を差し出してくれた。


「二人とも、お疲れさま。少し甘いものでも食べなさい」


「ありがとうございます」


 玲奈は丁寧に受け取った。


 美咲も微笑む。


「ありがとうございます」


 小さな焼き菓子だった。

 バターの香りがする。


 料理長は楽しそうに言った。


「奥様が、新人二人を準備室に入れたって聞いてね。珍しいこともあるものだわ」


「珍しいのですか?」


 玲奈が聞く。


「珍しいわよ。普通、新人は西棟に近づけないもの。奥様、あなたたちを気に入ったのかしらねえ」


 紗枝が横から言った。


「気に入ったというより、試しているのでは」


「紗枝さん、また怖いことを」


「白銀家では、試されない人間はいません」


 蓮は、焼き菓子を口に運びながら聞いていた。


「紗枝さんも、試されたのですか」


「ええ。初日に花瓶を割らされかけました」


「割らされかけた?」


「奥様は、わざと不安定な台に花瓶を置いて、私に拭くよう命じました。私は花瓶を先に安全な場所へ移してから台を拭いた。後で黒崎さんに言われました。『物を守るには、命令の字面ではなく、命令の目的を考えなさい』と」


 命令の字面ではなく、目的。


 蓮は、その言葉を記憶した。


 瑠璃子は、使用人に従順さだけを求めていない。

 判断力を求めている。


 つまり、今日の準備室も同じだ。


 「展示室の扉には近づくな」という命令の字面。

 「晩餐会の準備を整えろ」という目的。

 その間で、二人がどう動くか見ていた。


 瑠璃子は、ただ疑っているのではない。


 育てているのか。

 選別しているのか。

 あるいは、遊んでいるのか。


 美咲が静かに言った。


「奥様は、人の本質を見るのがお好きなのですね」


 紗枝は少し考えた。


「好き、というより、見ずにはいられない方なのだと思います」


「見ずにはいられない」


「ええ。人も、物も、嘘も」


 その言葉で、控室の空気がわずかに重くなった。


 嘘。


 蓮と美咲は、同時に焼き菓子を皿へ置いた。


 料理長は気づかずに笑っている。


「まあまあ、怖い話はそこまで。午後の残りも仕事よ」


 夕方、瑠璃子の書斎へ呼ばれたのは、玲奈と美咲の二人だけだった。


 黒崎が案内し、扉を開ける。


 昨日と同じ書斎。

 本棚、青いランプ、濃い色の机。

 窓の外には、夕暮れの庭。

 瑠璃子は椅子に座り、二人を待っていた。


「入りなさい」


「失礼いたします」


 二人は並んで入る。


 瑠璃子は、机の上に置かれた小さなカードを指で撫でていた。


「今日、準備室を整えてくれたそうね」


「はい」


「黒崎が褒めていたわ。新人にしては、非常に正確だと」


「ありがとうございます」


 玲奈と美咲は同時に頭を下げた。


 瑠璃子は笑った。


「同じ角度で頭を下げるのね。まるで、鏡合わせのよう」


 蓮は、内心で警戒した。


 瑠璃子の言葉は、何気ないようで鋭い。


「恐れ入ります」


 玲奈が言う。


「褒めてはいないわ」


「失礼いたしました」


 瑠璃子は、昨日と同じやり取りを楽しむように目を細めた。


「でも、悪くはない。あなたたち二人には、晩餐会当日、月下の雫の披露準備を手伝ってもらいます」


 蓮は、呼吸を変えなかった。


 美咲も同じだった。


 披露準備。


 宝石に近づける。


 あまりに都合がよすぎる。


「私どもで、よろしいのでしょうか」


 玲奈は控えめに尋ねた。


「ええ。黒崎と紗枝だけでは手が足りない。あなたたちは手際がいい。何より、二人で動かすものの扱いが上手い」


 瑠璃子は、意味深に言った。


「重い物も、壊れやすい物もね」


「身に余るお役目です」


 美咲が言う。


「身に余るかどうかは、私が決めます」


「失礼いたしました」


 瑠璃子は机の引き出しから、一枚の紙を出した。


 晩餐会当日の役割表だった。


 黒崎。

 紗枝。

 料理長。

 庭師。

 玲奈。

 美咲。


 玲奈と美咲の欄には、こう書かれていた。


 十八時三十分、準備室待機。

 十九時、展示室前補助。

 十九時十五分、披露用クロス確認。

 十九時三十分、客人誘導補助。

 二十時、展示後片付け補助。


