第31話:ただいま。そして、永遠の約束
空間を隔てる光の扉をくぐり抜けた瞬間、肌を刺すような異世界の冷気は、ふわりと温かいエアコンの風へと変わった。
鼻腔をくすぐるのは、血と土と硝煙の匂いではなく、淹れたてのハーブティーとフローラルな柔軟剤の優しい香りだ。
「……んっ、宗くん……っ!」
俺がタワーマンションの広々としたリビングに両足で着地し、背後の光の扉がパチンと音を立てて消滅するのとほぼ同時だった。
ソファで膝を抱えて俺の帰りを待っていた結衣が、弾かれたように立ち上がり、俺の胸にドンッと飛び込んできた。
「結衣……」
「おかえりなさい……っ! よかった、無事で……本当によかった……っ!」
俺は彼女の細い背中に両腕を回し、その柔らかく温かい体を強く抱きしめ返した。
彼女の顔が俺のスーツの胸元に埋もれ、すぐに温かい涙が生地を濡らしていくのがわかる。
異世界の時間軸でどれくらい経過していたかは定かではないが、彼女にとって、俺が「最後の戦い」に赴いてからの数時間は、生きた心地のしない永遠のような時間だったに違いない。
「ただいま戻りました、結衣。……少し、待たせてしまいましたね」
「ううん……っ、全然。宗くんが、怪我ひとつなく帰ってきてくれただけで……もう、十分だから」
結衣は俺の胸に顔を擦り付けながら、子供のように泣きじゃくった。
俺は彼女のサラサラとした髪を優しく撫でながら、自分の中にあった「大賢者としての張り詰めた魔力」が、雪解けのようにスッと消え去っていくのを感じていた。
「もう……終わったの?」
しゃくり上げながら、結衣が上目遣いで俺を見上げる。
俺は彼女の潤んだ瞳を見つめ返し、ゆっくりと、確かな実感を持って頷いた。
「ええ。全て、終わらせてきました。俺の背中を刺した者も、俺の故郷を腐敗させていた者たちも。……もう、誰も俺たちを脅かすことはありません」
「そっか……。うん、お疲れ様。……私の、大賢者様」
結衣はホッとしたように微笑み、さらに強く俺を抱きしめた。
俺も彼女の温もりに身を委ねながら、深く息を吐き出した。
「復讐を終えれば、心が晴れやかになるかと思っていましたが……案外、あっけないものでした。むしろ、異世界の血生臭い空気に当てられて、少し疲れてしまったくらいです」
「じゃあ、私が宗くんの疲れ、全部癒やしてあげるね」
結衣は俺の腕からそっと離れると、俺の手を引いてソファへと座らせた。
そして、キッチンから温かいカモミールティーを淹れてきて、俺の隣にぴたりと寄り添うように座った。
肩と肩が触れ合う距離。彼女から伝わってくる体温が、俺の心に無尽蔵の安らぎを与えてくれる。
「結衣。……俺は、あなたに謝らなければならないことがあります」
ハーブティーを一口飲み、俺はポツリと切り出した。
「謝ること? なに?」
「俺は、自分の過去の因縁を清算するために、結果としてあなたを危険に巻き込み、不安な思いをさせてしまった。……あなたのように若く、未来ある女性が、俺のような『中身が58歳のおじさんで、異世界の復讐鬼』なんていう、歪な存在と一緒にいて良いのか……今でも、時々考えてしまうんです」
それは、俺が現代日本で結衣に惹かれ始めてから、ずっと心の奥底に抱えていた負い目だった。
俺は彼女を愛している。だが、俺の魂は血塗られた過去を持ち、年齢も彼女の倍以上も離れている。
彼女の純粋な想いに甘え、このまま俺が彼女の隣に居続けても良いのだろうかと。
だが、結衣は俺のその言葉を聞いて、少しだけ怒ったように頬を膨らませた。
「あのね、宗くん。……ううん、冴島さん」
彼女はマグカップをテーブルに置き、俺の両手を自分の小さな手でしっかりと包み込んだ。
「私が好きになったのは、顔がかっこいいからでも、魔法が使えるからでもないの。……私が一番辛かった時、いつも不器用だけど真っ直ぐに助けてくれた、あの『冴島さん』の芯の強さと優しさが大好きになったの」
