第五話 二人の怪盗と女主人の罠
白銀邸は、赤い警報灯の中で別の屋敷になっていた。
さっきまで晩餐会のために整えられていた廊下も、今は優雅さよりも要塞としての性質をむき出しにしている。壁の装飾に隠されていた警報灯が点滅し、天井の奥でカメラの向きが変わる。廊下の先では、警備員の靴音が響き、使用人たちの短い声が飛び交っていた。
霧島蓮と黒羽湊は、その廊下の影に身を潜めていた。
二人とも、もう「玲奈」と「美咲」ではない。
蓮は栗色のウィッグを失い、メイクも半分以上落ちている。清楚な新人メイドとして作り込んでいた柔らかな輪郭は崩れ、補正具の一部も地下に置き去りにした。メイド服はまだ着ているが、それはもはや変装ではなく、逃走の邪魔になる布に近かった。
湊も同じだった。黒髪のウィッグはなく、頬の化粧も落ち、喉元の補助具も外している。美咲としての端正な姿は消え、黒羽湊という怪盗の顔が露出していた。胸元や腰回りの補正も乱れ、女装メイドとしての完成度は完全に崩されている。
それでも、二人は走っていた。
蓮の手には、小さな銀の指輪。
湊の懐には、地下旧収蔵庫で奪った月下の雫の外殻。
二つが揃えば、月下の雫は完成する。
少なくとも、白銀瑠璃子はそう言った。
だが、蓮はもう、彼女の言葉をそのまま信じていなかった。
「右です」
蓮が低く言った。
「分かっています」
湊は短く返す。
二人は廊下の曲がり角を折れた。正面から警備員が二人走ってくる。蓮は反射的に壁際の花台を押した。花台は倒れない。ただし、下のキャスターが外れ、廊下の中央へ滑り出す。
「何だ!」
警備員の一人が足を止める。
その一瞬で、湊が脇の小扉を開けた。使用人用の通路だ。
二人はそこへ滑り込む。
扉を閉める直前、黒崎の声が廊下に響いた。
「西棟側へ回りなさい。二人はまだ屋敷内にいます」
蓮は扉の内側で息を整えた。
「完全に追われていますね」
「あなたが指輪を取るからです」
湊が言う。
「あなたも外殻を持っているでしょう」
「先に持っていたのは私です」
「盗品の先着順を主張しないでください」
「怪盗らしい主張だと思いますけど」
「品がありません」
「メイド姿で地下収蔵庫を荒らした人に言われたくありません」
二人は短く言い合いながら、通路を進んだ。
言葉は軽い。
だが、互いの意識は周囲へ張り詰めていた。
この状況で完全に信用することはできない。蓮は湊がいつ外殻を持って逃げるかを警戒していたし、湊も蓮が指輪を奪ったまま単独で脱出する可能性を考えているはずだった。
それでも、今は一緒に動くしかない。
白銀邸は、単独の怪盗が逃げ切るには複雑すぎる。しかも、瑠璃子は二人の能力を読んでいる。蓮と湊のどちらか一方だけなら、すでに捕まっていてもおかしくなかった。
「出口は?」
湊が尋ねる。
「三つあります。正面玄関、庭師用の裏口、北側搬入口」
「正面は論外」
「裏口も警備が回っています」
「搬入口ですね」
「ただし、西棟側です。警報の中心に近い」
「危険なところほど、手薄になることがあります」
「警備が混乱していれば、です」
蓮は立ち止まった。
通路の先に、紗枝の声が聞こえた。
「こちらには誰もいません。厨房側を確認します」
使用人の気配。
警備員ではない。
紗枝は、玲奈と美咲を本気で怪しんでいるはずだ。だが、今の崩れた姿を見られれば、説明はできない。
湊が小声で言った。
「通りますか」
「無理です」
「気絶させる?」
「人を傷つけない主義です」
「まだ言いますか」
「状況によりますが、紗枝さん相手にすることではありません」
「では?」
蓮は周囲を見回した。
使用人通路の壁に、リネン室へ続く小扉がある。中に入れば、白いクロスや予備の制服があるはずだ。
「着替えます」
「この時間に?」
「この姿よりはましです」
蓮は小扉を開けた。