 蓮は、全て記憶した。


 二十時。


 展示後片付け補助。

 宝石が展示室から戻される可能性がある時間。


 狙い目だ。


 ただし、美咲も同じ情報を見ている。


 瑠璃子は、二人に同じ餌を与えている。


「質問は?」


 瑠璃子が言った。


 玲奈は少し迷うふりをした。


「当日、月下の雫そのものに触れることはございますか」


 黒崎の眉が動いた。


 美咲の視線も一瞬だけ玲奈へ向く。


 危険な質問だ。


 だが、聞かないほうが不自然でもある。

 宝石の披露準備に関わるなら、触れる範囲を確認するのは使用人として正しい。


 瑠璃子は、口元だけで笑った。


「いいえ。宝石そのものには、黒崎と私以外は触れません」


「承知いたしました」


「ただし、展示台、クロス、照明、客人の動線には気を配りなさい。宝石は、それだけで美しく見えるわけではない。周囲が整って初めて、価値を見せるの」


「はい」


 美咲が尋ねた。


「奥様、披露後の片付けでは、私どもはどこまでお手伝いすればよろしいでしょうか」


 瑠璃子の目が、美咲へ向く。


「よい質問ね」


「ありがとうございます」


「褒めてはいないわ」


「失礼いたしました」


 美咲は微笑を崩さない。


 瑠璃子は言った。


「披露後、客人が退出したら、展示室前のクロスと燭台を片付けてもらいます。展示台には触れないこと。宝石箱にも触れないこと」


 宝石箱。


 蓮はその単語を拾った。


 月下の雫は、展示台に直接置かれるのではなく、宝石箱から出し入れされる。

 宝石箱はどこから来る。

 誰が運ぶ。

 黒崎か、瑠璃子か。


 瑠璃子は、二人を見た。


「あなたたちは優秀です。だからこそ、余計なことをしないように」


 その言葉は、使用人への注意であり、怪盗への警告でもあった。


「承知いたしました」


 二人は同時に答えた。


 瑠璃子は満足そうに頷いた。


「下がってよろしい」


 書斎を出ると、黒崎が待っていた。


「奥様から役割をいただいた以上、責任は重くなります。明日から、さらに細かい確認に入ります」


「はい」


「今日はもう休みなさい。疲れを残すと、失敗につながります」


「お気遣いありがとうございます」


 玲奈は頭を下げた。


 美咲も同じように礼をする。


 黒崎が去ったあと、廊下には二人だけが残った。


 夕暮れの光が、窓から斜めに差している。


 美咲が言った。


「大役ですね」


「はい。緊張します」


「玲奈さんなら、大丈夫でしょう」


「どうしてそう思われるのですか」


「失敗しなさそうだから」


「買いかぶりです」


「いいえ。玲奈さんは、失敗しない人に見えます」


 蓮は、少しだけ笑った。


「美咲さんも、そう見えます」


「私は、失敗しますよ」


「そうなのですか」


「ええ。ただ、失敗したときに、失敗に見えないようにするのが得意です」


 その言葉は、ほとんど告白に近かった。


 蓮は玲奈として、柔らかく首を傾げた。


「それは、すごい特技ですね」


「玲奈さんにも、ありそうですけど」


「私は、普通です」


「普通の人は、自分を普通とは言いません」


「では、美咲さんは普通ではないのですか」


「どうでしょう」


 二人は、しばらく見つめ合った。


 廊下の奥で、時計が鳴る。


 六時。


 美咲が先に目を逸らした。


「夕食の準備に戻りましょう」


「はい」


 その夜、蓮は動くことにした。


 もちろん、無謀に西棟へ入るつもりはない。

 目的は、青い花器のある飾り棚を確認することだった。


 準備室の床の溝。

 西棟地下への可能性。

 宝石箱。

 晩餐会当日の役割。


 情報は増えた。

 だが、まだ線になっていない。


 青い花器の棚は、その線をつなぐ鍵かもしれない。


 蓮は、玲奈の姿のまま廊下へ出た。


 夜の屋敷で使用人が動くこと自体は不自然ではない。

 水差しの交換、洗濯物の確認、忘れ物。

 理由はいくらでも作れる。


 ただし、足音は消す。


 廊下の床鳴りを避け、階段の端を踏む。

 照明の死角を選び、カメラの視界に入るときは、堂々と歩く。

 不審者は隠れる。

 使用人は歩く。