「結衣……」
「冴島さんが58歳のおじさんでも、異世界の大賢者でも、復讐鬼でも関係ない。……あなたがどんな過去を背負っていても、私が全部受け止める。だから、もう二度と『一緒にいて良いのか』なんて、悲しいこと言わないで」
彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。
ただ純粋に、俺という存在の全てを愛し、共に生きる覚悟がそこには宿っていた。
俺の胸の奥で、長年凍りついていた「人間への絶対的な不信感」が、音を立てて完全に崩れ去るのを感じた。
かつて異世界で仲間に裏切られ、絶望の中で死んだ俺。
そんな俺が、別の世界でこんなにも無償の愛を与えてくれる、太陽のような女性に出会えた。これこそが、神が俺に与えてくれた真の『奇跡』なのだ。
「……降参です。大賢者の知識をもってしても、あなたのその真っ直ぐな想いには、とても敵いそうにない」
俺は苦笑交じりにそう言うと、彼女の小さな手を優しく握り返した。
「結衣。俺はもう、過去の因縁に縛られることはありません。復讐は終わった。……これからの俺の人生は、全てあなたと共に、この世界で生きていくために使いたい」
「宗くん……」
「もう、どこにも行きません。あなたの隣が、俺の永遠の『帰る場所』です。……だから、これからもずっと、俺のそばにいてくれませんか?」
それは、大賢者としての誓いでもなく、天才実業家としての契約でもない。
ただ一人の男として、最愛の女性へと捧げる、一生に一度の不器用なプロポーズだった。
結衣の大きな瞳から、再び大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
だが、その表情はこれ以上ないほどに幸福に満ちていた。
「……うん。当たり前だよ。私の方こそ、ずっとずっと……冴島さんのそばにいさせてね」
結衣は泣き笑いの表情でそう答えると、俺の首に腕を回し、俺の唇にそっと、自分の唇を重ねた。
ハーブティーの甘い香りと、彼女の柔らかい温もりが、俺の全てを包み込んでいく。
かつての仲間を失い、復讐に囚われていた過去は、もう俺の魂を縛ることはない。
二つの世界を股にかけた長く苦しい戦いは、この小さなリビングでのキスと共に、完全に幕を下ろしたのだ。
◇ ◇ ◇
やがて、窓の外の景色が徐々に白らみ始め、東京の街に新しい朝がやってきた。
「ん……朝だね」
俺の肩に頭を預けたまま、結衣がまぶしそうに目を細める。
雲一つない青空から差し込む朝日が、タワーマンションのリビングを暖かく照らし出していた。
「ええ。今日は日曜日ですが、何かしたいことはありますか? 俺はもう異世界に行く用事もありませんし、一日中あなたに付き合いますよ」
「ほんと!? えーっとね、じゃあ……まずは、宗くんの『おじさん臭い』洋服のセンスを直すために、またお買い物に行こうかな!」
結衣がイタズラっぽく笑う。
「おや、昨日は『とっくり』や『チョッキ』も味があって良いと言ってくれていたじゃないですか」
「あれはあれで好きだけど、せっかくのイケメンがもったいないんだもん! あと、今夜の夕食は私が腕によりをかけて作るから、スーパーで買い出しも付き合ってね」
「喜んで。荷物持ちでも何でも、大賢者の【筋力強化】で完璧にこなしてみせますよ」
「もう、すぐ魔法に頼るんだから!」
二人で顔を見合わせ、声を上げて笑い合う。
何の変哲もない、平和で、どこまでも穏やかな休日の朝。
だが、血と絶望に塗れた異世界の復讐劇を乗り越えた俺にとって、この「当たり前の日常」こそが、どんな強力な魔法や莫大な富よりも価値のある、最高の宝物だった。
「さあ、着替えて出かけましょうか。……俺たちの、新しい人生の始まりです」
俺は結衣と手を取り合い、眩しい朝日の中へと立ち上がった。
俺の心は、かつてないほどに晴れやかで、満ち足りていた。