リネン室には、白いクロス、予備のエプロン、清掃用の上着、古い作業帽が置かれていた。蓮は即座にエプロンを外し、清掃用の長い上着を羽織った。崩れたメイクの顔を隠すため、布を軽く首元へ巻く。
湊も同じように、頭に作業帽をかぶり、上着でメイド服の乱れを覆った。
鏡はない。
だが、数秒だけ視線を逃がすには十分だった。
蓮は小声で言った。
「今は、片付け係です」
「雑ですね」
「緊急用です」
「完璧な女装メイドの次がこれですか」
「あなたにウィッグを取られたので」
「あなたも私のメイクを落としました」
「お互い様ですね」
二人はリネン室を出た。
紗枝が通路の向こうから歩いてくる。
蓮は清掃用のクロスを抱え、顔を伏せて歩いた。湊は少し後ろで、台車を押すふりをする。
紗枝は一瞬こちらを見た。
蓮の背中に冷たいものが走る。
「あなたたち」
紗枝が声をかける。
蓮は足を止めた。
湊も止まる。
「厨房のクロスですか」
紗枝が尋ねる。
蓮は、声を玲奈に戻さなかった。戻せば逆に危ない。今の見た目と声が合わないからだ。
少し喉を潰した声で答える。
「はい。料理長から」
紗枝は眉をひそめた。
「顔を上げて」
湊の指が、台車の取っ手を強く握る。
蓮は、あえて小さく咳をした。
「すみません。少し、煙を吸ってしまって」
「煙?」
「厨房で、オーブンの確認中に」
紗枝の表情が変わった。
「料理長は大丈夫ですか」
「はい。問題ありません。ただ、片付けを急ぐようにと」
紗枝は一瞬迷い、すぐに厨房の方へ向いた。
「分かりました。あなたたちは北側へ運んでください。今、西棟の警報で人手が足りません」
「承知しました」
紗枝は足早に去っていった。
蓮は息を吐いた。
湊が小声で言う。
「今のは危なかった」
「あなたが黙っていたのがよかったです」
「褒めていますか」
「少し」
「珍しい」
「今だけです」
二人は通路を進み、北側へ向かった。
北側搬入口は、白銀邸の中でもっとも実務的な場所だった。
晩餐会に使われた食材、花、備品、業者用の箱が運び込まれる場所で、装飾はほとんどない。床は石で、壁には古い傷がいくつもついている。鉄製の大扉があり、その向こうは屋敷裏の車寄せへつながっている。
だが、そこにも警備員がいた。
一人ではない。二人。
搬入口の前で無線を聞いている。
「西棟側で反応あり。対象は二名の可能性」
「使用人に化けているかもしれないそうだ」
蓮と湊は、通路の角に身を隠した。
「予想通りですね」
湊が言う。
「突破は難しい」
「なら戻る?」
「戻る方が危険です」
「では、別の出口」
蓮は北側の小窓を見た。
細い換気窓。人が通るには狭い。補正具を外した今でも厳しい。湊も無理だろう。
そのとき、廊下の奥から黒崎の声が聞こえた。
「搬入口も確認しなさい」
時間がない。
蓮は搬入口近くに積まれた空箱を見た。晩餐会用の花を運んだ木箱だ。箱には白銀家の印があり、外部業者の回収を待っている。
「箱で出ます」
蓮が言った。
湊は顔をしかめる。
「雑ですね」
「さっきから雑な方法しか残っていません」
「二人で入るには狭い」
「別々です」
「そのまま片方が逃げたら?」
「逃げますか」
「逃げたいですね」
「では、こうしましょう」
蓮は銀の指輪を取り出した。
湊の目が動く。
蓮は指輪から小さな石座部分を外し、さらに内部を確認した。青白い小石がある。
核。
少なくとも、本物に見える。
蓮はそれを指先でつまみ、湊に見せた。
「核は私。外殻はあなた。どちらか一方では月下の雫は完成しない。だから、ここで裏切っても意味がない」
「売れば意味はあります」
「外殻だけでは値が落ちます」
「核だけでも売れます」
「でも、完全な月下の雫ほどではない」
「合理的ですね」
「怪盗ですから」
湊は渋々頷いた。
「分かりました。外へ出るまでは協力」
「外へ出てからも、警備範囲を抜けるまでは協力」
「欲張りますね」
「あなたが信用できないので」
「お互い様です」