 蓮は手に水差しを持っていた。


 飾り棚の近くにある客間へ、水を替えに行くという体裁である。


 廊下は静かだった。


 青い花器が見える。


 蓮は客間へ入り、水差しを交換した。

 それから、廊下へ戻る。


 飾り棚の前で立ち止まる理由が必要だ。


 蓮は、わざと布巾を落とした。


 屈む。


 布巾を拾う。


 その一瞬で、棚の下部を見る。


 やはり、床に細い擦れ跡がある。

 棚全体が、横へ動く構造だ。


 問題は、どう動かすか。


 青い花器には触れられない。

 銀の小箱。

 美咲が昼に動かしたもの。


 蓮は、廊下の左右を確認した。


 人はいない。


 棚の隅に手を伸ばす。


 その瞬間、背後から声がした。


「玲奈さん」


 美咲だった。


 蓮は、心臓を跳ねさせなかった。

 動きも止めすぎなかった。


 自然に布巾を拾い、振り返る。


「美咲さん。どうされました?」


「それは、こちらの台詞です」


 美咲は、廊下の薄明かりの中に立っていた。


 黒髪が肩に落ち、白いエプロンが静かに光を受けている。

 手には、蓮と同じように水差しを持っていた。


 言い訳まで同じか。


 蓮は、内心で笑いかけた。


「客間のお水を替えていました」


「私もです」


「そうでしたか」


「偶然ですね」


「はい。偶然ですね」


 二人は、飾り棚の前で向き合った。


 美咲の目が、銀の小箱へ向く。


 蓮は、それを見た。


「この花器、本当に綺麗ですね」


 玲奈は言った。


「ええ。でも、触れてはいけないのでしょう?」


「はい」


「では、見るだけにしておきましょう」


 美咲はそう言って、棚の横を通り過ぎようとした。


 その瞬間、足元がわずかにもつれる。


 演技だ。


 蓮は即座に判断した。


 美咲の体が、飾り棚へ傾く。


 このままでは、棚にぶつかる。

 青い花器が揺れる。

 落ちれば大事になる。


 蓮は、水差しを左手に移し、右手で美咲の腕を支えた。


「危ないです」


 美咲の体は軽く見えたが、実際にはしっかりと重心があった。

 倒れたふりをして、こちらの反応を見ている。


 蓮は、力を入れすぎない。

 玲奈として自然な範囲で支える。


 しかし、美咲はその一瞬を逃さなかった。


 支えられた腕を返すように、玲奈の手首に触れる。

 指先が、手の筋と力の入り方を読む。


 蓮は、すぐに手を離した。


「大丈夫ですか」


「ええ。すみません。少し足元が」


「怪我がなくてよかったです」


「玲奈さん、反応が早いですね」


「目の前で倒れそうになれば、誰でも」


「そうでしょうか」


 美咲は笑った。


 そして、水差しを持ち直すふりをして、銀の小箱に指先を触れた。


 カチリ。


 昼と同じ音。


 ただし、今度は棚の奥から、さらに小さな音が返った。


 蓮は、表情を変えなかった。


 美咲は、一歩下がる。


「もう休んだほうがよさそうですね。私、少し疲れているみたいです」


「お部屋までお送りしますか」


「いいえ、大丈夫です。玲奈さんこそ、夜道には気をつけて」


「屋敷の中ですよ」


「屋敷の中だからこそ、です」


 美咲は去っていった。


 蓮は、飾り棚の前に残された。


 今、美咲は銀の小箱を押した。

 棚の奥で音がした。

 だが、棚は動いていない。


 つまり、小箱だけでは足りない。


 青い花器か。

 あるいは、別の場所にもう一つ仕掛けがある。


 蓮は、それ以上触れなかった。


 美咲が近くにいる可能性がある。

 黒崎も来るかもしれない。


 今日得た情報は十分だ。


 蓮は水差しを持ち、部屋へ戻った。


 部屋に戻ると、蓮はエプロンの裏を確認した。


 安全ピンがない。


 美咲の発信機入り安全ピン。


 消えていた。


 いつ取られた。


 飾り棚の前で、美咲を支えたとき。

 腕に触れた一瞬。

 あのときだ。


 蓮は、低く笑った。


 やられた。


 美咲は発信機を回収した。

 つまり、玲奈がそれを持っていたことに気づいている。

 さらに言えば、玲奈が発信機に気づいた上で持ち続けていたことも、察した可能性がある。


