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第一話 白銀邸の新米メイド


「本日よりお世話になります。玲奈と申します」


 その声が玄関ホールに落ちた瞬間、白銀邸の空気が、ほんのわずかに変わった。


 高い天井。

 古い洋館特有の、冷えた石と磨かれた木材の匂い。

 正面階段の上から差し込む午後の光は、吹き抜けの中で薄く広がり、床に敷かれた深紅の絨毯を鈍く照らしていた。


 そこに立つ新米メイドは、あまりに場に馴染んでいた。


 黒のロングスカート。

 白いエプロン。

 胸元まできっちり留められた襟。

 肩の線を柔らかく見せるために調整された袖。

 腰は細く、背筋は静かに伸びている。

 派手ではない。むしろ清楚で、目立とうとしていない。だが、人の目を自然に集める整い方だった。


 淡い栗色の髪は、肩の下でゆるく内巻きに流れている。

 白いカチューシャがその髪を押さえ、顔の輪郭を上品に見せていた。

 目元の化粧は薄く、唇の色も控えめで、声も表情も柔らかい。


 完璧な新人メイド。


 白銀邸の老執事、黒崎は、そう判断した。


 ただし、黒崎は長年この屋敷に仕えてきた男である。

 完璧なものほど疑う、という習性があった。


「白銀家へようこそ」


 黒崎は銀縁の眼鏡の奥から、玲奈を見た。


「奥様は礼儀に厳しい方です。使用人としての仕事は多く、失敗には寛容ではありません。それでもよろしいですね」


「はい。承知しております」


 玲奈は、ほとんど迷いのない角度で頭を下げた。


 深すぎず、浅すぎない。

 媚びてもいない。

 だが、相手を立てる姿勢だけは正確にある。


 黒崎の眉が、ほんのわずかに動いた。


「経験は?」


「都内の個人邸で二年ほど。接客、清掃、簡単な給仕を任されておりました」


「紹介状には、そう書かれていました」


「はい」


「ここでは、それ以上の仕事を求められます」


「学ばせていただきます」


 声が揺れない。


 黒崎は少し間を置いた。

 新人なら、緊張を隠し切れない。

 経験者なら、多少の自負が出る。

 ところが目の前の女は、緊張も自負も、必要な分だけ表面に置いているように見えた。


 人間味がないわけではない。

 むしろ、柔らかく自然だ。


 自然すぎる。


「では、こちらへ」


「お願いいたします」


 玲奈は黒崎の半歩後ろについた。


 足音は小さい。

 絨毯の上を歩くときは当然として、床板の上へ移っても、靴音はほとんど響かない。

 黒崎は前を向いたまま、それを聞いていた。


 白銀邸は、ただの邸宅ではない。


 表向きは、実業家一族である白銀家の本邸。

 しかし実態は、美術品と宝石の私設収蔵庫でもあった。


 十九世紀の絵画。

 東洋の古陶磁。

 西洋の銀器。

 王侯貴族が所有していたとされる装飾品。

 そして、国内外の蒐集家が一度は名前を聞いたことのある宝石。


 その中でも、三日後の晩餐会で披露される予定の宝石があった。


 月下の雫。


 青白い光を帯びる、大粒のダイヤモンド。

 正確な来歴は曖昧で、伝説だけが独り歩きしている。

 かつてヨーロッパの没落貴族が所有し、その後、戦乱と競売を経て日本に渡ったとされる宝石だ。


 価値は、金額に換算できない。


 だからこそ、怪盗たちの標的になる。


 そして今、白銀邸の廊下を歩く新人メイド、玲奈もまた、その怪盗の一人だった。


 本名は、霧島蓮。


 裏の世界では、怪盗《霧影》と呼ばれている。


 蓮は、銃を持たない。

 刃物も基本的には使わない。

 人を傷つけることも好まない。

 その代わり、変装、話術、鍵開け、観察、記憶、そして撤退の速さを武器にしてきた。


 今回は、そのすべてを投入している。


 女声は、半年かけて整えた。

 高くするだけでは不自然になる。息の抜き方、語尾の置き方、驚いたときの声、謝るときの声、疲れたときの声。それぞれを変えなければ、長時間の潜入には耐えられない。


 所作も同じだ。


 足幅。

 重心。

 椅子へ腰かけるときの膝の位置。

 物を取るときの指の動き。

 振り向く速度。

 目線を合わせる時間。


 身体の輪郭も調整した。

 肩幅を目立たせない服の選び方。

 腰の細さを作るコルセット。

 服の下に入れる補正パッド。

 胸元と腰回りの形をメイド服の上から自然に見せるため、何度も鏡の前で確認した。


 ただ詰めればよいわけではない。


 布は動く。

 人は歩く。

 掃除をすれば屈む。

 給仕をすれば腕を伸ばす。

 そのたびに形が崩れれば、変装は終わる。


 蓮にとって女装は趣味でも遊びでもない。

 任務を成立させるための技術だった。


 廊下を歩きながら、蓮は視線だけを動かした。


 右の壁に油絵。

 額縁の上に小型カメラ。

 左の柱の飾り彫りに、反射の不自然な箇所。おそらくセンサー。

 天井のシャンデリアは本物のアンティークではなく、内部に配線が走っている。

 階段下の扉は使用人用通路。

 突き当たりの扉は、おそらく西棟への連絡口。

 床は磨かれているが、玄関ホールから二十歩目だけわずかに軋む。単なる老朽化か、圧力式の警備装置か。


 記憶する。


 表情は変えない。


 玲奈は、ただの新人メイドでなければならない。


「この屋敷では、基本的に東棟が生活区域、西棟が収蔵区域です」


 黒崎が説明した。


「西棟へは、許可なく入らないように」


「はい」


「奥様のお部屋は二階南側。ご用があるとき以外、近づいてはいけません」


「承知いたしました」


「使用人は六名。私、料理長、庭師、先輩メイドが二名。それに、今日からあなたと、もう一人」


 もう一人。


 蓮は、その言葉に注意を留めた。


 事前調査では、今回の臨時採用は一名のはずだった。

 晩餐会の準備のため、新人メイドを一人だけ増員する。

 その枠に、蓮は玲奈として入り込んだ。


 もう一人いる。


 想定外だ。