二人は木箱を二つ選んだ。蓮は一つに潜り込み、湊は別の箱に入る。箱の蓋は内側から少しだけ隙間を作り、呼吸を確保する。台車に乗せれば、外へ運び出せる。
問題は、誰が運ぶか。
蓮は箱の中から、台車の下へ伸びている古い牽引用のロープを見つけた。業者が重い箱を動かすためのものだ。
蓮はロープを自分の箱の内側から引き、台車の車輪止めを外した。傾斜がわずかにある。うまくいけば、台車はゆっくり搬入口側へ動く。
湊の箱から小声がした。
「まさか、自然に転がす気ですか」
「静かに」
「かなり無理があります」
「では代案は?」
「ありません」
「なら黙ってください」
蓮はロープを引いた。
台車が、かすかに動いた。
木箱が軋む。
搬入口の警備員が振り向く。
「何だ?」
台車はゆっくりと前へ進んでいる。
警備員の一人が近づいた。
まずい。
蓮は箱の中で体を固くした。
その瞬間、屋敷の奥で再び警報が鳴った。
今度は西棟ではなく、東棟側。
「また反応だ!」
警備員が無線に向かって叫ぶ。
もう一人が搬入口を見た。
「箱が動いたぞ」
「床が傾いてるんだろ。今はそっちより警報だ」
「だが――」
そこへ黒崎の声が無線から響いた。
「東棟の反応を優先。搬入口は封鎖のみでよい」
「了解」
警備員は搬入口の大扉に鍵をかけようとした。
蓮は内心で舌打ちした。
封鎖されれば終わる。
そのとき、湊の箱の中から細い金属音がした。
カチ。
搬入口の大扉の鍵が、内側からわずかに浮いた。
湊が何かを投げたのだ。
小さな金属片が鍵穴に刺さり、完全な施錠を妨げている。
警備員は気づかず、施錠したつもりで走っていった。
蓮は小声で言った。
「助かりました」
湊が返す。
「貸しです」
「外殻の件で相殺です」
「しません」
台車はゆっくり搬入口の扉へ近づく。扉は完全には閉まっていない。わずかな隙間がある。
蓮は箱の内側から足で押した。
台車が扉に当たる。
隙間が少し広がる。
もう一度押す。
外の冷たい空気が入ってきた。
「今です」
蓮は箱の蓋を押し上げ、外へ出た。
湊も別の箱から出る。
二人は台車を押し、搬入口の隙間をすり抜けた。
外。
夜の空気が冷たい。
白銀邸の裏手には、業者用の車寄せと砂利道がある。その先に庭木が並び、さらに向こうに外塀が見えた。
だが、まだ敷地内だ。
逃げ切ってはいない。
「門は?」
湊が言う。
「正門は無理。裏手の塀を越えます」
「その格好で?」
「あなたもです」
「最悪ですね」
「同感です」
二人は庭木の影へ走った。
外塀の近くまで来たとき、蓮は足を止めた。
塀の前に、人影があった。
白銀瑠璃子。
紺色のドレスの上に薄いショールを羽織り、杖もつかず、静かに立っている。警備員はいない。黒崎もいない。
まるで、最初からここで待っていたようだった。
湊が低く言った。
「どこから先回りしたんですか」
瑠璃子は笑った。
「この屋敷は私の家よ。あなたたちより道を知っているだけ」
蓮は一歩前へ出た。
「見逃すつもりですか。それとも捕まえるつもりですか」
「どちらでもないわ」
「では?」
「返してもらうものを返してもらいに来たの」
瑠璃子の視線は、蓮の手と湊の懐を順に見た。
核と外殻。
湊が言う。
「警備員を呼ばないんですか」
「呼んでもいいけれど、それでは面白くないでしょう」
「あなたの面白さの基準は、かなり危険ですね」
「よく言われるわ」
蓮は指輪の中の小石を握った。
「月下の雫は、あなたにとって何なんですか」
瑠璃子は、少しだけ表情を変えた。
それまでの遊ぶような笑みが消え、年齢相応の静けさが顔に出た。
「夫の遺品よ」
蓮と湊は黙った。
「ただの宝石なら、私はここまでしない。月下の雫は、夫が最後に守ろうとしたもの。価値があるから守るのではなく、守ると決めたから価値があるの」
「なら、なぜ私たちを入れたんですか」
蓮が尋ねる。
「盗まれないためよ」