 これで、互いに一段階進んだ。


 美咲は玲奈を、ただの新人ではないとほぼ確信した。

 玲奈も美咲を、ただの新人ではないと確信した。


 だが、まだ正体は明かさない。


 怪盗同士の勝負は、正体を暴いた瞬間に終わるのではない。

 正体を暴く前に、相手の行動を縛れるかどうかで決まる。


 蓮は机に向かい、情報を整理した。


 飾り棚。

 青い花器。

 銀の小箱。

 棚の可動跡。

 小箱を押すと内部で音。

 もう一つの解除点あり。


 準備室。

 床の溝。

 花器と燭台の配置が溝を隠す。

 展示台に触れるな。

 宝石箱に触れるな。

 披露後片付け補助。


 瑠璃子。

 二人を試している。

 晩餐会当日の準備を任せる。

 新人を西棟へ入れる異例の判断。

 おそらく、二人が普通ではないことを知っている。


 美咲。

 発信機使用。

 飾り棚の仕掛けを知っている、または推測している。

 夜間行動あり。

 身体能力、観察力、変装技術が高い。

 正体不明。


 蓮は、ペンを置いた。


 窓の外を見る。


 中庭は暗い。

 西棟の窓には、ひとつだけ灯りがついている。

 二階南側。

 瑠璃子の書斎だ。


 その灯りの向こうで、瑠璃子は何をしているのか。


 月下の雫を眺めているのか。

 偽物を用意しているのか。

 二人の新人メイドの報告を読んでいるのか。


 蓮は、ふと気づいた。


 瑠璃子が「二人を気に入った」のだとしたら、それは使用人としてではない。


 彼女は、優秀な嘘つきを気に入ったのだ。


 嘘を見抜く者は、時に嘘を愛する。

 よくできた贋作を前にした鑑定士のように。


 蓮は、鏡の中の玲奈を見た。


 清楚で、柔らかく、従順そうな新人メイド。


 その姿は、今日も崩れていない。


 しかし、蓮は分かっていた。


 この屋敷では、完璧に見えるものほど、先に壊される。


 美咲の変装も。

 玲奈の変装も。

 そして、瑠璃子が守る月下の雫も。


 すべてが、晩餐会の夜へ向かっている。


 翌朝、控室で顔を合わせた美咲は、何事もなかったように微笑んだ。


「おはようございます、玲奈さん」


「おはようございます、美咲さん。昨夜はよく眠れましたか」


「ええ。玲奈さんは?」


「私も、少しは」


「それはよかった」


 美咲の胸元には、小さな安全ピンが留まっていた。


 昨日、玲奈のエプロンから消えたものと同じ形。


 挑発だ。


 蓮はそれを見たが、何も言わなかった。


 美咲は、気づいたことに気づいている顔で笑った。


 紗枝が入ってくる。


「二人とも、今日は奥様から追加の指示があります。晩餐会前日の最終確認です」


「はい」


「それから、奥様が二人を褒めていました」


 料理長が嬉しそうに言った。


「珍しいわよ、奥様が新人を褒めるなんて」


 紗枝は真顔で訂正した。


「奥様は、『使える』とおっしゃっただけです」


「それ、褒めてるのよ」


 料理長は笑った。


 蓮は、玲奈として微笑んだ。


 美咲も、静かに笑った。


 使える。


 瑠璃子にとって、二人は使える駒になった。


 だが、駒は盤上で動く。

 そして、時に王手をかける。


 蓮は、美咲の胸元の安全ピンを見ないようにしながら、考えた。


 まずは飾り棚の仕掛け。

 次に準備室の床。

 そして、宝石箱の動き。


 美咲は必ず妨害してくる。

 いや、妨害だけではない。

 時に情報を見せ、時に罠を置き、時にこちらを誘導する。


 完璧すぎるメイドたち。


 屋敷の誰もが、二人を有能な新人だと思い始めている。

 だが、その有能さは、白銀邸の静かな空気の中で、少しずつ異物として浮き上がっていた。


 蓮は紅茶用の布巾を手に取った。


「今日も、よろしくお願いします。美咲さん」


「こちらこそ。玲奈さん」


 二人は笑った。


 清楚で、礼儀正しく、どこから見ても優秀なメイドとして。


 だが、その笑顔の裏で、二人の怪盗はすでに次の手を読んでいた。


 月下の雫は、まだ姿を見せていない。


 けれど白銀邸の盤面は、確実に動き始めていた。

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