「同じ日に採用された方がいらっしゃるのですか?」


「ええ。あなたより数時間早く到着しました」


「そうでしたか。心強いです」


 蓮は、声にほどよい安心を乗せた。


 内心では、警戒を一段上げていた。


 白銀邸ほどの家が、予定外に使用人を増やすとは考えにくい。

 しかも、晩餐会直前だ。

 身元調査、紹介状、面談。通常なら時間がかかる。


 もう一人の新人。


 偶然ではない。


 廊下を抜けると、使用人用の控室に出た。


 そこは屋敷の華やかさとは違い、実務的な部屋だった。

 大きな木のテーブル。

 壁際の棚。

 鍵付きの書類箱。

 湯を沸かす小さな設備。

 窓の外には中庭が見える。


 部屋には三人いた。


 白髪交じりの料理長。

 無口そうな庭師。

 そして、若いメイドが一人。


「今日から入る玲奈さんです」


 黒崎が告げる。


 料理長は人の良さそうな顔で笑った。


「あらまあ、綺麗な子ねえ。うちは忙しいから大変よ。でも、若い人が増えるのはいいことだわ」


「ありがとうございます。精いっぱい努めます」


「堅いわねえ。でも、最初はそれくらいでいいわ」


 庭師は黙って軽く会釈した。

 蓮も同じように会釈を返す。


 若いメイドは、壁際で洗ったカップを拭いていた。

 年齢は二十代半ばほどに見える。

 目元が鋭く、仕事には厳しそうだった。


「私は紗枝。分からないことがあったら聞いて」


「はい。よろしくお願いいたします、紗枝さん」


「玲奈さん、でいいのね」


「はい」


「じゃあ、まずは掃除の手順から――」


 紗枝が言いかけたとき、控室の奥の扉が開いた。


 入ってきたのは、黒髪のメイドだった。


 蓮は、その瞬間、呼吸の間隔を変えなかった。


 それでも、意識は完全にその女へ向いた。


 黒髪は艶があり、肩の下でまっすぐに整えられている。

 玲奈の柔らかさとは違い、落ち着いた端正さがあった。

 顔立ちは上品で、目元に静かな力がある。

 同じメイド服を着ているはずなのに、身のこなしには隙がない。

 背筋、歩幅、手の置き方。

 すべてが整いすぎていた。


 その女は、玲奈を見ると、柔らかく笑った。


「あら。あなたが、もう一人の新人さん?」


「はい。玲奈と申します」


「私は美咲です。私も今日から」


 美咲。


 蓮はその名前を頭の中で繰り返した。


 黒崎が言った。


「美咲さんには、すでに簡単な説明を済ませています。二人とも晩餐会までの臨時雇用ですが、仕事に差はありません。互いに協力してください」


「はい」


 玲奈と美咲の声が重なった。


 二人は互いに微笑んだ。


 美咲が右手を差し出す。


「同じ日に入った者同士、よろしくお願いしますね」


「こちらこそ。心強いです」


 蓮は玲奈として、その手を取った。


 細い手だった。

 しかし、握手の圧が違う。

 普通のメイドの手ではない。

 力仕事の手でもない。

 指の付け根に、訓練でできる硬さがある。


 美咲もまた、玲奈の手の感触を確かめているようだった。


 ほんの一秒。


 互いの目が合う。


 笑顔は崩れない。


 だが、その笑顔の奥で、二人は同時に理解した。


 この相手は、ただの新人ではない。


「よろしくお願いします、美咲さん」


「ええ。玲奈さん」


 手が離れる。


 料理長は何も気づかず、にこにことしていた。


「まあ、若い子が二人も増えると華やかねえ」


 紗枝は淡々と言った。


「華やかでも、仕事ができなければ意味がありません。二人とも、まずは使用人棟の規則を覚えてください」


「はい」


 玲奈と美咲は、また同時に返事をした。


 蓮は、内心で苦く笑った。


 やりにくい相手だ。


 声も姿勢も完璧。

 女として見せる技術が高い。

 しかも、こちらの違和感を探っている。


 ライバルか。

 白銀家側の監視役か。

 それとも、まったく別の目的を持つ潜入者か。


 いずれにせよ、放置はできない。


 月下の雫を盗む前に、この美咲という女の正体を探る必要がある。


---


 午後の仕事は、屋敷の清掃から始まった。


 紗枝は厳しかった。


 廊下の拭き方。

 銀器の扱い。

 客間の花瓶を動かすときの順序。

 奥様の私物に触れるときの注意。

 西棟に近づかないこと。

 客人用の食器棚には黒崎の許可なく触れないこと。

 鍵の管理簿は執事室にあること。


 情報が多い。


 蓮は一つも聞き漏らさなかった。


「白銀家では、物の位置が決まっています」


 紗枝は客間のテーブルを指さした。


「花瓶の角度、椅子の位置、本の背表紙の向き。奥様はそういう違いにすぐ気づきます」


「細かい方なのですね」


 玲奈が言うと、紗枝は少しだけ表情を硬くした。


「細かい、という言い方はしないほうがいいです。正確な方です」


「失礼いたしました。以後、気をつけます」


「素直なのはいいことです」


 美咲が横から、静かに言った。


「紗枝さん、こちらの銀器は毎日磨くのですか?」


「晩餐会前は毎日。普段は週に三回」


「では、保管庫から出すものと、常時置かれているものの区別は?」


 紗枝が少し驚いたように美咲を見た。


「よく気づきましたね。棚の下段が常用品、上段が客人用です」


「ありがとうございます」


 美咲は微笑む。


 蓮は、雑巾を動かしながら、そのやり取りを聞いていた。


 質問がうまい。


 美咲は、仕事熱心な新人を装っている。

 だが、実際に聞いているのは、保管場所と管理手順だ。

 銀器そのものが標的ではないとしても、屋敷の管理体系を知るには有効な質問だった。


 蓮は、玲奈として控えめに口を開いた。


「紗枝さん、晩餐会の日は、使用人も西棟の近くへ行くことがあるのでしょうか」


 紗枝は眉をひそめた。


「基本的にはありません。宝石の披露は西棟の展示室で行われますが、給仕は黒崎さんの指示を受けた者だけです」


「そうなのですね。失礼しました。配膳経路を覚える必要があるかと思いまして」