「盗ませるような罠ばかりでした」
「盗まれる道を知らなければ、守れないでしょう」
瑠璃子は塀の前から動かずに続けた。
「警備会社は、侵入者を想定して図面を見る。でも、怪盗は図面にない道を見る。あなたたちは、私が知らなかった屋敷の弱点をいくつも見せてくれた。使用人通路、飾り棚、旧収蔵庫、書斎の壁裏、搬入口。十分な成果だったわ」
湊が眉をひそめる。
「つまり、私たちは警備診断に使われた?」
「そうね」
「報酬は?」
「命拾い」
「安いですね」
「警察に突き出さないだけ、高く見積もっているつもりよ」
蓮は冷静に言った。
「それでは、私たちが月下の雫を持って逃げる可能性は?」
瑠璃子は笑った。
「それも含めて試験よ」
「自信がありますね」
「ええ」
「なぜ?」
瑠璃子は、蓮の手元を見た。
「あなたが持っている核は、本物ではないから」
蓮は動かなかった。
湊が小さく息を吐く。
「またですか」
「ええ。またよ」
蓮は手の中の小石を見た。
青白く光っている。
本物に見える。
少なくとも、地下の外殻と反応するだけの仕掛けはあるはずだ。
「外殻も?」
湊が尋ねる。
「外殻は本物よ」
瑠璃子は答えた。
「ただし、核がなければただの美しい器。あなたが持っている核も、核に似せた鍵。二つ合わせれば月下の雫の形にはなる。でも、本物ではない」
「本物の核はどこですか」
蓮が聞く。
瑠璃子は、胸元の真珠のネックレスに触れた。
その中央に、小さな白い真珠がある。晩餐会のときから身につけていたものだ。誰もが真珠だと思って見過ごす、小さな粒。
「ここよ」
蓮は、初めて完全に負けを認めかけた。
青い指輪。
銀の指輪。
地下の台座。
書斎の宝石箱。
すべて餌。
本物は、最初から瑠璃子の胸元にあった。
しかも真珠に偽装されていた。
月下の雫という名前に引きずられ、青白い光を探し続けた。
だが本物の核は、光を隠されていた。
湊が乾いた声で言った。
「本当に性格が悪い」
「よく言われるわ」
瑠璃子は平然としていた。
蓮は指輪を見つめた。
偽物の核。
だが、単なる偽物ではない。白銀邸の仕掛けを動かす鍵でもある。これだけでも相当な価値がある。
湊の外殻も本物。
つまり、二人は完全に空振りしたわけではない。
だが、月下の雫そのものは盗めていない。
瑠璃子が言う。
「返しなさい。そうすれば、今夜のことは不問にするわ」
「信用できませんね」
湊が言う。
「怪盗に信用を説かれたくはないわね」
「それもそうですね」
蓮は瑠璃子を見た。
「返さなければ?」
「あなたたちはここから逃げる。けれど、その外殻と鍵には追跡印が入っている。売ろうとすれば足がつく。使おうとすれば、私に分かる」
「壊せば?」
「外殻を壊すの?」
湊の顔がわずかに歪んだ。
怪盗は盗む。
壊すのは最後の手段だ。
美しいものを壊すことは、少なくとも湊の好みではないらしい。
蓮も同じだった。
瑠璃子は、それも読んでいる。
「あなたたちは、盗む人であって壊す人ではない。だから、月下の雫はあなたたちにとって重い」
蓮は小さく笑った。
「全部読まれていますね」
「全部ではないわ」
瑠璃子は、少しだけ蓮の崩れた服装と湊の乱れた姿を見た。
「ここまで互いの変装を壊し合うとは思わなかった」
湊が顔をしかめる。
「見ていたんですか」
「もちろん」
「最悪ですね」
「でも、勉強になったわ。変装は警備を抜けるだけではなく、相手の判断を歪める武器になる。そして、その武器は、支点を壊せば崩れる」
蓮は、地下でウィッグを取られ、メイクを落とされた感触を思い出した。
悔しさは残っている。
ただし、それは屈辱ではなく、技術的な敗北への反応だった。湊は蓮の変装の構造を見抜き、正確に壊した。蓮も湊の変装を暴いた。互いに、メイドという仮面を剥がし合った。
それでも、最後に二人まとめて上回ったのは瑠璃子だった。
蓮は湊を見た。
「どうします」