「それは明日説明します」


「ありがとうございます」


 美咲が、ちらりと玲奈を見た。


 玲奈は気づかないふりをした。


 同じだ。


 互いに仕事の質問を装い、屋敷の情報を抜いている。


 蓮は少しだけ楽しくなった。


 厄介だが、退屈ではない。


 清掃が終わるころには、夕方になっていた。


 窓の外の庭園には、濃い影が落ちている。

 噴水は止まっていた。

 薔薇のアーチの向こうには、西棟の壁が見える。

 窓は少なく、外から中の様子をうかがいにくい造りだった。


 蓮は、布巾をたたみながら、さりげなく西棟を見た。


 展示室は二階か。

 保管庫は地下か。

 搬入口は、おそらく北側。

 使用人通路から回り込めるか。


「玲奈さん」


 背後から声がした。


 美咲だった。


「はい」


「少し、エプロンの紐が緩んでいます」


「あら、本当ですね」


 美咲は自然な動作で、玲奈の後ろに回った。


 蓮の神経が一瞬で研ぎ澄まされる。


 背中。

 腰。

 コルセットの位置。

 補正具の固定。

 そこに触れられるのは、まずい。


 だが、ここで過剰に反応すれば不自然だ。


「失礼しますね」


 美咲の指がエプロンの紐に触れた。


 蓮は微笑を保つ。


 美咲は紐を結び直すだけだった。

 だが、その指先は、ただ結ぶには少しだけ慎重すぎた。

 布の張り、腰の硬さ、体の線を確かめようとしている。


「ありがとうございます、美咲さん」


「いいえ。綺麗に着ているのに、もったいないですから」


「美咲さんこそ、所作がとても綺麗ですね」


「昔、少し厳しいところで働いていました」


「そうなのですね」


「玲奈さんも、かなり慣れていらっしゃるように見えます」


「前の勤め先で、細かく教えていただきました」


 二人は笑った。


 言葉は穏やかだった。

 しかし、会話の中身は刃物だった。


 あなたは何者か。

 どこまで作っているのか。

 どこを崩せば正体に近づくのか。


 互いに、それを測っている。


 紗枝が戻ってきたため、二人はすぐに離れた。


「二人とも、夕食後に奥様へ挨拶してもらいます」


「奥様に、ですか」


「ええ。白銀家では、新しく入った者は必ず奥様へ直接挨拶します」


 蓮は、内心で舌打ちした。


 白銀瑠璃子。


 今回の標的である宝石の所有者。

 白銀家の女主人。

 年齢は五十代半ば。

 夫はすでに亡く、子はいない。

 莫大な資産と美術品を管理する一方で、誰も信用しない人物として知られている。


 資料によれば、瑠璃子は人を見る目が異様に鋭い。

 雇用面接でも、虚偽の経歴を持つ者を何人もその場で見抜いたという。


 その瑠璃子に、初日から会う。


 避けられないなら、越えるしかない。


「承知いたしました」


 玲奈は静かに答えた。


 美咲も同じように頭を下げた。


「よろしくお願いいたします」


 美咲の声にも、乱れはなかった。


 蓮は思った。


 この女も、瑠璃子を恐れていない。


---


 夕食後、玲奈と美咲は黒崎に連れられ、二階南側の廊下へ向かった。


 屋敷の夜は、昼とは表情が違う。


 廊下の照明は控えめで、壁にかかった絵画の人物たちが、薄暗がりの中でこちらを見ているように感じられる。

 窓の外は黒く、中庭の木々が風に揺れていた。

 古い木の床は、ときおり小さく鳴った。


 蓮は歩きながら、夜間の照明位置を確認した。


 昼より死角が多い。

 ただし、監視カメラの赤外線は動いているはずだ。

 暗いからといって安全ではない。


 美咲は一歩前を歩いていた。

 背筋の線に無駄がない。

 足音の消し方も上手い。

 普通のメイドとしては、静かすぎる。


 黒崎が扉の前で止まった。


「奥様。新人の二名を連れてまいりました」


「入りなさい」


 内側から、低く落ち着いた女の声がした。


 扉が開く。


 そこは私室というより、小さな書斎だった。


 壁一面の本棚。

 濃い色の机。

 青い陶器のランプ。

 窓際には背の高い観葉植物。

 棚には小さな彫像や宝石箱が並んでいる。


 その中央に、白銀瑠璃子が座っていた。


 白髪を美しくまとめた女だった。

 年齢を重ねているが、姿勢に衰えがない。

 深い紺色のワンピースを着て、細い指には指輪が光っている。

 顔立ちは穏やかだが、目だけは鋭い。


 品のよい老婦人。


 そう見える。


 だが、蓮は即座に理解した。


 この女は、危険だ。


 黒崎が一歩下がる。


「玲奈です。本日よりお世話になります」


「美咲です。同じく、本日よりお世話になります」


 二人は並んで頭を下げた。


 瑠璃子は、しばらく何も言わなかった。


 沈黙が落ちる。


 普通なら、居心地の悪さに耐えられなくなる長さだった。

 新人なら、指先が動く。

 目線が泳ぐ。

 呼吸が浅くなる。


 玲奈も美咲も、動かなかった。


 瑠璃子の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「二人とも、綺麗に立つのね」


「ありがとうございます」


 玲奈が答える。


「褒めたわけではないわ」


「失礼いたしました」


 蓮は、すぐに下がった。


 瑠璃子は机の上の紙を一枚持ち上げる。


「玲奈さん。前の勤め先は、青葉台の個人邸とあるわね」


「はい」


「そこの奥様は、左利きだったかしら」


 蓮は一瞬で記憶を探った。


 偽装経歴の雇用主。

 実在する家。

 奥方の名。

 家族構成。

 食器の好み。

 庭の形。

 使用人の数。

 調べた情報の中に、左利きかどうかまでは――。


 ない。


 普通なら詰まる。


 だが、蓮は微笑んだ。


「申し訳ございません。奥様のお手元を長く見ることは失礼にあたると教えられておりましたので、確かなことは申し上げられません。ただ、ティーカップをお持ちになる際は右手を使っていらしたように記憶しております」