湊は外殻を懐から出した。
黒い布の中に、青白い器のような宝石がある。確かに美しい。核がなくても、十分に人を狂わせる光だった。
「返すのは嫌ですね」
「同感です」
「でも、持って逃げても割に合わない」
「それも同感です」
「では?」
蓮は指輪を瑠璃子へ投げた。
湊が驚いた顔をする。
瑠璃子はそれを受け取った。
「潔いのね」
「鍵だけ持っていても意味がないので」
蓮は湊を見た。
「外殻は?」
湊は、しばらく黙っていた。
そして、外殻を布ごと蓮へ投げた。
蓮は受け取った。
「なぜ私に?」
「あなたが返してください」
「自分で返すのが嫌なんですね」
「負けた気がするので」
「もう負けています」
「言わないでください」
蓮は外殻を瑠璃子へ差し出した。
瑠璃子は受け取る前に言った。
「本当に返すの?」
「今日は」
「今日は?」
「次は分かりません」
瑠璃子は満足そうに笑った。
「いい返事ね」
蓮は外殻を渡した。
瑠璃子は指輪と外殻をショールの内側へしまった。
「これで取引成立。裏門を開けておきます。十分以内に出なさい」
湊が目を細める。
「罠では?」
「罠よ」
「やっぱり」
「でも、出口でもあるわ。罠と出口は、同じ形をしていることがある」
蓮は頷いた。
「黒崎さんは?」
「止めないように言ってある」
「警察は?」
「呼んでいないわ」
「なぜですか」
瑠璃子は少しだけ遠くを見た。
「怪盗を警察に渡せば、物語はそこで終わる。でも、あなたたちはまだ使える」
「また警備診断ですか」
「そうなるかもしれないわね」
「依頼なら、報酬をいただきます」
「盗みに入った家から報酬を取るつもり?」
「怪盗ですから」
瑠璃子は笑った。
「覚えておくわ」
そのとき、遠くから黒崎の声が聞こえた。
「奥様」
「もう行きなさい」
瑠璃子は塀の脇の小扉を開けた。外へ続く裏門だった。外側には細い道があり、街灯も少ない。
蓮と湊は、扉の前で一度だけ振り返った。
瑠璃子は静かに立っていた。
胸元の真珠が、月明かりを受けて白く光っている。
本物の月下の雫。
それは、盗まれなかった。
白銀邸の外へ出た瞬間、二人は同時に走った。
追手が来ない保証はない。瑠璃子が見逃すと言っても、それが本当かどうかは分からない。怪盗にとって、屋敷の敷地を出ることと、逃げ切ることは別である。
細い道を抜け、住宅街の影へ入る。
さらに角を二つ曲がり、古い倉庫の裏へ出る。
そこで、ようやく二人は足を止めた。
夜風が冷たい。
蓮は清掃用の上着を脱ぎ、乱れたメイド服の上から深く息を吐いた。湊も作業帽を取り、壁にもたれかかる。
二人の姿は、ひどいものだった。
完璧な女装メイドとして白銀邸へ潜入した怪盗二人は、ウィッグを失い、メイクを崩され、体型補正具もほとんど使い物にならなくなっていた。清楚系の玲奈も、端正な美咲も、もうどこにもいない。
残っているのは、敗北を認めきれない怪盗二人だけだった。
湊が言った。
「負けましたね」
蓮は壁に背を預けた。
「誰に対してですか」
「瑠璃子に」
「それは認めます」
「私には?」
「認めません」
「地下で宝石を取ったのは私です」
「あれは餌でした」
「あなたは閉じ込められました」
「脱出しました」
「ウィッグも取りました」
「あなたのウィッグも取りました」
「メイクも落としました」
「こちらも落としました」
「子どもの喧嘩みたいですね」
「先に言い出したのはあなたです」
湊は笑った。
その笑いには、美咲の上品さはもうなかった。黒羽湊本人の、少し皮肉っぽい笑いだった。
「でも、あなたは強いですね」
湊が言った。
「急に褒めますね」
「少しだけです」
「では、受け取っておきます」
「変装の完成度は高かった。あそこまで自然に女性メイドになれる男は、そういません」
「あなたもでしょう」
「私は、見た目より罠で補う方です」
「知っています。痛いほど」
蓮は、自分の崩れたメイクを指先で拭った。