 瑠璃子の目が細くなった。


 正解を言うのではなく、不確実性を残す。

 知らないことを知っているふりはしない。

 だが、観察はしていると示す。


 嘘を守るときは、すべてを断定しないほうがよい。


「そう。では、美咲さん」


「はい」


「あなたの紹介状には、接遇に優れると書かれているわ。接遇とは何かしら」


 美咲は少しも迷わなかった。


「相手の意図を先回りすることではなく、相手が自分の意図を自然に伝えられる状態を整えることだと考えております」


 瑠璃子は、わずかに笑った。


「上手な答えね」


「ありがとうございます」


「こちらも、褒めたわけではないわ」


「失礼いたしました」


 美咲は静かに頭を下げた。


 蓮は、横目で美咲を見なかった。


 見なくても分かる。


 強い。


 面接の切り抜け方を知っている。


 瑠璃子は二人を交互に見た。


「晩餐会は三日後。そこで、私は月下の雫を客人に披露します」


 月下の雫。


 蓮は表情を変えなかった。

 美咲も変えなかった。


 瑠璃子は続ける。


「この宝石の名は、あなたたちも聞いたことがあるでしょう」


「新聞記事で拝見したことがございます」


 玲奈が答える。


「私も、名前だけは」


 美咲が続ける。


「そう。では、覚えておいて。月下の雫は高価な宝石ではあるけれど、私にとっては値段以上の意味があります」


 瑠璃子は、机の上の小箱に手を置いた。


 蓮の視線が、ほんのわずかにそこへ向かいそうになる。


 抑えた。


 美咲も抑えたはずだ。


 瑠璃子は、試している。


「宝石を守るのは警備会社の仕事。でも、屋敷の空気を守るのは使用人の仕事です。異変があれば、すぐに黒崎へ報告なさい。たとえ相手が使用人でも、客人でも、私自身でも」


「承知いたしました」


 二人の声が重なる。


「よろしい。下がって」


 黒崎が扉を開けた。


 玲奈と美咲は一礼し、部屋を出た。


 扉が閉じる直前、蓮は瑠璃子の視線を感じた。


 まるで、背中に細い針を当てられたような感覚だった。


---


 廊下に出ると、黒崎が静かに言った。


「奥様は、あれでお二人をかなり気に入られたようです」


「そうなのですか」


 玲奈は控えめに答えた。


「はい。不要と判断した者には、もっと早く下がるよう命じます」


「安心いたしました」


 蓮はそう言ったが、実際には少しも安心していなかった。


 瑠璃子は、こちらを見ていた。

 玲奈という人物を見ていたのではない。

 玲奈の奥に何かがあるかどうかを見ていた。


 美咲も同じことを考えていたのか、階段を下りながら口を開いた。


「奥様は、厳しい方ですね」


「ええ。でも、立派な方だと思います」


「そうですね」


 美咲は微笑んだ。


「玲奈さん、先ほどの受け答え、とても自然でした」


「美咲さんこそ。接遇のお話、勉強になりました」


「本当に?」


「はい」


「では、今度ゆっくりお話ししましょう」


「ぜひ」


 表面上は、同期の新人同士の会話だった。


 黒崎は前を歩いている。

 聞こえてはいるが、ただの雑談として処理しているだろう。


 しかし、蓮には分かっていた。


 美咲は誘っている。


 探り合いの場へ。


 使用人棟に戻ると、紗枝が二人へ翌日の予定を説明した。


 朝五時半起床。

 六時から清掃。

 七時半に朝食準備。

 午前中は客間と廊下の整備。

 午後は晩餐会用の食器確認。

 夕方に配膳経路の説明。


 西棟については、明日以降に黒崎から指示があるという。


 蓮にとって重要なのは、午後の食器確認だった。


 客人用食器は、晩餐会当日に西棟近くの控室へ運ばれる。

 その経路を把握できれば、展示室へ近づく理由が作れる。


 美咲も同じことを考えたはずだ。


 説明が終わり、解散となった。


 蓮に与えられた部屋は、使用人棟の二階端だった。

 狭いが清潔で、ベッド、机、鏡台、衣装棚がある。

 窓の外には中庭が見えた。


 扉を閉める。


 鍵をかける。


 蓮は、まず部屋を調べた。


 天井。

 照明。

 壁の裏。

 鏡の縁。

 机の引き出し。

 床板。

 窓枠。


 盗聴器はない。

 カメラもない。

 ただし、廊下は足音が響きやすい。誰かが近づけば分かるが、逆にこちらが出入りしても気づかれる可能性がある。


 蓮は小さく息を吐いた。


 鏡の前に立つ。


 そこには、玲奈がいた。


 柔らかい栗色の髪。

 控えめな目元。

 清楚なメイド服。

 自然に整えた体の線。


 どこから見ても、若い女性の使用人に見える。


 だが、鏡の中の玲奈を見つめる蓮の目だけは、男のものだった。


 蓮は椅子に座り、靴を脱いだ。

 足の疲労を確認する。

 歩幅を変えているため、普段とは違う筋肉に負担がかかる。長時間の任務では、こういう小さな疲労が失敗につながる。


 次に、服の内側の固定を確かめた。


 補正パッドはずれていない。

 コルセットも問題ない。

 ウィッグの固定も安定している。

 化粧も崩れていない。


 だが、美咲がエプロンの紐を結び直したとき、腰の硬さに気づいた可能性はある。


 この変装は完璧に近い。

 しかし、完璧は存在しない。

 特に、相手が同業者なら。


 蓮は鏡越しに、自分の目を見た。


「美咲……何者だ」


 声は低かった。


 玲奈の声ではない。

 霧島蓮の声だった。


 その瞬間、廊下で床が小さく鳴った。


 蓮は即座に口を閉じた。


 足音。


 一人。


 軽い。


 部屋の前で止まる。


 ノックが二回。


「玲奈さん。起きていますか」


 美咲の声だった。


 蓮は一瞬で玲奈へ戻った。


「はい。少し片づけをしておりました」


 声の高さ、息の抜き方、語尾。


 問題ない。


 扉を開けると、美咲が立っていた。


 黒髪はまだ整っている。

 メイド服も乱れていない。

 手には小さな裁縫箱を持っていた。


「夜分にすみません。紗枝さんから、予備のボタンを渡すよう頼まれまして」


「わざわざありがとうございます」


「いえ。同じ新人ですから」


 美咲は部屋の中へ視線を向けた。


 蓮は自然に扉の開きを狭くした。


「散らかっていて、お恥ずかしいです」


「そんなふうには見えませんけど」


「荷ほどきの途中で」


「そうですか」


 美咲は裁縫箱を差し出した。


 蓮が受け取ろうとした瞬間、美咲の指が、わずかに蓮の指先へ触れた。


 偶然にしては長い。


 蓮は微笑んだ。


「ありがとうございます」


「玲奈さん」


「はい」


「奥様の前で、少しも緊張していませんでしたね」


「緊張しておりました。顔に出にくいだけです」


「そうですか。私は、少し怖かったです」


 嘘だ。


 蓮は思った。


 美咲は怖がっていなかった。

 むしろ、瑠璃子の問いを楽しんでいた。


「美咲さんも、とても落ち着いて見えました」


「そう見えたなら、よかったです」


 美咲は一歩近づいた。


「この屋敷、少し不思議ですね」


「不思議、ですか」


「ええ。使用人に求める水準が高すぎます。まるで、屋敷そのものが試験会場みたい」


「白銀家ほどのお屋敷なら、当然なのでは」


「本当にそう思いますか?」


 蓮は、すぐには答えなかった。


 美咲の目が、笑っていない。


 ここで不用意に乗れば、怪しまれる。

 だが、完全に退けば、情報交換の機会を失う。


「私は、まだ来たばかりですので」


 玲奈は少し困ったように笑った。


「判断するには早いかと」


「慎重ですね」


「臆病なだけです」


「臆病な人は、奥様の前であんなふうに答えられません」


「美咲さんも、十分に」


 二人の間に、沈黙が落ちた。


 廊下の灯りが、互いの顔の半分を照らしている。


 美咲は、ふっと笑った。


「変なことを言ってすみません。明日も早いので、休みましょう」


「はい。おやすみなさい」


「おやすみなさい、玲奈さん」


 美咲は去っていった。


 蓮は扉を閉め、鍵をかける。


 そのまま、しばらく動かなかった。


 今の訪問は、裁縫箱を渡すためではない。

 美咲は、玲奈の部屋の中を見たかった。

 声の乱れを聞きたかった。

 油断した状態の玲奈を見たかった。


 そして、おそらく一つは見抜かれた。


 この屋敷を不思議だと思っていること。

 つまり、ただの新人としては観察しすぎていること。


 蓮は裁縫箱を机に置き、ふたを開けた。


 中には、予備のボタン、針、糸、小さな安全ピンが入っている。


 それだけだった。


 いや。


 蓮は安全ピンを一本取り上げた。


 普通の安全ピンに見える。

 だが、わずかに重い。

 先端の丸い部分に、極小の金属片が仕込まれている。


 発信機か。

 あるいは、位置確認用のタグか。


 蓮は笑った。


「やってくれる」


 美咲は、玲奈の持ち物に発信機を紛れ込ませようとした。


 ここで捨てれば、気づいたことが伝わる。

 持ち続ければ、動きを読まれる。


 蓮は少し考え、安全ピンを裁縫箱の底に戻した。


 まだ捨てない。


 相手に「気づかれていない」と思わせるほうが、使い道がある。


 美咲。


 ただのライバルではない。

 こちらと同じレベルで、変装し、潜入し、罠を仕掛ける相手。


 蓮は机に向かい、メモを取った。


 もちろん、文字では残さない。

 記号だけである。


 玄関ホール。

 使用人通路。

 西棟への扉。

 瑠璃子の私室。

 黒崎の執事室。

 美咲の部屋の位置。

 カメラ。

 センサー。

 床鳴り。


 明日は、配膳経路を確認する。

 その中で西棟への接近方法を探る。

 同時に、美咲の動きを逆に利用する。


 月下の雫は三日後に披露される。


 盗む機会は、その夜しかない。


 蓮は鏡の前に戻り、玲奈の顔を確認した。


 完璧だ。


 だが、完璧だから疑われる。


 ならば、少し隙を作る必要がある。


 新人らしい小さな失敗。

 慎重だが、完全ではない人物像。

 瑠璃子に警戒されず、美咲に侮られず、使用人たちに受け入れられる線。


 蓮は、玲奈の笑顔を鏡の前で作り直した。


 柔らかく。

 控えめに。

 少しだけ不安を混ぜる。