湊の言葉には、単なるお世辞ではない響きがあった。怪盗として、相手の技術を認める声だ。
蓮も、湊を認めざるを得なかった。
美咲は危険だった。
女装の完成度だけではない。
観察、罠、崩し方、相手の失敗を利用する判断。
どれも高い。
地下で返り討ちにされたことは事実だ。
蓮は言った。
「あなたの変装も、厄介でした」
「厄介?」
「褒めています」
「分かりにくいですね」
「少しだけです」
湊は肩をすくめた。
しばらく沈黙があった。
街灯の光が、倉庫の壁に細長く伸びている。遠くで車の音がした。白銀邸の警報は、もう聞こえない。
終わった。
少なくとも、今夜は。
湊が懐から何かを取り出した。
蓮は即座に身構える。
「落ち着いてください」
湊は手を開いた。
そこには、小さな銀の欠片があった。
月下の雫の外殻ではない。
鍵でもない。
おそらく、地下旧収蔵庫の台座から剥がれた装飾片だ。
「記念品です」
「返していなかったんですか」
「これくらいはいいでしょう」
「追跡印は?」
「確認済みです。ありません」
「いつ確認したんです」
「逃げながら」
「器用ですね」
「怪盗ですから」
蓮は思わず笑った。
湊も笑った。
その笑いは、敗北の後に残る妙な軽さを含んでいた。
月下の雫は盗めなかった。
女装は互いに崩された。
瑠璃子には完全に読まれていた。
だが、二人とも捕まっていない。
怪盗にとって、それはまだ終わりではないということだった。
「次はどうします」
湊が言った。
「次?」
「月下の雫。諦めますか」
蓮は即答しなかった。
白銀瑠璃子は強い。
あの屋敷は危険だ。
月下の雫は、本物を見たとは言えない。
だが、蓮の中には、すでに次の計画の輪郭が生まれ始めていた。
真珠に偽装された核。
外殻と鍵。
白銀邸の改修される警備。
瑠璃子の癖。
黒崎の動線。
飾り棚と旧収蔵庫の仕掛け。
今夜の敗北は、次の侵入の資料になる。
「諦める理由がありません」
蓮は言った。
湊は満足そうに頷いた。
「では、次は私が先に取ります」
「次も邪魔するつもりですか」
「もちろん」
「協力は?」
「状況によります」
「信用できませんね」
「信じる人は負けます」
「まだ言いますか」
「気に入っているので」
蓮は肩をすくめた。
そのとき、湊が蓮の服を見て言った。
「その姿で帰るんですか」
蓮は自分の格好を見下ろした。
崩れたメイド服。
外れかけた装飾。
落ちたメイク。
ウィッグなし。
清掃用の布。
確かに、このまま街中を歩くのは危険すぎる。
「あなたも同じでしょう」
「私は隠し場所があります」
「準備がいいですね」
「失敗を利用するには、失敗後の準備が必要です」
「名言のように言わないでください」
湊は倉庫の裏に置かれていた小さな鞄を取り出した。
事前に隠していたらしい。
中には、黒いコート、帽子、簡単なメイク落とし、予備の靴が入っていた。
「二人分は?」
蓮が尋ねる。
「ありません」
「そこは用意しておいてください」
「あなたがここまでついてくる予定ではなかったので」
「不親切ですね」
「怪盗なので」
湊はコートを羽織った。乱れたメイド服が隠れ、ただの夜道の男に見える。帽子をかぶると、顔の印象も変わった。
蓮はそれを見ていた。
湊が、鞄の底から薄い布を一枚取り出して投げた。
「これだけなら」
蓮は受け取った。
大きめのストールだった。
「貸しですか」
「ええ」
「細かいですね」
「次に回収します」
「返せたら」
蓮はストールを羽織り、メイド服を隠した。完全ではないが、少なくとも白銀邸から逃げてきた怪盗には見えにくい。
「では、ここで解散ですか」
蓮が言う。
湊は少し考えた。
「その前に一つ」
「何ですか」
湊は蓮に近づき、手を伸ばした。
蓮は警戒する。
「また何か外す気ですか」
「違います」
湊の指が、蓮の頬に残った化粧の一部を軽く拭った。
蓮は固まった。
「何を」
「そこだけ残っていると目立ちます」
「自分の顔を先にどうにかしてください」
「私は平気です」
「平気ではありません」
「そうですか」
湊は手を離した。
蓮は少し不機嫌に顔をそむけた。
そこに甘さはない。
だが、敵意だけでもない。
同じ罠にかかり、同じ女主人に出し抜かれ、互いの仮面を壊し合った者同士の、奇妙な距離だった。
「次に会うときは」
湊が言った。
「敵ですね」
蓮が答える。
「今も敵です」
「では、今よりきちんとした敵で」
「了解しました」
湊は夜道へ歩き出した。
数歩進んだところで振り返る。
「霧島蓮」
「何ですか」
「次は、あなたの変装をもっと早く崩します」
蓮は笑った。
「黒羽湊」
「はい」
「次は、あなたが変装する前に見破ります」
「楽しみにしています」
湊は闇の中へ消えた。
蓮はしばらく、その背中が消えた方を見ていた。
それから、反対方向へ歩き出す。
月下の雫は盗めなかった。
だが、蓮の手には何も残っていないわけではなかった。
白銀邸の構造。
瑠璃子の思考。
黒崎の動き。
湊というライバルの癖。
そして、自分の変装がどこから崩されるかという痛い教訓。
怪盗にとって、敗北も資産になる。
ただし、次に同じ失敗をしなければ、だ。
翌朝。
白銀邸の書斎で、白銀瑠璃子は紅茶を飲んでいた。
黒崎が机の前に立っている。
「奥様。本当に、あの二人を見逃してよろしかったのですか」
「ええ」
「危険です」
「危険だから、使えるのよ」
「次は本当に盗まれるかもしれません」
瑠璃子は微笑んだ。
「そのために、警備を直すのでしょう」
黒崎は、机の上に書類を置いた。
昨夜の侵入経路。
使用人通路。
飾り棚の仕掛け。
旧収蔵庫。
壁裏通路。
搬入口。
裏門。
蓮と湊が通った全ての経路が記録されている。
「これだけの弱点が見つかったのは、確かに成果です」
「そうでしょう」
「ですが、月下の雫を餌にする必要は」
「あったわ」
「なぜです」
瑠璃子は、胸元の真珠を外した。
その中から、小さな青白い核を取り出す。
本物の月下の雫。
朝の光の中で、それは昨夜よりも静かに見えた。
「この宝石は、人を試すの」
「人を、ですか」
「ええ。価値を知っても冷静でいられるか。美しさを前にして、どこまで手を伸ばすか。相手を蹴落とすか、利用するか、助けるか。あの二人は、面白かった」
「奥様にとっては、娯楽だったのですか」
「いいえ」
瑠璃子は核を小さな箱へ戻した。
「確認よ。月下の雫は、まだ守る価値があるのか。私はまだ守れるのか。それを確かめたかった」
黒崎は黙った。
瑠璃子は窓の外を見た。
中庭には、昨夜の騒ぎが嘘のように朝日が差している。薔薇のアーチも、噴水も、白い石畳も、静かだった。
「黒崎」
「はい」
「あの二人は、また来るわ」
「でしょうね」
「次は、もっと難しくしておきましょう」
「承知いたしました」
黒崎は深く頭を下げた。
瑠璃子は紅茶を一口飲み、ふと笑った。
「それから、使用人の採用基準も見直さないとね」
「当然です」
「でも、玲奈さんと美咲さん、仕事はよくできたわ」
「怪盗ですから」
「そうね」
瑠璃子は楽しそうに言った。
「怪盗は、よい使用人にもなれるのね」
三日後。
蓮は、都内の小さな部屋で新しいウィッグを調整していた。
机の上には、白銀邸で失った道具の代わりが並んでいる。補正具の新しい固定方法、崩されにくいメイクの設計、ウィッグの固定ピンの位置。すべてを見直していた。
湊に崩された箇所を、一つずつ潰す。
悔しさは、改善点に変える。
蓮は鏡の前で、次の顔を作っていた。
玲奈ではない。
もっと地味で、もっと目立たず、しかし動きやすい姿。
白銀邸へ再び入るなら、同じ手は使えない。
そのとき、窓の外から紙飛行機のようなものが飛び込んできた。
蓮は反射的に受け取る。
小さな封筒だった。
中には、銀の欠片が一つ。