 怪盗《霧影》は、その夜、完璧な女装メイドではなく、少し緊張した新人メイドになる練習をした。


---


 翌朝、白銀邸は五時前から動き始めた。


 使用人棟の窓の外はまだ薄暗い。

 庭の木々には朝露が残り、空気は冷えていた。


 蓮は目覚ましが鳴る前に起きた。


 睡眠は浅かったが、問題ない。

 任務中は、深く眠らないほうがいい。

 顔を洗い、化粧を整え、ウィッグを固定し直す。

 体型補正の位置を確認し、メイド服を着る。


 昨日よりも、少しだけ新人らしい乱れを作った。


 髪の内側をほんのわずかに緩める。

 エプロンの紐を左右対称にしすぎない。

 靴を履くとき、紐の締め方を少しだけ甘くする。


 完璧さを消すための調整。


 それもまた、変装の一部だった。


 控室へ向かうと、美咲はすでにいた。


「おはようございます、玲奈さん」


「おはようございます、美咲さん。早いですね」


「少し緊張して、早く目が覚めてしまいました」


「私もです」


 嘘の交換。


 美咲も、昨日よりわずかに自然な隙を作っていた。

 髪の一房が肩に落ちている。

 袖口の折り目が少しだけ甘い。

 完璧すぎる印象を消すためだろう。


 蓮は心の中で舌を巻いた。


 同じ判断をしている。


 紗枝が入ってきて、二人を見比べた。


「二人とも早いですね。では、朝の清掃に入ります」


「はい」


 朝の清掃は、昨日より忙しかった。


 晩餐会が近いため、客間だけでなく廊下、階段、窓、銀器棚まで確認が入る。

 蓮は仕事をこなしながら、屋敷の動線を頭に入れていった。


 使用人通路は、東棟一階から厨房、控室、洗濯室へつながる。

 二階へ上がる狭い階段があり、その先は客室裏の通路へ出る。

 西棟へは正面廊下からも行けるが、使用人通路の奥にも扉がある。

 その扉は常時施錠。鍵は黒崎が持つ。

 ただし、晩餐会当日は食器や花を運ぶため、短時間だけ開けられる可能性が高い。


 狙い目はそこだ。


「玲奈さん、この花瓶を客間へ」


 紗枝が言った。


「はい」


 蓮は両手で花瓶を持ち上げた。


 重い。

 だが、重さを顔に出しすぎてもいけない。

 女性として不自然にならない範囲で、慎重に運ぶ。


 廊下の角で、美咲とすれ違った。


 美咲は銀器を載せた盆を持っている。


「重そうですね」


「美咲さんこそ」


「落とさないように気をつけましょう」


「はい」


 すれ違う瞬間、美咲の視線が花瓶ではなく、玲奈の手首へ向いた。


 筋の出方。

 持ち方。

 力の入れ方。


 また見ている。


 蓮は花瓶を少し持ち替え、女性らしい手首の角度に修正した。


 美咲の口元が、わずかに動いた。


 気づかれたかもしれない。


 いや、気づかせたのかもしれない。


 蓮は客間へ花瓶を置きながら、逆に美咲の情報を整理した。


 美咲は慎重だが、観察に偏りがある。

 体の使い方、力の入り方、変装の構造を見ている。

 つまり、美咲自身も変装に詳しい。

 単なる盗人ではない。


 もし女だとしても、かなり特殊な訓練を受けている。

 もし男だとしたら――。


 蓮は、その考えを途中で止めた。


 まだ早い。


 相手の正体を決めつけると、観察が鈍る。


 午前の仕事が終わるころ、黒崎が控室へ現れた。


「午後から、晩餐会用の食器確認を行います。玲奈さん、美咲さん、あなた方にも手伝ってもらいます」


「はい」


「食器の一部は、西棟前の準備室へ運びます。ただし、展示室には近づかないこと」


 蓮は内心で笑った。


 来た。


 西棟前の準備室。

 そこが今回の第一関門だ。


 美咲も同じく、静かに返事をした。


「承知いたしました」


 その横顔は落ち着いていたが、目の奥だけが鋭くなっていた。


---


 午後、白銀邸の空気はさらに張りつめた。


 客人用の食器が、保管棚から次々に出される。

 白磁の皿。

 銀のカトラリー。

 クリスタルのグラス。

 小さな金縁のデザート皿。

 どれも高価で、扱いには神経を使う。


 黒崎は一つ一つを台帳と照合した。


「皿、大十六枚。小十六枚。グラス二十四。銀器一式」


 紗枝が確認する。


 玲奈と美咲は、それを布で包み、運搬用の箱へ入れていく。


 蓮は食器を扱いながら、黒崎の鍵束を見た。


 腰の内側。

 銀色の鍵が三本。

 黒い電子キーが一つ。

 革のタグ付きの古い鍵が一つ。


 西棟の扉は、古い鍵と電子キーの併用か。


 厄介だが、不可能ではない。


 美咲はグラスを包みながら、黒崎の手元を見ていないようで見ていた。


 蓮は、その視線の動きを確認する。


 やはり目的は同じだ。


 食器の箱を台車に載せる。


「玲奈さん、美咲さん。二人でこの台車を西棟前まで運んでください。紗枝さんは厨房へ」


「はい」


 二人は台車の前後についた。


 黒崎が先導する。


 廊下を進む。

 東棟の明るい生活区域から、屋敷の奥へ。

 空気が変わる。

 人の気配が減り、壁の装飾も少なくなる。

 照明はあるが、どこか冷たい。


 西棟へ続く扉が見えた。


 重厚な木製の扉。

 中央に電子ロック。

 その下に古い鍵穴。

 左右の壁にはカメラ。

 天井にはセンサー。


 黒崎は電子キーをかざし、古い鍵を差し込んだ。


 カチリ、と音がした。


 扉が開く。


 蓮は、目を動かさずに情報を取った。


 電子ロックは旧型。

 鍵穴は特注。

 開錠時間は約三秒。

 扉の厚さは六センチ以上。

 蝶番は内側。


 美咲は台車の後ろにいた。

 おそらく同じように見ている。


 西棟前の準備室は、展示室の手前にあった。


 広さは十二畳ほど。

 中央に大きなテーブル。

 壁際に棚。

 奥にもう一つ扉がある。

 その先が展示室だろう。


 黒崎は厳しい声で言った。


「この先には入らないこと」


「はい」


 玲奈と美咲は同時に答えた。


 台車を止め、食器を棚へ並べる。


 蓮は作業をしながら、展示室側の扉を確認した。


 扉の上に小型カメラ。

 横にカードリーダー。

 足元には細い金属プレート。圧力感知の可能性。

 扉の隙間から、わずかに冷えた空気が流れてくる。空調管理されている。


 月下の雫は、まだ展示室にはないはずだ。

 晩餐会当日に保管庫から運び込まれる可能性が高い。


 ならば、狙うべきは保管庫から展示室へ移される瞬間か、披露後に戻される瞬間。


 黒崎が書類を確認している。


 美咲が棚へ皿を置く。


 そのとき、棚の上段から一枚の布が落ちた。


「あっ」


 美咲が小さく声を上げる。


 布は玲奈の足元へ落ちた。


 蓮は自然に屈んで拾おうとした。


 その瞬間、美咲の手が伸びる。


「すみません、私が」


 二人の手が重なりかけた。


 蓮は気づいた。


 美咲の狙いは布ではない。

 屈んだ瞬間の体の動き。

 補正具がどう動くか。

 腰回りの線がどう変わるか。

 それを見るつもりだ。


 蓮は、あえて動作を遅くした。


 膝を揃え、背筋を保ち、メイド服の布を自然に押さえる。

 屈む姿勢に不自然さが出ないよう、重心を調整する。


 布を拾い、美咲へ渡す。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 美咲の目が笑った。


 試された。

 そして、おそらく合格した。


 黒崎が二人を見た。


「何かありましたか」


「布を落としてしまいました。申し訳ございません」


 美咲が頭を下げる。


「注意してください」


「はい」


 それだけだった。


 準備室を出るとき、蓮は一つだけ仕掛けを残した。


 棚の裏側に、髪の毛ほど細い透明な糸を一本。

 扉が開けば切れる。

 誰かがこの後、展示室へ入ったかどうか分かる。


 もちろん、違法な侵入手段ではない。

 ただの観察用の印だ。


 美咲に気づかれたか。


 分からない。


 だが、部屋を出る直前、美咲が棚のほうを一瞬見た。


 蓮は何も見なかったふりをした。


---


 夕方、仕事を終えた玲奈は、中庭へ水差しを運ぶ役を任された。


 中庭は西棟と東棟に挟まれた場所にある。

 噴水、石畳、薔薇のアーチ、古い彫像。

 外から見れば美しい庭だが、実際には屋敷の構造を知る上で重要な空間だった。


 西棟の窓の位置。

 地下への換気口。

 搬入口への小道。

 監視カメラの死角。


 蓮は水差しを置きながら、それらを確認した。


 地下への換気口は三つ。

 一つは鉄格子が古い。

 ただし、人が通るには狭い。

 搬入口は北側にあり、晩餐会当日は業者が出入りする可能性がある。

 庭師用の倉庫から西棟裏へ回れる小道がある。


 使える。


 そのとき、背後から声がした。


「玲奈さん」


 また美咲だった。


「美咲さん。どうされました?」


「紗枝さんに、庭の花を少し摘んでくるよう頼まれました」


「そうでしたか」


 美咲は花籠を持っていた。


 偶然ではない。


 蓮が中庭に出ることを知り、追ってきたのだろう。


 二人は薔薇のアーチの下で並んだ。


 夕暮れの光が、花の赤を暗く沈ませている。

 屋敷の窓には、少しずつ明かりが灯り始めていた。


「綺麗な庭ですね」


 美咲が言う。


「はい。けれど、少し寂しい気もします」


「どうして?」


「整いすぎていて、人の気配が少ないからでしょうか」


「面白いことを言いますね」


「そうでしょうか」


「ええ」


 美咲は花を切りながら、低い声で言った。


「玲奈さんは、物の配置を見るのが得意なんですね」


 蓮は水差しの取っ手を持ったまま、微笑んだ。


「掃除の仕事では、物の位置を覚えるのが大切ですから」


「それだけ?」


「それだけです」


「本当に?」


 風が吹いた。


 玲奈の栗色の髪が、肩の上で揺れる。

 ウィッグはしっかり固定されている。問題ない。


 だが、美咲の視線は髪の動きも見ていた。


 蓮は、少しだけ不安そうな顔を作った。


「美咲さん、私、何か変でしょうか」


「いいえ。とても自然です」


「では、どうしてそんなことを?」


「自然すぎるから」


 美咲は花を籠へ入れた。


「普通、新人はもっと迷います。どこを見ればいいか、何を覚えればいいか分からない。でも玲奈さんは、最初から必要な場所を見ている」