湊が持っていた記念品だ。
それと、短いメモ。
次は、私が先に。――黒蝶
蓮はメモを見て、笑った。
封筒の裏には、もう一つ文字があった。
追伸。ストールは借りです。
「細かいな」
蓮は低く呟いた。
それから、机の引き出しを開けた。
中には、白銀邸の見取り図があった。
もちろん正式な図面ではない。蓮が記憶だけで再構成したものだ。そこに、新しく赤い線を引いていく。
飾り棚。
旧収蔵庫。
書斎。
壁裏通路。
裏門。
そして、瑠璃子の胸元。
本物は、光っていない場所にある。
蓮はペンを置いた。
「次は、こちらが先に」
鏡の中で、新しい顔が笑った。
同じころ、黒羽湊もまた、別の部屋で新しい変装道具を広げていた。
黒髪のウィッグは捨てた。
美咲という顔も、もう使えない。
机の上には、蓮に崩された箇所のメモがある。
頬のメイク。
ウィッグの固定。
胸元の補正具の留め方。
腰回りの支点。
喉元の補助具の隠し方。
湊は、一つずつ改善案を書き込んでいた。
蓮は厄介だ。
変装の完成度が高いだけではない。追い詰められたとき、手持ちの失敗を別の手に変える。地下で閉じ込めたはずなのに、あの男は抜け道を見つけて戻ってきた。
次は、もっと早く崩す必要がある。
いや。
湊はペンを止めた。
次は、崩す前に利用する。
蓮の変装が完成しているほど、周囲は騙される。ならば、その騙された空気ごと利用すればいい。
湊は小さく笑った。
机の端には、白銀邸から持ち帰ったものがもう一つある。
瑠璃子に返さなかったものではない。
外殻でも鍵でもない。
ただの紙片。
晩餐会の進行表の端を、湊が切り取ったものだ。
そこには、瑠璃子の筆跡でこう書かれていた。
次回警備改修案。月下の雫、移送予定あり。
移送予定。
つまり、白銀邸から月下の雫が外へ出る日が来る。
屋敷の中では瑠璃子が強い。
なら、屋敷の外で狙えばいい。
湊は、その紙片を燃やした。
証拠は残さない。
「次は、私が先に」
湊はそう呟いた。
さらにその夜。
白銀瑠璃子のもとに、一通の封書が届いた。
差出人の名はない。
中には、二枚のカードが入っていた。
一枚は、霧影から。
月下の雫、次は本当にいただきます。
もう一枚は、黒蝶から。
次回は、警備診断ではなく勝負として伺います。
瑠璃子は二枚のカードを読み、静かに笑った。
黒崎が横でため息をつく。
「奥様。やはり見逃すべきではありませんでした」
「いいえ、見逃して正解だったわ」
「なぜです」
瑠璃子はカードを机に並べた。
「宝石は、箱に入れておくだけでは死んでしまうもの。誰かが欲しがり、誰かが守り、誰かが奪おうとする。その緊張の中で、初めて光るのよ」
「また危険なことを」
「心配しなくてもいいわ。次は、こちらも本気で迎えるから」
黒崎は深く息を吐いた。
「承知いたしました。警備計画を全面的に見直します」
「ええ。特に使用人採用と、飾り棚と、旧収蔵庫と、壁裏通路と、搬入口ね」
「ほぼ全部です」
「そうね」
瑠璃子は楽しそうに紅茶を飲んだ。
月下の雫は、彼女の胸元ではなく、今は地下の新しい金庫に眠っている。
だが、その光はもう、静かではなかった。
二人の怪盗が、その名を知っている。
霧影と黒蝶。
完璧な女装メイドとして入り込み、互いの仮面を剥がし合い、女主人の罠にかかりながら、それでも逃げ切った二人。
彼らはまた来る。
白銀瑠璃子は、それを待っていた。
怪盗もまた、それを望んでいた。
月下の雫は、まだ誰のものでもない。
ただ一つ確かなのは、次にその宝石が月の光を浴びるとき、白銀邸の夜は、今回よりもさらに静かで、さらに危険なものになるということだった。
そしてどこかで、霧島蓮は新しい仮面を作り、黒羽湊は新しい罠を編んでいる。
次に出会うとき、二人はまた笑うだろう。
礼儀正しく。
美しく。
そして、互いの喉元に刃を隠しながら。
怪盗たちの勝負は、終わらない。