「買いかぶりです」


「そうかしら」


「美咲さんこそ、ずっと落ち着いていらっしゃいます」


「私は、そう見せるのが得意なだけです」


 二人は、互いに笑った。


 だが、笑いの温度は低かった。


 この会話は、まだ正体を暴く段階ではない。

 互いに相手の輪郭を撫でているだけだ。

 強く踏み込めば、自分の足元も見られる。


「玲奈さん」


「はい」


「晩餐会、無事に終わるといいですね」


「そうですね」


「何事もなく」


「はい。何事もなく」


 嘘だった。


 二人とも、何事もなく終わらせるつもりなどない。


 月下の雫は盗まれる。


 問題は、どちらが盗むかだ。


---


 夜。


 蓮は部屋に戻ると、まず裁縫箱を確認した。


 発信機入りの安全ピンは、まだある。

 美咲は回収していない。


 次に、準備室に仕掛けた透明な糸の状態を確認する必要があった。


 だが、今すぐ西棟へ行くのは危険すぎる。

 初日の夜に動けば、瑠璃子と黒崎に疑われる。


 蓮は机に向かい、今日得た情報を整理した。


 西棟扉は電子キーと古い鍵。

 黒崎が管理。

 準備室までは入れる。

 展示室はカードリーダー、カメラ、圧力感知。

 保管庫は未確認。

 中庭から西棟裏へ回れる。

 搬入口あり。

 美咲は同じ標的を狙っている可能性が高い。

 瑠璃子は二人を疑っている可能性がある。


 問題は三つ。


 一つ、月下の雫の正確な保管場所。

 二つ、美咲の目的と正体。

 三つ、瑠璃子がどこまで見抜いているか。


 蓮は鏡を見た。


 玲奈の姿は、まだ崩れていない。


 だが、今日一日で、美咲は何度もこちらの変装を探ってきた。

 手。

 腰。

 髪。

 屈む動き。

 声の反応。

 部屋の様子。


 美咲は、玲奈が作り物である可能性を疑っている。


 蓮も同じだった。


 美咲は、ただの女ではない。

 あるいは、女ですらないかもしれない。


 とはいえ、証拠はない。


 証拠なしに踏み込むのは、怪盗のすることではない。


 そのとき、窓の外で影が動いた。


 蓮は灯りを消した。


 部屋が暗くなる。


 窓の外、中庭の向こう。

 西棟の壁沿いに、黒い影が一つ動いている。


 人影。


 使用人ではない。

 動きが速い。

 足音を消している。


 蓮は窓に近づき、カーテンの隙間から見た。


 影は庭師用の倉庫の前で止まった。

 周囲を確認し、西棟裏の小道へ消える。


 美咲か。


 それとも別の誰かか。


 蓮は迷った。


 追うべきだ。

 しかし、玲奈の姿で夜の中庭を歩けば目立つ。

 変装を解いて動くには時間がかかる。

 この部屋から出るだけでも、廊下の床鳴りを避けなければならない。


 蓮はすぐに動かなかった。


 怪盗に必要なのは、勇気ではない。

 判断だ。


 数秒後、西棟の二階の窓に、淡い光が走った。


 合図か。

 センサーか。

 反射か。


 分からない。


 だが、何かが起きている。


 蓮は窓を開けず、部屋の中で待った。


 五分。

 十分。


 中庭に、再び影が現れた。


 今度は少し急いでいる。

 影は薔薇のアーチを抜け、使用人棟の方向へ向かった。


 月明かりが、一瞬だけその横顔を照らした。


 黒髪。


 美咲だった。


 蓮は静かに息を吐いた。


 やはり、動いたか。


 美咲は初日の夜から西棟裏へ向かった。

 大胆だが、無謀ではない。

 おそらく下見だけだ。

 警備の反応、巡回の間隔、外部からの接近経路。それを確認したのだろう。


 蓮は、机の裁縫箱を見た。


 発信機を仕込んだのは美咲。

 だが、美咲自身もまた危険を冒している。


 ならば、明日は逆にその発信機を利用できる。


 美咲に、自分がどこへ向かうかを見せる。

 そして、その裏で本命を探る。


 蓮は灯りをつけた。


 鏡の中の玲奈が、穏やかな顔でこちらを見ている。


 だが、その目は笑っていなかった。


「面白くなってきたな」


 声は低い。


 すぐに玲奈の声へ戻す。


「明日も、よろしくお願いします。美咲さん」


 蓮は鏡に向かって、清楚なメイドの笑みを作った。


 白銀邸の夜は、まだ深い。


 月下の雫は、まだ誰の手にも渡っていない。


 しかし、すでに戦いは始まっていた。


 怪盗《霧影》は、女装メイド玲奈として。

 謎の新人メイド美咲は、正体不明のまま。


 二人は同じ屋敷で、同じ宝石を狙い、互いの変装を疑いながら、笑顔で朝を迎えようとしていた。


 そして白銀瑠璃子は、そのすべてを知っているかのように、二階南側の書斎で静かに月を見ていた。


 机の上には、小さな宝石箱がある。


 中身は空だった。


 瑠璃子は、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「さて。どちらが先に気づくかしら」


 白銀邸の時計が、夜の十一時を告げた。


 第一夜は、まだ終わらない。


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